塊物 ~カイブツ~

@aizenmaiden

全話

 これは天下泰平の世が続く一方で不順な天候による不作や天災による被害がたびたび起きていた時代の物語。人々は平和な世を謳歌しつつも先行きに漠然とした不安をかかえていた、そんな時代。


 とある国の城下町に異形の化け物が出現した。いつ、どこから現れたのか誰も知らない。気がつくなり誰もがその奇怪な姿に仰天したのだ。まさに忽然と、という表現がふさわしい出現。

 それは人間の胴体に見えなくもない、しかし形が崩れて肉塊としか表現しようのない形をした醜怪な姿だ。その体にはごく短い四肢が生えているのみでその手足の先端には指はなくこぶのように膨らんでいる。

 そしてそう、胴体には首がなかった。身の丈は三尺を少し超える程度だろうか、申し訳程度に四肢を生やした肉塊の化物。それが人々の前に突如として姿を現したのだった。


 性別をうかがわせるものも見られない「それ」は城下町のメインストリートとも言える通りを進み続けていた。藩主が居住する城へとまっすぐに続く道を、その城へと向かって。

 それは歩いているとも這っているとも表現しうる進み方だ。足指もなくこぶのような足先でよたよたと、危なっかしい足取りで進むが、時折バランスを崩して地に倒れ込む。そうなるとこちらも指のないこぶのような手で体を起こそうと試みつつなおも体を這わせて進み続ける。そしてなんとか起き上がると歩みを再開するが、しばらく進むとまた転ぶ、の繰り返し。


 ドタ、ドタ、ドテン。ズルズルズル…

 化物の動きに伴って音が響く。この化物の出現に人々が驚愕、恐怖し、大騒ぎになったのは言うまでもない。あちこちで悲鳴が上がり、人々が逃げ惑う。しかし次第にその騒ぎも鎮まっていく。この場に残った者たちは誰もがそのあまりに衝撃的かつ現実離れした光景に圧倒され、体が呪縛にかかったように眼前の光景をただただ眺めるだけになっていったのだ。


 醜怪な肉塊が人間の動きを真似しているその様子は見る者に吐き気を催させる薄気味悪さと人間を冒涜しているかのようなおぞましさを備えている。

 ドタ、ドタ、ドテン。ズルズルズル…

 ゆっくりと、しかし着実に進んでいく。城の方向へと。いつもは多くの人々が行き交い、喧騒に溢れた賑やかな通りがまるで人々の動きのみならず時の流れさえも止めてしまったかのような中を化物だけが動く。

 ドタ、ドタ、ドテン。ズルズルズル…

 歩いては転び、這いながら起き上がり、歩いては転ぶが繰り返されていく。その遅々とした歩みの単調な繰り返しがこの場にいる者たちに一種の催眠状態をもたらし、呪縛しているのだろうか。しかし…


 その単調な反復に変化が生じはじめた。

 はじめのうちはごくわずかな変化が少しずつ、目立たずに進行していた。呆然と眺めるだけの者たちにはそれと察するのも難しかっただろう、しかしそんな彼らにも見て取れるほどに変化が露わになっていく。

 肉塊の化物の姿が変わりはじめていたのだ。

 動きとともにブルブルと揺れていた肉と皮膚が少しずつ引き締まっていく。いや、体が縦へ伸びていくにつれてたるみが引き伸ばされているのだ。全身が細長い輪郭へと変化、変形している。それは手足も同様だ。

 その変化が進んでいくにつれて人間の姿が形作られていくのが明らかになってきた。それまで鮮明ではなかった四肢の膝、肘もはっきりと見分けられるようになり、胴体にも胸、肩、腹、さらには尻が形成されていく。


 その形成に合わせて肉が移動し、今やたるんでいる部分などどこにもなく、肌は若々しいと表現できるなめらかさと張りを備えるに至った。しかし動きに合わせて肉が揺れるのはまだ続いており、それは二つの部分にほぼ集中していた。

 両の乳房に。

 そう、化物は女、それも若い女の姿へと移り変わろうとしていたのだ。先ほどまでのメリハリの欠片もない肉体はどこへやら、豊かな両の乳房は張りと重みの両方を備え、歩き這う全身の動きにはしなやかさとなまめかしささえ感じさせる。転倒してその滑らかな肌を地面に引きずらせながら這う様子は痛々しく見えるほどだ。まさに男の欲情をかきたてる美しき裸体へと近づいていると言っていいだろう。


 頭部と、手足の指が揃っていたならば。

 胴体が完全な裸体の女性へと変化していく一方で頭部は依然としてなく、首が生えてくる気配も見られない。そして手足の先端はこぶのような形のまま。ゆえに歩みも完全な肉塊だった頃に比べれば格段に動きが滑らかになっているものの、やはり安定しない。今もしばしば転倒し、体を引きずりながら這っては立ち上がり、また歩き出すを繰り返しているのだ。


 …バタッ、ズルズル…

 もはや歩く時の足音は聞こえず、その空白の合間に倒れる音、体を引きずって這う音が響く。

 想像を絶する展開、光景になおも呆然と眺めるだけの周囲の者たち。しかし多少なりとも呪縛から解放されはじめる者も現れ、その中からこの化物の様子を見届けようと追いかける者さえも出てきた。好奇心と恐怖心をないまぜにしながら。

 するとこれが集団心理と言うものか、呆然としていた者たちの中にも本人にその意思があるのかわからないまま釣られる形で足を動かし、通りの両側を化物の歩みに合わせて進みはじめる者が次々と現れていった。集団がゾロゾロと移動していくような光景だ。

 そして化物を様子を目の当たりにしている者たちの脳裏にようやくといった感じで疑問がよぎった。この化物はいったい何なんだ? 何をしようとしているんだ?


 後者の疑問は別の疑問を誘発する。まさか、このまま完全な人間の姿になろうとしているのか?

 頭部と手足の指をもたない今の姿は人間の姿に近づいているがゆえにいっそうおぞましく見える。このようなモノがこの城下に現れるなど本来あってはならない。しかしそれは厳然として彼らの眼の前にある。

 もし完全な人間の姿になってしまったらどうなる? 自分たちの平凡な生活にまぎれこんで何食わぬ顔して暮らすんじゃないのか? もしそうなったらこの化物を見破ることができるのか? 


 人間ではないものが人間と化す。狐狸の類が人間に化けるのは誰もが知っている。しかし奇怪で醜悪な肉塊が化ける、変形するなどおそらく前代未聞、そんな化物が人の世に紛れ込むなど考えただけで恐ろしく冒涜的に思える。今の姿よりも人間になってしまったときの姿のほうがおぞましいのではないか?

 居合わせている者たちはそんな考えを巡らせるとともに不吉な予感にゾクリ、と背筋に冷たいものを走らせる。


 すると化物の形に新たな変化が生じた。豊かな両の乳房がブルブルと震えたかと思うと形が変わりはじめたのだ。変形というよりも縮まってその細身で引き締まったしなやかな体に合う大きさに整えられていく、といったところか。そして減った分が上へと、胸から鎖骨へと移動し、さらにちょうど本物の人間なら首が生えているところにまで達するとモゾモゾとうごめく。


 まさか。

 察しのいい者たちは恐ろしい予感を覚えつつそれが現実のものになろうとしているのを悟った。

 まさか、頭が生えてこようとしているのか?

 そんな察しのいい者たちの考えが言葉を交わすこともなくこの場にいる者たちに広まっていったのか、あちこちで生じたざわめきがさざなみのように広がり、空気がざわつきだす。


 そこへ化物がその姿を現して以来はじめて歩みを止め、こぶの両足で危なっかしく立ちつつ上半身を震わせはじめた。それに合わせて本来首がある部分の肉のうごめきが激しさを増したかと思うと膨らみながら胴体から上へと突き出していく。

 頭部が作られようとしている!

 人々の間でざわめきがさらに増す。胴体から肉が膨らみながら飛び出していく様子は胴体がそれを吐き出しているようにも見える。それどころか…


 排泄しているようにも見えるではないか。胴体の下へではなく、上へと汚物をひり出そうとしているように。

 その排泄物が頭部になろうとしているのか? 人のもっとも大事な頭に、顔に!

 ちょうど人の頭ほどの大きさまで膨らむといよいよ形をなしはじめる。根本でくびれが生じたのは首か。


 そこから奇怪で、冒涜的で、それでいてどこか神秘的な面をも伴う光景が展開されていった。膨らんだ肉塊に過ぎなかったものが少しずつ女性の顔を形作っていく。しかも肉塊の上部にブツブツと小さな穴が無数に生じるやそこから黒く細長いものがスルスルと、まるでソーメンのように飛び出し、伸びていく。そう、毛髪だ。あっという間に肩を過ぎ、胸を覆い、腰まで達する。


 そしていよいよ目鼻口の本格的な形成へと移っていく。それはどこか優れた仏師がごく平凡な木や石に命を吹き込みながら仏像を作り上げていく様を想起させる印象さえ伴う。そう、神秘が伴う敬虔な作業を。つい先程まで排泄を連想していたというのに!

 この化物の変化が仏像を作るような尊い行為のはずがない。この場にいる者たちの誰がそう思っており、ゆえに神秘性を感じつつも、神秘を感じた自らの感性や信心深さを冒涜されているような忌まわしさも覚えずにいられない。

 そしてまだ顔立ちが明確になっていないこの時点で彼らはみな確信に至った。必ずや美しい女子になるに違いない、その胴体に相応しい絶世の美女に。


 そんなことが許されるのか? 絶世の美女と化して今後多くの男たちをたらしこんで破滅へと導こうというのか?

 そんな恐ろしい化物が今この世に解き放たれようとしているのではないか? われわれはそれをみすみす受け入れようとしているのではないか? 

 そんな恐ろしい予感とも危機感ともとれる思いが彼らの内心で芽生えはじめていたが、かといって行動に出る者がいるわけでもない。この場で時の流れが止まっているなかで化物だけがその制約を受けていないかのように動き、変わり続けている。

 

 するとさらなる変化が化物に生じた。手足の先端が形作られはじめたのだ。こぶのようだった部分が手のひら、足へと変わり、さらに指が生えていく。

 ここに至って化物は歩みを再開した。形成途上とはいえ足の裏で地面を踏みしめ、先ほどまでとは比較にならない安定した足どりで、少しだけヨタヨタしながら進んでいく。もはや転ぶことも、這うこともない。

 このヨタヨタもまもなく改善されてスタスタになるのだろうか。もしそうなったもはや誰の手にも負えなくなるんじゃないか?


 そんな不安と恐怖が言葉をともなわないまま一同に広まり、共有されていったのかみな落ち着かなげに身じろぎをはじめる。その衣擦れの音にざわめきが一層増していたところで人々の間から声が上がった。男の声だ。

「バ、バケモノだ!」

 何をいまさら、と思った者たちもいた。がこの今さらなことを口にした男は誰もがやらなかった行為に出た。そう、行動に出たのだ。その場から今や密集状態の流れと化していた人混みをぬってその場から離れる。逃げ出したのか、と近くにいた者たちは思ったが、その男はすぐに戻ってくるや「どけっ!」と怒号とともに人混みをかけわけて通りに出た。


 通りの中央に、化物の行く手を阻む形で立つ。大小をさした武士だ。その両手には弓と三本の矢が握られている。

 男は弓をつがえ、化物に狙いを付けた。その両手どころか全身がガタガタ震えており的がなかなか定まらない。が、

「くたばれ、化物め!」

 と言い放ち矢を放った。

 運か、彼の腕前か、命中したとは言わないだろうが矢は化物の右の太ももに刺さった。しかし化物はいったん体勢を崩したもののその太ももから出血することもなく歩みを続ける。侍は手を震わせつつもすぐに二本目をつがえて放つ。

 左脇腹に命中、体を前へ傾けるがやはり化物の歩みは止まらず立ちはだかる侍へと近づいていく。そして三本目。少しだけ落ち着いたのか、彼はいったん深く息をついてから矢を放ち…


 頭部、その額に見事に命中した。

 のけぞった姿勢で化物の動きが止まった。歩みだけでなく全身を硬直させて。誰もが次に何が起こるのが固唾を飲んで見守るなかしばし硬直が続いたが、やがて…

 化物の体が溶けはじめた。

 表面がドロドロと、端整な目鼻立ちが形作られようとしていた顔も、完璧な造形美を備えていた胴体も、そしてほとんど完成しつつあった手足の指も。

 それは溶けていると言うよりも腐っていくと言ったほうが適切だろうか、それを裏付けるように異臭が漂いはじめる。あっという間にそれが広がり、誰もが本能的に顔をしかめ、後退りし、鼻をつまみ、あるいは袖で覆う。


 溶解、あるいは腐敗が人としての外見をとどめない段階にまで達したところでその体がブルブルと震えはじめた。たるんだ肉塊だったころとはまた違う、全身が痙攣する震えだ。

 その震えとともに異臭がさらに増し、中にはそのあまりのすさまじさに意識が遠のく者まで現れたところで…


 爆発した。


 肉塊が飛び散り、まわりの者たちに降りかかる。

 異物が自分の身に触れたこの段階でようやく彼らは呪縛から解放されたように悲鳴を上げ、付着したものを払おうと半ば暴れるように動きまわり、この恐ろしい場所から逃げ出した。誰かが誰かを押しのけ、誰かが誰かの邪魔をし、周囲の家々は誰も入ってこないよう戸をピシャリと閉ざす。あちこちで怒号と悲鳴が上がる阿鼻叫喚の光景が展開していく。


 そして、通りから人の姿が消えた。普段の賑わいからは想像もつかない、廃墟と化したかのようだ。

 肉塊の痕跡はもはやどこにも残っておらず、「それ」が立っていた地面には三本の矢が、そして染みが残っているのみ。ただ凄まじい異臭が立ち込めており、化物がなおもこの地に留まり続け、その存在を主張し続けるかのようであった。

 

 当然この出来事は大騒動をもたらした。しかし化物が消滅した以上、もはや調べようがない、話を聞いた藩主も興味を覚えて詮議を命じたが現地に赴いた者たちは異様なまでの濃さで残る地面の染みと、薄らぎつつもなおもしつこく残り続ける異臭に顔を歪めるのみで何も得るものはなかったのだった。

 化物が出没した通りには誰も近寄らなくなり、通りに面した家々に住んでいた者たちの中には逃げ出すように引っ越し、あるいは家を手放すものさえもいた。もっとも売りに出したところで買い手がつくことはなかったが。その周辺だけが空白地帯、まさに廃墟とも言うべき異様な環境となっていく。城へとまっすぐに続く城下町のメインストリートであるというのに。


 なかにはやがて時が経って染みと異臭がなくなれば落ち着いて元通りになるだろう、と楽観的に見る者たちもいた。しかしその見方が的を射ていたかどうかを確認する余裕を与えられる間もなく国に災難が降りかかった。


 疫病が流行したのだ。


 それも藩主のお膝元たる城下町で発生し、またたくまに国中へと広がっていく。


 バタリ、バタリ。一人、また一人と病にかかり、倒れていく。つい昨日までピンピンしていた者がひとたび感染の兆しを見せるやたちまち悪化し、悶え苦しんだあげく死んでしまう。その恐ろしさたるや感染した者たちは万に一人も助からないと言われるありさまだった。

 感染した者は体が焼けるような苦しみを味わいつつ全身の皮膚がただれていく。死んだ時には半ば焼けただれたような、半ば腐敗したような凄惨な姿となる。その様子は死が彼らを苦しみから解放したのだろうと思わせるほどだ。


 感染病はしばしば人間の体だけでなく心までも蝕む。感染者が現れるや周囲の者たちは自分にその不運が降りかかるのを恐れてそれを避け、しばしば排除せんとする。看病してくれる者も、看取ってくれる者も失った感染者たちはしばしば路上をさまよい、悶え苦しみながら倒れ、死んでいく。その死体が処理されることさえも滅多にない。

 そしてそのような非情な振る舞いをした者にも、勇気をもって慈悲深く感染者の世話をした者にも、疫病は別け隔てなく、容赦なく襲いかかる。


 猖獗を極め、地獄絵図を現出したかの如き状況が三月ほど続いたのち、ようやく収束の兆しが現れはじめた。するとひとたび兆しが生じるや拡大したときと同様急速に沈静化、やがて疫病はやるべきことはやったと言わんばかりに去っていったのだった。


 かくして地獄絵図が通り過ぎた後に残ったのは打ち捨てられた世界だった。城下町は全体が廃墟と化したかのように重苦しい静寂と、あちこちで死体が放置された凄惨な光景が広がる空間と成り果てている。

 城下に残っていた者たちは最初は疫病が去ったことに半信半疑のままおそるおそる日々を過ごしていたが、やがて意を決すると遺体の埋葬をはじめた。

 勇敢にも最後まで城下に残り続けていたひとりの僧侶が陣頭指揮をとる形で。


 やがて他の地域に逃れ、生き残った者たちがポツリ、ポツリと城下に戻ってくる。彼らはこの地の変わり果てた光景に少なからぬ衝撃を受けつつも埋葬に続々と参加していった。彼らの場合はこの犠牲者たちや城下を見捨てたとの罪悪感も抱えながら。

 埋葬といっても多数の遺体を一体一体丁寧に葬り、弔う余裕などあるはずもない。城下の寺院に総墓(そうばか)の形でまとめて埋葬するための場を確保し、土葬で葬っていく。

 戻ってきた他の僧侶たちも参加し、城下全体がさながら葬儀場とかしたかのごとくであった。


 それがかなり進んだところで藩主や位の高い武士たちが戻ってきた。今さら、と批難する向きもあったがこの藩主は決して暗君ではなく城下に戻るや死者の埋葬と弔いの継続に加えて人々の救済、そして城下の復興へと精力的に動きはじめる。ここでかじ取りを間違えると幕府から減封や改易といった処分が下されかねない、との危機感もあったのだろう。


 その後復興は当事者たちも予想していなかったほど順調に進んでいった。戦争や自然災害とは違い破壊が伴っていなかったからというのもあるのだろう。もちろん、生き残った者たちの必死の努力と復興への強い決意が最大の原動力だったのは言うまでもない。


 そうして疫病からはや一年が経過し、ようやく人々が自分の生活を振り返るゆとりを持ちはじめた頃、どこからともなくあの奇怪な肉塊の化物の話が俎上にのぼるようになっていった。

 多くの人たちはああ、そんなこともあったな、と記憶を甦らせる。あれほどの衝撃的な出来事を一年もの間振り返り、語り合う機会がなかったほど慌ただしく厳しい日々が続いていたのだ。そしてそんな日々が続いている間に記憶の片隅に追いやってしまっていたのだろう。

 しかし一度記憶を引っ張り出し、語る機会が設けられればたちまち格好の話題の種となる。あれはいったい何だったのか?


 この問いは肉塊の化物が出現したばかりの頃とは意味合いが大きく異なっていた。あれは何だったのか? という問いに別の疑問が続く。もしかしたら、その後すぐに起こった恐ろしい疫病と何か関係があるのか、と。

 災害を予言するために人々の前に出現する妖かしもいくつか知られている。あの肉塊もその類だったのか、しかし…

 あの奇怪な姿、矢を射られた後に発せられた異臭、そして飛び散った肉片と地面にしつこく残り続けた染み…着物に付着した染みは決して落ちなかった。臭いもだ。あの不快さが疫病と結びつく。


 もしや、あれが疫病をまき散らしたのか? 予言ではなく原因だったのではないか? あの飛び散った肉の断片、ただよった異臭こそ、疫病の源だったのではないか?


 そんな恐ろしい連想を誰が言い出したのだろうか、しかし聞いた者がいったんそれを受け入れればもはや切り離して考えられなくなる。

 するとまた新たな考えをよぎらせる者が現れる。ということは、あの肉塊を矢で殺してしまったのがまずかったのではないか?


「矢を射たお侍さんは英雄だと思っていたけど、もしかしたら疫病をもたらした張本人だったのかもな。あ、確かあの方も疫病で死んじまったんだよな」

「じゃあよ、もしお侍さんが矢を射ないで化物をあのままにしていたらどうなったんだ? 肉塊が女に姿を変えてたんだぜ。完全に女になっていたらどうなったんだ?」

 酒の席でこんな話が取り交わされもする。そしてこうした疑問を聞いて別の疑問にかりたてられる者たちも現れた。


「もしかしたらこの城下に、いやこの国に素晴らしい幸運か何かが舞い込んでいたんじゃないのか? 幸運をもたらす女神さまが出現していたかもしれないぜ」

「確か神話じゃ排泄物から生まれた神もいたはずだ。五穀だってそうだ。国土も最初はドロドロした泥みたいな状態だったんじゃなかったっけか?」

「だからあの化物を殺してしまったことで自分たちは大きな幸運を逃した、それどころか大きな災難を招いた。取り返しのつかない間違いを犯したんじゃないのか? 」


 こうした疑問を思いついた者たちは教養があったのかもしれないし、少々豊かな想像力を備えすぎていたのかも知れない。いかにも突拍子もない考えに見える。

 しかしこうした疑問をつきつけられた者たちはみなギョッとした表情を浮かべ、慌てて打ち消しにかかる。まさか、あんな化物が幸運をもたらすなんてあるはずがないだろう、と。しかしそう否定しながらも彼らの脳裏にもしかしたら…という考えが芽生えもする。


 昔話の中には何もしなければ幸運を手に入れることができたはずなのに余計なことをしたばかりに不幸に見舞われる、という筋書きがしばしば見られる。浦島太郎や山幸彦などが代表的な例として上げられるだろうし、はなたれ小僧の話なんかもその類に入るだろうか。もしかしたらあの肉塊の化物もこれらの昔話と同じ展開だったのかもしれない。


 もしかしたら、あの化物は美しい姿をした女神になろうとしていたのかもしれない。醜悪な肉塊から見目麗しい女神の誕生。われわれはそんな人智を超えた女神の誕生の場面を目の当たりにしていたのかもしれない。

 しかしそれを邪魔してしまったのではないか? ことによると女神を殺してしまったのではないか? せっかくわれわれに素晴らしいご利益をもたらしてくれるはずだった女神を! 疫病は神殺しの天罰だったのか?


 これらはあまりにも過酷な不幸を経験したがゆえに浮かんだ考えだったのかもしれない。あの恐ろしい疫病の理不尽さには何か理由があるはず、あのような恐ろしい災難は本来なら起こるはずがなかったのだ。しかしある理由のために起こってしまったのではないか、と。


 しかしこうした疑問が積極的に俎上に載せられて語られることは滅多になかった。あまりにも恐ろしい考えであるし、本来なら幸運がもたらされたのかもしれないとか、取り返しのつかない失敗をしてしまったのかもしれないとか考えたところで何の慰めにもならなかったからだ。

 ゆえに肉塊の化物の話題がこの手の方向へと進みかけるとみな気まずそうな表情を浮かべつつ少々強引にほかの話題へと転じるのだった。


 あの肉塊の化物はいったい何だったのか? 何のために人々の前に姿を現したのか? そして美女と化して何をするつもりだったのか?

 それを阻止したことで疫病がもたらされたのか? 阻止したのは大きな過ちだったのか?

 真相を知る者は誰もいない。そして多くの者はたとえ真相を知る機会を得たしても拒絶するだろう。

 知らない方がいいこともある、と。



      完


最後までお読みいただきありがとうございました。感謝!

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