第32話「誰かのために始まった物語」
放課後の図書室は、思った以上に静かだった。窓の外では部活の声が遠くに聞こえるものの、この一角はまるで別の時空に属しているかのように、時間がゆっくりと流れていた。誰かがページをめくる音、机にペン先が当たる音、椅子がきしむ音すら、静寂の中では特別な響きを持っている。
その一角で、ひとりの生徒が、テーブルの端に置かれた一冊の本を手に取った。目立たない背表紙には、金の文字で『架け橋たちの肖像』とだけ記されている。借り出し記録はなく、まるで誰かのいたずらのように、ぽつんと本棚に挟まれていたそれを、なぜか気になって抜き出していた。
ページを開くと、目次も著者もない。かわりに、最初のページにこう書かれていた。
「これは、あなたと、あなたが出会ったすべての物語である」
それはまるで呪文のような一文だった。読み手の意識にするりと入り込むそれを前に、手が自然と次のページへと動いた。するとそこには、これまでどこかで見覚えのある誰かの姿――日常の断片、風に吹かれて立ち尽くす背中、迷いながらも前を向こうとする瞳、静かに何かを抱えながら笑う横顔――そんな情景が、言葉と共に一枚ずつ綴られていた。
まるで、クラスの誰かが見てきた景色が、透明な膜を通して映し出されたように。
どこかで一緒にいたはずなのに、誰も気づかなかった瞬間。ほんの小さな勇気が、言葉にならないやさしさが、時間の中に静かに残されていた。ページをめくるたび、それらがそっと蘇り、心の奥に波紋のように広がっていく。
知らなかった、あの子がこんなにも悩んでいたことを。あの子が誰かのために流した涙を。言えなかった言葉、渡せなかった手紙、伝わらなかった想い。それでも前に進もうとしていた背中の、あの確かな輪郭。
ひとりひとりが、まるで見えない糸でゆるやかに繋がれているように、ささやかな出来事が重なり合って、今、この場所に立っている。
読み進めるうちに、手元がふと止まった。ページの端に、なにかが挟まっている。取り出してみると、それは小さなカードだった。白い紙に、淡い水色のインクでこう記されていた。
「この物語を読んだあなたも、誰かの一章になる」
それは、静かに、けれど確かに、心の深い場所に届く言葉だった。人は誰しも、自分のことばかり考えてしまう。目の前の課題、将来の不安、自分の居場所、誰かの評価。けれど、その中で誰かを思い出す瞬間がある。誰かの頑張りがふと浮かぶとき、そこにはもう、他者と自分を隔てない“物語”が生まれている。
自分の一言が、誰かの背中を押していたかもしれない。自分の沈黙が、誰かの気持ちを救っていたかもしれない。そのことに気づけたとき、たとえ明日が不安であっても、少しだけ優しくなれる気がした。
本を閉じた手が、静かに胸元へと戻る。そこには、自分だけが知っているカードのひとつ――ある日、不意に届いた言葉たち――がしまわれていた。
図書室の空気は変わらず静かだ。けれど、たったひとつの物語が、ここにもうひとつの“光”を灯していた。
誰かのために始まったこの物語は、今、あなたの中で続いていく。
終
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