未亡人(男)が好きすぎるだけ

てふてふ

冬の珈琲、春の花束

 午後の光が、カーテンのレース越しに、店内の木目に斜めの影を落としていた。


 喫茶店「雨宿」は、今日も静かだ。


 時計の針がきざむのは、決して戻らぬ時間の響き。

 カップの中で揺れる珈琲の面が、過ぎ去った日々のように、ほのかに震えている。


 店主の朝永は、五年前に妻を喪っている。


 四十代半ば、白に近い薄茶の髪を後ろへ撫でつけ、細縁の眼鏡越しに見下ろす眼差しには、常にどこか一点を見据えるような静けさがあった。

 長身で細身、所作のひとつひとつは角がなく、あたたかい湯のように柔らかく丸い。

 細く整った指先は、コーヒーポットを持つとまるで儀式のように滑らかで、砂糖壺のスプーンを置く音すら丁寧だった。

 顔立ちは中性的な線を残しているが、その寡黙さが年齢以上の落ち着きを感じさせる。


 春を前にした冷たい風の吹くある日、一人の男が店を訪れた。


 深町と名乗ったその男は、黒のロングコートに身を包み、歩くたびにその裾が僅かに揺れた。

 歳は朝永と同じく四十代、だが彼の美しさは翳りを帯びていた。

 雪の夜に置き去りにされた街灯のように、どこか冷たく、それでいて見過ごせない存在感がある。

 艶のある黒髪を耳の後ろで束ね、面差しは彫りが深く、切れ長の瞳は何も言わずに人の内面を見透かす。

 姿勢は真っ直ぐで、言葉を選ぶ口元には慎みがあり、喪失の気配を身に纏いながらも、その立ち姿はどこか貴族的で、過去さえ美しく装ってしまう人だった。


 「……懐かしい香りですね。かつて、妻が好んで通っていた店と、よく似ている」


 それだけを言って、深町は窓際の席に腰を下ろした。

 言葉の端々に漂う哀しみが、決して声高にはならず、むしろ寡黙な優しさを帯びていた。


 朝永は、一瞬ためらった末に口を開く。


 「その席は、私の妻がいつも座っていた場所です。午後になると、光がいちばん美しく落ちるのですよ」


 深町は、わずかに微笑んだ。

 それは、何かを理解した者だけが見せる微笑――失われたものに、心を寄せる者の静けさだった。


 それからというもの、深町は週に二度、ふらりと店を訪れるようになった。


 その手にはいつも文庫本があったが、読むでもなく、ただ頁をめくるだけのような日もあった。

 言葉少なに珈琲を啜り、店の静寂の中に身を沈めるその姿は、どこか寺の石庭のように整っていて、風の音さえ遠慮がちに聞こえる気がした。


 「この店の音が好きです。カップを置く音、ミルの音、それから……お客がいない時の沈黙も」


 ある日の午後、深町がそう言った。

 朝永は頷くだけで返す。言葉は少なくても、わかる気がした。


 沈黙とは、決して空白ではない。

 そこには、誰かを思う気持ちが宿ることもある。


 ある日、深町が言った。


 「……誰かの悲しみに、自分の悲しみがそっと寄り添うだけで、こんなにも心があたたかくなるとは、知らなかった」


 その言葉が、胸の奥に灯りをともした。

 亡き人を想うことは、いつもひとりきりの祈りだった。

 だが、いま――祈りの隣に、誰かがそっと立っている。


 そして、桜のつぼみがようやく色づき始めたころ。

 深町は、白い包みを手に、いつものように現れた。

 指先に小さな傷があり、少し不器用に結ばれたリボンがそこに巻き付けられていた。


 「今日は……これを。妻が好きだった花です。あなたの奥様も、きっとお嫌いではないでしょう」


 包みの中には、白いカスミソウと、淡く煙るようなリンドウ。

 どちらも、語るには足りず、それでも人の心を打つ花だった。


 朝永は、無言でその花を受け取った。

 彼の指先がふれたとき、深町はその肌の温度に目を伏せた。

 ふたりの指はわずかにふれ合い、その沈黙は、どんな言葉よりも雄弁だった。


 「……貴方といると、胸の奥の風景が、少しずつ春になっていく気がします」


 言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまいそうで、それでも伝えたかった。

 深町は、それを否定せず、ただ静かに、朝永の手に自分の手を重ねた。


 珈琲の湯気が、ふたりの間で揺れた。


 まだ何者にも名前をつけぬまま、そっと、心の奥に降り積もっていく。

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