この一皿のために、今日も生きてる

てふてふ

第1話 泣いてる日にも、グラタンは笑う

 放課後、鞄を引きずるようにして歩く私の足は、気づけば決まって同じ場所へ向かっている。


 駅前のチェーンカフェでもない。制服のまま入りづらい高そうなレストランでもない。

 人通りの少ない並木道の先、角をひとつ曲がったところに、ひっそりと息づく“わたしだけの場所”。


 ──喫茶リュネット。


 ステンドグラスの扉が小さく揺れて、カラン、と澄んだ音を立てた瞬間、外のざわめきは切り取られる。

 やわらかな木目と深い赤のソファ。カップの触れ合う音すらも、ここでは音楽の一部みたいに感じる。

 マスターは、相変わらずぶっきらぼうな顔をしてカウンターの奥にいるけれど、目だけはほんのり笑っていた。


「……グラタン、まだある?」


 問いかける声が、少しだけ上擦ってしまうのは、分かってる。

 それほどまでに、あの皿は、私の中で特別になってしまっている。


「ラスト一皿、取っておいてあるよ」


 ああ、よかった。


 その言葉だけで、今日一日ぶんの疲れが少し薄まる。

 あとはもう、静かにこの空間に沈んでいけばいい。


 いつもの席に腰を下ろす。窓際、午後の陽がちょうど斜めに射し込む場所。

 制服の襟元に当たる光があたたかくて、頬にかかる髪をそっと耳にかける。

 頬杖をついて、ひと息。今日の失敗や、上手く笑えなかった場面が、ふと頭の隅をよぎった。


 でも、それもすぐに消える。

 この場所に来ると、私という存在がいったんふわりとほどけて、ただの“誰か”になれる気がするのだ。

 肩書きや関係性も、ぜんぶ脱ぎ捨てて。


「お待たせ」


 その声に目を上げると、目の前に──現れたのだ。

 白い陶器皿にたっぷりと盛られた、グラタンが。


 ぐつぐつと音を立てるそれは、小さな金色の泡をいくつも浮かべて、香ばしさを含んだ蒸気をふわりと漂わせていた。

 表面にはチーズが黄金色に焼け、ところどころ褐色のまだら模様を描いている。

 それは、まるで秋の絵画のように美しく、食欲を刺すというより、魂を直接かき回してくるような“本能の香り”だ。


 スプーンをそっと差し入れると、ぱり、とした音と共に、焼きチーズの下から白くてなめらかなホワイトソースが顔を覗かせた。

 とろりと溶けたそれは、熱をたっぷり含んでいて、スプーンの底から湯気が立ち上る。


 口に運ぶ。

 ──熱い。でも、優しい。


 ミルクのまろやかさと、チーズの深いコク。

 その奥に、ほんのすこしだけナツメグの甘い香りが揺れている。

 もちもちとしたマカロニに、バターの風味がじんわりと染み込んでいて、焦げ目の香ばしさが食感のアクセントになっている。

 噛むたびに、舌のうえで味が変わるのがわかる。こんなに静かなのに、口のなかは祭りだ。


 どうしてこんなに美味しいのか、考える余裕もなく、次の一口、そしてまた次を運んでしまう。

 気づけば無言のまま、夢中になっていた。

 焦がしチーズとマカロニの重なりを掘り起こすたびに、小さな宝物を見つけるみたいで、手が止まらない。


 やがて、お皿の底が見えた頃、私はふう、と息をついた。

 おなかが満たされた以上に、心のなかにぽっと灯がともる。

 “おいしい”って、きっと、こういう気持ちのことなんだと思う。


 私がこの世界にいていい理由なんて、まだわからないけど。

 でも──こんな一皿に出会うためなら、生きるのも、悪くない。


 スプーンをそっと置いて、窓の外を見る。

 陽が少し傾いて、並木道が長い影を落としていた。

 帰らなきゃ、と思いつつも、まだここにいたいと思ってしまう。


「ごちそうさまでした」


 小さくつぶやくと、マスターがうなずいた。

 その瞬間、なんだか泣きたくなるくらい、嬉しかった。


 ──また来よう。疲れたら、きっとまた来る。

 そのときは、また、あのグラタンがあればいいな。

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