第33話「あの日、誰かの言葉が」
放課後、旧校舎の最上階にある空き教室。使われなくなった理科準備室の奥には、誰も知らないような、でも誰かが確かに存在した気配を残す空間がある。そこに一人、誰とも目を合わせず、けれどいつもどこかの風景を見つめている生徒がいた。彼――か、彼女か、それすらも曖昧な輪郭のまま、淡い光の差す窓際に静かに腰を下ろしている。
目の前の机には、無数の封筒が積まれていた。色も紙質も異なるそれぞれには、既に誰かの心に届いた“ことば”が記されている。誰かの胸にそっと触れるように送り届けられた手紙たち。そのすべての筆跡は、同じだった。
この教室に通う誰かが、ずっと、彼らの姿を見つめていた。休み時間のふとした表情、窓辺で佇む後ろ姿、誰かに声をかけようとして躊躇う様子、笑いながら俯いた瞬間。見ようと思えば、見過ごしてしまいそうな日常の断片。それをすべて、ひとつずつ拾い集めてきた人間がいた。
名前を呼ばれた記憶はない。けれど、その“観察者”の存在は、確かにそこにあった。けっして目立つわけではなく、けっして人前で語ることもなく。ただ、誰かのために何かをしたいと願うだけの、そんな存在。
彼は、その日もまた、一通の封筒を閉じていた。宛名はない。ただ、渡すタイミングだけが直感でわかる。誰かの気持ちが張り詰めた時、誰かが自分を見失いそうになった時、その瞬間にだけ現れる“余白”のような間を狙って、そっと置いてくる。何も説明しない。ただ、言葉だけを残して、姿を消す。
今日、書いていたのは――そう、蒼香の手紙だった。
「あなたの言葉に、誰かの返事が届く日が、きっと来る」
その一文を記してから、彼はしばらく動けずにいた。蒼香の言葉は、まっすぐで強くて、時にそれが周囲を遠ざけてしまう。けれど、その“芯”の強さこそが、この教室に必要な灯火だと、彼はずっと感じていた。
「君のまっすぐさに、僕は救われてるんだよ」そう呟いても、それが届くことはない。だから代わりに、カードに託す。
誰かを理解しようとすること。それは、見て、知って、そして認めることだ。ただ“かわいそう”と感じることではなく、ただ“応援してます”と祈ることでもない。その人が、その人であるままに立ち続けられるよう、そっと背中に手を添えること。そのために、今日も彼は筆を握る。
教室の外から、誰かの笑い声が聞こえた。どこか懐かしく、どこかくすぐったい、そんな響き。机の引き出しにしまった封筒の隙間から、陽が差し込んで、一枚だけがほのかに光った。それは、まだ届けていない、たったひとり分の手紙だった。
彼はその封をそっと開き、空白のカードに筆を走らせる。
「誰かの物語を見つめてきたあなたへ」
自分自身へ宛てた、初めての手紙。
その言葉を認めた瞬間、彼の心の奥に積もっていた霧が、ほんの少し晴れた気がした。
誰かのために始めたことが、いつの間にか、自分自身を支えてくれていたのだと。
窓の外では、春の風が新しい季節を運んでくる。彼は立ち上がり、未投函の最後の一通を胸ポケットにしまって、ゆっくりとドアを開けた。
ここから先は、自分のために歩く時間かもしれない。誰かのために書き続けた言葉のように、自分自身の声を、いつか誰かに重ねていくために。
終
放課後リプレイ~fromDM~ mynameis愛 @mynameisai
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