第8章:聴いてみよう!バロック名曲ガイド


## 第8章:聴いてみよう!バロック名曲ガイド


 ここまでバロック音楽の歴史、作曲家、形式、楽器などについて学んできました。この最終章では、実際に聴いてみたいバロック音楽の名曲を紹介します。これらの曲を聴くことで、バロック音楽の多様な魅力を体験してください。


### 初めて聴く人のためのバロック名曲


#### ヴィヴァルディ:「四季」より「春」


 アントニオ・ヴィヴァルディの「四季」は、バロック音楽の入門として最適の作品です。特に第1曲「春」は明るく活気にあふれ、小鳥のさえずり、せせらぎの音、春の嵐などが音楽で表現されています。


 この曲には物語があります。ヴィヴァルディ自身が書いたソネット(詩)が残されており、その内容に沿って音楽が展開します。例えば第1楽章では、「春が来た」という明るいメロディに続いて、小鳥たちがさえずる様子がヴァイオリンの高音トリルで表現され、その後小川のせせらぎと稲妻と雷鳴が描写されます。


 これほど鮮やかに自然を音楽で描写した作品は、それまでありませんでした。ヴィヴァルディの「四季」は「標題音楽」(物語や情景を描写する音楽)の先駆けとなったのです。


#### パッヘルベル:「カノン」


 ヨハン・パッヘルベルの「カノン」は、結婚式などでよく使われる人気曲です。この曲は「カノン」という特殊な形式で書かれており、同じメロディが少しずつずれて模倣的に登場します。


 実はこの曲、長い間忘れられていた作品です。20世紀になってフランスの指揮者ジャン=フランソワ・パイヤールが再発見し、録音したことで広く知られるようになりました。現在では最も人気のあるクラシック曲の一つですが、パッヘルベル本人はこの曲がこれほど愛されるとは想像もしていなかったでしょう。


 この曲の魅力は、繰り返される8つの和音(これを「オスティナート・ベース」と言います)の上に、美しいメロディが次々と変化しながら現れることにあります。8つの和音が25回繰り返されるのですが、その単純な構造から想像もつかないほど、豊かで感動的な音楽が生まれるのです。


#### ヘンデル:「メサイア」より「ハレルヤ・コーラス」


 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの「メサイア」から「ハレルヤ・コーラス」は、おそらく最も有名な合唱曲の一つです。「ハレルヤ(神を讃えよ)」という言葉が力強く歌われ、壮大なクライマックスを形成します。


 前述のように、この曲が演奏されると観客が立ち上がる習慣があります。これはイギリス王ジョージ2世が初演で感動のあまり立ち上がったことに由来するとされていますが、本当かどうかは定かではありません。しかし、この習慣は今でも世界中で続いており、音楽の力を示す良い例でしょう。


 「メサイア」全体はイエス・キリストの生涯を描いたオラトリオで、演奏時間は約2時間半に及びます。クリスマスシーズンによく演奏されますが、実はヘンデルはこの作品を復活祭の時期に初演しました。


#### バッハ:「G線上のアリア」


 ヨハン・セバスティアン・バッハの「G線上のアリア」は、管弦楽組曲第3番の第2楽章です。ヴァイオリンのG線(最も低い弦)だけで演奏できるように編曲されたことから、この名前で親しまれています。


 この曲には神秘的なエピソードがあります。実は、19世紀末にヴァイオリニストのアウグスト・ヴィルヘルミが編曲するまで、この曲はG線上で演奏されていませんでした! さらに、この曲を「アリア」としたのも後世の人々です。バッハはこの楽章に特別なタイトルを付けていませんでした。


 「G線上のアリア」の魅力は、その穏やかで瞑想的な雰囲気にあります。流れるような美しいメロディが、通奏低音の上にのせられ、深い安らぎを感じさせます。映画「羅生門」や「ブラック・スワン」など、多くの映画でも使用されています。


#### バッハ:トッカータとフーガ ニ短調


 ヨハン・セバスティアン・バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」は、おそらく最も有名なオルガン曲の一つです。冒頭の劇的なパッセージと、それに続く複雑なフーガは、バッハの天才を示す素晴らしい例です。


 この曲は、ディズニー映画「ファンタジア」での使用によって特に有名になりました。抽象的な映像と組み合わされたこの音楽は、多くの人々に強い印象を残しました。また、ホラー映画のテーマ音楽としても使われることが多く、「怖い曲」というイメージもあります。


 面白いのは、この曲がバッハの作品ではないという説もあることです。あまりにも革新的で異例なスタイルのため、一部の学者はバッハの弟子や、19世紀の作曲家による偽作ではないかと疑っています。しかし、多くの専門家は依然としてこれをバッハの真作と考えています。


#### バッハ:ブランデンブルク協奏曲 第2番


 ヨハン・セバスティアン・バッハの「ブランデンブルク協奏曲 第2番」は、6曲からなる「ブランデンブルク協奏曲」の中でも特に人気のある作品です。トランペット、リコーダー、オーボエ、ヴァイオリンというソリストたちと弦楽合奏の対話が特徴です。


 この協奏曲集には面白いエピソードがあります。バッハはこれをブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈しました。新しい職を求めていたバッハは、この曲集を「応募書類」のようなものとして送ったのです。しかし、辺境伯はこの素晴らしい音楽を評価せず、バッハを雇うこともなく、楽譜は図書館の片隅に放置されてしまいました。100年以上後、この楽譜が発見され、今では最も愛されるバロック音楽の一つになっています。バッハが生きている間、この曲が演奏されることはありませんでした。


 1977年、この曲の録音はNASAのボイジャー探査機に搭載され、宇宙へと送り出されました。地球外生命体に人類の文化を伝えるために選ばれた数少ない音楽の一つです。バッハの音楽は、宇宙空間を旅しているのです!


### テーマ別バロック音楽ガイド


#### 自然を描いた音楽


 バロック時代には、自然の風景や現象を音楽で表現する試みがなされました。最も有名な例はヴィヴァルディの「四季」ですが、他にも素晴らしい「自然音楽」があります。


 例えば、ヨハン・ダーヴィット・ハイニヘンの「宮中での音による喜び」には「嵐」と題された楽章があり、激しい稲妻と雷鳴が描写されています。また、フランスの作曲家ミシェル・リシャール・ドラランドの「コンセール・ロワイヨー」には、鳥のさえずりや森の音が表現されています。


 これらの作品は「標題音楽」(物語や情景を描写する音楽)の先駆けであり、後のベートーヴェンの「田園交響曲」やドビュッシーの「海」などに影響を与えました。


#### 舞曲の楽しみ


 バロック時代には、様々な舞曲が作曲されました。これらは元々は実際に踊るための音楽でしたが、次第に「聴くための音楽」として発展しました。バロック組曲には、様々な舞曲が含まれています。


 アルマンドはドイツ起源の4拍子の舞曲で、中庸のテンポで演奏されます。クーラントはフランス起源の3拍子の舞曲で、「流れるような」性格を持っています。サラバンドはスペイン起源の遅い3拍子の舞曲で、荘厳で感情豊かな性格があります。ジーグはイギリス起源の速い複合拍子の舞曲で、躍動的な性格を持っています。


 バッハやヘンデルの組曲には、これらの基本的な舞曲に加えて、ガヴォット、メヌエット、ブーレなどの舞曲も含まれています。舞曲は特定の拍子とリズムパターンを持ち、それぞれ異なる雰囲気を作り出します。


 バッハの「フランス組曲」や「イングリッシュ組曲」は、様々な舞曲を学ぶのに最適の作品です。また、リュリやラモーの舞曲は、特にフランス宮廷舞踏の雰囲気を伝えています。


#### 劇的な声楽曲


 バロック時代には、オペラ、カンタータ、オラトリオなどの劇的な声楽曲が発展しました。これらは物語性が強く、様々な感情を表現しています。


 モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」は、音楽の力によって冥界の神を感動させるオルフェウスの物語を描いています。特に有名なのは、オルフェウスが妻エウリディーチェの死を知って歌う「音楽よ、失われた魂を慰めてくれ」というアリアです。


 バッハのカンタータ第140番「目覚めよ、と我らに呼ばわる物見の声」は、キリストの再臨を待つ花嫁の寓話を描いた作品です。「シオンは起きている」という有名な二重唱は、魂(ソプラノ)とイエス(バス)の対話を表現しています。


 ヘンデルのオラトリオ「メサイア」は、救世主イエス・キリストの生涯を描いた壮大な作品です。「私は知っている、わが救い主は生きておられることを」という感動的なアリアでは、復活への確信が表現されています。


 これらの声楽曲は、音楽が物語や感情を表現する力を示す素晴らしい例です。


### 探究心のある人のための珍しいバロック音楽


 バロック音楽には、有名な作品以外にも多くの魅力的な曲があります。ここでは、少し珍しいけれど素晴らしいバロック音楽をいくつか紹介します。


#### ハインリヒ・ビーバー:ミステリー・ソナタ


 ハインリヒ・イグナッツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644-1704)は、バロック時代のヴァイオリン音楽に革命をもたらした作曲家です。彼の「ミステリー・ソナタ」(または「ロザリオ・ソナタ」)は、キリスト教のロザリオの15の神秘を描いた作品集です。


 この作品の特徴は「スコルダトゥーラ」と呼ばれる特殊な調弦法を使用している点です。通常、ヴァイオリンの弦はG-D-A-Eに調弦されますが、ビーバーはこれを意図的に変え、通常では演奏できない和音やフレーズを可能にしました。例えば「復活」を表現するソナタでは、真ん中の2本の弦を交差させて調弦するよう指示しています。これは十字架と復活の象徴です。


 難解な技法にもかかわらず、ビーバーの音楽は聴く人の心に直接訴えかける力を持っています。特に「護衛する天使」を描いたソナタは、美しいパッサカリア(同じベース音型を繰り返す変奏曲)で締めくくられます。


#### ジャン=フェリ・ルベル:「混沌」


 ジャン=フェリ・ルベル(1666-1747)はフランスのバロック作曲家で、「混沌」という驚くべき作品を書きました。これは、バレエ音楽「元素」の序曲で、世界の創造以前の混沌とした状態を描いています。


 この曲の冒頭は、当時の基準からすると非常に不協和的で、D音をベースにすべての音階の音が同時に鳴らされます! これは現代の聴衆にとっても衝撃的ですが、18世紀初頭の聴衆の反応はさらに激しかったことでしょう。伝説によれば、初演時に妊婦が失神し、他の聴衆も仰天したと言われています。


 しかし、この「不協和」な冒頭の後、美しいメロディが現れ、混沌から秩序が生まれる過程が表現されます。300年近く前に書かれたとは思えないほど革新的な作品です。


#### エリザベト=クロード・ジャケ・ド・ラ・ゲール:テ・デウム


 エリザベト=クロード・ジャケ・ド・ラ・ゲール(1665-1729)は、バロック時代に活躍した数少ない女性作曲家の一人です。彼女はルイ14世の宮廷で高く評価され、王の命令で「テ・デウム」(神を讃える歌)を作曲しました。


 彼女の「テ・デウム」は、壮大な合唱と管弦楽のための作品で、男性作曲家の作品に劣らぬ技術と表現力を示しています。特に「聖なるかな」の部分は、天使の合唱を思わせる美しい音楽です。


 彼女には興味深いエピソードがあります。彼女はパリのサン=ルイ聖堂のオルガニストでしたが、当時は女性がオルガニストになることは非常に珍しいことでした。彼女の才能は、性別の壁を乗り越えたのです。


### バロック音楽を楽しむためのヒント


 最後に、バロック音楽をより楽しむためのヒントをいくつか紹介します。


#### 通奏低音に注目してみよう


 バロック音楽の特徴である「通奏低音」に意識的に耳を傾けてみましょう。低音楽器(チェロやヴィオラ・ダ・ガンバなど)と和音楽器(チェンバロやオルガンなど)が奏でるベースラインと和音が、音楽の基礎を形作っています。


 例えば、バッハの「G線上のアリア」では、同じリズムパターンを持つベースラインが繰り返され、その上にヴァイオリンの美しいメロディが乗ります。このベースラインに意識的に注目してみると、音楽の構造がより明確に理解できるでしょう。


#### 様々な演奏を比較してみよう


 同じバロック作品でも、演奏者によって大きく異なる解釈が可能です。特に、現代楽器と古楽器(または「ピリオド楽器」)での演奏の違いは顕著です。


 例えば、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(現代楽器)とニコラウス・アーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(古楽器)で聴き比べてみると、音色やテンポ、アーティキュレーションなど様々な違いに気付くでしょう。


 どちらが「正しい」ということではなく、それぞれの解釈の違いを楽しむことが大切です。


#### 音楽の「修辞法」を探してみよう


 バロック時代の作曲家たちは、音楽を「音の雄弁術」と考え、言葉の修辞法に相当する音楽的技法を発展させました。例えば、上行形のメロディーは喜びや称賛を、下行形は悲しみや服従を表現することが多いです。


 バッハの「マタイ受難曲」では、イエスの言葉が常に弦楽器の伴奏付きのレチタティーヴォ(語り)で表現され、他の登場人物とは区別されています。また、「十字架につけよ!」と群衆が叫ぶ場面では、激しく不協和な音楽が使われています。


 このような「修辞法」に注目すると、バロック音楽がどのように感情や意味を表現しているかを理解する助けになるでしょう。


### バロック音楽の旅を終えて


 これでバロック音楽への冒険の旅は終わりです。この本を通じて、バロック時代(1600-1750年)の音楽の特徴、重要な作曲家、音楽形式、楽器、そして名曲について学んできました。


 バロック音楽は、単なる「古い音楽」ではありません。それは感情表現に満ちた生き生きとした芸術であり、今日でも私たちの心に強く訴えかけます。モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルなどの作曲家の音楽は、時代を超えた魅力を持っています。


 この本が、あなたのバロック音楽への旅の出発点となることを願っています。さあ、様々な名曲を聴いて、バロック音楽の素晴らしい世界をさらに探索してください!


### 読書案内 - もっと知りたい人のために


 バロック音楽についてもっと詳しく知りたい人のために、おすすめの本と音楽を紹介します。


#### おすすめの本

- 「バロック音楽の歴史」(皆川達夫著、講談社)

- 「図解 音楽の歴史」(講談社)

- 「もっと知りたいバッハ」(礒山雅著、音楽之友社)

- 「CD付き はじめての古楽器」(小野明子著、音楽之友社)


#### おすすめの音楽(CDなど)

- 「バロック・ベスト100」(様々な演奏家による名曲集)

- 「バッハ:ブランデンブルク協奏曲全集」(トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート)

- 「ヴィヴァルディ:四季」(イル・ジャルディーノ・アルモニコ)

- 「ヘンデル:メサイア」(ジョン・エリオット・ガーディナー指揮 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ)

- 「モンテヴェルディ:オルフェオ」(ジョルディ・サヴァール指揮 ル・コンセール・デ・ナシオン)


 音楽は聴くことでしか本当に理解できません。様々な音楽を聴き、バロック時代の豊かな音楽世界を体験してください。きっと、新たな発見と感動があるでしょう!


## おわりに


 バロック音楽の冒険はいかがでしたか? モンテヴェルディからバッハまで、約150年にわたるバロック時代の音楽には、驚くほど多様な表現があります。オペラ、協奏曲、フーガ、組曲など様々な形式が生まれ、発展しました。


 バロック音楽は今から300年以上も前に作られましたが、その魅力は少しも色あせていません。むしろ、時間を超えて私たちの心に直接訴えかける力を持っています。バッハの「マタイ受難曲」の荘厳さ、ヴィヴァルディの「四季」の生き生きとした描写、ヘンデルの「メサイア」の感動的な合唱、これらは今日でも多くの人々の心を揺さぶります。


 音楽は言葉を超えたコミュニケーションです。バロック時代の作曲家たちは、音楽を通じて様々な感情や思想を表現しようとしました。彼らの創造した音楽は、時代や文化の壁を越えて、今日の私たちにも語りかけてくるのです。


 この本がバロック音楽への扉を開く助けとなり、あなたが自分で音楽を聴き、楽しみ、探求していくきっかけになれば幸いです。音楽の冒険に終わりはありません。これからも素晴らしいバロック音楽の世界を旅していってください!

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【入門ガイド】「バロック音楽の冒険 〜17-18世紀の天才たちが織りなす音の世界〜」 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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