第31話「声を重ねるということ」

 蒼香は、昼休みの中庭でひとりスケッチブックを開いていた。体育館裏へ続く細道の途中にあるこの中庭は、校舎の陰に守られたような場所で、昼の賑わいが届きにくい。ほとんど誰も足を運ばず、風の音と鳥のさえずりだけが静かに響いていた。ベンチの背もたれにもたれかかりながら、膝の上に置いたスケッチブックに鉛筆を走らせる。描いているのは、目の前のしだれ桜。まだ蕾を残した枝が、春の空気に小さく揺れている。

 彼女は、自分の意見を持つことに、ずっと向き合ってきた。昔から、人に合わせることが得意ではなかった。正確には、合わせることができないのではなく、合わせるふりをするのが苦手だった。みんなが右に進むときに、自分が左を選びたくなったら、躊躇なくそうする。その結果、冷ややかな視線を感じることも少なくなかった。それでも、自分の感覚に嘘をつくほうがずっと苦しかった。

 けれど、それは決して“強さ”ではなかった。時に周囲とすれ違い、ひとりになってしまうこともあった。グループの話題についていけないことも、場の空気を変えてしまうこともあった。言わなければいいだけなのに、と何度思ったことか。でも言わずにはいられなかった。誰かの無神経なひと言が、誰かを傷つけているとき。見て見ぬふりが、結果として誰かを置き去りにしてしまうとき。蒼香は、静かに、けれど確かに口を開く。

(でも、本当に伝わっているのかな)

 いつからか、そんな疑問が胸をよぎるようになった。自分が思う「正しさ」や「まっすぐさ」が、果たして他人にとってはどう映っているのか。伝えることの難しさを知ったのは、高校に入ってからだった。中学までなら、「蒼香はそういう子だから」で済まされていた部分が、大人びた空気の中では、時に“異質”として距離を取られるようになった。

「伝えること」と「届くこと」は、似て非なるもの。言葉にすれば想いが伝わるわけではない。むしろ、言葉を尽くした先で、何も伝わらない虚しさに立ち尽くすことだってある。

 そのことを痛感したのは、つい昨日のことだった。クラスでのちょっとしたトラブル。意見が分かれた場面で、蒼香は自分の考えを丁寧に述べたつもりだった。なのに、返ってきたのは「きつい言い方だね」「正論だけど、空気読めない」そんな声だった。間違っていたのは、言葉選びだったのか、タイミングだったのか。それとも、最初から誰も“聞く耳”を持っていなかったのか。答えは出ないまま、今日を迎えていた。

 風が吹いた。しだれ桜の枝が、わずかに揺れて、蕾がかすかにこすれ合う。その音を聞いた瞬間、視界の端で何かが動いたように感じて、蒼香はベンチの下に目をやった。そこにあったのは、一枚の白い封筒だった。まるで風が運んできたかのように、ふんわりとそこに置かれていた。

 拾い上げると、手触りのよい厚紙の封筒に、花の模様がうっすらと浮かび上がっている。そして中央には、金のインクでこう記されていた。

「あなたの声は、静かに響いている」

 胸が、ぎゅっと音もなく締めつけられる。自分の“声”が誰にも届かないと、そう思いかけていた矢先。誰かが、その“声”の存在そのものを肯定してくれたような気がして、思わず手元が震えた。

 封を開けると、中からは優しい文字が綴られたカードが現れた。

「伝えようとするあなたの姿勢は、すでに多くの人の心に種をまいています。今すぐ芽が出なくても、静かに根を張っている。あなたのまっすぐさは、信頼に変わる力を持っています。」

 読みながら、胸の奥に熱がこみ上げた。誰かにわかってほしかった。自分はただ、まっすぐでいたかっただけなんだと。誰かを正したかったわけじゃない。ただ、誰かが悲しむことを黙って見ていたくなかっただけだった。

 ポケットのスマホが震える。「ChordLink」という名のアプリが新しく表示されていた。アイコンには、糸を結んだようなラインが複雑に重なっている。タップすると、画面に一行のメッセージが浮かび上がる。

「声は重ねて響く。あなたの言葉に、誰かの返事が届く日が、きっと来る。」

 蒼香は、スケッチブックを閉じた。桜の枝を描きかけのまま、けれどそれは、どこか未来を約束しているような、ひらきかけの蕾のように見えた。伝えることをやめないでいたい。たとえ今は届かなくても、言葉の種がどこかで芽吹く日を信じて、これからも自分の声を、自分のままに。

 風がまた、やわらかく頬を撫でた。彼女は立ち上がり、春の光が射す階段を一歩ずつ踏みしめて歩き出した。

 終

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