第2話 プリンの底に光はある。

 今日は、だめだった。


 駅のホームでスマホを開いて、届いていた通知を見た瞬間、全身の力が抜けた。

 あれだけがんばったのに。

 夜遅くまで勉強して、課題もギリギリ間に合わせて、……それでも、だめだった。


 電車に乗る気にはなれず、私は足の向くままに歩き出した。

 どうせ真っ直ぐ帰ったって、夕飯までは時間があるし、家の鍵を開ける音を聞いた母が「おかえり」と言う前に、「今日どうだった?」って聞いてくる。

 ──その質問が、いちばんつらい。


 だから私は、“逃げた”。


 喫茶リュネット。

 すこしだけ足を踏み入れるのに勇気が要る、静かな扉。


 でもここだけは、どんな日も私を咎めない。

 たとえ何も言わなくても、マスターは察してくれる。


「……甘いもの、ありますか」


 口から出た声は、泣き声に近かったかもしれない。

 けれどマスターは、ただ頷いただけだった。


 それから数分後、私の目の前に置かれたのは──プリンだった。


 それは、銀の皿に乗った、古風な喫茶店プリン。

 卵の黄色がやわらかくて、ぷるぷると揺れる小さな存在は、どうしようもなく優しそうだった。

 上に乗った真っ赤なさくらんぼと、生クリームの白が彩りを添えていて、見ているだけで、胸が少しだけほどけていく気がした。


 スプーンでひとすくい。

 やや硬めのプリンは、しっかりと形を保ったまま持ち上がり、カラメルの透けた茶色が、光に照らされてきらりと艶めいた。


 ひと口、口に運ぶ。


 ……甘い。


 やわらかな甘さ。だけどどこか“強い”甘さ。

 ミルクと卵の素朴な味が、じんわりと口いっぱいに広がっていく。

 カラメルのほろ苦さが後を追って、舌の上で静かに混ざって、ほどけて、消えていく。


 ああ……これ、落ちていく私を、底から支えてくれる味だ。


 このプリンは、ただ甘いだけじゃない。

 甘さが「甘やかして」くれるんじゃない。

 ちゃんと「甘えさせてくれる」んだ。


 泣いたっていいよ、って言ってくれる気がして。

 私はそっと、さくらんぼに触れた。

 真っ赤な小さな宝石を口に含むと、シュワッとした酸味が一瞬、涙腺を刺した。


 ──そのときだった。


「これ、サービス」


 マスターが、カランとグラスを置く音がした。


 そこには、涼しげにきらめく翡翠色のクリームソーダがあった。

 澄んだメロンソーダに、バニラアイスがぷかりと浮かび、ふちにはさくらんぼがちょこんと座っている。

 炭酸の泡が立ちのぼって、グラス越しに光が揺れる。それは、少しだけ涙に似ていた。


「顔が、甘いものだけじゃ足りてなさそうだったからな」


 そう言って、マスターはまたカウンターの奥に戻っていった。

 私は返事をする代わりに、グラスを両手で包んでみる。

 ひんやりとした感触が指先から伝わってきて、それだけで、何かが落ち着いた。


 ストローでひと口すすれば、

 甘くて、冷たくて、炭酸がちょっとだけ喉をくすぐって。

 ──思わず、笑ってしまった。

 たぶん、今日いちばんやさしい笑顔だったと思う。


 この一皿と一杯があれば、きっと私は明日も歩ける。

 たとえ今日がダメだったとしても、プリンの底には光があり、クリームソーダの泡は、空に向かって上がっていくから。


「……ごちそうさまでした」


 喫茶リュネットの扉が、カランと鳴る。

 その音が、いつもよりやさしく響いた気がした。

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この一皿のために、今日も生きてる てふてふ @tafutafu555

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