第20話 黒瀬が抱える"禁忌の記憶"



「世界の核」


その言葉が持つ意味を理解するため、沙月と黒瀬は星見公園から場所を移した。朝の光に照らされた公園は次第に人が増え始め、二人の会話を続けるには適さなくなっていた。


「もっと人気のない場所で話そう」


黒瀬の提案に、沙月は静かに頷いた。二人は彼の車に乗り込み、都心から少し離れた静かな公園へと向かった。道中、沙月は黒瀬が話そうとしていることの重大さを感じ取っていた。彼の表情は普段よりも緊張し、ハンドルを握る手にも力が入っていた。


車を降りると、広々とした公園が目の前に広がった。平日の朝、ここには二人の姿しかなかった。


「ここなら大丈夫だろう」


黒瀬は沙月をベンチへと導いた。遠くに都心の高層ビル群が見え、その手前に広がる公園の緑が美しい景色を作り出していた。


沙月は本をバッグから取り出し、黒瀬の隣に座った。


「この本に書かれていることで、正しいのはどの部分?」


黒瀬は深呼吸し、沙月を見つめた。


「特異点と均衡者についての基本的な説明は正しい。時間のループが発生する仕組みも、ほぼ正確だ」


彼は本を手に取り、特定のページを開いた。


「だが、このループを止める方法については…不完全だ」


「不完全?」


「ああ」黒瀬は静かに頷いた。「本には『愛する存在の命と引き換えに』と書かれているが、それは必ずしも文字通りの意味ではない」


沙月は安堵した。昨夜、彼女はその部分に心を痛めていたのだ。誰かを犠牲にして自分が生きることなど、彼女には考えられなかった。


「本当の意味は?」


黒瀬は少し言葉を選ぶように間を置き、そして静かに言った。


「かつて俺は、このループを止めようとしたことがある」


その言葉に、沙月は息を呑んだ。


「いつ?」


「何百回目かのループの中」黒瀬の目は遠くを見ていた。過去の記憶を辿るように。「具体的な回数は覚えていない。あまりにも多くのループを経験したからだ」


彼は手を組み、静かに続けた。


「その時俺は、君の命を救うために、自分の命と引き換えに世界の理に挑んだ」


「あなたが…?」沙月の声は震えていた。


「ああ」黒瀬は淡々と語り始めた。「その時も、君は事故で死にかけていた。いつものように俺は現れ、君を救おうとした。だが、もうループを続けることに耐えられなかった」


黒瀬は空を見上げ、過去の記憶を思い出すように言葉を紡いだ。


「世界の理に、取引を申し出た。『彼女を生かすなら、俺の命を取れ』とね」


「黒瀬さん…」沙月の目に涙が浮かんだ。彼がそこまで彼女のために自己犠牲を選んだという事実に、胸が締め付けられる思いがした。


「均衡者は本来、そのような取引をすることはできない」黒瀬は続けた。「世界の均衡を保つことが使命なのだから。だが俺は、もう君の死に耐えられなかった」


彼の目には、百年以上生きてきた存在だけが持ちうる深い疲労と決意が見えた。


「何が起きたの?」沙月は小さな声で尋ねた。


黒瀬は目を閉じ、その時の光景を思い出すように語った。


「俺は自ら死を選び、君を生かそうとした。世界の理は取引に応じたかに見えた。俺の意識は薄れ、君は息を吹き返した」


彼は目を開け、沙月をまっすぐ見つめた。


「しかし、死の瞬間、君が『黒瀬の死を拒否する』強い願いを抱いた」


「私が…?」


「ああ。君は叫んだ。『黒瀬さんを返して』と」黒瀬の声には、その時の驚きが今も残っていた。「君の願いは、世界の理をも動かすほど強かった」


「そして何が?」


「世界は再び巻き戻った」黒瀬は静かに言った。「だが、今度は違っていた。俺は完全に死ぬこともできず、君も完全に生き返ることもできなかった。俺たちは奇妙な形で世界の間に浮かぶ存在となった」


黒瀬は自分の手を見つめた。普通の人間の手に見えるが、彼の目には何か違うものが見えているようだった。


「その代償として、俺は変わった。『人間でありながら死神に近い存在』へとね」


「どういう意味?」


「俺はもはや通常の均衡者ではない」黒瀬は静かに説明した。「『異形の存在』となったんだ。均衡者としての力の多くを失い、かといって人間に戻ることもできない」


沙月は黒瀬の言葉の重みを感じながら、彼の姿を見つめた。外見上は普通の人間に見えるが、その内側には彼女の想像を超える変化が起きていたのだ。


「だから俺は、もう死ぬことも、君を救えないこともできない」


彼の目には、長い時を生きてきた者だけが持つ深い苦しみと哀しみが宿っていた。それは彼が背負ってきた運命の重さを物語っていた。


「あなたがそんな思いで私を守ってくれていたなんて…」沙月の声は震えていた。彼女の胸に去来するのは、感謝と罪悪感、そして言葉にできない強い感情だった。


「それが、本に書かれていた『愛する存在の命と引き換えに』の真実だ」黒瀬は静かに言った。「完全な犠牲ではなく、存在の変容という形でね」


沙月は言葉を失った。彼女のために黒瀬が支払った代償の大きさに、心が潰れそうになった。


「なぜ今まで話してくれなかったの?」


黒瀬は少し考え、そして答えた。


「君を混乱させたくなかった。それに…恥ずかしかったのかもしれない」


「恥ずかしい?」


「ああ」彼は小さく頷いた。「均衡者が感情に流されて世界の理に挑むなど、あってはならないことだ。俺は弱さを見せた」


沙月は思わず黒瀬の手を取った。彼の指は冷たかったが、彼女の接触に応えるように、少し力が入った。


「それは弱さじゃない」沙月は強く言った。「それは強さよ。誰かのために自分を犠牲にする選択ができるなんて」


黒瀬は驚いたように沙月を見た。彼の目には、理解されることを期待していなかった驚きがあった。


「その…『異形の存在』になったことで、何が変わったの?」沙月は恐る恐る尋ねた。


黒瀬はため息をついた。「多くのことが。均衡者としての能力の一部を失い、代わりに新たな力を得た」


「新たな力?」


「ああ」黒瀬は頷いた。「通常の均衡者には感知できない『世界の狭間』を見ることができる。それが、監視者の動きを俺が予測できる理由だ」


「それは…良いことじゃない?」


「両刃の剣さ」黒瀬は静かに言った。「その力のために、均衡者たちからは更に危険視されるようになった。彼らは俺を『異端』と見なし、排除しようとしている」


彼の表情には深い孤独が刻まれていた。彼は自分の同胞からも追われる身となり、完全に一人で戦ってきたのだ。


「あなたは…何年も一人で…」


沙月の言葉に、黒瀬は小さく頷いた。


「時間の感覚は曖昧になる。特に、何度もループを繰り返していると」


「でも、もう一人じゃない」沙月は決意を込めて言った。「私がいる」


黒瀬は沙月の顔をじっと見つめた。彼の目には、長い孤独の後に見つけた希望の光が浮かんでいるようだった。


「もう一つ、知っておくべきことがある」黒瀬は真剣な表情で言った。「『世界の核』について」


「世界の核?さっき言ってた…」


「ああ」黒瀬は頷いた。「世界の全ての時間と空間が交わる場所だ。通常は誰もアクセスできない。だが、俺たちは例外かもしれない」


「私たちが?なぜ?」


「俺が『異形の存在』となり、君が特異点である今、私たちはある意味で世界の理の外側にいる」黒瀬は説明した。「それが、私たちがループを止める唯一の可能性かもしれない」


沙月は黒瀬の言葉に希望を感じた。二人の特殊な存在が、このループを終わらせる鍵になるかもしれないのだ。


「では、どうすれば世界の核にたどり着ける?」


「それが難しい」黒瀬は眉を寄せた。「世界の核は物理的な場所ではなく、意識の状態と言ったほうが正確だ」


「意識の状態?」


「ああ」黒瀬は説明を続けた。「特定の条件が揃った時、二人の魂が完全に共鳴すれば、そこにアクセスできる可能性がある」


「魂の共鳴…」沙月はその言葉を反芻した。本にあった「真の絆」という表現を思い出す。「それが本に書かれていた『真の絆』ってこと?」


「その通りだ」黒瀬は頷いた。「だが、それを実現する方法は書かれていなかっただろう」


「うん」沙月は肩を落とした。「どうすれば魂が共鳴するの?」


黒瀬は少し躊躇い、そして静かに言った。


「それは感情の問題だ。単なる感情ではなく、魂の深いところからの繋がり」


沙月は黒瀬の目を見つめ、彼が言わんとしていることを察した。それは「愛」だった。しかし、単なる恋愛感情ではなく、もっと深く、もっと根源的な繋がり。


「それが…私たちの間にあるか分からない」沙月は不安そうに言った。


「時間が教えてくれるだろう」黒瀬は静かに答えた。「焦る必要はない」


沙月は黒瀬の手をまだ握ったままだった。彼の手は少しずつ温かくなっていくように感じた。


「あなたはずっと、これを一人で抱えてきたのね」沙月は悲しげに言った。「誰にも相談できず、誰にも頼れず」


黒瀬は小さく頷いた。「それが均衡者の宿命だ。だが…もう一人ではない」


彼の言葉に、沙月の心は熱くなった。この孤独な存在が、彼女を守るために何百回ものループを経験し、自らの命さえ捧げようとしたことを思うと、胸が締め付けられる。


「なぜ私なの?」沙月は思わず問いかけた。「世界中の誰よりも、なぜ私?」


黒瀬は沙月の目をまっすぐ見つめ、静かに答えた。


「最初は偶然だった。特異点を観察するという使命から。だが、君の魂の純粋さを知り、何度も君の死を経験するうちに…」


彼は言葉を選びながら続けた。


「君は、この長い時の中で俺が出会った誰よりも、生きるに値する存在だと思えた」


シンプルな言葉だったが、その裏には言葉にできないほどの感情が込められていた。沙月は涙を堪えられなかった。


「あなたが…そこまで…」


「泣くな」黒瀬は小さく微笑んだ。その笑顔は彼女が今まで見たことのない、温かいものだった。「これは俺の選択だ。後悔はしていない」


二人は静かな公園で、長い間言葉を交わさなかった。それでも、彼らの間には言葉以上の何かが流れていた。理解と共感、そして言葉にならない絆。


「これからどうする?」沙月はようやく口を開いた。


「まずは君の能力を高める」黒瀬は答えた。「そして、世界の核にアクセスする方法を模索する」


「監視者たちは?」


「彼らも動いている」黒瀬の表情が厳しくなった。「君の能力が目覚め始めていることを、彼らも感じ取っているだろう」


「怖い…」沙月は正直に言った。


「恐れなくていい」黒瀬は彼女の手を強く握った。「俺が守る」


「私も強くなる」沙月は決意を込めて言った。「あなたを守れるように」


黒瀬は驚いたように彼女を見た。「俺を?」


「うん」沙月は真剣な表情で頷いた。「これ以上、あなたに犠牲を払わせたくない」


黒瀬は言葉を失ったように沙月を見つめた。この長い時を生きる中で、彼を守ろうとした人間は初めてだったのかもしれない。


「もう行こう」黒瀬は立ち上がった。「今日は十分だ」


沙月も立ち上がり、彼の横顔を見つめた。その表情には、彼女が今まで見たことのない穏やかさがあった。彼の告白によって、彼自身も少し救われたのかもしれない。


車に戻る道すがら、沙月は考えていた。黒瀬が抱える「禁忌の記憶」。彼が自らを犠牲にしようとしたこと。彼女の願いが世界を再び巻き戻したこと。そして彼が「異形の存在」となったこと。


全てが驚くべき事実だったが、それらを知ったことで、彼女は黒瀬をより深く理解できるようになった気がした。彼の冷たい態度の裏にある温かさ、彼の決断の背景にある深い思い。


「あなたのことを、もっと知りたい」


車に乗り込む前、沙月は小さく呟いた。


黒瀬はその言葉を聞き、静かに微笑んだ。


「時間はある」


その言葉に、沙月は安心した。彼らには時間がある。このループを解決するために、そしてお互いをより深く知るために。


車が動き出し、二人は静かに街へと戻っていった。沙月の心には、悲しみと希望、恐れと勇気が入り混じっていた。しかし最も強かったのは、彼女と黒瀬を繋ぐ絆が、このループを終わらせる鍵になるかもしれないという希望だった。


「一緒に解決しよう」


沙月は固く決意した。もう黒瀬を一人で苦しませることはない。これからは二人で、この運命に立ち向かうのだ。

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