脳髄沸騰屋たち

しゅげんじゃ

二の舞 ―― 煮え滾る脳髄

 不可視の障壁は打ち破られ、とたんにの念波が脳髄を掴んでくる。痺れる衝撃が頭蓋を走った。だが――と、羅洞らどうは涼しく笑ってみせる。

 望むところだ。これこそが俺たちの流儀。俺たち脳髄沸騰屋ブレインボイラーの闘い方だ。

 念波を念波で掴み返す。敵の念波を這うように、思念を飛ばして相手の脳髄を手繰り寄せる。

 周囲は夜陰に沈んでいた。敵の姿は見えない。それでも羅洞にはわかっていた。ヤツもきっと、笑っている。要人暗殺なんてお仕事ルーティンでは得られない、緊張感と生の実感。命を賭けたラリーは楽しいものだ――。

 ヤツの脳髄に達した念波を、さらに大脳皮質へと浸透させていく。銀河にも似た神経細胞ニューロンの煌めきのなかに、ヤツの記憶がふつりふつりと浮かびあがってくる。

 その記憶を、煮沸する。

 煮沸された記憶が相手にとって重要であればあるほど、対象の脳髄は煮えくり返り、破壊されていく。

 だから、脳髄沸騰屋ブレインボイラー

 羅洞が暗殺のターゲット――政財界の大物、棚橋たなはし太門だもんの脳を沸騰させたのは六時間ほど前のことだった。当然、太門は死んだ。それ以来、追跡者の影がつきまとっていることも、羅洞は早くから気がついていた。

 報復で脳を沸騰させられる。それは脳髄沸騰屋にとってもっとも不名誉であるとともに、もっともありきたりな最期だった。羅洞の師匠も兄弟子も、そうやって死んでいった。だから羅洞は肝に銘じていた――俺は、師匠たちの二の舞なんて絶対に演じない。

 ふいに師匠のしかめツラが脳裏に浮かんだ。師匠は常々こう言っていた。

 羅洞、お前は天才だ。だが根が優しい。それは、この仕事では致命的だ――。

 何を言ってやがる。

 その瞬間、師匠の記憶が歪み、ボコボコと泡立ちながら沸騰した。マズい――羅洞は顔をしかめた。敵の記憶を煮沸しようとして、逆にカウンターを食らっているのだ。記憶の強制浮上。それは攻撃の兆しだった。

 はは、けっこうやるじゃん――羅洞の目からポタリ、血が流れ、羅洞は舌を伸ばしてそれを舐めた。目には目を。歯には歯を。カウンターにはカウンターを。稲妻のように念波をほとばしらせ、一気にヤツの大脳皮質に叩きつける。脳の連合繊維と交叉繊維を経て、念波を脳全体へと拡散させる。同時に防御も怠らない。偽の記憶デコイをばらまき、敵の念波を欺いていく。案の定、ヤツの念波に乱れを感じた。だが、まだだ。まだ手を抜くつもりなどない――。

 羅洞の真の狙いは脳の投射繊維の先にある。記憶の中枢たる海馬だ。神経細胞ニューロンの煌めきを次々と沸騰させながら、いよいよ羅洞の念波は海馬へと到ろうとしていた。悪いな。これで、もらった――。


「ラーちゃん」


 それは記憶の奥底から浮かびあがったかのような、懐かしい少女の呼び声だった。真昼の道すがら、羅洞少年は立ち止まって振り返る。そこには声の主が立っている。春の風そよぐ木漏れ日のなか、髪を押さえて微笑む少女――。


「……香澄かすみちゃん」


 少年時代の己の呟きを聞きながら、羅洞は戸惑っていた。これはヤツの記憶なのか? それとも俺の記憶……? 次々と情景が浮かんでは消えていく。まるで真夏の夜、熱にうかされながら見る夢のように。あるいは、昏い海の底から静かに、いくつもの泡が浮かんでくるかのように。


 街中に設置された拡声器から、勇ましい演説が聞こえてくる。

 旗振る人びと。流れる軍歌。出征する男たち。


 あぁ、これは過去だ。俺の――いや、本当にそうなのか?


 やがて空を覆ったのは爆撃ドローンの群れだった。

 燃えあがる街。

 父と母はいなくなった。

 炎の向こう。苦しげに揺らぐ影が見える。少女の叫びが聞こえてきた。「助けて、ラーちゃん!」

 あぁ、助けることができなかった。救うことができなかった。

 ごめんなさい。

 たった独りになってしまった。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 もう誰もいない――もう、誰もいない――。

 焼かれた街を彷徨う。あてどもなく、延々と。

 やがて施設に収容され、そうして羅洞は青年になっていく。


「被検体三百四号。今日から君は念波能力者――ブレインボイラーだ」


 羅洞は頭を抱えた。脳が熱を帯びて煮え立っていくのを感じる。だがこれは――どうしてこれは――。羅洞にはわかっていた。入り交じっているのだ。俺の記憶。ヤツの記憶。その両方が。そうなのだとわかる。だからそれゆえに、それなのに、なぜ、どうして。

 鼻から血が溢れていく。目からは血が滴っている。羅洞はたたらを踏みながら、懐から携帯を取りだした。震える手でライトを灯し、ヤツへと向けてかざす。その照らす先に、女が見えた。


「ラーちゃん……」


 女は泣いていた。顔半分はケロイドに覆われ、その上を、血が入りまじった涙がゆっくりと伝い、落ちていく。


 なんだ、生きていたのか。


 次の瞬間、羅洞の脳髄は煮え滾った。ありとあらゆる記憶が蒸発し、消えていく。だが、どうでもよかった。羅洞にとっては唯一、いま、この瞬間だけがすべてだった。


 白く、世界が輝いて見えた。

 羅洞はその輝きに包まれて――脳髄の沸騰がもたらす、最期の光景。


 すべてが白く漂白されて見える世界のなかで、羅洞は――はッ。俺も結局、二の舞じゃないか――そんなことを考えながら、心の底から満足げに、ただ静かな笑みを浮かべていた。


(了)

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