第7章:バロック音楽の遺産 - 現代への影響

 バロック音楽は1750年頃(バッハの死の年)に終わりを告げましたが、その影響は現代にまで及んでいます。この章では、バロック音楽がその後の音楽にどのような影響を与えたのか、そして現代ではどのように受け継がれているのかを見ていきましょう。


### バロック後の音楽への影響


#### バッハ復興 - 「音楽の父」の再発見


 バッハが亡くなった後、彼の音楽スタイルは「古風」と見なされ、しばらくの間忘れられていました。しかし、1829年、若き作曲家フェリックス・メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」をバッハの死後初めて公開演奏したことをきっかけに「バッハ復興」が始まりました。


 メンデルスゾーンがこの作品を発見したのには面白いエピソードがあります。彼の祖母がベルリンの魚屋さんでバッハの楽譜に包まれた魚を買ってきたのです! おそらく魚屋は古い楽譜を包装紙として使っていたのでしょう。メンデルスゾーンはその楽譜に興味を持ち、調査を進めて「マタイ受難曲」の完全な楽譜を見つけ出しました。


 バッハの音楽は19世紀の多くの作曲家に影響を与えました。ショパン、シューマン、ブラームスなどはバッハの対位法を学び、自分たちの作品に取り入れました。20世紀になると、バッハへの関心はさらに高まり、多くの現代作曲家が彼の技法から学んでいます。


#### モーツァルトとバッハの出会い


 古典派音楽の巨匠モーツァルトは、バロック音楽、特にバッハの息子たちの音楽から多くを学びました。しかし、J.S.バッハ自身の音楽との出会いは比較的遅く、ウィーン時代(1780年代)に友人のバロン・ファン・スヴィーテンの邸宅でバッハの楽譜を見せてもらったのが始まりでした。


 モーツァルトはバッハのフーガに大きな衝撃を受け、「これこそ学ぶべきものだ!」と述べたと言われています。彼はバッハの「平均律クラヴィーア曲集」からいくつかのフーガを弦楽四重奏に編曲し、自分の後期作品にもフーガ技法を取り入れるようになりました。


#### ベートーヴェンとヘンデル


 ベートーヴェンはヘンデルの音楽を特に高く評価し、「彼は音楽界の最大の作曲家だ。彼から学びたい。」と言ったと伝えられています。ベートーヴェンの後期作品、特に「ミサ・ソレムニス」や第9交響曲の合唱部分には、ヘンデルのオラトリオの影響が見られます。


 また、ベートーヴェンの変奏曲作品の多くは、バロック時代の変奏技法を発展させたものです。彼の「ディアベリの主題による33の変奏曲」は、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」に比肩する大規模な変奏曲作品です。


### 現代におけるバロック音楽


#### 「古楽器」運動 - 本来の音色を求めて


 20世紀後半から、バロック音楽を当時の楽器や演奏法で演奏しようとする「古楽器」または「ピリオド楽器」による演奏が盛んになりました。これは単なる「回帰」ではなく、音楽をより深く理解するための試みでした。


 古楽器演奏のパイオニア、ニコラウス・アーノンクールには面白いエピソードがあります。彼はもともとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のチェロ奏者でしたが、当時の楽器でバロック音楽を演奏することに興味を持ち、家族や友人と「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」というアンサンブルを結成しました。彼らの最初の「古楽器」はなんと彼の祖父母の屋根裏から見つかった古い楽器だったのです!


 現在では、ジョン・エリオット・ガーディナー、ウィリアム・クリスティ、フィリップ・ヘレヴェッヘなど多くの指揮者やアンサンブルが、歴史的な演奏法を研究し、バロック音楽の新たな魅力を引き出しています。


#### ポピュラー音楽におけるバロックの影響


 バロック音楽はポピュラー音楽にも影響を与えています。1960年代には「バロック・ポップ」と呼ばれるスタイルが流行し、ビートルズの「エリナー・リグビー」「イエスタデイ」、プロコル・ハルムの「青い影」などの曲にはバロック的な要素が取り入れられました。


 面白いことに、ポール・マッカートニーはクラシック音楽の訓練を受けていませんでしたが、彼の曲には自然とバロック的な要素が現れています。彼は後に「バッハを聴いたことはなかったけれど、何か親近感があった」と述べています。


 最近では、スティングがダウランドのリュート曲を演奏したアルバム「リュートの歌」を発表したり、エルビス・コステロがバロック・アンサンブルと共演したりするなど、ポップスとバロック音楽の融合が見られます。


#### 映画音楽とバロック


 映画音楽にもバロック音楽の影響は顕著です。多くの映画でバロック音楽が使用されるほか、映画音楽作曲家がバロック的技法を取り入れることもあります。


 スタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」ではバッハやヘンデルの音楽が印象的に使われ、「2001年宇宙の旅」の冒頭ではリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」が使われていますが、これはバロック音楽の「フランス風序曲」の荘厳さを彷彿とさせます。


 また、ハンス・ジマーなど現代の映画音楽作曲家の作品にも、オスティナート(繰り返し音型)など、バロック的な技法が多用されています。


### バロック音楽を現代に伝える人々


#### グレン・グールド - バッハを現代に蘇らせた天才


 カナダのピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)は、バッハの音楽の現代的解釈で知られています。彼の1955年録音の「ゴルトベルク変奏曲」は、古典音楽界に革命を起こしました。


 グールドには数多くの奇妙なエピソードがあります。彼は常に手袋をはめ、コートを着て演奏し、自分専用の低い椅子を使用していました。また、演奏中に鼻歌を歌う癖があり、録音から彼の声を消すのに技術者が苦労したという話もあります。


 グールドは32歳の若さでコンサート活動を引退し、以後はスタジオ録音に専念しました。彼はバッハの音楽を「純粋に構造的な美しさ」を持つものとして捉え、その明晰な演奏は多くの人々をバッハの世界に引き込みました。


#### ヨーヨー・マとバッハのチェロ組曲


 チェリストのヨーヨー・マは、バッハの「無伴奏チェロ組曲」全6曲の演奏で広く知られています。彼はこの作品を3回録音しており、その度に新たな解釈を示しています。


 興味深いのは、バッハの「無伴奏チェロ組曲」がかつては単なる練習曲と見なされ、長い間演奏会で演奏されることがなかったという事実です。20世紀初頭にパブロ・カザルスがこの作品を「発見」し、その芸術的価値を認識したことで、今日のような人気作品になりました。


 ヨーヨー・マはバッハのチェロ組曲を「シルクロード・プロジェクト」でも取り上げ、世界各地の伝統音楽と融合させる試みも行っています。これは、バロック音楽の普遍性と柔軟性を示す良い例でしょう。


### バロック音楽を学ぶ意義


 バロック音楽を学ぶことには、どのような意義があるでしょうか?


 まず、この音楽は現代の多くの音楽の基礎となっています。和声法や音楽形式など、バロック時代に確立された多くの原則は、その後の音楽にも受け継がれてきました。バロック音楽を理解することで、後の時代の音楽もより深く理解できるようになります。


 また、バロック音楽は感情表現が豊かで、人間の様々な感情を音楽で表現する方法を模索した時代です。その音楽を聴くことで、私たちも感情の微妙なニュアンスを感じ取る感性を養うことができるでしょう。


 そして何より、バロック音楽には単に「古い音楽」ではない普遍的な魅力があります。バッハの「G線上のアリア」の荘厳さ、ヴィヴァルディの「四季」の生き生きとした描写、ヘンデルの「ハレルヤ・コーラス」の壮大さは、時代を超えて私たちの心に響きます。


 次の章では、バロック音楽の名曲をいくつか紹介し、それぞれの魅力と聴きどころを解説していきましょう。

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