第一章【宮村鈴音】最終節
教室の窓の外、秋の夕陽が燃え盛るように西の空を染めていた。
空は、まるでこの世の終わりのように紅く、あたかも誰かの心臓がそのまま空に滲み出したかのようで──鈴音は、静かに席を立った。
誰も気づかない。先生も、生徒も、誰一人として。
それは夢の中にいるような光景で、だが確かに現実だった。
蒼井未央だけが、その瞬間だけ、微かに顔を上げた。けれど、視線は鈴音を捉えることなく、ただ違和感だけが胸の奥に引っかかった。
足音ひとつない、透明な存在のように、鈴音は教室を出ていく。
踊り場も階段も、音のない劇場の一幕のように沈黙していた。
ただ、夕焼けの光だけが、彼女の髪と制服を金に染め上げながら、屋上への扉を照らしていた。
ぎい、と鉄の扉を押し開けると、その先に、彼は立っていた。
——身に纏うものは違うが、ナヴィエルだった。
黒く、冷たく、それでいてどこか温もりを残した声が、風の中に現れる。
「ようやく、来たんだね」
その声に、鈴音はふと目を細める。
そこにいたのは、ナヴィエル。真っ黒なローブ、死神なのに神秘的なその衣装は、夕焼けを背にしてもなお光を吸い込み、立っているだけで世界の輪郭がにじんで見えるような存在だった。
だが、ナヴィエルの声は優しかった。
まるで、誰よりも静かに、誰よりも穏やかに、死の国から語りかける声のように。
「……迎えに、来てくれたの?」
「いいや、君がここに来たんだよ。自分の意思で」
ナヴィエルの顔には、微かな微笑が浮かんでいた。
だがそれは喜びではなく、ただ"理解"の色だった。
あたしは数歩、屋上の縁へと近づく。風がスカートをはためかせ、秋の冷たさが頬を撫でる。
「ねえ、ナヴィエル。あたし……ちゃんと、生きてたかな」
その問いは、涙ではなく、ただ静かに、空気のように口から漏れた。
ナヴィエルは、少しだけ間を置いて、答える。
「君は、誰よりも、生きていたよ。誰よりも強く、痛く、真っ直ぐに生きていた」
「でも、もう疲れたの。許してほしい。ずっと怖かった。優しさも、愛も、全部。裏切られるかもしれないって思ってた。
信じたくて、信じたくなくて、信じるのが怖かったの」
彼女の声は震えていなかった。ただ、芯から燃え尽きた人間だけが持つ静寂があった。
ナヴィエルは黙って彼女の言葉を受け止めた。
その静寂が、鈴音の中に残る最後の波紋をそっと撫でる。
「小さい頃ね、笑うのが下手だったの。笑うたびに、周りの大人たちが"もっとちゃんと"って言うの。もっと女の子らしく、もっと明るく、もっと、もっとって——あたしは何を足せば、"正しい"人間になれたのかな?」
ナヴィエルは答えない。ただ風が、彼女の声を抱きとめるように吹き抜けた。
「中学に入って、それも壊れた。誰かが笑ってると、自分が笑われてる気がして、誰かと話してると、次の瞬間には裏切られてる気がして」
彼女は、自分の手を見下ろす。その手は細く、震えてはいなかった。
「誰にも嫌われたくなくて、なのに、誰も信じられなかった。……きっと、あたしは最初から、世界に向いてなかったんだと思う」
ナヴィエルは、静かにその場に立ったまま、彼女を見つめていた。
ローブの裾が風に揺れ、まるでこの世に属さない影が踊っているようだった。
「それでも、生きようと思ったよ?朝起きて、歯を磨いて、ごはん食べて、みんなと同じこと、してみた。だけど、あたしの中だけ、何も変わらなかった。心の中に、氷みたいな場所がずっと残ってて……誰の言葉も届かないの」
彼女の瞳が、ほんの少しだけ潤んだ。
けれど涙は流れなかった。あまりにも長く、泣けないほど痛みに慣れてしまっていた。
「でもね、不思議だった。あたしが死にたいって思っても、
空は紅くて、風は涼しくて、夕焼けはとても綺麗だった。
こんなにも美しいものがあるのに、どうして、生きる理由にはならなかったんだろうね?」
その言葉に、ナヴィエルは初めて、ゆっくりと口を開いた。
「……それはきっと、君の苦しみがそれ以上に美しかったからだよ」
あたしは目を見開いた。
ナヴィエルは続ける。
「人はね、生きようとする意志の中に、すでに"生"を刻んでいる。君がこれまで苦しみながらも歩いてきた日々は、
他の誰よりも、"生きていた証"に満ちていた。
でも、希望という言葉は——生きることを選んだ人にだけ、預けられるものなんだ」
「……じゃあ、あたしには希望はないの?」
「ないよ」
その言葉は残酷だった。だが、どこまでも優しかった。
「君はもう、希望の向こう側にいる。ここまで来るには、どれだけの絶望を抱えてきたか、僕は知っている。だから——否定しないよ。君の選択を、誰にも裁かせはしない」
鈴音の唇が、ほんの少しだけ動いた。微笑んだようにも見えた。
「ありがとう、ナヴィエル。ずっと、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない」
─────
空は、秋の夕焼けに燃えていた。
風が吹くたび、枯葉がひとつ、ふたつと空を舞い、世界がまるで、彼女のために呼吸しているようだった。
白いブラウスが風に揺れ、彼女の長い髪が、夕陽を受けて赤く光る。
誰もいない屋上。
それでも、彼女の中には確かに"見られている"という感覚があった。
この空、この風、この世界そのものが、
彼女の最期を見届けようとしていた。
——ナヴィエルも、何も言わずに背後に立っていた。
その姿はまるで、古の画家が描いた天使と悪魔の混合体のように美しく、黒衣の裾が空に溶けるように揺れていた。
あたしは目を閉じた。
そして、思い出す。
生まれた瞬間の記憶はない。
けれど確かにあった、母の手の温もり。
小さな誕生日ケーキ。
初めて笑った友達の顔。
夜中に一人泣いた布団の中。
誰にも気づかれなかった涙。
誰にも言えなかった"さようなら"。
全部、すべて、生きてきた証だった。
けれどそれらは、生きる理由にはならなかった。
もう一度立ち上がる力には、ならなかった。
「ナヴィエル」
彼女が口を開く。
「今、すごく不思議なの。怖くないのに、心が震えてる。
悲しくないのに、涙が出そう。死ぬってことが、こんなにも綺麗なものなんだって……知らなかった」
ナヴィエルは、ただ穏やかに頷いた。
それは祝福でも、
ただ——理解だった。
「君が選んだこの瞬間が、誰よりも、君が生きていた証になるように」
——その言葉が、最後の鍵となった。
鈴音は両手を広げた。
まるで羽が生えているかのように、静かに、そして堂々と。
足が離れる。
空を裂く風が、彼女の身体を優しく包む。
重力すらも、美しさの一部になった。
髪が舞い、スカートが揺れる。
空を切るその姿は、あまりにも
まるで天から堕ちる最後の星のようだった。
空が彼女を照らし、
風が彼女を祝福し、
地が彼女を抱きしめる。
——鈍く、柔らかな音。
——赤が花開く。
それは悲鳴ではなく、音楽だった。
命が最期に奏でる、絶唱。
澪は、その瞬間を知覚していた。
教室の窓から、夕焼けを眺めていた彼女は、
理由もない涙が頬を伝うのを止められなかった。
心が、なにかを失ったことを告げていた。
鈴音の身体は、校庭の片隅に横たわっていた。
血の花がゆっくりと広がり、その中心にある彼女の顔は、
まるで笑っているようだった。
——そう、それは"生きていた"証だった。
すべての痛み、苦しみ、孤独、絶望。
そのすべてを受け止めて、なお彼女は、美しかった。
まさにこの瞬間
彼女は、誰よりも生きていた。
ナヴィエル〜命の観測者〜 翠ノさつき @Suino_Satsuki
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