第21話 沙月の涙の決断
黒瀬からの"禁忌の記憶"を聞いた夜、沙月は眠れなかった。
彼女のアパートの窓からは、東京の夜景が見える。無数の光が星のように輝き、それぞれの光にそれぞれの人生があるのだと思うと、彼女は自分と黒瀬の関係の特殊さを改めて感じた。
何百回ものループ。転生を超えた魂の繋がり。そして黒瀬の自己犠牲と、その結果としての「異形の存在」への変貌。
「解決策があるはず…」
沙月はノートを開き、これまでに知った情報を整理していった。古書店で見つけた本の内容。黒瀬から聞いた真実。そして彼女自身の断片的な記憶。これらを組み合わせることで、何か見えてくるものがあるはずだ。
彼女は古書店で購入した本を再び手に取り、ページをめくり始めた。「特異点」「均衡者」「世界の核」「時間のループ」…彼女はこれらのキーワードに関する記述を丁寧に読み直していった。
そして深夜、ふと目に留まったのは、本の最後のページに書かれた小さな一節だった。
「特異点の意志が世界を動かし、均衡者の記憶が世界を保つ。その二つが交わるとき、新たな可能性が生まれる」
この一節は、彼女がこれまで読み飛ばしていたものだった。しかし今、この言葉が特別な意味を持って彼女の心に響いた。
「特異点の意志…均衡者の記憶…」
沙月は何度もその言葉を繰り返した。そして、ふと思いついた。黒瀬が「異形の存在」になったのは、彼の自己犠牲と彼女の強い願いが交わったから。もし今度は逆に、彼女の意志と黒瀬の記憶が交わったら?
「もしかして…」
彼女は急いでノートにアイデアを書き留めた。彼女が思いついた方法は危険を伴うものだったが、もし成功すれば、誰も死ぬことなくループを終わらせることができるかもしれない。
その代償は…黒瀬の「記憶」だった。
「彼の記憶と引き換えに…」
沙月の指先が震えた。もし彼女の考えが正しければ、黒瀬は彼女との全ての記憶を失い、普通の人間に戻る。ループは終わり、彼女は生き続けられる。だが、彼らの特別な絆は消えてしまう。
「それでもいいの?」
彼女は自問した。黒瀬との思い出、彼との特別な関係、それを全て失うことになるのだ。だが彼女は、黒瀬をこれ以上苦しませたくなかった。彼はすでに何百回ものループで彼女のために苦しんできた。もういい加減、彼にも幸せになってほしかった。
「これが唯一の方法なら…」
沙月は窓際に立ち、夜空を見上げた。朝がゆっくりと近づき、空の色が少しずつ変わり始めていた。
「決めた」
明け方、沙月はついに決断を下した。彼女は眠りにつかないまま、シャワーを浴び、身支度を整えた。そしてスマートフォンを取り、黒瀬にメッセージを送った。
「会いたい。大事な話があります」
返信はすぐに来た。
「了解。7時、いつもの公園で」
沙月は深呼吸し、自分の決断に覚悟を決めた。
---
朝の光が公園を優しく照らす中、沙月は黒瀬を待っていた。彼女の表情は、悲しみとも喜びともつかない、奇妙な穏やかさを湛えていた。
「来たな」
背後から聞こえた声に、沙月は振り返った。黒瀬が立っていた。彼はいつもの黒いコートを着て、少し疲れた表情を浮かべていたが、沙月を見ると、わずかに表情が和らいだ。
「どうした?急に会いたいと」
沙月は黒瀬をまっすぐ見つめた。彼女の目には決意の色が宿っていた。
「私が見つけた方法なら、誰も犠牲にならずにループを止められる」
その言葉に、黒瀬の表情が変わった。彼は驚きと期待、そして警戒を混ぜたような表情で沙月を見つめ返した。
「どういうことだ?」
沙月は昨夜読んだ一節を彼に伝え、そして自分が考えた方法を説明した。
「あなたの『記憶』と引き換えに、世界の理と和解する方法よ」
黒瀬の目が見開かれた。「俺の記憶?」
「そう」沙月は静かに頷いた。「あなたは記憶を失い、普通の人間に戻る。そうすれば、『異形の存在』という歪みが消え、世界は安定する」
「だが、それでは…」
「私はそのまま生きられる」沙月は強く言った。「ループは終わり、監視者たちの追跡も止まる。誰も死なずに済む方法よ」
黒瀬は言葉を失ったように沙月を見つめた。彼の目には、複雑な感情が交錯していた。
「だが、俺は君のことを忘れてしまう」
「そう」沙月の声は少し震えた。「私たちの間に起きたこと、全てのループの記憶、私との約束…全部忘れてしまう」
「それは…」黒瀬は眉を寄せた。「君にとっても辛いことではないのか?」
沙月の瞳には涙が浮かんでいた。「辛いわ。でも…」
彼女は深呼吸し、勇気を振り絞って続けた。
「私が生きたいのは、ただ普通にあなたと笑っていたいから」
その言葉に、黒瀬の表情が和らいだ。彼は沙月に一歩近づき、その肩に手を置いた。
「君は…本当に強くなったな」
「あなたのおかげよ」沙月は微笑んだ。「あなたが私を守ってくれたから、私はここまで来れた」
黒瀬は沙月の顔をじっと見つめた。彼の目には、名状しがたい感情が浮かんでいた。
「しかし…俺はこの方法に反対だ」
「なぜ?」
「危険すぎる」黒瀬は真剣な表情で言った。「世界の理と直接取引をすることになる。前回の俺の試みのように、予想外の結果になる可能性がある」
「でも他に方法はないでしょ?」沙月は訴えるように言った。「あなたはもう十分すぎるほど苦しんできた。もういいの、私のために犠牲になるのは」
黒瀬は沙月から少し離れ、公園の木々を見つめた。朝の光が葉の間から漏れ、美しい模様を地面に描いていた。
「君の言うことは分かる」彼はようやく口を開いた。「だが、俺の記憶が消えれば、君を守る者がいなくなる」
「大丈夫よ」沙月は自信を持って言った。「ループが終われば、監視者たちも私を追わなくなる。それに…」
彼女は少し恥ずかしそうに続けた。
「あなたはもう一度、私に出会うかもしれない」
黒瀬は沙月を見つめ返した。彼の目に、かすかな希望の光が宿った。
「それは…」
「記憶はなくなっても、私たちの魂の繋がりは消えないと思う」沙月は真剣に言った。「何度転生を繰り返しても、私たちはいつも出会ってきたでしょ?」
黒瀬は小さく頷いた。「確かに…」
「だから、あなたの記憶がなくなっても、また出会える」沙月は微笑んだ。「そして、また一から始められる」
沙月の言葉に、黒瀬は長い沈黙の後、ようやく答えた。
「分かった。君の方法を試そう」
その言葉に、沙月の顔に安堵の表情が広がった。
「でも、どうやって?」黒瀬は尋ねた。「具体的な方法は?」
沙月は本とノートを取り出した。「本には書かれていなかったけど、私には考えがある」
彼女は説明を始めた。世界の理と取引をするためには、「世界の核」に近い場所が必要だ。そして彼女と黒瀬の強い意志と感情が必要になる。
「あなたが言っていた『魂の共鳴』ね」沙月は静かに言った。「私たちの魂が共鳴するとき、世界の核にアクセスできる」
黒瀬は沙月の説明に耳を傾け、少しずつ頷いていった。彼女の理論には穴もあったが、基本的な考え方は正しかった。
「実行するなら、場所と時間を選ぶ必要がある」黒瀬は言った。「特異点の力が最も強まる瞬間に」
「いつ?」
「満月の夜」黒瀬は空を見上げた。「三日後だ」
沙月は頷いた。「準備する時間があるのね」
黒瀬は沙月の手を取った。彼の手は暖かく、力強かった。
「本当にこれでいいのか?」彼は最後に確認した。「俺は君との記憶を全て失う。君と過ごした時間、君を守った日々、全てを」
沙月は涙を堪えながら、強く頷いた。
「あなたにも幸せになってほしい。今度は、重荷を背負わずに」
黒瀬は長い間沙月を見つめ、そして小さく笑った。彼女が見たことのない、心からの笑顔だった。
「俺の記憶がなくなっても、また君に恋をする」
その言葉に、沙月の心は熱くなった。
「約束する?」
「ああ」黒瀬はそう約束し、沙月の手を強く握った。
---
三日後、満月の夜。
黒瀬と沙月は、都心から離れた高台に立っていた。そこからは東京の夜景が一望でき、頭上には大きな満月が輝いていた。
「ここなら良いだろう」黒瀬は場所を確認した。「監視者の気配もない」
沙月は深く息を吸い、夜空を見上げた。月の光が彼女を優しく照らす。
「準備はいい?」彼女は黒瀬に尋ねた。
「ああ」彼は頷いた。「儀式の準備は整った」
彼らの周りには、黒瀬が用意した特別な道具が置かれていた。彼が均衡者として知っている、世界の理に働きかけるための道具だ。
「じゃあ、始めましょう」
沙月は黒瀬と向かい合って立った。二人は互いの手を取り、目を閉じる。
「心を開け」黒瀬は静かに言った。「全ての思いを、全ての感情を解き放て」
沙月は言われた通りに、心を開いた。黒瀬との出会い、彼との日々、彼から聞いた真実、そして彼への感情。全てを心の中で解き放つ。
二人の周りの空気が少しずつ変化し始めた。風がなくなり、音も消え、世界がまるで息を潜めたかのようだった。
「感じるか?」黒瀬の声が、まるで遠くから聞こえるように響いた。「世界の核に近づいている」
沙月は頷いた。彼女も感じていた。まるで世界の中心に引き寄せられるような感覚を。
「ここからが本番だ」黒瀬は静かに言った。「俺は記憶を手放す準備ができている。君は?」
「うん」沙月は涙を堪えながら答えた。「でも、最後に言わせて」
彼女は黒瀬の手をしっかりと握り、まっすぐ彼の目を見つめた。
「あなたに出会えて良かった。何度死んでも、あなたが側にいてくれて幸せだった」
彼女の言葉に、黒瀬の目に感情が溢れた。
「俺こそ」彼は静かに答えた。「君に出会えたことが、この長い人生で最も価値のあることだった」
二人は互いを見つめ、そしてゆっくりと顔を近づけた。唇が触れ合う瞬間、世界が白く輝き始めた。
「また出会えたら、今度こそ幸せにするよ」
黒瀬の最後の言葉が、沙月の心に刻まれた。
彼女は微笑みながら、自らの選択を受け入れた。白い光に包まれる中、彼女が最後に見たのは、黒瀬の優しい笑顔だった。
光がますます強くなり、沙月の意識は徐々に遠のいていった。しかし彼女は恐れなかった。この光の向こうには、新しい世界が待っているのだから。
彼女と黒瀬の両方が幸せになれる世界が。
「さようなら…そして、またね」
沙月の最後の思いが、光の中に溶けていった。
---
目を覚ますと、沙月は自分のアパートのベッドに横たわっていた。
「夢…?」
彼女は身を起こし、周囲を見回した。いつもの部屋。いつもの朝の光。全てが普通に見えた。
しかし彼女の中には、確かな記憶があった。黒瀬との全て、ループの全て、そして彼らの最後の選択。
「成功したの?」
彼女は急いでカレンダーとスマートフォンを確認した。日付は、最初の事故の日からはるか後になっていた。時間は前に進んでいた。ループは終わったのだ。
「黒瀬さん…」
沙月は窓際に立ち、朝の街を見つめた。彼はどこにいるのだろう。彼女のことを覚えているのだろうか。
彼女は静かに微笑んだ。答えはまだ分からない。だが彼女は信じていた。彼らは必ずまた出会うと。そして今度は、死も運命も超えた、本当の幸せを見つけられると。
「待っているからね」
沙月はそう呟き、新しい一日を迎える準備を始めた。
死神上司は、死に戻る私に毎回プロポーズしてくる ソコニ @mi33x
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