Dead Planet

ジャン・ルゼ

第1話

 それはまだ二人が十二歳の頃。

 緑豊かな高原にある庭園。

 こっそり屋敷を抜け出した少年と少女の密会の場所は決まってここだった。

「戦争に行くんだ」

 帝国は共和国と戦争をしていた。

 少年は戦争での活躍を夢見ていた。

「戦争に行って敵をたくさん倒すんだ」

 少年は誇らしげにそう宣言した。

 そんな少年の手を少女はそっと握る。

「倒すじゃない。殺すっていうんだよ」

「違うよ。帝国の敵は人間じゃない。育った場所も違う。何より共和国の連中は帝国の全量な人々をたくさん殺した。そんな連中を同じ人間だって言うのか?」

「同じ人間だよ」

「だったら何でみんな敵を殺すの?」

「わからない。けどきっとお話しても解決しなかったから仕方なく殺し合っているんだと思う。でもあなたなら殺さなくても済む方法を知ってる。だからあなたは……」

 少女は言った。少年は少女と約束した。


 ――人は殺しちゃだめ。


 しかしそんな二人は突如として引き裂かれた。

 天上の神から与えられし預言によって。


 死にゆく星の子らよ、運命の灯はもうじき失せる。


 世界を救いたくば探せ。


 この世界の真実、そしてこの世界の英雄を。


 この世界に欠けているものを探さなければないない。


 星に残された命運はもはや十年、たった十年しか残されていない――


 ――さて、この世界の違和感に君は気づくことができるだろうか。


 第一話 マリネリス峡谷


  深さ七キロメートルに達するマリネリス峡谷。

 赤道に位置しているこの峡谷は、太陽が直上にある時間帯でなければ、その大部分が光のない漆黒に包まれる。現在もまた辺りのほとんどは夜かと思うほど暗く、実際に時刻もちょうど太陽が地平線に沈んでいるであろう頃だった。

 この峡谷を縄張りとする盗賊に形見のネックレスを奪われたアルは、レナートと共に峡谷の脇に空いた洞窟で、盗賊の拠点を暴かんと七日ほど滞在していた。峡谷の乾燥した風は、全てをさらっていくかの如き突風であり、洞窟から一歩そとに出ればもしかしたら吹き飛ばされてしまうかもしれない。

 それは夕方だった。太陽の差した時刻からの逆算に過ぎないから正確ではない。もしかしたら夜かもしれない。洞窟の中で風が止むのを待っていると、レナートが口を開いた。

「もうここに来て七日目だ。食料も水も残り五日分しかない。帰りのことも考えるとここで街に戻るべきだと俺は思う。それに最近は荒野が農地をさらに侵食したせいで食料不足だ。盗賊も増えているし、君から形見のネックレスを奪った盗賊が見つかるとは限らないよ」

 本来見えるはずの一面が赤い荒野に包まれた峡谷。しかし今は外の景色など峡谷を横切る大嵐で消し飛んでいた。レナートの背は平均より少し小さく、顔は十六歳とは思えないほど幼い。ぼろきれを継ぎ合わせたかのような服と外套を何重にも纏っており、腰のベルトにはナイフが数本と簡易的な医療キット、背中にはクロスボウと万全の装備である。しかし身体が小さいためか、全体的にだぼっとした印象を受ける。これでも傭兵である。

 アルの聞いたところによれば旅人や商人の護衛なんかを生業にして生計を立てているらしい。とはいえ一番大事なのは報酬の大きさだそうで、今回のように金になればなんでもするのだとか。実際に今回もアルの提示した報酬につられてのことだった。

「レナート、金は払っただろう。それに帰りもコイツを飛ばせば二日で戻れる」

 呆れたようにアルが言った。重装備のレナートとは対照的にこちらは軽装備だった。寒さ対策に厚手の外套を二重に羽織っているだけである。武装といえば腰のベルトにつけているナイフが一本。ただしレナートよりは背が高かった。

「ホバーボートか。けどソイツが途中で壊れたりでもしたら俺達はそのまま干乾びちまうよ。それに俺の商売のモットーは必ず護衛対象を守るだからな。まあ今回は護衛じゃなくて調査だけど……それでもお前に死なれちゃ困るぜ」

「僕が死ぬか……まあ、そのときはそのときだよ」

「そんなあ……」

 二人乗りのホバーバイクを不安そうにレナートは見つめた。全長が三メートルほどのホバーバイクは、前方後方の両方に大きなジェットエンジンが二つ搭載されており、それぞれを二本の鉄パイプがつなぎ合わせていた。その鉄パイプに燃料タンクやら運転席なんかが取ってつけられたように装着されていて、なにかの拍子で空中分解してしまいそうで頼りない。

 レナートは嫌な想像を脳裏に膨らませて肩をすくめる。

「でもこの峡谷に盗賊なんて本当にいるのかよ。だって見ろよ、こんなところ人なんてめったに通らないぜ。きっとその盗賊ってのも今頃どっか遠くにいっちまったに違いないよ」

「いいや、盗賊は必ずこの近くにいる」

「なんでそう確信できるのさ」

「僕が襲われた盗賊は、物の価値が分かる連中のようだった。このマリネリス峡谷は確かに人の通りは少ないが、世界に版図を持つ一部の大商会の商隊〈キャラバン〉はこの峡谷をかなりの頻度で行き来している。きっと奴らはそいつらから金品を盗んで生活してるに違いない。だから物の価値も分かるんだ」

「本当かよ。大商会の商隊がこの峡谷を通る理由がないだろ」

「連中はいろんな国を相手に怪しい商売してるから、大っぴらに見せられないものもあるんだろ。そんな何とも知れない物を運ぶんならこの峡谷は便利だ。なにせ人もいないし、一日の大半が夜みたいなところだからね。万が一見つかってもバレやしない」

「けどよ、そんなやべえ商隊を襲う盗賊なら余計に危ない連中ってことじゃないのか。奴らのアジトが分かったところで、お前の盗まれた物ってのは取り戻せるのかよ」

 そんな問いに、アルは微笑を浮かべる。

「さあね。そのときはそのときだよ」

「チェッ! またそれか……」

 レナートが舌打ちをしたちょうどその時、なんの前触れもなく突風が止んだ。

 まるで嵐の前の静けさのように。

 二人が洞窟から顔を出すと、頭上には絶壁に挟まれながら眩いばかりの星々が浮かんでいた。

「僕、ここに来て思ったんだ。昼より夜の方が好きだって」

 レナートが夜空を見上げながら言う。

「君にとって唯一の収穫かもね。確かに僕も、青い空しか見えない昼よりも夜の星空を眺めるほうが好きだ。けどこっちが当たり前になったら、青い空の方が美しくみえるかもしれない」

「……まあなんだかんだ言って、俺は青い空も満天の星空も好きなんだけどな」

「気が合うね。僕が言いたかったのもそういうことだ」

「なんだそりゃ、俺にはわかんねえや」

「けどいいの? 天上教会の掟の一つに夜空を眺めてはならないってあるけど」

「……こんな綺麗な星空を見ないで死ぬのは、あまりに勿体無い。違うか?」

「確かに……そうかもね」

 静寂と夜闇が二人をやさしく包む。

 レナートはこの巨大な峡谷、美しい夜空、そんな大自然に圧倒されるかの如く、胸の前で両手を握る。――生きてて良かった。レナートは心の底からそう思った。

「天上にいる神様に感謝しなとだな」

「どうかな、君が生きているこれたのは神様のおかげじゃない、君の努力の賜物だ」

「それでも俺は神様に祈りを捧げるんだよ。この世界があって、そこに俺が生れ落ちることができてありがとうって」

「なんだそれ。僕にはわからないや」

 しばらくして、峡谷でなにか物音が反響した。

「あれ見て!」

 レナートが指差す先にアルは目を見やるが何も見えない。

「何があるの?」

「見えないのか、あそこに明かりがあるだろ。それにこの一定間隔でリズムを刻むような音……間違いない――」

 アルはレナートの視力に感心しながら、岩陰に隠れ双眼鏡を取り出す。それをレナート指差す暗闇の中に向け覗き込ると、うっすらと光が見えた。やがて反響していた音も鮮明になる。ガガガ――と超高温のガスが、音速で噴射される音。輪郭が次第に夜闇のなかでも燃え滾るガスによってあらわになった。はじめに見えたのは横長の薄い円盤。はっきり見えるようになって、それがスプーン状の浮揚艇〈ホバーシップ〉だと気が付いた。ちょうどスプーンの柄に当たる部分に二基、地面と水平になるように巨大なエンジンが付いているのを、双眼鏡越しに観測した。

「よく見えるね」

「生まれつき目が良いんだ。それに目が良くなきゃ俺のような仕事はできない」

「確かにね……」アルは苦笑する。「ところであの浮揚艇の大きさはわかる?」

 アルは一旦双眼鏡から視線を外し、隣で目を凝らすレナートに尋ねる。レナートは双眼鏡は持っていない。だから少しでも夜闇に眼を鳴らしておきたいのだろう。レナートはアルには視線を向けず、夜闇の中へ一層目を凝らした。

「まだ遠いから正確には分からない。けど多分大型船だね。それにあの流線形の船体――商船って感じでもなさそうだぜ。それに結構スピードを出してるな。どうにもイヤな予感がする」

 そう言っているにも関わらず、レナートは言いながらニヤリと犬歯を覗かせた。血が騒ぐのだろうか。アルは探るようにレナートの表情の変化を観察する。

「アル、あれはお前が襲われた盗賊の船じゃないのか?」

「どうだろう、僕には双眼鏡越しでもはっきりみえないから分からない」

 そう答えた刹那、レナートが悲鳴に似た声を上げた。

「おい! あの船追われてみたいだぞ――!」

「なんだって?」聞き返しながらアルも双眼鏡を覗いてみるが、やはり追われているらしい船の輪郭がぼんやりと浮かんでいるだけだった。

「大型船の後ろに三機、小型船か、もしくはバイクのような小さい燃焼ガスの尾が見える。あれは多分……」

 アルもレナートが言わんとしていることを察する。

「…………盗賊か」

「大方間違いないよ。小型船をバイクが守りながら大型船に接触して乗り込み肉弾戦に持ち込む。奴らの常套手段だ。しかも奴らて馴れてやがるぜ」

 アルの双眼鏡にもようやく三つの燃焼ガスの線が映った。そのうちひときわ大きな燃焼ガスを放っている船は大型船の後ろを追うように位置していた。他の二つは大型船の両脇に張り付くように位置している。三方向から囲まれた大型船は前に逃げるしかないが、相手が小型船じゃ分が悪い。だからこそあの布陣なのだろう。確かにレナートの言った通りやり馴れている。こんな状況になって大型船が取れる選択は、どちらが先に燃料が尽きるかの持久戦に持ち込む他ない。しかしその手は盗賊相手には通用しない。

 ようやく艦影が双眼鏡越しに見え始めた頃――大型船の両脇からピカリと光が放たれた。直後、大型船の速度がガクリと遅くなった。目を凝らしてみれば、燃焼ガスの光を反射して鎖のようなものが確認できた。おそらくは両脇のホバーバイクからロケットランチャーか何かで鎖か何かを打ち込んだに違いない。そんなアルの推測を証明するかのように両脇の燃焼ガスの尾が半回転したかと思うと、大型船の進行方向とは反対側に舵を取った。やがて二人の目の前で大型船は完全に停止した。その頃には船体がはっきりと見えるようになっていた。レナートの推測通り、大型船の両脇にいるのは二機のホバーバイク、後ろに位置していたのは一艇の小型船だった。

 後ろをつけていた小型船は、大型船が停止するのを待っていましたと言わんばかりにドリフトしながら急停止すると、船体側面を大型船に向けた。そうしてその中から双眼鏡越しでも分かるほど物騒な恰好の連中が降りてきた。連中は馴れた様子で部隊を作ると、そのままの勢いで大型船に接触した。その次の瞬間、爆発音が響き渡る。直後、連中の約半数が大型船の中へと消えていった。その様子を見てアルは確信する。

「間違いない、連中が俺を襲った盗賊だ」

「マジかよ。あんな連中何をどうしたって敵わないぜ」

「そうかもな……」

 大型船から離れたところにいるにもかかわらず、アルの耳に断末魔が飛び込んできた。

 ――クソ野郎っ!

 心の中で舌打ちをする。そうしなければやっていられない。アルは自身の心に怒りを感じた。思わず身体が岩陰から出そうになる。しかしレナートに片腕で静止された。

「やめとけ。今行っても役に立たない。無駄死にするだけだ」

「目の前でこんなことが起きてるのに、何もできないなんてね」

 奥歯を強く噛んで、アルは身体を再度岩陰に隠す。

「目撃したというだけでも、あとで街に戻った時に報告できる。今はなによりも生きて戻ることが彼らのためだ」

 レナートもアルと同じ思いを抱いているらしく、やるせない表情を浮かべていた。

 やがてすっかり悲鳴も止んだ頃。アルは一通り事が済んだことを察して、岩陰に隠れながら拳を握った。直後、大型船に乗り込んでいたであろう盗賊が続々と外に姿をあらわす。その中に一名、少女がいたのを二人は見逃さなかった。

「離しなさい」

 静かに言い放つような声だった。二人の耳にもその声は聞こえていた。静かで芯の通った声、にもかかわらず枯れていて、すぐにそれが必死に取り繕っている声だと気づく。少女の声の後、少し遅れて笑い声が複数聞こえてきた。アルは今にも岩陰から飛び出してしまいそうな身体を必死で抑え、双眼鏡をまばたき一つせず覗く。その中の一人に、明らかに他の連中とは背格好の違う男がいた。レナートもそれに気が付いたようだった。

「あれは司教じゃないか、天上教会の――」

 天上教会はこの世界のほぼ全ての人々が信仰している宗教である。

 その司教がなぜ――


 アルは眉を潜める。

 その横でレナートが震えるような声で言った。

「もしかしたら俺達は見ちゃいけないものを見てしまったのかもしれない。もしかしたら俺達はとんでもない謀略に巻き込まれちまったんじゃないのか?」

 ようやく大型船から目を離したレナートを、ひどくおびえた様子だった。

「さっきはさ、街に戻ったらこのことを報告するって言ったけど……」

「レナート……?」

「報告なんて告げ口みたいな真似やめておかないか? いや絶対にやめておいた方がいい」

「何を言ってるんだよ。君はこんなことを黙って見過ごしていいのか?」

「けどわざわざこんな危ないことに自分から頭突っ込まなくていいだろ? なあ、やめておこうぜ……いや、でもお前はそういうことできなさそうだよな」

 レナートの恐怖に染まった顔をまじまじと見て、アルは一筋の冷や汗を額に流した。

「お前が報告して、それでそのまま俺まで巻き込まれるなんてこともあるかもしれないよな。なあ、俺まだ死にたくないんだよ」

 レナートの右手がゆっくりと腰のベルトに伸びる。

「死にたくないんだよおおおおおお――!」

 ホルダーからナイフが抜かれ、アルにその切っ先が向く。ナイフの刃が夜空の星を反射してキラリと光る。こんなところで死ぬのか――アルは思った。呆気に取られていて、抵抗することも、その気力すらも起こらなかった。そんな時だった。

 ――――助けて……。

 かき消えそうなくらい小さく儚い声が聞こえた。

 何故か、あの捕まっている少女の声だとすぐに分かった。

 少女の声が、アルの脳裏に深く焼き付いた声と重なった。

 ……どうせこんなところで死ぬくらいなら。

 寸前のところで刃を躱す――頬に細い切り傷ができた。

「僕は行くよ」

「は――……?」

 レナートをアルの目を見つめたままナイフを前に出した勢いのまま地面に倒れ込む。その表情はさっきまで人を殺そうとしていたとは思えないほど、唖然としていて……まさに開いた口がふさがらないとは彼のことに違いなかった。それはきっとナイフを躱されたことに対してか、あるいはアルは岩陰から飛び出したことに驚きを隠せなかったからに違いない。

「……行くってどこに?」

 アルの背中に向かって問いかける。

 アルは振り返らず答える。

「あの子を助けに」

 ――死ぬかもしれないぞ。

 そんな言葉は、さっきナイフを向けた相手に言えるはずもなかった。

 ゴクリと唾を飲み込んで、彼の影が遠ざかっていくのを、レナートはただ岩陰に隠れながら追うことしかできなかった。


 アルは岩陰をさながら小石が転げ落ちるかの如く疾走していた。

 目の前には、助けを求めていた少女が盗賊の小型船に乗せられる光景。でこぼこの岩肌でどレだけつまずこうとも、決して加速をやめることはない。重心は前へ前へと倒れ、急斜面を滑るように走る。

 そこまでしても……間に合わない。いまだに距離は大きく離れている。もう少し早く飛び出ていれば、そんな後悔が頭の中で反復する。アルは叫ぶ。

「――――待って!」

 そんな声も届かず、とうとう少女を乗せた小型船はけたたましいエンジン音を鳴らすと、船体後部の排気ノズルから燃焼ガスを勢いよく吹かせた。停止していた小型船は加速度的にその速度を上げると、必死でその後ろを追いかけるアルをよそに、距離は開くばかりである。二機のバイクも、そんな小型船の後を追うようにあっという間に立ち去った。

 残された襲撃にあった大型船と、その中に残っているであろう盗賊、そしてただ呆然と立ち尽くすアルのみであった。

 助けられなかった。アルは自責の念を抱く。しかしだからといって戻るという選択肢はなかった。あんなことがあった後だ。レナートが改心して一緒に仲良く街に戻るなんてことは出来すぎている。

 前に進むよりほかに道はない……か。

 アルは決意を固めナイフを抜くと、大型船へ一直線に走り出した。

 しかしその判断も遅かったか――大型船のエンジン音が峡谷に響きわたる。

 また間に合わないのか?

 アルは自問する。

 またみすみす目の前で起こった事を診なかったことにするのか?

 答えは……


「ノーだ!」

 アルはその全力も持って地を蹴り上げる。身体はバランスを崩し大きく前傾になるも、そんなことはお構いなしに、前へ前へと足を動かしさらに加速する。

 やがて暗闇の中でも船体が鮮明に見えるようになった。大型船のエンジンの駆動音はアルが一歩進む事にリズムを速めた。やがてエンジンの駆動音の加速が止まるのと同時、アルはスプーン状の船体のちょうど柄の部分に入口を見つけた。入口には一人、見張りと思しき男が立っている。男は船内の仲間に声を掛けられたのか、後ろを向いた。その隙をついてアルは男目掛けて勢いそのままに飛んだ。


 ドスンという音がして、見張りの男は辺りを見回した。しかし周囲は暗く何も見えない。

 ――今のはなんだったんだ。

 そう溜息を吐いた時だった。足元に少年を見つけた――いや、それだけじゃない。刹那、見張りの男を身体の血の気が引いていくのを感じた。少年の手。手に持ったナイフ。そのナイフの先端……――それは男の心臓を捉えていた。

「あ――――!」

 声を出す暇すらなかった。あまりにも一瞬であり、洗練されていた。少年は起き上がりながら心臓を一突きする。ナイフの刃先は胸元のプレートを破り、心臓に達する。 少年はそのまま左手で男の首を締めた。その間に心臓へ刺さっていたナイフを素早く抜く。途端、男の喉から嗚咽が漏れる。首を絞めていた手に温かな液体が落ちた。心臓から抜かれたナイフは男の眼前でぐるりと半円を描いた。そのまま斜めに落ちてきたかと思えば、頭を覆うようにかぶっているヘルメットと、上半身の鎧の隙間へ器用に刃を突き立てた。そのたった一瞬の間に、締め付けらていた首の気道が解放さた。男は無意識のうちに口を大きく開け、傷ついた心臓へと酸素を送り始める。しかしそれも一瞬のこと。男の首喉に焼けるような痛みを感じた。ヘルメットと鎧の間に入ったナイフが喉を掻っ切ったのである。直後、男は空気を吸うことは愚か、声すら出せぬようになっていた。わずか一秒足らずの出来事。男は膝から地面に崩れ落ちた。それでもしばらくの間、声にならない悲鳴を叫び続け、二本の腕をじたばたと動かし、頭上に広がる星々へと助けを求めんばかりに眼を剝いていた。

 けれどそれも長くは続かない。

 アルはとある少女の言葉を思い出した。

 ――人は殺しちゃだめ。

 そんなありきたりで陳腐な言葉だった。少女の長い髪が脳裏を過る。

「ここに来るまでに守れなかったことがいくつもあった」

 そうしてその度に少女の言葉を思い出すのだ。アル自身でも何故かはわからない。

 男は絶え絶えの細い息で、地面に横になった。その様子でアルは終わりを察する。やがて男は息を引き取った。男の最後は呆気なく終わった。

 ――これで良かったのだろうか。

 そんな疑問を振り払いアルはナイフを握りなおすと、船に乗り込んだ。途中で見張りの男の仲間が予備に来るかとも考えたが、杞憂だったらしい。先ほどの男のわずかな悲鳴は、エンジン音にかき消されて聞こえていないはずだ。となれば後はなるべく敵が油断しているうちに殺していけばいい。

 しかしアルが船内に入ろうとした時。船体が大きく揺れ、船底両脇についている浮揚エンジンが火を噴いた。咄嗟に船内に避難したアルだったが、開かれたままのハッチを通じて肌が焼けんばかりの熱気が船内に入りこんでくる。

 ハッチを閉めないで発進とは――いったい連中はどんなマヌケだ。

 アルは頭を抱えながら、ハッチの開閉レバーを探す。その間にも船体の揺れは激しさを増し、壁伝いに歩く他なかった。幸いにもハッチからまっすぐ伸びる通路は突起物が多く、また狭かったため不意に体勢を崩すような心配もなかった。しばらく歩いていくと、ハッチの開閉レバーらしきものを見つけた。船体が次第に宙に浮いていくのを感じながら、アルはレバーに向けて壁伝いに進む。そうして開閉レバーに手を掛け、降ろそうとした時。突然、ハッチの方から声がした。振り返ると、誰の手がハッチの底面にしがみついていた。

 まだ外に敵が残っていた可能性もある。アルは恐る恐るから開閉レバーから手を放し、ハッチの方へと引き返す。ハッチに一歩近づくたびに、浮揚エンジンの熱波が肌を焼いた。

「――誰だ!」

 ハッチまでたどり着くと、アルは強烈な熱波を受けながらハッチ後方を片目で見下ろす。そこにはレナートの姿があった。

「なんで来たんだ」

 驚きながらもアルは尋ねる。

「アル、ちょうど良かった助けてくれ」

 しかしアルは手は貸さず、さらにはっきりと聞こえるよう大声で畳みかける。

「さっき僕を殺してまで逃げようとした奴が、なんで今更こんなことをしてるんだ」

 そんな最もな意見に、レナートはアルから視線を外した。

「恥ずかしい話なんだけどさ――…………!」

 レナートはなにやらもじもじと話していたが――まっっったく聞こえない!

「なんだって――――?」

「だからあ、恥ずかしい話なんだけどさあ……………――!」

 やはり聞こえない。そうとう恥ずかしい話らしい。

「恥ずかしい話なのは分かった、その続きが聞こえないんだよ!」

「う、うっせえな! 仕方ないだろ恥ずかしいんだからっ!」

 潤んだ瞳をアルに向けながら、頬を赤らめるレナート。

「君は乙女かっ!」

「頼むよ、お前しかいないんだ!」

 アルはいつかとある少女から聞いた話を思い出した。

 クズ男の見分け方だった。少女曰く「お前しかいない」なんて軽率な事を言う男は大体がギャンブル狂いのクズ男と相場が決まっているのだとか。

「悪い、今はもうアンタのことなんか興味ない。だからもう顔も見たくない」

「えええええええ――!?」

 熱気をかき消すほどのレナートの悲鳴が響き渡る。

「なんてな冗談だよ」言いながらアルはレナートの手を取る。

「どうやら君はもう僕を殺そうという気はないようだし」

「本当にごめん。あの時はパニックでどうかしてた。いや、これもいい訳か。俺から言えるのは一言だけだ。本当にすまねえ!」

 アルに手を引いてもらい、ハッチに上がったレナートは全力で謝罪する。

 そんなレナートにアルも思わず苦笑する。

「けど追いかけてきて良かったぜ。あのままじゃ情けなくて、今頃自分で自分の喉を掻っ切ってたかもしれねえしな。それに大切なことを忘れるところだったぜ」

「大切なこと?」

「俺の商売のモットーさ。必ず護衛対象を守る。それを殺そうだなんて、俺は傭兵失格だ」

「でも君は殺さなかった」

「殺せなかったの間違いだろ」

 レナートは皮肉めいた笑みを浮かべる。

「どっちでも同じことさ。僕は生きてるし、君はこうしてここにいる。今はそれで十分だよ。それ以外のことについて後日…………じっっっくりと話そうじゃないか」

 アルは自身の親指と人差し指で円を作った。

「嘘だ……そんなの嘘だ!」

 ガクンとレナートを膝をついたのだった。


「さて、ここからどうしようか」

 すっかり揺れも収まった船内、エンジン音は相変わらずのけたたましさだった。アルは細い通路の先を眺めながら、レナートに尋ねる。

「こんなとこに来ちまったんだ。進む以外道はねえってもんだぜ!」

「それもそうだな」

「アル、俺が先頭に出る」レナートはアルの前に出ると

「なあに心配はいらねえよこれでも傭兵だからな」と一息で言い切る。

「なあに心配なんかしてないよ。どーおどーぞ前へお進みください」

「なにィッ――!?」

「ほら後ろは僕に任せて、先頭は頼むよっ」

 アルはポンとレナートの背中を押す。

「くそォ、なんか調子狂うな」

 言いながらもレナートはナイフをホルダーから抜くと、構えた。

「行くぞ」

 まだ見えない敵に宣戦布告すると、レナートは通路を進んだ。

 通路を抜けると、両脇にまた通路が広がっていた。幅は人が二人通れるほど。

「どっちに行く?」

「そうだね……」

 二人が答えを出しあぐねていると、通路の奥から足音が聞こえてきた。

「アル――どうする?」

「そうだね。せっかくだし色々教えてもらおうか」

「教えてもらう……?」


 それからしばらくして。廊下の中央には手足を拘束された盗賊の一味がいた。

 床に座りこむような姿勢の男は軽装ではあるものの、ボディーアーマーを身に着けており、頭をすっぽり隠してしまうようなプラスチック製の黒いヘルメットを被っていた。

「顔を見せてもらう」

 アルは言いながらそのヘルメットを外そうとするが、硬くて外せない。

 その様子を見ていた男はフンと鼻を鳴らした。

「ソイツは簡単には外れねーよ。アーティファクト〈アーティファクト〉だからな」

「どうりで変わったヘルメットだと思った」

 顔が完全に隠れているにも関わらず、男はこうして二人が見ている。そんなことはこの世界の技術力では不可能だ。そんなことが可能な代物だとすれば、それはアーティファクトに違いない。

「古代文明だか、未来人だか知らねーがコイツは便利だぜ。軽いんだけど、弾丸だって通しやしない。さて、どうするよ?」

 挑発ともとれる男の言葉に、アルは不満そうな顔を浮かべた。

「ヘルメットがどんなに頑丈でも、弱点のない装備はない。試しにプレートとプレートの間にナイフを突き刺してみようか。例えば、その首元とか」

「……ガキのくせに変な知恵の働く奴め」

「も、もちろん俺も知ってたけどな」

 遅ればせながらレナートが言った。

「けどよ、両手を拘束されてちゃヘルメットをどうやって脱げばいいんだ?」

「た、確かに。どうするんだよアル」

「…………方法だけ聞けばいいだろ」

 ため息交じりにアルは答えた。

「そ、そうだよな。まあ、俺も知っていたけど念のために聞いただけだからな、勘違いするなよっ!」

 虚勢を張るレナートを無視して、アルは男からヘルメットの取り方を聞き出すと、男のヘルメットを取った。険しい顔の初老の男だった。顔には大きな切り傷があった。

 殺気をまとった男の鋭い視線にらまれた二人。アルは背中に隠れたレナートを横目で見やりながら腰のナイフに手を掛けた。

「クソガキども、俺にいったい何の用だ」

「お前の仲間が連れ去った少女を助けに来た」

 アルは答える。

「聖女のことか」

「――聖女だって?」

「まさか知らないで助けるとかほざいているわけじゃないよな」

 その問に、アルは無言を貫く。

「う、うるせーぞ盗賊野郎がっ!」

 レナートがアルの背中から野次を飛ばす。

 しかし二人とも黙ったままだった。

 アルは無表情で床に視線を落とし、一方、盗賊の男は表情を探るようにアルから目を離さなかった。それがしばらく続いた後、ようやくアルが口を開いた。

「助けてと声がしたときに、助けなくちゃと思ったんだ」

「なるほどな」

 男はニヤリと口角を上げた。

「そいつは一目ぼれだな!」

 言われたアルの口は開いたまま閉じない。全ての表情筋が脱力しているような顔だった。にもかかわらず、どうか高揚しているかの如く顔全体を赤く染めていた。

「ひ、ひとめぼれ……?」

 レナートがあっけにとられたように呟く。

 アルの顔がさらに赤くなる。

 刹那、レナートの頭上に拳が落ちる。

「いってえなおい!」

「バカヤロウ――ダマッテロ!」

「おいおい、まさか本当に一目ぼれでここまで来たわけじゃ……」

 刹那、もう一発レナートの頭上に拳が落ちたのは言うまでもない。

 そんなアルの様子を見て、男は耐えきれずに笑いだした。

「ハハハハッ――――ハハ…………ははは…………若いっていいなあ。マジで」

「違う!」アルは声を荒げる。

 しかしなにか反論できるわけではなかった。

「いいじゃないか。一目見て惚れちまった女の為にこの船の乗り込んでくるとはいい度胸だ。嫌いじゃねえ。どーせ生い先短い人生だ、全力で応援してやる」

 殺気を放っていた鋭い目をどこへやら、心底楽しそうな表情で男は笑っていた。

「だから違うって……!」

「俺の名前はバートン。お前は?」

「え――あ、えっと、アルっ……だ」

「あ、俺はレナートね」

「って違うだろ。名前なんてどうでもいい!」

 我に返ったアルは、慌てて脱力しきった表情筋に力を入れる。

「それで、知りたいのはこの船の艦橋までの道のりかな?」

「そうだ。教えろ」

「そこの通路を右に行けばロビーに出る。そこからまっすぐ船首に向かえばたどり着けると思うが……どうせなら俺を連れてけ。万が一ってことがあるだろ、俺が案内してやる」

「信用できないな。仲間を裏切ってでも自分の命が惜しいか?」

 びくっとアルの後ろで唾を飲み込むような音がした。

「別に構わない、俺はアイツらの仲間じゃねえからな。俺は盗賊に雇われた金のない傭兵さ。絆とか信用って奴とは程遠い関係だな。その点で言えば、お前達は少し良い関係を築けそうだな」

 アルの背中からちらりと頭を出しているレナートに向かってバートンは言った。

「傭兵にとって気の置ける奴は何にも代えがたい宝物だ。大事にするんだな。ソイツにちゃんと信用してもらえるような傭兵になれ」

 その傷だらけの顔のせいだろうか。その言葉は妙に説得力を持っていて、気づけばレナートはこくりと頷いていた。


 結局、二人はバートンに案内してもらい艦橋に向かうことにした。

 その途中でバートンは自身の部屋によらせて、アルに頭を隠すヘルメットとボディーアーマーを渡して着せた。バートン曰く、予備で持っているのだとか。装備一式を身に着けたアルはすっかり盗賊の一味と見分けが付かなくなっていた。

「何にも見えないんだけど」

 ヘルメットは頭を完全に覆うようにできている為、アルの視界は暗闇に包まれていた。

「ヘルメットの後ろ、首筋辺りのボタンを押してみろ」

「罠じゃないよね?」

「ちがうから、やってみろ」

 仕方なく言われた通りアルがヘルメットの後ろ側を感触を頼りに探してみると、確かに首筋にボタンのような手触りがのものがあった。

「これかな」

 アルはそれを押してみると、暗闇だった視界に景色が映し出された。

 すると暗闇の中から突然に〈統合視覚増強保護帽ヲ起動中・・・〉という表示が浮き上がってきた。やがてしばらくするとソレはどこへやら消えてしまう。その代わりとでも言うべきか、暗闇だった視界に色彩が戻った。

「……見えた」

 アルはその場から動かず部屋を見渡す。ヘルメットから見える景色は裸眼で見る景色とほとんど変わらない。試しに一歩だけ進んでみても特に違和感のようなものもない。

「さすがアーティファクトだ。何の問題もない」

「すごいだろ」

「うん、確かにこれはすごいね」

「で、俺の装備は?」

 レナートだけがヘルメットもボディーアーマーもつけていない状況。冷や汗を額にながらしながら尋ねる。

「ないな。予備は一着だけだ」

「えーバートンのおっさん、頼むよお!」

「俺のを着るっていう手もあるが……」

 バートンはレナートの頭のてっぺんを悲しそうな目で見降ろしてから、ため息をつく。

「サイズが合わないな」

「アル。ソイツは俺が着る。よこせ!」

「だからサイズが合わないよ。その……ちっちゃすぎて」

「ち、チビっていたな!」

「チビとは言ってない」

「ただ困ったな」

 アルはバートンを信用しているわけではなかった。当然だろう、いくら協力的な態度とはいえついさっきまで敵だった奴だ。実際、まだ手足の拘束を解いていない。そんな状況でバートンと二人きりになるのはリスクが高すぎるのだ。それにバートンの手足を拘束しているところを他の連中に見られたら、間違いなく怪しまれる。

 バートンをここに置いてアルとレナートの二人で艦橋まで向かうという選択肢もあるが……船内は複雑で、果たして艦橋までたどり着けるだろうか。

「分かるだろう、俺の拘束を解くかしかない」

 アルの葛藤を見抜いてか、バートンが言った。

「僕はお前を信用できない」

「違うだろ。俺を信用できないんじゃない――お前は人を信用していない。そこのレナートとだって、とこか距離を置いている」

「え、俺あんまり信用されてないの?」

 レナートはアルを目を潤ませながら見る。

「実際さっき俺がお前達を睨みつけた時、レナートが後ろに隠れだろ。そん時お前はナイフに手をかけた。俺じゃなくレナートの方を見ながらな」

「――え?」

「レナートと俺は傭兵と雇用主の関係だ。ある程度警戒するのは当然だろう」

「……そんな。俺はお前のこと信じてたんだぞ」

「口封じで殺そうとした奴が言うな」

「お前、そんなことしたのか?」

「…………へい」

「マジかあ、そりゃお前、バカ野郎だな」

 ――困った。

 アルはこの状況に頭を悩ませていた。

 同時にバートンは全てを見透かすような目に怯えていた。事実アルもレナートのことを完全に信用しているわけではなかった。さっきの一目ぼれの件もそうだった――とはいえアル自身は未だに否定的な感情ではあるが。さらに悪いことに、アルがレナートを警戒していえることがバレた以上、これでレナートが完全に味方とも言い難くなってきた。しかしアルの決断は早かった。

 というよりも、なんとしてでもあの少女を助けたかった。

「分かった」

 言いながらアルはバートンの拘束を解いた。

「よし、これで俺達は今日から友だ!」

「……ああ、よろしく頼むバートン。それにレナートも、どこかでお前を疑っていた。悪かったよ。ごめん」

「ん、ああ、気にすんなよ。……もとはといえば俺が悪いんだし」

「改めてよろしく」

「おうよ、よろしくな」

 拘束を解いた時点ではバートンも何かするような素振りはみせていない。本当にアルの「一目ぼれ」よやらを応援しているようにも見える。

 ――これで信用を勝ち取れただろうか。

 そんな疑念を抱きながらアルは二人の顔を見る。

「さあ、この船ごと乗っ取って、聖女様を助けに行こうぜ」

「お、おれだって少しは役に立つからよ。たまには頼ってくれよ」

 そんな二人を見ていると、演技していたはずなのに、なんだか身体が温かくなるようにアルは感じられた。

「ただどうやってこの船を乗っ取るんだ? 盗賊どもはまだこの船の中にたくさんいるぜ。何か良い案でもあるのか? そう簡単に勝てる相手じゃないぜ」

 バートンが言った。もともと盗賊の仲間だったからこそ分かるのだろう。

「そうだね。レナートの持ってきたものが無ければ厳しかったかもしれない」

 アルはレナートの鞄をあさり、閃光弾を取り出す。

「こいつで一芝居しよう」


 ガクンと船内が揺れた。

 直後のこと、艦橋の方から声が上がる。

「船が爆発する、今すぐ船から降りろ!」

 その声の通り、艦橋の方から慌てた様子で二人が走ってきた。

「さっきの衝撃で船のエンジンがいかれた。幸い今は速度は遅いし、ハッチから逃げられるはずだ」

 二人のうち片方がそう言うと、船内の盗賊たちは一斉にハッチに向かった。おかげでハッチに続く狭い通路は大混雑となる。どこからか「押すな」のような声や「さっさと行け」といった声が聞こえてくる。船外へのハッチから我先にと船内にいた盗賊たちが次々に地面へと落下していく。そんな通路の最後尾では、盗賊姿の二人が前に並ぶ者達を前へ前へと押していた。

 そんな時だった。突然バチンという何かがはじけるような音が鳴った。瞬く間もなく通路は白い霧に包まれ、盗賊たちは騒然とした空気に呑まれた。

 そんな中、最後尾の二人は数歩後ろに下がっていた。

 そうしてそこから助走をつけてタックルをかます。

 船外へと続くハッチからは押し出された盗賊たちが雪崩のように地面にぼたぼたと落ちて言った。そんな中で最後尾の二人は――アルとバートンは二度目のタックルをかます。

「ふぎゃああああああああああ――!」

 断末魔と同時に、盗賊第二波がハッチの外へと投げ出された。通路にいるのは恐らくあと五人か四人。アル達は三度目のタックルをかます。次第に晴れてきた閃光弾の煙の中から突如として現れた二人は、一歳の躊躇もなく残りの盗賊を突き落とした。

「せーのっ!」

 そんな掛け声と共に再三の断末魔が峡谷に響き渡る。

 アル達がハッチから顔を出して船外を覗くと、徐行している船に追いつこうと必死で走っている盗賊たちの姿が見えた。中にはハッチに飛びつこうと跳躍しているものもいるが、地面とハッチとの距離はおおよそ四メートル。届くはずがない。

「高いな。死んでないといいけど」

 アルは遠く離れた地面と盗賊たちを見下ろす。

「これくらいの高さじゃ年端の少女だって死にはしないだろうよ。連中なら心配は無用だぜ」

「ならいいけど」

「それよりも早くハッチ閉めて艦橋に向かおう。レナートの奴が待ってるぜ」


 ハッチを閉めて、二人は艦橋に向かった。

 艦橋は船体上部についている半球であり、船体中央に位置するロビーにあるによって出入りが可能となっている。見た目はロビーの床に同化するような円形で、昇降機の部分だけ黄色と黒のストライプで囲われている。二人その昇降機の上に乗り、操作パネルにある艦橋行きのボタンを押した。すると昇降機はビ――という音を立てて、ゆっくりと上昇を開始した。昇降機がある程度上がると、自動的にロビーの天井に空いた円形の穴は閉じ、筒状の壁にある白い電灯だけが多よりとなる。やがて昇降機の上から光が差し込み、二人の前に艦橋の全貌が露わになった。内部は球状になっており、中心には球体から独立した台座が浮いており艦橋の役割を果たしていた。

 その艦橋にレナートとさらに拘束された三人の盗賊がいた。

 昇降はが艦橋の台座に到着する。バートンはヘルメットを脱ぐと、拘束されている三人をいなすように睨んだ。三人は艦橋で操縦しており、変装したアルたちによって先ほどおこった事件よりも少し前に制圧されていたのだ。

 ヘルメットを取ってみてわかったが、男が二人と少女が一人である。

「レナート、何もなかったか?」

「問題は何も起こらなかったけど」

 そう言うレナートの額には大量の汗が見えた。拘束された三人の方をレナートは横目で確認した。三人は殺気のこもった視線をレナートに送っていた。

「もう一人にはしないでほしい……なんて……あはは、ベツニコワイナンテオモッテナイケドネ」

「おうよ、良く見張っててくれたな。えらいぞレナート!」

「へっ、へへへ……まあ、俺は腕の立つ傭兵だからな。これくらい朝飯前ってもんよ」

 ――なんて扱いやすい奴なんだ。

 口には出さなかったものの、アルはそう思わずにはいられなかった。

「にしてよなんでこの三人だけ捕まえたんだ?」

「僕も詳しくはしらないんだけど、バートンが艦橋にいる奴なら色々知ってるって言ってたから」

「ああ。この三人はこの船を乗っ取った部隊の頭と副隊長だからな。聖女様とやらをさらった連中がどこに行ったのかも知ってるはずだ。違うか?」

 バートンは拘束されている三人の方に視線を無開ける。

 三人ともバートンの鋭い目に睨まれ、ピクリと背筋を凍らせた。

「知らないな。何も知らないし、お前達に話すことも何もない。」

 三人の中で一番偉そうな男がそう答えた。

「お前が盗賊たちの部隊の頭か」

 男は片目がつぶれたスキンヘッドの顔だった。ボディーアーマーの胸あたりに、男の位を表すかのごとく赤い宝石の装飾品をつけていた。

「ああ、ワタシが頭だ。いや、頭だった。敵に捕まるなどという愚を犯したワタシを、決して団長は許しはしないだろう。何よりもワタシがワタシ自身を許さない。故に!――貴様に教えてやることなど何一つない。殺すならば殺せ――好きにすれば良い!」

「どうやら口は堅そうだね」

 アルは操縦席に腰を下ろすと、顎に手をあてた。その視線の向かう先は男の両脇、部隊の副隊長の二人だった。

「お前たいは、命は惜しくないのか?」

 一人はいかにも傲慢そうな顔をした三十歳ぐらいの男で、もう一方はまだ年若そうな少年だった。

「俺も頭と同意見だ。貴様らに話すことなど何もない」

 傲慢そうな顔の男は、口調まで高圧的だった。バートンの方をギロリと大きな目で睨みつけると、チッと舌打ちをする。

「特に裏切ったお前には何をされたって吐くもんか」

「命は惜しくないのかよ?」レナートが嘲るように言った。

「忠義を捨てるくらいなら命など惜しくないわ」

 こっちもやはり話してくれそうにはなかった。

 ――まあ、二人がこんな感じでは到底、もう一方の少女の方も話してくれないだろう。

 短髪の少女だった。黒髪で鋭い目が特徴的である。

「……聖女様は東にあるノクティス迷路〈ラビリンス〉へ向かいました」

「おいっ!」「お前っ!」

 二人が目が飛び出んばかりに「嘘だろ」と言いたげな顔をする。

「すいませんカデルさん、クレイグさん!」

「お前はカデルっていうのか」

 頭と思しき男にバートンが尋ねる。

「ち、ちがうっ!」

 そうらしい。

「それならクレイグはお前か」

 すっかり青ざめて表情から傲慢さが消えた男に問う。

「…………ちがう……からな」

「アタシはピュセルって言います。頭のカデルさんの下で分隊の隊長をしてました。夢は金持ちになってモテることです。正直盗賊とかめんどくさいだけだし、命より大事なものはありません。忠義なんてゴミですクソくらえです」

 他の二人と違ってクズ野郎だなと内心アルは軽蔑するも、聞き出せるなら今の内にしゃべらせておきたかった。

「素晴らしいよ」

「……本気で言ってますか? 僕は金持ちになってモテて、それで遊んでくらしたいって言ってるんですよ。そのためにこの横のおっさんたちの仲間になったんですよ」

「素晴らしいじゃないか。どんな動機であろうと、君は分隊長を任されているんだよ。どれだけ目標に向かって努力したということは、何よりも誇り高いことだと僕は思う。それにね、さっき遊んで暮らしたいと言っていたけど、みんな本当はそう思ってるんだよ。けれどそれを本気でかなえようとは思わない。僕は君のその純粋な動機に感動したよ」

 ――まあ、そんなことは一切合切思っていないのだが。

「……そうですかね」

「そうに決まってる。間違いない、君は特別だ。そんな君だからこそ、やるべきことがあるはずだ。違うかな?」

 アルの異様な饒舌ぶりに、レナートが一歩後ずさる。

「……やるべきこと?」

「そうだよ。君はこんな頑固なおっさんたちの下にいるような人物じゃない。ピュセル、僕と一緒に連中の宝という宝を盗み、莫大な財産を築こうじゃないか。そうしてさらにその金を増やす。僕と君とで手を取り合えばそれで出来る!」

「……アタシにできるかな」

「ああ、出来るとも。必ず。僕はアルだ。ピュセル、僕と手を組もう!」

 言ってアルはピュセルの拘束を解く。

「アル……アタシ……感動したよ。俺はこんなおっさんの下につくような人間じゃない」

「ピュ――――――セェエエエエルゥウウウウウ!」

 そんなカデルとクレイグの叫びも空しく、ピュセルは差し出されたアルの手を取った。


 それからピュセルはレナートが持っていた地図を見ながら盗賊団の拠点――つまり聖女が連れ去れた場所を指差した。そこにはほとんど何も書かれておらず唯一――ノクティス迷路――という地名だけが書かれていた。

 ノクティス迷路はちょうどマリネリア峡谷とその西にあるタルシス三山との間に位置する峡谷である。幅の狭い大峡谷が東西千キロにわたり幾つも交差しているさまから迷路〈ラビリンス〉と名付けられたのだとか。その地形の複雑さから、旅人はおろか軍や商人すら訪れることのない場所となっている。盗賊団の拠点を隠すなら持ってこいの場所だ。

「確かにここにいるなら納得がいく。ただ……」

 アルには一つの懸念点があった。

「ノクティス迷路には完成された地図は存在しない。一度入れば二度と出ることはできないと言われている」

 ノクティス迷路は地上から深さ六キロに達する。さらに峡谷が複雑に入り組んでおり、迷路から地上に出るための出口すら限られている。ゆえに未だ完全な地図は作られておらず、そんな場所で迷子になれば二度と脱出できないといっても過言ではない。そんな場所に拠点を果たして作れるだろうか。

「ピュセル、お前達はもしかしてノクティス迷路の地図を持っているんじゃないのか?」

 でなければノクティス迷路に拠点を作り、迷わず戻ってくるなんて芸当はできるはずがない。

「持っていないと言えば嘘になる」

「めんどくさい言い方だな」

 含みのある言いようにレナートが眉をひそめる。

「つまりどういうことだよ」

「頭の、カデルのヘルメットがあるだろう?」

 バートン、レナート、アルの三人は同時に三つのヘルメットを見る。

「どれだ?」

「全くわかんないぜ」

「僕もちょっと……」

 同じようなヘルメットが三つ並んでいた。もちろん、三人ともどれが誰のヘルメットかなんて覚えていない。四人が静まり返ってから、レナートが突然ひらめいたかのように手をピンと上げた。

「レナートくん、どうぞ」

「はい! オレなら見分けられると思います!」

「一応やってみてよ」

 アルから許可をもらったレナートは、ピュセルの近くにいくと、鼻を突きだしてクンクンと身体中宇を嗅ぎだした。

「な、なにするんだよっ!」

 そんなピュセルの怒りとも羞恥ともいえる叫びを無視して、レナートは一通り嗅ぎ終わったのか、今度はカデルとクレイブのところに行くと、同じように二人の身体中を嗅ぎだした。

「よし、匂いは覚えた」

 そうしてレナートは次に三つのヘルメットの匂いを嗅ぐ。

 しばらくして、レナートが一つのヘルメットの前でピタリと止まった。

「これだ! これがバカデルのヘルメットだよ」

「カデルだっ!」

 額に血管を浮かべながらカデルが怒る。

 レナートは「臭かったぞ」と返して、そのヘルメットをアル達のところに持ってきた。

「それでピュセル、これがどうしたんだよ」

「このヘルメットがアーティファクトだということは知っていますか?」

「うん、バートンから聞いたよ」アルが答える。

「このヘルメットに地図が入っているらしいんですよ。すごいですよね」

 話を静かに聞いていたレナートは、ヘルメットの中を覗きこむ。しばらくヘルメットを逆さにしたり、揺らしたりとあれこれいじっていたが、ついに見つからなかったようで「どこにもないぜ」とピュセルに文句をつけた。

「多分、物じゃないんですよ」

 ピュセルが困り果てたようにこめかみをコンコンと指先で叩いた。

 ――物じゃない。

 アルはその言葉に引っかかりを覚えた。

「レナート、ヘルメットをちょっと貸してくれないかな」

「なんかわかったのかよ? 俺にはどう考えてもそんなヘルメットの中に地図が隠されているようには思えないんだけどな……」

 ヘルメットを受け取ったアルは試しに被ってみた。

 頭をすっぽりと覆ってしまうヘルメットの構造上、当然視界は暗闇に包まれる。

「ピュセル、これ何かボタンみたいなものがあるんじゃない?」

「うん、あるよ。ヘルメット被っただけじゃ暗くて何もみえないからね。ほら、首筋に多分ボタンがあると思うんですけど」

 アルがヘルメットの後ろ側を感触を頼りに探してみると、言われた通り首筋にボタンのような手触りのものがあった。

「これかな」

 アルはそれを押してみると、暗闇だった視界に景色が映し出された。

 すると暗闇の中から突然に表示が浮き上がった。

 しかもバートンから借りた予備のヘルメットに浮かび上がったものとはどうも違っていた。

〈測位系統ヲ起動中・・・〉

 表示はすぐに消えて、次の表示へと交互に入れ替わる。

〈接続先・・・神級要塞―キ〉

〈接続中〉

〈接続完了〉

〈受信強度・・・負一三五〉

〈電力残量・・・八・二割〉

〈発電系統・・・正常〉

 一通りそれらが流れ〈統合視覚増強保護帽ヲ起動中・・・〉という表示を最後に、バートンから借りたヘルメットと同じように景色がヘルメット内部に映し出された。最初の表示以外は特に変わった様子はない。

 ――地図を隠すならこのシステムのどこかだと思ったんだけど。

 どうやらアルの予想は外れたようだった。

「ダメだった」

「アテがはずれたか。まあ世の中そううまく行くもんじゃないしな」

 バートンが場を和ませるかのように言う。

 そんな中でレナートはしびれを切らしたように叫んだ。

「おい、地図! 開きやがれっ!」

 そんな刹那のことだった。

〈音声確認〉

〈地形図ヲ表示〉

 そんな表示がされた後、ヘルメット内部に映し出されている景色の上にかぶさるように幾つもの線が引かれたものが浮き上がった。

「――――地図だ」アルが言う。

「そうだよ、オレたちは地図を探してるんだ。いくらバカなオレだってそんなにすぐには忘れないぜ」

 少し自慢気に話すレナートを遮るようにアルは告げる。

「違う、そうじゃなくて……視界の上に地図が出てきたんだ」

「そんなことあるかよ。オレをバカにしてるのか?」

「レナート、何か書く物って持てない?」

「それならあるけど……本当に書けるのかよ」

 レナートは、クシャクシャの紙と羽ペン、そしてインクを外套の内ポケットから取り出すとアルに渡した。受け取ったアルは、ヘルメットに映し出された地図らしきものを下からなぞるように紙に移した。

「こりゃあ確かに地図だな。しかもアーティファクトによく書かれている奴とそっくりだ」

 物珍しそうにバートンは地図を上からまじまじと見ると、乱雑に書かれたような線の一つを指差す。

「これが等高線だな。高さの同じ場所どうしを線で結んだやつだ」

「てことは本当に地図なの?」

「まず間違いないだろうな。適当に書いただけじゃこんな風にはならない」

 実際にバートンの説明を聞いて後だと、アルにも紙の上に地形が浮き上がっているように見えた。

「てことは、ここが峡谷ってわけだな」

 レナートは地図のちょうど線で囲まれている箇所を指差して言った。

「違う、そこが地上だ」すかさずバートンが否定する。

「なんでだ? この線が等高線ってやつなら、何重にも線で囲われているここは深いってことだろ?」

「ノクティス迷路は峡谷が複雑に入り組んでいる。けど、お前の考えている地図だと入り組んだ峡谷っていうよりは、入り組んだ山脈になっちまうだろ」

「あ、確かに……って、まあ、本当は、知ってたけどな。分からない人がいるかもしれないから聞いただけだからな」

「そうだな」同情するようにバートンは深く頷いた。

「とはいえ誤解しても仕方ないと思うよ。実際分かりにくいのは事実だしね」

「そうかな……そうかも……うん。そうだね違いないぜ」

「地図のおかげでノクティス迷路で迷う心配はなくなったけど……ただ奴らの拠点がどこにあるのかが問題だね」

 ヘルメットに映し出されている地図にも、さすがに盗賊団の拠点の位置は映し出されていなかった。東西千キロにも及ぶノクティス迷路の中から盗賊団の拠点を探すのは不可能に近い。

「やっぱりカデルとやらに聞くほかないんじゃねーのか?」

 レナートは黙ったまま話を聞いていたカデルを尻目に溜息を吐いた。

「……その件、アタシに任せてくれませんか? アタシなら説得できるかもしれません。もちろんアタシに不信感があるのは分かります。けど任せてほしいんです!」

 ピュセルが言った。

「ええ、そう言って逃げたりするんじゃないか?」

 レナートが疑うように目を細める。

 しかしそれを無視してピュセルはアルに詰め寄る。

「アルさん、どう思いますか」

「そうだね……」

 ピュセルに不信感があるのはアルも同じだった。とはいえ、ここで任せてやらなければアルはピュセルの狂信的なまでの信頼を裏切ることとなる。ピュセルをここで捨てるのは惜しい。まだ使いどころかあるかもしれない。アルは結論を出す。

「いいよ、任せてみよう。ただそれだとレナート達が不満だろう。逃げられないように見張りを立てるのは許してほしい」

「分かりました。アタシみたいな奴を少しでも信じてくれたんですから、必ず聞き出して見せます」

 レナートは相変わらず不満そうな顔だが、見張りを立てるという部分で一旦は納得したようだった。

「聞いてただろお前ら。ピュセル様のありがたいお話をよく聞くんだな」

 ピュセルが説得することに対しての鬱憤を晴らしたかったのか、レナートは吐き捨てるようにカデルとクレイグに言った。


 説得して見せると啖呵を切ったピュセルは、カデルとクレイグを連れて船の中の一室に向かっていた。

「アルさん、二人には部屋の前で見張ってもらうことはできますか」

「なんだよそりゃあ、つまりアレか。オレ達が見られてるとできない話があるってことか?」

 ここぞとばかりにレナートはピュセルに詰め寄る。

「なあアル、やっぱりコイツに任せるべきじゃないぜ」

「アルさん、お願いします。出来る限り彼らの警戒心を取り除きたいんです」

「確かに警戒心があると交渉をうまく行きにくい。それに扉の前で見張っていればまず逃げられることもないし……ここはピュセル言う通りにしてくれないかな?」

「だとよレナート」

「ッチ、はいはい分かりましたよ」

 アルはレナートとバートンにそう告げると、自身は艦橋に戻った。ノクティス迷路に向かうにあたって、この船の操縦方法を把握しておきたかったのだ。

 しかし球状の広い艦橋に一人になった時、妙な寂しさを覚えた。

「そういえば最近はずっとレナートといたな」

 人生のおよそ半分を孤独に生きてきたアルにとって、寂しいという感覚は久しぶりだった。そのせいか、アルが昔仲の良かった少女と離れ離れになった時のことを思い出した。

 ――あの時は、寂しかった。悲しかった。

 なによりも――悔しかった。

 当時の感情がまるでそのまま蘇ったかのように心臓が普段より一層早く脈拍する。

 ――彼女との約束を僕はこれまでほとんど守れなかった。

 感傷的な情動にアルは包まれた。

 いつか少女とまた再開しようと誓ったはずだ。

 あの声「助けて」とこぼしたあの少女の声が、そんな彼女の声と重なった。

 アルは感傷的な情動を頭から払うと、艦橋の操縦席に腰を降ろす。あの少女がアルと仲の良かった少女とは限らない。それでもアルが助けに行きたい。改めてそう思った。


   第二話 英雄と聖女


 ヘラス帝国は南半球にあるヘラス海の周辺地域を領土とする巨大な帝国である。そうしてエゼルレッドはこの国の皇帝であった。代々皇帝を世襲しているヘミテオス家出身のエゼルレッドは父の後を継いでヘラス帝国の皇帝となった。それと同時に父の代から行っていた大戦も引き継いだ。オリンポス共和国とヘラス帝国の世界を二分する大戦である。

「共和国軍がこの帝都ヘラスに迫る、か」

 エゼルレッドは緊迫した軍議の真っ只中にあった。

 一年前、帝国は共和国に対して圧倒的な優勢を誇っていた。しかし今は違う。何故か――それは劣勢に追い込んでいたはずの共和国がここ一年で形成を逆転させたからである。一年前、共和国の首都であるオリンポス山を帝国軍は包囲していた。それは、ついに共和国を降服寸前に追い込んだ時に起きた。

 オリンポス山を包囲していた帝国軍が突如として壊滅したのである。

 その数およそ――二十万。

 人々はオリンポスの奇跡と呼んだ。

 以後、戦力のほとんどを失った帝国軍は徐々に劣勢へと追い込まれ、ついには帝都ヘラスより三千キロという地点にまで共和国軍の進軍を許した。そうして現在、共和国軍と帝国軍の最前線はちょうどエリシウム平原という――平原とは名ばかりの広大な砂漠地帯だった。互いの軍は荒れ果てた赤い砂漠の荒野を挟み、睨み合いを続けている。もしここで負ければもう帝国首都の屁ラスは共和国軍の目と鼻の先となる。なんとしても負けるわけにはいかない。

 しかしオリンポスを囲んでいた二十万もの軍勢が何故壊滅に至ったのか――それはオリンポスの英雄の登場が理由だった。

「オリンポスの英雄――シグルドに二十万もの軍勢を壊滅させられて以降、我々は敗戦に敗戦を続けここまで来た。しかしここで負けるわけにはいかない。だが現状、我々の戦力はシグルド率いる共和国軍に劣っている。帝国兵士も、幾度の敗戦によって士気は最低と言って差し支えない。まともにやり合えば、我々に勝ち目はない」

 エゼルレッドが言い切ると、軍議に参列する荒々しい将軍たちは、らしくもなく皆一様にだんまりを決め込んだ。そんな中で一人の女が声を上げた。

「何か案があるのか――レオノール司教」

 司教……このような場にいるべきでない人物の名が挙がった事で将軍たちは騒然とする。しかも女である。だがそのようなことを気にする素振りすら見せず、レオノール司教は沈着な面持ちで一歩前に出た。

「ご紹介にお預かり致しました、天上教会司教エレオノールでございます」

 一瞬で騒然とした場が治まった。皆が聞き入った。それほどに透明で、美しい声であった。レオノールは軍議の場にあって淑女の品格を想起させかのような膝折礼おじぎをすると「恐れながら」と皇帝に進言する。

「エゼルレッド陛下のおっしゃる通り、現状の戦力では英雄と謳われるシグルドが率いる共和国軍と正面切ってやり合えば我々に勝ち目はないでしょう」

 レオノールが告げると、「そんな分かり切ったことを今更言って何になる!」といった野次が飛んだ。将軍たちもそれくらい分かっているのだ。だがそれを司教であり女のレオノールの口から言われるのは、彼らのプライドからして腹の虫が治まらないのである。

 しかしレオノールは口元を緩く結ぶと言った。

「ですが、この天上教会司教という立場を最大限に利用すれば勝機を見出せるかと存じます」

「詳しく話せ」

 エゼルレッドは座っていた中央の席から立ち上がると、レオノールに命じた。

「まず、共和国軍の後ろにはエリシウム共和国の首都にあたるエリシウム山があります。そしてエリシウム共和国は現状、共和国陣営ではありますが、その主な収入は活火山から採掘される豊富な資源の輸出です。ですがそれはオリンポス山を首都とするオリンポス共和国も同じ。となればエリシウム共和国はどちらの陣営につくのが最善でしょうか?」

「エリシウム共和国とオリンポス共和国は貿易の上で利害が一致しないということか。確かにそれならば付け入る隙はあるかもしれない。しかし戦場は今この瞬間始まるかもしれない。仮にエリシウム共和国との交渉がうまくいったとしても、早くて一か月後だろう。それではあまりにも遅すぎる」

 そう、お互いの軍は今や緊張状態にあり、いつ戦闘が始まってもおかしくはない。むしろ何故共和国が攻めて来ないのか不思議なほどである。時間は帝国軍の味方ではなかった。

「ですがエリシウム共和国には熱心な天上教会の信者が多いと聞きます。もしオリンポス共和国を天上教会から破門――つまり天上教会われわれの敵とすれば、エリシウム共和国の民衆は果たして、貿易摩擦のあるオリンポス共和国といつまで一緒に居続けることができるでしょう。むしろ自分達が天上教会から破門されるのではないかと怯え、夜も寝れない日々が訪れるのではないでしょうか」内容にしては軽いジョークに一部の将校から笑いが漏れる。

「破門の理由はどうする」

 エゼルレッドはまっすぐレオノールを見ていた。

「先日、オリンポスとの和平交渉に向かわせた聖女。彼女を使えばよいのです」

 聖女を使う……そんな言葉をまるで何事もないかのように言いのけたレオノール。驚きと冷ややかな視線が彼女に向けられる。

「聖女が誘拐されたことにすれば、天上教会がオリンポス共和国を破門する理由付けもできます。そうすれば共和国軍は天上教会の敵となり、さらには帝国軍とエリシウム共和国との挟み打ちにあうことになるでしょう」

「その作戦を成功させるにはどのくらい必要だ?」

「破門には早くて一週間ほどの時間がかかります。ですが司教である私がエリシウム共和国に交渉に向かえば、オリンポス共和国の破門を議会で決定するよりも前に彼らを離反させることができるでしょう。幸い私は天上教会でも高い地位にあります。私が言えば彼らはオリンポス共和国の破門を信じるでしょう」

 それは今のエゼルレッドにとって魅力的な提案だった。世界のおよそ全ての人々が信仰する天上教会を味方につけられれば、それは事実上この戦争に勝ったといっても等しい。しかしそれは同時に帝国内での天上教会の発言力を増すことになる。しかし、ここでエゼルレッドに取れる選択は一つしかなかった。

 それを分かっていてか、レオノールは言う。

「……彼らだって眠れない夜を送りたくはないはずです」

 それから三日後、シグルド率いる共和国軍はエリシウム共和国の離反にあい、帝国軍との挟み撃ちにあい、ついには壊滅。今度は帝国軍が奇跡の勝利を収めたのだった。


 そこは殺風景な部屋だった。部屋の形は長方形で、天井の照明すら面白みを感じない。まるで生活感のない空間。その中に一人の少女が、哀愁を感じさせるかの如くポツンと一人、殺風景な部屋と同化するようにあった 青い軍服とも修道服ともとれる衣服を身にまとった少女は、誰一人いない部屋の隅で膝を抱え座っていた。

「汚れちゃうかな」

 床にまで辿り着いている自身の白く長い髪をまさぐりながら、少女は呟く。少女がすっと手で髪をすくと、その白髪は雪のように柔らかく指の隙間から無機質な床へと降り注ぐ。床は鏡のように美くしく、足元にはさかさまの少女が映っていた。その様はあまりにも幻想的で、少女のその名に相応しい。

「――――聖女様。入ります」

 エンジン音が壁伝いに聞応えるだけの部屋に軽快なノックが響き渡る。機械的な音を立ててスライドしたドアの向こうから現れたのは、少女と同じく軍服とも修道服ともとれる青い衣服をまとった女だった。背が高く、船内にいるほかの者とは違い顔をヘルメットで隠していない。端正が顔立ちをしていた。仕草の節々からは貴族的な教養といえるものが節々から感じられた。

 少女はゆったりと顔を上げると、女を紫紺の瞳に映した。

「レオノール大司教。わざわざわたくしを助けに来てくださったのでしょうか?」

 状況からすればそれが妥当。だがその問に、レオノール司教は首を横に振る。

「いいえ。あなたには任務を伝えにきました」

 任務……その言葉を聞いて少女はその美しい顔に警戒の色を浮かべた。今、聖女が捕まっている状況で天上教会の司教が現れた。しかも助けに来たわけではない。少女は理解する。

「私は嵌められたというワケですか」

「いいえ。これもお役目のうちの一つであります」

「そのお役目のために、私は今こうして不自由と理不尽を強いられているのですか? 自ら望んだわけでもないのに」

 少女は、生まれたその時から聖女であった。少女は一度でも聖女になりたいなどと望んだことはなかった。若干十五歳の少女に課された役目は、周囲の大人たちの道具となることであった。

「この世の理不尽と思えるものは、そのほとんどが見せかけの理不尽に過ぎないのです」そうレオノール司教は言った。「例えばお腹を空かせた子供。親もおらず、家すらない、幼い子供。子供を待つのは残酷な運命だけ。これは理不尽ですか?」

 そんな問いに、少女はしばらく逡巡してから首肯した。

「そんな運命があるのだとすれば、それは理不尽な運命なのではないでしょうか?」

「本当にそうでしょうか?」レオノール司教は、少女の両方の手首を自らの手で縛る。まるで手錠のように。「あなたは聖女という手錠で縛られている。貴族という足枷で縛られている。その全身に鎖を纏っている。あなたがどこへ行こうとも、その手錠と、足枷と、鎖が、邪魔をする。しかしあなたには哀れな子供のような飢えも、親のいない恐怖も、凍える夜すらもない。しかし哀れな子供にはあなたのような鎖はない、どこへ行こうとも自由だ。どちらも理不尽なように見えるけれど、違うように見える」

 レオノール司教は、少女の目線に腰を落とすと、告げた。

「ですから理不尽なんてものは、見せかけに過ぎないのです」

「……私は、決して私自身が望まなくとも、聖女としての役目を果たさなくてはいけない。そういうことですか?」

「ええ、その通りでございます。全ては天上の神のご意志ですから」

「けれど私にはその役目が重すぎるようです」

 少女の瞳は曇天のようだった。

「私はヘラス帝国とオリンポス共和国の和平交渉のためにオリンポス山へと参りました。しかし何の成果も得られず、しまいにはこの様です。きっと私は戦争を止めるどころか、戦争の火種になるのでしょう。私は……聖女には遠すぎる。私には何の力もない。まるで何もしらない家畜のようですね」

 少女は乾いた笑いを零した。しかしレオノール司教は言う。

「聖女エリノア様、あなたには果たさねばならぬ役目があるはず」

 エリノアは答えの代わりに無言を返す。そうして一度上げかけた視線をまた床に戻した。そんな様子にも腹を立てる素振り一つみせず、レオノール司教は言った。

「死にゆく星の子らよ、運命の灯はもうじき失せる。 世界を救いたくば探せ――」

 レオノール司教は続ける。

「――この世界の真実、そしてこの世界の英雄を」

 それは天上の神から授かりし預言だった。

 エリノアを聖女たらしめる呪縛でもあった。

「――この世界に欠けているものを探さなければないない。星に残された命運はもはや五年しか残されていない――」エリノアは淡々と、預言の続きを答えた。「申し訳ありませんが、私には分かりません。あと一年でこの星が無くなるだなんて……本当にそんなことがありえるのか」

「万が一のためにも、あなたには役目をはたして貰わなくては困ります」

 レオノール司教はエリノアの前で屈んだ。

 しかしエリノアは目を合わせようとはしなかった。

「きっと…………」

 エリノアのか細い声が、空気をわずかに揺らす。

「…………私にはできません」

「仕方ありませんね。特別にもう一度だけ、あなたにチャンスを与えます」


   第三話 夜の迷宮ノクティス・ラビリンス


 あの襲撃事件の翌日。時間帯はちょうど昼頃。

 太陽は船の直上にあって、その赫赫たる光で地上を焼き尽くさんとしていた。外に出ていたのなら、水をしばらく飲まなかっただけで脱水症状になることだろう。熱気で揺らぐ赤い荒野を浮揚する船はマリネリス峡谷を一路西へ舵を取っていた。

「今夜中にはノクティス迷路につきそうだ」

 操縦していたのはアルだった。彼以外に、船の操縦知識があるものが誰一人としていなかったためである。それにアル自身、他人に操縦を任せるのは不安だったからよかった。

 地図によれば、マリネリウス峡谷はノクティス迷路に近づくにつれて次第に狭くなっているようだった。その情報から、現在の峡谷のおおよその幅を目測し、地図と当てはめ現在地を出した。すると、あと半日あればノクティス迷路に入るだろうという予想が立ったのである。

「ノクティス迷路に入ってから連中の拠点はさらにもう一日ってところかな」

「ピュセルが聞き出したっていう拠点の位置がそこにあればの話だけどな」

 不貞腐れた様子でレナートは言う。

「アタシが嘘を吐いているっていうんですか?」

「一度裏切った奴っていうのはまた裏切るんだよ」

「それを言ったら俺もだな」

 バートンが間を取り持つように二人に割って入る。

「確かに……そうだけど」レナートは言いよどむ。

「それにお前さんは一度アルのやつを殺そうとしたって言うじゃねえか。それだって裏切りっていうんじゃねーのかよ」

「それは……」

 反論しようとして、しかし言葉が見つからずレナートは黙りこむ。

「というわけだ。俺とピュセルだって一度裏切ってるし、お前だって裏切ってる。人間ってのは信頼とか信用って奴だけじゃ計れない――一度裏切った奴でも信じてみようと思える、ソイツがヒトのすごいところだと俺は思うな。違うか、アル」

「……そうかもね」

 アルはヘルメットの中から返事をした。

「そうだ」ポンとレナートとピュセルの肩を叩いて、バートンが言う。

「ノクティス迷路に入ったら、万が一ってことがある。今の内にこの船での戦闘訓練でもしてみないか? ――少し見て回った限り、この船には面白そうな代物が随分と積んであるようだし」

 そんな提案にいち早く食いついてきたのはレナートだった。

「やる! オレ一度で良いからこういう船で戦って見たかったんだ!」

「おっしじゃあちょっくらこの二人借りてくが良いか?」

 バートンはアルに許可を取った。

「僕に許可を取る必要はないよ。それに確かに今の内に戦闘に備えておくべきだと僕も思っていたところだし、ちょうどいいと思うよ」

「そうか! そうと決まればいざ戦闘訓練だ。お前ら全力で行くぞ!」

 意気揚々と宣言したバートンに連れられレナートとピュセルは昇降機で艦橋から降りていった。

 ――彼女を裏切ってしまった僕をまた受け入れてくれるだろうか。

 どこにいるかも、生死すらも分からない少女の声や髪や顔の輪郭を何とか思い出してみて、そんな虚像に問いかけてみるが、返事なんてない。

 昇降機が見えなくなった後でアルは短剣を抜いた。

 少女と過ごしたあの時から唯一手放さずにいられた物がこの短剣と盗賊に奪われたネックレスの二つだった。けれどネックレスは今アルの手元にはない。あるのは短剣だけ。それでも短剣がある限り、アルは少女と過ごした日々を嘘偽りのない日々だったと確信することができた。この短剣が少女のとの日々が確かに昔あったことの証拠になっていた。きっとこの短剣すらもなくしてしまったのなら、アルは少女との日々を疑うだろう。それどころか生きる理由さえ見失ってしまうかもしれない。

「――この記憶を失くしてたまるものか」

 アルは短剣の白い刃を眺めながら決意する。


「もうすぐノクティス迷路の入口だよ」

 アルが操縦席から告げる。

 艦橋の前方に移る景色。今まで狭まるばかりだった峡谷が突然に広くなっていた。

 このひらけた場所がちょうどノクティス迷路の入口となっている。アル達はついにノクティス迷路にたどり着いたのだ。

「ここからは何があるかわからない。この船の兵装を確認しておこう」

 ちょうどバートン達も艦橋に戻ってきたタイミングでアルは言った。

「それなんだけど、この船すごいぜ!」

 興奮した様子のレナート。

「いろいろ見てきたんだけど船の両翼に一門づつ電離気体プラズマ砲があったんだよ」

 電離気体砲――圧縮されたプラズマを射出する兵器である。圧縮プラズマは超高温であり、射出時は一億二千度を超える。無論、現代の技術で作ることは不可能であり、アーティファクトである。

「磁界弾はあったの?」

 プラズマには空気に触れるとそのエネルギーを急速に拡散させてしまいプラズマ状態が霧散してしまうという性質がある。ただしそれは磁界によってプラズマを閉じ込めることができるという性質で解決が可能である。その役割を果たすのが磁界弾なのである。もちろんこれもアーティファクトであり入手するのは非常に困難である。さらに磁界弾がなくては電離気体砲は使いものにならないのだ。

「……磁界弾ってなんだ?」

 どうやらレナートはそこまでは知らなかったらしい。

 とはいえ電離気体砲などという珍兵器を知っていただけでも評価すべきだろう。

 ――レナートにしてはがんばった……と。

「それが磁界弾もあったんだ。たんまりな」

 レナートの代わりにバートンが答えた。

「磁界弾がどれか分かったの?」

 関心と驚きが半分づつでアルは尋ねる。

「まあな。俺はこれでも傭兵として暮らすようになってから随分と経つ。おかげでこういう軍事的なアーティファクトにも大分詳しくなった。電離気体砲コイツだって昔使ったことがある」

「それなら使い方なんかの初歩的な部分は大丈夫そうだね」

「ああ、オレに任せとけ」

「アルさん! いざって時はアタシも頑張ります」

 少し影の薄くなっていたピュセルはここぞとばかりに言う。

「ああ、頼むよ」

 内心でどう思っているかはさておき、アルはレナートの肩に手を置いて答えた。

「それじゃあ今日はあそこの谷間に船を泊めよう」

 艦橋から辺りをぐるりと見渡したアルは、北方に船を泊めるにはちょうど良さそうな谷間を見つけた。夜の峡谷は昼間との気温差で頻繁に嵐が吹く。風を防げそうな谷間に船を泊めるのは万が一のことを考えての判断だった。


 船を泊めて、嵐がまだ来ないうちに降りてきたアルの頭上にはすでに一番星が上がっていた。

 レナートは空を見上げるアルの隣に立って、自身も同じように空を見上げると話しかけた。

「この峡谷の昼間はちょっと太陽がまぶしすぎるから、夜が待ち遠しいぜ」

「それに関しては僕も同意見かな」

 どんな風に二人が話していると、

「うおおおおおおおお――!」

「ぐああああああああ――!」

 というけたたましい叫び声が聞こえてきた。火起こしをしているピュセルとバートンの声だった。穴をあけた薪に棒を入れて交代しながら回すという、なんとも原始的な方法を試みているようだった。

「声の割にはまったく火がつきそうにないな」

 レナートがフンとあざ笑うかのように鼻を鳴らす。

「僕も船内を探せば簡単な調理場くらいはあるかもって言ったんだけど、せっかくだからってバートンが」

「このままじゃ火が点くまえに嵐がきちまうって」

 必死に棒を回す二人を遠目から眺め、レナートは露骨に肩を落とす。

「その時はその時だよ」

「それ久しぶりに聞いたような気がする」

「昨日も言ったよ」

「昨日はいろいろあったからな……」

 そうして耽るように夜空を見上げるレナート。しかしすぐに何か思いついたようで「奴ら火起こしさえできればいいんだろ?」とアルに聞いてきた。にもかかわらずレナートは返事すら聞かずにハッチから伸びるスロープへと一直線に駆け抜けていった。そうして船内に入ったかと思えば、何かを持って出てきた。

「コイツだ?」

 そう言いながらレナートが見せてきた物は先の尖った石英と、手のひらほどの鉄板だった。

「火打ち石か!」

 レナートと共にマリネリス峡谷に来てから一度だけ何度か火起こしをしたことがあった。その時に使ったのがこの鉄板と石英だった。

「どけどけいっ!」

 レナートは火起こしをしている二人の間に割って入ると、薪に刺さっていた棒を投げ捨てた。

「…………あとちょっとで火が点いたかもしれないのに」

 そんな悲壮感溢れる言葉がピュセルの口から漏れる。

「ひどいじゃないかっ。ひどいひどいっ! いくらなんでもひどすぎる」

 ピュセルはらしくもなく駄々をこねた。

「まあまあ見とけって」

 そんな二人に自身満々にレナートは言う。

 レナートは薪の上に燃えやすそうな乾燥した葉を撒くと、石英と鉄板を勢いよく打ち付けた。

「なんにも起きないじゃないですか」ピュセルが言う。

「だから見とけって」

 ニヤリと得意気な笑みを浮かべ、さらに十回ほど石英と鉄板を打ち付けた。すると打ち付けられた瞬間に、流れ星のような火花が撒かれた葉に散らばった。乾燥した葉の上に落ちた微細な花は次第に大きさをまし、やがて大きな炎となった。

「よし来た」

 レナートはまだ炎が薪全体を包む前に組んであった薪の中に炎のついた薪をそっと置いた。すると空気が乾燥しているからか、すぐに組んだ薪に炎が燃え移り、あっという間に焚火が完成した。

「…………おお」

 空まで届かんと燃え上がる炎に、ピュセルとバートンは感嘆の声を漏らす。

「せっかくだからちょっとしたスープでも作ろうか」

 鍋を片手にアルが言った。中には船内に貯蔵されていた水と、保存の効く乾燥野菜はいくつか入っていた。

「嵐が来る前に終わるらせるか」

 半袖姿のバートンは袖をまくると、その太い腕をバシンと叩く。

「せっかくだしカデルとクレイブも呼んでこうか。ずっと拘束しっぱなしだと可哀そうだし、こんな場所じゃ逃げたって死ぬだけだ」アルが言う。

「けど連中、『敵に情けをかけられるくらいなら死んだほうがマシだ』とかいいながらどっか行っちまいそうだぜ。ソイツと違ってな」

 レナートの言うソイツとはピュセルを指していた。

「僕はあの二人のように命を簡単に投げ出すような人間ではないですからね」

 ピュセルは張り合う。

 とはいえレナートが言ったような事態になる可能性は高い。ただ、別にそれで困るようなこともないだろうとアルは考えていた。

「その時はその時考えればいいさ」

 だからアルはその言葉を吐いた。

「またそれかよ」

「それにこれだけ静かな夜だと寂しくなる。だからかな」

 曖昧な返事に、相変わらずレナートは不満気な笑みを浮かべてた。


 そうして賑やかな夜の翌日。

 アル達を乗せた船はノクティス迷路の奥地へと進んでいた。

「カデルとクレイグの奴らまだ寝てやがるぜ」

 いやみったらしい口調がだった。だからといって無理やりに起こさなかったところを見ると、そこまで悪いようには思っていないのかもしれない。もしかしたら昨夜のおかげか――アルは言わずとも思った。

 昨夜せっかくだからとカデルとクレイグの二人も船の外に連れ出した。ちょうどバートンが酒を持っていたのでアルとピュセルを除いた四人で明け方まで飲み明かしていたのである。幸いにも昨夜は嵐は来ず、カデルとクレイブにバートンは今頃はぐっすりと寝むっているだろう。

 ピュセルは艦橋に降りてきたレナートを一目見ると、待ってましたと言わんばかりに口を開いた。

「レナートはすぐ潰れて情けない!」

「……なんだそりゃ」

「今朝バートンが寝言で言ってたんですよ」

「それがどうしたってんだよ」

「なるほどです。道理でレナートさんがこんなに早く起きてこれるわけですね」

「それはだなあ…………たまたまたって奴だよ。たまたまな」

 ピュセルはレナートが酒を飲んですぐに寝てしまったからこの時間に起きれたのだと言いたいわけである。つまり間接的にレナートを酒の弱い奴と言っているわけだが。

「とにかく飲んですらない奴は――――ダマッテロ!」

 未だ昨夜の余韻に浸かるかのように雰囲気。しかしそれは突然に終わりを告げる。

「なんだよ、アレ」

 レナートは前方を見て驚愕する。

 そこにあったの無数のアーティファクトと思しき物体だった。それもアル達の乗っている船と同じような大型の船である。しかしその船はもう二度と動くことはないだろう。無残に穴の開いた船体。砂に埋もれながらも顔を覗かせている無数の残骸は、まさに船の墓場であった。

「ここで大きな戦闘があったんだろう」

 船の残骸にはどれもえぐられたような跡があった。残骸の影から白骨化した人達も見えた。船の墓場は、恐ろしい想像がアルの脳裏に作り上げる。

 いつかの時代、この近辺で戦闘がおこった。ノクティス迷路に迷い込んだ両軍は、出口も分からぬまま戦闘を続け、消耗し、やがて両軍とも全滅した。

 ――そんな嫌な想像を。

「でもなんでこんなところで艦隊決戦なんかしたんだろうな」

 レナートが呟く。

 ノクティス迷路にはどんな国の軍隊だってその危険性を理解しているからこそ近づくことはない。しかもこんなたくさんの船を用いた艦隊決戦など起こるような場所ではない。にもかかわらずこんな場所で戦闘する理由とはなんだったのか。

「少し怖いな」

 そんなレナートの漏らした不安は、その場にいた全員が感じていただろう。


 それは太陽がまだ沈みきる少し前のことだった。

「何か来る!」

 レナートが艦橋で悲鳴を上げた。

「何も見えませんけど、私を騙そうたってそうはいきませんよ」

 映っている景色は、傾いた太陽と反対側に長く伸びる峡谷の影。それ以外は何も見えない。

「ピュセル。レナートはこう見えて目だけは人一倍良いんだ。きっと僕たちには見えない遥か遠くにある何かがレナートには見えているはずだ」

「すごい信頼ですね」

「経験談だよ」

 ――そう、マリネリス峡谷の時もレナートが一番最初に異変に気付き、大型船を発見した。

 レナートにははるか遠くが、バートンには心の中が見える。こんな状況と相まって、二人に自身が見透かされるのはいつかと、アルは額に冷や汗を流した。

 それはきっとアルが二人を裏切る用意が出来ているのを悟られないためで。

 少女をまた裏切ることへの恐怖だった。

「レナート、距離はどれくらいか分かる?」

 アルは操縦席から身を乗り出す。

「四キロ以上はあると思う」

 ソレが敵と決まって訳ではないが可能性は高い。

 アルはそのナニカと大型船の接触時間を瞬時に計算する。

 現在この船の速度は三十ノット。この荒地の上で出せる速度は最も速くてもおよそ五十ノット。つまり互いに時速六十キロと時速百キロ。互いにこの速度を四キロメートル分維持したとして……


「接触までおよそ二分! 全員、戦闘準備!」

 アルは艦内放送を通じて号令する。

「戦闘準備って何をすればいいんですか!」

 ピュセルは狼狽したように叫ぶ。そんな彼女を宥めるように落ち着きはらった声色でレナートが言う。

「バートンが全て知っている。バートンを起こしに行ってくれ。まあお前に出来るかは疑問だけどな」

「できます!」

「なら頼むぜ。あと俺は右だって伝えといてくれ」

「お前はどこに行くんだ?」アルが聞いた。

「前言っただろ、一度でいいからあの電離気体砲デカブツを動かしてみたかったんだ」


 接触予想時間まで残り一分。

「バートンさん起きてください!」

「んあっもう朝か……――――ぐあっ!」

 腹部に強烈な痛みを感じバートンは咳き込みながら起き上がる。寝起き早々目に入ってきたのはピュセルが酒の入っていた瓶でバートンの腹を叩きつけている光景だった。

 怒る暇もなく、ピュセルは早口で説明する。

「敵が来たってレナートが。バートンが全て知ってるって!」

「なるほど……」

 バートンが頷く。同時、艦内放送からアルの動揺した声が響く。

「対象確認、武装している。接触までのこり三十秒」

「レナートは何処に向かった」

「右だって言ってました」

「なら左翼砲塔に迎え。俺は弾薬庫から磁界弾を取ってくる」


 ――接触予想時間まで残り三十秒。

「なんとか間に合ったな」

レナートは右翼砲塔にたどり着いた。同時に艦内放送で「対象確認、武装している。接触までのこり三十秒」というアルの声が聞こえてくる。

「装填には少し時間が足りないが……仕方ないか」

 弾薬庫からレナートは磁界弾を三つ抱えていた。

 コイツでどうにかなるといいけど。

 戦闘訓練という名の船内探索の時、バートンが実演してみせた磁界弾の装填の仕方を思い出しながら装填を始める。ちょうど腕一本分の大きさの磁界弾を砲塔下部の弾倉へと装填する。三つ分の装填が終わると、レナートは操縦席に座りベルトを締める。砲塔は船体右翼の一番端に位置しており、艦橋と同じような球状をしていた。球状の上半分はほとんど強化ガラスで覆われており、視界は晴れていた。レナートは遮光ゴーグルを装着する。

「――もうすぐそこまで来てるじゃねえか」

 砲塔の中からレナートは眼前に迫る船をはっきりと捉えた。

 黒ずみ、傷の多い船体。明らかに増設されている武装。大きさは盗賊でも入手可能な小型船。

 レナートは足元の撃発ペダルへ足を掛ける。左手には旋回ハンドル、右手では俯仰ハンドルを握る。そのまま小型船に照準を合わせようとハンドルを操作する。

 小型船はレナートの乗っている船から向かって右側。互いに速度は落とさず、すれ違うような構えである。すでに射程内だから本当はこちらから先手を打ちたいが、そうはいかない。となればもし相手が打ってきたら、間髪入れず打ち返す必要がある。

 そのためにも相手の出方が分かる前に照準を合わしておきたかった。

 しかし――


「対象に攻撃に備え回避運動を取る」

 そんなアルの声と同時、ピカリと小型船が光を放った。

 船体がぐらりと傾き、操縦席に座っていたレナートの身体が浮く。アルの行った回避運動が功を奏し、幸いにも放たれた光線は船体に直撃せず、レナートの頭上を超えていった。ベルトで身体を固定していなかったら危なかっただろう。急な回避運動による慣性に耐えながらレナートは両手のハンドルを操作し砲塔を敵艦へと向ける。球状の砲塔は敵艦に向けてレナートと共に右へと旋回する。その間に砲身は敵艦と水平の角度になる。

 船体が次の回避運動を行う合間をぬってレナートはすれ違う敵艦の予測進路へと照準を合わせた。

「行けえええ――――!」

 撃発ペダルを目一杯踏みつける。

 短い身長、短い足を必死で伸ばす。

 ガチンと金属同士が噛みあうような音がした直後、閉鎖機が閉じ砲塔内部が密閉される。直後、遮光ゴーグルを投資ているにもかかわらずレナートの視界は一瞬で眩いばかりの青白い光に包まれた。太陽光の如く照り付ける光の中でもレナートは目を閉じない。その目線はただ一点――敵艦の予測進路へと向いている。 

 圧縮された超高温のプラズマは砲身からわずかに漏れ、砲塔全体が青白い輝きを放っていた。互いの船がすれ違う寸前、砲塔は空気が揺らぐほどの衝撃波と共に極度に圧縮された超高温のプラズマを放つ。磁界砲に包まれたプラズマは空気中に紫紺の粒子の糸を引きながら、一直線に敵艦側面へと伸びる。

 すでに敵艦は回避運動を始めているが、この距離での回避はほとんど運任せに近い。果たして、それは瞬すらままならぬほど一瞬だった。直前まで回避運動を取っていたせいか、超高温のプラズマ光線は敵艦に向かい、やや斜めに地上へと向かっていくような形だった。一方の敵艦は船体との光線との距離は出来るだけ離そうとレナートから見て左へと旋回していた。それがたまたま噛み合った。

 ――青白い光線は敵艦の船底をスレスレを通り+過ぎると、そのまま地面に衝突した。刹那、一億二千度に達するプラズマが一斉に拡散し、その熱を受けた地面は、液体になる暇もなく蒸発する。この時の急激な膨張によってプラズマと衝突した地面は大爆発を起こした。互いの船がすれ違う寸前、その風圧に押された敵艦はレナートの乗る船へと激突した。一瞬の出来事。超高速で摩擦した船体からは火花が飛び散り、その跡は摩擦の熱で黒ずんだ。二つの船の衝突によって互いの船体は損傷し、船内は大きな衝撃に包まれる。さらにその衝撃は船内の全員に多大なダメージを与えることとなった。

 ――衝突した箇所の一番近くにいたレナートは脳震盪に陥いり気絶。

 ――左翼砲塔までかけていたバートンは右足を骨折。

 ――艦橋にいたアルは頭部からの出血によって意識が混濁。

 ――左翼砲塔にいたピュセルはベルトが破損して動けず。

 しばらくして船は急停止した。

 艦橋にいたアルによってではなく、他の誰かによって。


  アルが目を覚ました。坑道のような場所だった。

 暗く狭い。マリネリス峡谷で夜を開ける時に立ち寄った洞窟の中にも、このような場所があったのを思い出す。捨てられたであろうツルハシやトロッコがあったのを覚えている。ここはおそらく廃坑だろう。しかし出口へ続くであろう箇所には鉄格子があり、それ以上進めないようになっていた。

 ――捕まったのか。

 分かる同時。意識を失う直前の――ノクティス迷路での戦闘を思い出した。それでも何故自分が捕まっているのか分からない。廃坑は鉄格子のある方の反対側はまだ奥があるようだったので、アルはそちらを調べてみることにした。しばらく進んでいくと剥き出しになった金属のパイプを見つけた。 見るからに太いパイプのその一部が露出しているような恰好であり、好奇心で触れてみると随分と温かった。

 こんな巨大な金属パイプを地面の中に埋め込むなんて現代の技術では到底叶わない。おそらくこれもアーティファクトの作られた時代に作られた物なのだろう。しかし何故こんな洞窟にそんなものがあるのだろうか――そもそもいったいここはどこなのか?

 そんなアルの元に一つの足音が近づく。

「ピュセル!」

「アルさん……すみません」

 ピュセルは顔を俯かせていた。

「無事ならよかった。それよりも僕たちは捕まったのかな?」

 アルはパイプの上に座ると尋ねる。

「えっと、アルさん達は捕まりました」

「……そっか」

 一度は納得する。しかしピュセルの言葉には妙な含みを感じた。そう捕まったのは「アルさん達」と言っていた。そしてノクティス迷路での戦闘。果たしてノクティス迷路という人の訪れぬ巨大な迷宮でたまたま敵と鉢合わせるなんてことがあるのだろうか。いや、しかも連中はこちらから手を出す前に攻撃してきた。それはつまり連中がアル達の船を明確に敵と認識していたということになる。全てを理解したアルは、それでも落ち着いた声色で聞いた。

「――僕たちを裏切ったのか」

「はい」

「何故だ?」

 アルはパイプの上に座り手を組むと、ピュセルに問う。

「本当にあの時貰った言葉は感動したんです。けど前も言った通りアタシは命が大事です。自分の命を守るためならなんでもします。感動や思い出、忠義さえも捨てることが出来ます。そりゃあアルさんといれば大金を稼いで遊んで暮らすこともできたと思います。けどそれよりも何よりもアタシは金が大事なんだ」

 ――命より大事なものはありません。忠義なんてゴミですクソくらえです。

 先日のピュセルの言葉をアルは今更ながら思い出す。

「あの時――カデルとクレイグの二人と交渉させてくれと言った時、お前は再度裏切りを重ねた訳か。いや違うか。お前は少なくともあの時は俺達の側だったんじゃないか? ただ俺達が不利になった時に備えてカデルとクレイグの側に戻るための工作もしていたということだな」

 ピュセルは答えなかった。しかしこの状況ではそれは肯定を意味する。

「裏切った奴はまた裏切る――レナートがそんなことを言ってたか。その通りになったな」

 アルは皮肉を込めて言う。

 ピュセルはあの時と違い反論しない。

 しばらくの静寂が二人を包む。

 鋭い目をしている――始めてピュセルにアルが抱いた印象だった。しかしそれからピュセルに対してそんな印象を抱くことはなかった。けれど今のピュセルはまさに最初の印象通りで、人を睨みつけるような鋭い目をしていた。

 その姿からは到底レナートと互いに言い合っていた無邪気なピュセルの姿はない。

 ――本来の自分を隠していたのか。溶け込むために。

「人を信用しないことで生き延びていた俺が、まさかお前みたいな奴を少しでも仲間だと思っていたらしい」アルは自嘲するように冷めた笑いを浮かべる。

 瞬間、アルは突然立ち上がった。

 立ち上がるとピュセルの胸ぐらを掴む。

 そのまま壁に叩きつけるようにピュセルに迫る。

 呆気にとられたピュセルは、アルを見上げる。

 今まで見せたことのない冷酷な顔をしたアルは一言。

「犯そうか?」

 予期しなかった事態。

 ピュセルの血の気の引いた顔。

 その時ピュセルもまた理解した。

 ――彼もまた自分と同じだったのだと。

「お前につかなくて正解だった」

 ピュセルの声は震えている。

 その言葉にもう申し訳ないという気持ちや、自身を理解してくれた人への尊敬の念は少しもなかった。同族嫌悪か、ただアルを軽蔑するように言った。

「アタシに何かあったら、お前の命はないぞ」

「裏切ったお前を俺がどうしようと、お前のお仲間は気にも留めない。違うか?」

 一度は裏切った身だ。戻ったとはいえ肩身の狭い思いをしているピュセルには否定はできなかった。

「やるなら……やればいい」

 アルと目を合わせ睨みつける。先ほどよりもさらに声は震えている。

「逃げるのか?」

「ちがう!」

「それは自分の意思が侵されることから逃げただけだ。自分意思で身体を相手に委ねたという建前が欲しかっただけだ。お前は自分の魂が傷つくことを避けた。お前は、逃げたんだ」

「――ちがう!」

 一層強く否定する。

「――ちがう――ちがう――ちがう!」

 否定すればするほど、その言葉は心の奥へと忍びよる。

 今まで感じたことのない恐怖を覚える。

 自身の魂を、意思をめちゃくちゃにされてしまうことへの恐怖をだ。

 アルのもう片方の手が、ピュセルの首元まで伸びる。

 ピュセルはその手から逃げるように後頭部を壁に押し当てた。伸ばされた手が一センチ進む度にピュセルの喉から嗚咽が漏れた。目から涙が溢れた。

「お前の魂を、意思を、弄んでやろう」

 ピュセルはもはやアルに対して憎しみよりも恐怖の感情が大きくなっていた。恐怖によって、もはやピュセルはアルを睨むことすら敵わなくなっていた。

「――助けて」

 気づけば、そんな言葉が口から洩れる。

 同時に、ピュセルは目を力強く閉じる。

 首を絞めつけられた時の痛み、恐怖、それらを想像し、覚悟する。

 しかしその時は訪れなかった。

 掴まれていた胸ぐらの手が解かれ、ゆっくりとピュセルは目を開く。

「お前は弱者だ」

 アルは言い捨てて、パイプの方へと戻った。

 緊張から解放されたピュセルは壁にもたれかかる。そのまま地べたに座り込んだ。今すぐ立って逃げたかったが、腰が抜けて歩けなかった。どっと全身に冷や汗がと流れる。

 ――助かった。

 荒い呼吸を整えながら、ピュセルはゆっくりと壁を伝い四つん這いになり、その場から離れる。そうしてアルが追って来ていないことを三度確認してから牢屋から出た。待っていた見張りは青白い顔をしたピュセルに驚きながら「どうしたんだ」と尋ねる。しかしピュセルは壁にもたれかかると、そのまま上を向いたきり何も答えなかった。


 レナートとバートンの二人はアルとはまた違った牢屋に収監されていた。牢屋といってもアルのところと同じで廃坑に鉄格子をはめただけの簡易的なものだ。バートンの来ていたボディー甘―は脱がされ、その下に着ていた黒のボディースーツのシルエットから身体が鍛え抜かれていることが分かった。骨折していた足の方も牢屋に収監される前、足を金属の棒で固定され、その上から包帯を巻くという実に適切な処置を施されていた。バートンからしてみれば捕われた人間に対して少し優しすぎるんじゃないかとも思うが、その恩義を盾に何か情報を吐かせるのが目的なのかもわからない。

「起きろレナート!」

 レナートの頭に一発、拳を叩き込む。

「イッテェなおいっ! ――ってなんだこの鼻を刺すような臭い! バートンてめえの屁、なんか微妙に臭いんだよ」

 レナートは寝起きざまに一発、今度はバートンの頭に拳を叩き込んだ。

「バカ野郎。屁なんてこいてねえよ」

「あ――? 嘘ついてんじゃねえよ!」

 そんな言い合いをしている最中、周囲の様子がおかしいことにレナートは気づく。顔が段々と青ざめていく。

「おい、俺達どうなってんだよ。ここはどこなんだよ」

「どうやら捕まったようだ」

「捕まった? なんでだよ」

「武装した小型船と戦っただろ。あの船、盗賊団の連中の船だったんだよ。そんで俺達は負けて捕まった」

「そんなことあったか――――…………」

「コイツで思い出せ」

 バートンの拳がレナートの頭を叩く。

「イッてえええ――……けど思い出したぜ。俺はあの小型船に電離気体砲プラズマをぶち込もうとして」

「なるほど、外したってわけか」

 バートンは溜息交じりに言う。

「言っただろ、ちゃんと狙えって」

「ちゃんと狙ったんだぜ。けどアイツ直前になって回避運動取りやがったんだ。それでたまたま、まぐれで、運悪く当たらなかっただけで」

「あの状況だと打った時はほとんどゼロ距離だっただろ。それで当たらないってことは照準が船の真ん中からズレてるってことだ。――つまり当たらなかったのはお前がちゃんと狙わなかったからだ」

「それは……そうだけど……」

 レナートは言いよどむ。

「まあ初めてだったんだ、別に責めるつもりはねーよ。それに……」

「それに?」

「いいや、なんでもない」

 バートンは一瞬だけ考えてしまった。

 電離気体プラズマ砲から放たれるプラズマ光線が直撃した時のあの爆発。どんなに頑丈な船だった一発で吹き飛ばすあの威力。直撃すれば船はおろか、中に乗っていた人までも塵と灰になってしまうだろう。バートンは昔、それを経験している。だからこそ言える。とてもじゃない――まだ若いレナートにあんなもので人殺しはさせられない――と。

「まあ、良かったよ」

「なんだそりゃあ……わけがわからないぜ」

「それよりもお客さんだ」

 レナートの視線の先。

 鉄格子を挟んで向こう側に、カデルとクレイグの姿があった。

「お前ら、俺達に何の用だ?」

 いかにも悪そうな顔の男――クレイグが答える。

「いやな、今度はお前たちが檻の中にいるからどんな気分かと思って見に来てやったんだ」

「そりゃあ嬉しいぜ。こんなガキと一緒じゃあ退屈で死んじまいそうだからな」

「おい、ガキってのはどういうことだよ!」

 険悪な雰囲気が二人の間に流れる。しかしそれを遮るようにカデルが口を開いた。

「喧嘩を売りに来たわけじゃないだろクレイグ。謝れ」

 言われたクレイグは反論するかと思いきや、素直に「すまん」と頭を下げた。そんな姿に驚くバートン、そしてレナートにカデルは続ける。

「お前たちは俺達の命を助けてくれただろ。それに俺達の部下もはぐれた一人以外は犠牲はなかったらしい。なによりもあの日の夜は久しぶりに楽しかった。その礼がしたかったんだ」

「コイツのことか?」

 バートンは足に巻かれた包帯に視線をやる。

「確かにコイツの処置をしてくれたのは感謝しなくちゃな」

 盗賊のような連中が、命を取らず捕虜にして、さらにその捕虜の怪我の手当てなんてしてくれるのはよほどのことがない限りありえない。つまりバートンのこの包帯はそれだけありがたいことなのである。

 しかしカデルは首を横に振った

「いいや、ソイツは団長が怪我をしてるなら処置してやれって命令しただけだ。礼をしたいってのはそのことじゃない」

「なら俺達を解放でもしてくれるのか?」

「そうしてやりたいのは山々だが、さすがに俺にそこまではできない。ただ代わりと言っては何だが、お前達の仲間のアルって奴と合わせてやることなら出来る」

「アルの奴もここにいるのか!」

 バートンは鉄格子に飛びつき、その隙間に顔をめり込ませながら尋ねる。

「ああ……お前達とは違う牢にいる」

「――無事か?」

「頭から出血していたが、そっちも止血して包帯を巻いてある」

 その言葉にバートンは安堵の表情を見せる。

「いつ会えるんだ?」

「いつが良い?」

「――――…………そうだな」

 頷きかけて、考え直す。

 レナートはそんな様子に眉をひそめる。

「何を迷う必要があんだよ?」

 確かにそうかもしれない。しかし脱獄を計画するとしたら話は変わってくる。アルと会えるということは脱獄のチャンスか――あるいは手がかりを伝達する最高の機会となりえる。そんな貴重な時間を何の準備もないまま無駄にすべきだろうか。

 バートンは先ほどのカデルの言葉を思い出し、答える。

「一瞬間後でいいか?」

「一週間後?」レナートが驚愕しながら反芻する。

 しかしカデルは真剣な眼差しで「本当に一週間でいいのか?」と問う。バートンは口角を上げる。不敵な笑みを浮かべ答えた。

「俺はこれでも腕の立つ傭兵なんだ」

 それ以上の言葉は必要なかった。


 それはカデルとクレイグが去った後のことだった。

「なんでさっきすぐに会いたいと言わなかったんだ!」

 レナートは額に血管を浮き上がらせながらバートンに詰め寄っていた。

「頭から出血だってよ。なあバートン、アルは怪我をしてるんだぜ」

「落ち着けよレナート」

「ああオレは落ち着ついてるよ。落ち着いてるけどな、それでも理解できねえことだってあんだよ。なあ、お前はそんな薄情な野郎だったのかよ! ――お前は!」

 怒り心頭なレナート。しかしそんなレナートの言葉を遮り、バートンは親指と人差し指で丸を作ると、レナートの額にパチンとデコピンを放つ。状況が飲み込めず呆然とするレナート。

「落ち着いたか?」

 バートンは宥めるような声色で言う。

「俺だってもちろんアルのことは心配だ。けどお前は一生こんな牢の中にいるつもりか?」

「そんなわけないだろ!」

「だったらさっきのカデルの言ったことを思い出してみろ」

「えっと……俺達が牢の中にいるざまを見に来たって……」

「そうじゃないし、それを言ったのはクレイグのヤツだろ。ったくバカ野郎……」

「バ……バカで悪かったな。けどだったらなんだって言うんだよ」

「俺が『解放してくれるのか』って聞いた時、カデルのヤツが言ってただろ。――そうしてやりたいができない。その代わりにアルと合わせてやるって」

 そこまで言われても、レナートは未だに意味が分からなそうにバートンの顔をじっと見ていた。

「ああ……だからなあ……」

 理解の遅いレナートに呆れたようにバートンは言いかえる。

「カデルのヤツが言いたかったのは――アルに会わせてやるから、その時までに脱獄の準備をしとけってことだ」

「本当かよ?」

「その証拠にヤツは俺が一瞬間後と言った時、お前みたいに理由を聞いてこなかっただろ。どころか代わりに『一週間でいいのか』と聞いてきた」

 それでようやくレナートもその言葉の真意に気づいたらしく「なるほど」と頷く。

「つまりカデルのヤツ、脱獄の準備期間は一週間でいいのかって聞きたかったわけか」

「そういうことだ」

「ったく面倒な言い回ししやがって……オレをバカにしてんのか!」

 さも悔しそうに拳をつよく握るレナートの肩に、バートンは優しく手を置く。

「バートン!」

「レナート…………バカされても仕方ないと思うぞ。事実だからな」

「ちがうだろおおお――!」


 その夜……かどうかは分からないが……看守が寝てから二人は脱獄計画を早速練り始めていた。

「脱獄つってもどーすんだよ」

 レナートがぶっきらぼうに聞く。

「おい、声がでけえよ。看守が寝ているとはいえ聞かれたらどうすんだ!」

 二人は看守から一番離れた廃坑の奥にいた。それでも聞こえていない保証はない。

「それで脱獄についてだが」バートンは声をさらに小さくして話す。

「――ここにあるものを使う」

 こことはつまり――この廃坑を指していた。一見、何もないただの洞穴に過ぎないこの廃坑に何があるというのか。しかし長年のバートン知識はその何かにたどり着いていた。バートンは立ち上がると、廃坑の中央付近で屈んだ。そうして何かを摘まみ上げる。

「ここは廃坑だったんだろうな。その証拠にコレがあった」

 バートンの手の中にあるもの、それは――


「鉄片だ。……トロッコのレールに使われていんだ」

 手のひらほどの尖った鉄片だった。しかしそれで何ができるというのか。

「そして、ここが廃坑であるのならここには鉱物があったはずだ。例えば鉄、例えばマグネシウム。例えば――――石英」

 バートンが指差す先には、石英の原石があった。

 その二つを見てレナートは思い出す。

「鉄に石英…………それってもしかして!」

「そうだ、石英は火打石に、鉄片は打ち金になる」

「つまりオレ達はここで火を起こすことができるんだな。ってけど火をつけるもんがねえと何にもならねえじゃねえか。……それによくよく考えてみりゃあちょっと火を起こしたくらいで何ができるってんだ?」

 石英と鉄片の二つを叩きつけることによって火花が散る。その火花で着火するわけだが……乾燥した葉や紙のような燃えやすい物がなければ火を起こすことはできない。それに火を起こせたとしても手のひらくらいの炎が限界である。

「レナート、お前は起きた時に俺が屁をこいたとかいいやがったな?」

「そ、そ、そんなことあったっけ…………!」

 そこでさらにレナートは気づく。

「あれ、まだ臭い」

「そしたらその匂いは何処から来ている? お前は鼻が良いだろ、分かるはずだ」

 そう言われたレナートは鼻を前にだして、空気の臭いをかぎ分ける。その臭いを辿っていくと壁に当たった。レナートはそのまま壁から床へと突き出した鼻を滑らせる。

「あった! この臭いの発信源はここだ!」

「よくやったぞレナート」

「けどこの不快な臭いなんなんだ」

「ガスだな。硫黄ってのが混じったガスだ。おっとあんまり吸い込みすぎるなよ」

「なんでだ? というか眠いんだけど」

「言い忘れてたんだが、そのガスを吸い込みすぎると下手したら手足が動かなくなるぞ」

「おいっ――それを早く言えええええええ!」

 飛び起きたレナートの叫び声が廃坑に響き渡るのだった。


   第四話 明日を生きる希望


 英雄――という言葉を聞いたことがあるだろう。

 それは歴史として人々の魂に。

 それは人々に生きる先を示す道に。

 彼はそんな英雄に自らもならんとせし者の一人。

 そんな英雄と聖女がたった相対していた――しかしそれは互いに捕まった身としてだが。

 その日、聖女エリノアの孤独の牢に、珍しく一人の来客がいた。否、その事情を考えれば来客というべきではない。――彼の名はシグルド。それは異端の英雄の名であり、古き神殺しの英雄の名。そして今、その名はノクティス迷路より北西に位置するオリンポス共和国の英雄の名だった。

 二人は小さな丸いテーブル一つを挟み正対していた。

 そう、これがレオノール司教がエリノアに与えた「チャンス」だった。エリノアは二度目の和平を成功させるチャンスを幸運にも与えられたのである。ここで成功させられれば、きっと戦争は終わるだろう。それにエリノアも、聖女としの自分を肯定できるかも知れなかった。

 レオノール司教はエリノアの後ろに整った姿勢で立つと、言った。

「…………こちらがシグルド様でございます」

 ところどころに白髪の混じった髪。整った顔には戦場でついたであろう傷が多く見られた。その風貌からは確かに英雄と言われても遜色のない威厳を、エリノアは感じた。だからだろうか、手足を拘束された姿の英雄の表情に悲愴を感じたのは。

 対するエリノアもこの場に至ってはいつもの生気のない姿ではなかった。相変わらずの幻想的なまでの美しさはそのままに、その瞳には彼女を誰も寄せ付けない圧倒的なまでのすごみがあった。エリノアは口の端をわずかに上げ、微笑をたたえていた。

「シグルド様、私が今日この場にあなたを呼んだのは、大戦の終結を願ってのことです。両軍ともに大損害を受け、今やお互いの国民に巨大な負担を強いている。お互いに手を引くべきではありませんか?」

「そんなことができれば戦争など起こらない。ましてや世界規模の大戦なんてもってのほかだ」

あなたも平和を望んでいるはず。しかも預言が天上の神より与えられたというこの時期に戦争なんて……世界の命運が尽きれば、戦争の勝者になろうと意味などありません」

 そんなエリノアの熱弁を、シグルドは鼻で笑った。

「そもそもだ。こうして盗賊なぞに捕まっている以上、俺にはなんの権限もないし、戻る場所もない」

 シグルドの所属するオリンポス共和国を中心とした陣営と、そしてこのノクティス迷路からさらに西のヘラス帝国を中心とした陣営との間で、諸外国を巻き込んだ一大戦争が起きている。シグルドは今そのオリンポス共和国の陣営の中心人物であった。そんなシグルドが何故このような盗賊団に捕まっているのか――それはつい先日勃発した両陣営の戦いが原因だった。

「そうでしょうか。あなたがきっとオリンポスに戻れば、英雄の帰還と持て囃されると思いますが」

「……英雄とは無敗の人間を言う。大敗を喫した俺は、もはや英雄などではない」

 それが数日前に勃発したエリシウムの戦いでの敗北を指しているのは明らかだった。

「あなたは味方の裏切りにあって負けたのだとか。人の心など誰がわかりましょうか? シグルド、あなたが責任を感じる必要はありません」

「味方の裏切りを考慮できなかった俺のミスだ。戦争とはそういうものだ」

「……確かに戦争とはそういうものなのかもしれません。ですが何故、英雄と言われ、オリンポスの人々のために戦ったあなたが、たかだか戦争のために人々に犠牲を強いるのですか? あなたは戦争など望んではいないのではありませんか?」

「ああ、そうだ。俺は決して戦争など望んじゃいない。だが戦わなくちゃいけない」

「……それはどうして?」エリノアが問う。

 するとシグルドは突然に顔を険しくして、エリノアを鋭く睨んだ。

「年々、荒野地帯が農地を侵食し世界全体の食料生産量は低下している。親もなく、家もない、飢えた子供で溢れかえるこの時代、隣人に譲り合う余裕などない。そんな中で世界の灯が失せるだなんて預言まで下され、見放された。――人々は何を拠り所に生きれば良い? ――何のために明日あすを生きれば良い? 何を希望にすれば良い?」

「聖女なら、答えろ」

 食べることすら難しく、もはや天上の神は人々を助けない。子供すらも飢えに苦しみ、大人は希望を失っている。そんな世界でいったい明日に何があるというのだろうか。ただの理不尽しか待っていない。

 ――いずれ自分のそんな運命を辿るのだろうか?

 エリノアは答えることができなかった。そんなエリノアにシグルドは言った。

「戦争だ。他人から奪い、自分が生きる。子供も大人も、みな等しく、この時代の生きる手段はそれ以外には存在しない。他人から奪うことで今日を生きる。戦争に勝つという希望のために明日を生きる。この大戦は、そんな皆の希望と、そして期待を一身に背負って行われている。明日、なくなるかもしれない世界の中で、それでも希望の灯を絶やさないために行われているんだ」

 そうして一息つくと、静寂の間をおいてシグルドは問いかける。

「それでもこの戦争を終わらせたいか?」

 そのシグルドの、疲れ切った、曇り切った、その表情の前では「平和が良い」だなんて子供じみた理想論など口にすることはできなかった。皆の希望、そして期待を一身に背負っている、そんな彼はやはり英雄に違いなかった。

 エリノアは一抹の望みをかけて尋ねる。

「――あなたは預言の英雄ではないのですか」

 しかしエリノアの期待した言葉を、シグルドは吐かなかった。

「違うだろうな。もしそうなら、こんなことにはなっていない」

 シグルドもまた、預言の示すところの「真実」や「英雄」といった「この世界に欠けているもの」を探した。そして探すにつれて自身が預言の英雄ではないことに気づいていた。

「何故、そう言い切れるのでしょうか?」

 エリノアは問う。――まるでそう言い切るだけの確証があるかのようなシグルドの瞳に。シグルドは自身を哀れむかのように背筋を丸める。

「俺は天上の神を見た。アレは――」

 言い終える前に、喉元に剣先を突きつけられた。レオノール司教だった。

「何をするのですかレオノール司教! ここは交渉の場ですよ」

「天上の神を見たなどいう虚言は、天上教会の司教として看過できません」

 レオノール司教はシグルドを睨みながら言う。しかしシグルドは臆するどころか、さらに天上の神への冒涜を続けた。

「天上のアレは――神などではない。アレが人々を救うなど嘘だ」

「――やめろ! これ以上話せばその首を飛ぶぞ」レオノール司教が叫ぶ。

「アレは神というよりはむしろ……――戦争の象徴だった」

 刹那、シグルドの首を何かが絞めた。それは手だった。レオノール司教が、シグルドの首を絞めたのである。シグルドは抵抗する。しかし首を絞める力は増す一方だった。

「天上の神は、平和を望んでいる。決して戦争の象徴などではない」

 そう言ったレオノール司教は明らかに何かに対して怒っていた。

 やがてシグルドは首を折った。机に突っ伏した。

「…………殺したのですか?」

「いいえ。気絶させただけです。ですがせっかくの機会を無駄にしてしまいましたね」

「…………いえ、気にしていません。彼に言われて私も分かりました。この戦争は、どちらかが勝つまで終わらないんだと。そして……きっと私の役目は、できるだけ早くこの戦争に勝敗をつけることでしょう」

 エリノアは、天井を見上げる。そんな様子を眺めながらレオノール司教は言う。

「あなたは、オリンポス共和国に和平交渉に向かった。そしてそこで誘拐された。……そうですね?」

 そんな虚言に、初めてレオノール司教へと視線を合わせたエリノアは手を震わせていた。

「――――私は……」


   第五話 脱出


 それは果たして偶然か。アルの牢にシグルドが一週間遅れで連れてこられた。

 アルはシグルドを一瞥して、目を逸らす。迫力のある顔付きだったし、背も高かった。しかしその表情からはまるで気力を感じない。何かに疲れてしまったかのような顔をしていた。

「俺を哀れと思うか」

 突然にシグルドはアルに問いかけた。

 アルは黙っていた。

「分かっている。皆の期待に答えられず、希望すらも与えられない。俺は英雄気取りの馬鹿野郎だった。そんな絶望の淵にいて捨ててしまった家族と再会した」

 シグルドは人生の全てを後悔するかの如く、地面の一点を見つめて言った。

「けど折れはとっくに家族を捨てていたんだ。お前なら分かるだろう――アル」

 シグルドはアルを知っていた。

「アル、お前に一つだけ教えてやる。……お前の探している女はここにいる」

 アルはまさかと思いながらもシグルドに詰め寄る。

「……お前、まさか」

 アルはシグルドを知っていた。

「どこにいる! 答えろ」

「この盗賊団……いやコルボ・ノワールとか言う秘密結社の団長をしている」

 思い出の少女はすぐ近くにいた。

 もしかしたら会えるかもしれない。

 気づけば、アルの目から涙が溢れていた。

「――……クロエ」

 アルは、少女の名前を呼んでいた。

「クロエとの約束を守れなかった。何度も破った。僕はクロエに謝りたいことがたくさんある。僕はこんなところで終わりたくはない。お前はどうなんだ――ユーグ・フィネル」

 シグルドとは英雄の名であり、仮の名。彼が捨てざる終えなかった真の名は――ユーグ・フィネル。クロエの兄であり、五年前、ヘラス帝国を追放された貴族の子。

 ユーグはアルに言われ、顔を上げた。

「お前は覚えていてくれたのか、俺のことを」

「五年前、お前達が僕の目の前から消えてから、一度だって忘れたことはない。だからこそ聞きたい、お前もクロエに謝らなくちゃいけないことがたくさんあるだろ」

「国を追放された時、ちゃんと傍にいてやれなかったこと。ちゃんと話せなかったこと。何も言わずに一人にしてしまったこと……謝りたい。許してもらえるなんて思っていない、それでもだ」

「僕も同じだ、ユーグ。クロエが近くにいるのなら、行かない理由はない」

 二人がそう決意した時だった。どこからか足音が聞こえてきた。

 ――脱獄の時はもはやすぐ目の前。


「よお――!」

 アルのいる格子の向かい側でバートンが手を振った。

 バートンとレナートは、見張りに連れられてアルのいる牢まで案内された。そうして面会の許しが出たことをアルに告げると、二人は乱暴に牢に放り込まれた。

「バートン、それにレナートも。無事だったのか!」

「おうよ、なんか知らねーが無事だったぜ。こうしてバートンの野郎もな……まあ、ピュセルの件は不幸だったとしか言いようがないが」レナートが言う。

「人の心なんて誰も分かりやしねえんだ。いまさら後悔したとこで遅いってもんよ」

 バートンは苦笑いを浮かべながら言った。

「とにかくこうしてまたお互いの面を拝めただけでも感謝だな。……それに俺達にはどうやら神様がついているらしい」

 そんなバートンの何気ない言葉にシグルドは眉をひそめる。

「神様なんていない。天上の神なんてものは存在しない」

 天上の神の存在を否定するような発言に、バートンを目を丸くしながらアルに小声で話す。

「アル……なんだコイツ頭わいてんのか? よくもまあそんな異端思想をぬけぬけと話せるもんだ。驚きを通り越して俺はその度胸に関心しちまうよ」

「コイツはシグルドだ」

 本当の名は言うわけにはいかなかった……お互いに。

「シグルドって言ったら……まさかオリンポスの英雄じゃないだろうな」

 バートンは名前に心当たりあったらしく、しばらく頭を指でつついてから思い出したように言った。しかし当のシグルドはその呼び名を気に入っていないらしく、顔を曇らせた。

「俺は英雄なんかじゃない。そんな呼び名で俺を呼ぶな」

「すまなかった。お前を気づつけるような気はなかったんだ。許してほしい」

「いや……俺の方こそ言い方がきつかったな。少し奥で頭を冷やしてくる」

 シグルドはそう言った立ち上がる。危うさを感じる足取りだった。背筋は曲がっていて、一瞬見えた目は虚ろだった。アルは奥に行くシグルドの背中に言った。

「奥には温かいパイプがある」

「俺は頭を冷やしに行くんだ。温かいパイプだなんて……」

 シグルドは何かに気づいた。思考が追い付かず、言葉が詰まる。

「それはもしかして、金属でできた巨大なパイプか?」

「そうだけど……それがどうしたの?」

 しかしアルの問いに答えぬまま、シグルドはそのおぼつかない足取りでふらふらと廃坑の奥へ向かった。その様子に違和感を覚えたアルは、シグルドを追う。するとシグルドはパイプの前で立ち止まった。パイプにそっと手を伸ばす。

「こんなところにまで……」

 含みのある言い方に「どういうことだ」とアルは問いかける。

「このパイプにはガスが通っている」

「ガス? 一体何のために?」

「星を生かすためだ」

 ――それが意味するところが果たしてなんであるか、アルには分からなかった。けれどアルがそれを尋ねる前に「お前らいつまでそこにいるんだ」というバートンの声が聞こえてきた。

「ごめん……ただシグルドがこの金属のパイプが気になるみたいだから」

 ころりと性格を入れ替えるアルに、シグルドは小さく嘲笑を浮かべる。

「どうしてこんなもんがあるんだ。って熱いな」

 バートンは金属パイプに触れて熱かったのかすぐに手を引っ込めた。

「そんなに熱くないよ」言いながらバートンの触った箇所にアルも手を触れる。するとここに連れてこられた時――いや昨日よりも確実に熱くなっていた。

「どうなってるんだコレ」

 そんな言葉を零したアルに、シグルドは少し拍子抜けしたように言った。

「お前も知らないのか?」

「そりゃあそうだよ」

「お前が帝国を――――」

 シグルドがそう言いかけた時、アルがその口を塞いだ。

「やめろ。僕が追放された身だと知れれば、いつまた帝国の追跡に会うかも分からない。なるべくこのことはバレたくないんだ」シグルドの耳元で言った。それをシグルドも理解したようで「軽率だった」とアルに謝る。

「お前らさっきからどうしたんだ? もしかして知り合いだったのか?」

 不審な動きをする二人にレナートが尋ねるも「まあ、そんなところだよ」とアルは答えを濁した。そうとは知らず、レナートは顔に勝ち誇ったような表情をにじませた。

「それならちょうどいいぜ。実はオレ達脱獄するんだ」

「おいっいうのがはえーぞ!」すぐさまバートンの拳を喰らうレナート。

「まあいいだろバートン。どうせ話さなくちゃいけないことだったんだし」

「ちょっと待てレナート。脱獄ってのはここから出るってことか?」

「それ以外ねえだろ?」

「けどどうやって?」

 そんな問いにレナートとバートンは互いに目を合わせるとニヤリと不敵な笑みを作った。

「コイツで吹っ飛ばすんだよ――あの格子を」

「そんなことが可能なの?」

「不可能だ…………もちろん、普通の鉄格子だったなら。けどここは違う」

 言いながらバートンは鉄格子を小突く。

「何色だ?」

「……黄色?」

 鉄格子の色は黄ばんだ色をしていた。

「ここに来てからずっと変な臭いがするだろ?」

 確かにそうだった。馴れてきたものの、アルもここに来てからずっと変な臭いに悩まされていた。洞窟の奥から来ているようで、どうにも不快な臭いなのである。

「この臭いの正体は硫黄っていってな……オリンポス山なんかをはじめとした活火山で見られる鉱物だ。そうしてこの硫黄って奴がある近くに鉄を置くと鉄は脆くなるんだ。そこにコイツでドカンと大きな衝撃を与えてやる」

 そう言ってバートンが取り出したのは、パンパンに膨らんだ袋だった。

「中に何が入ってるんだ?」アルが尋ねる。

「ガスだ。火山から硫黄やらなんやらの毒物を豊富に含んでいる――もちろんメタンガスも」

 バートンはガスの入った袋を指差しながら言う。

「俺の服は特殊でな、なんでも炭素でできた繊維で作られたアーティファクトらしいんだ。コイツの繊維は細かいらしく、口と鼻に当てれば毒ガスも通さないんだとか。逆に言えばコイツさえあればガスを持ち運べる」

 さすがにアルもここまで説明されれば脱獄の方法に検討がつく。

「つまりその袋の中にはガスが充満している。そんな状態で火をつければたちまち袋は大爆発を起こすだろうね。そうして、その爆発で脆くなった鉄格子を吹っ飛ばすってわけか」

「……どうだ。いい考えだろ」

「けどどうやって火をつけるんだ?」

 アルが尋ねると、バートンは懐をまさぐって今度取り出したのは鉄片と石英だった。

「この二つに見覚えはあるだろ?」

 アルは首を縦に振る。

「コイツで火をつける。もちろん近くにいたら危ないから、服の繊維を分解して作ったこの毛玉を導火線代わりにするつもりだ。もちろんうまくいく保障はないが……どうするアル。やるかどうかはお前に任せる」

 レナートがアルを見た。その表情は真剣だった。シグルドもやはりアルへ視線をやる。

 アルの脳裏にはシグルドの言ったことが反芻されていた。

 ――クロエがこの盗賊団、いやコルボ・ノワールという結社の団長をやっている。もしかしたらここにいるかもしれない。もしかしたらクロエと再会できるかもしれない。

 そんな期待にアルの心が弾む。しかし同時に不安でもあった。

 ――五年前、何も言わずに離れ離れになった少女。あの時アルは助けることができたかもしれない。しかし結局それができなかった。それに五年という月日は長い。クロエがアルを覚えている確証もない。会いに行くだけ無駄かもしれない。どころか、脱獄したからと言って会えるかどうかも分からない。

 それでも謝りたい。

 クロエとした約束を守れなかったことを謝りたい。

 アルは言った。

「――やらなくちゃならないことがある。だから絶対ここから脱獄しよう!」

 それにあのマリネリス峡谷で見た聖女のことも気掛かりだった。あの時に聞いた聖女の声は震えていた――一瞬だけしか見えなかったあの子の姿が、アルの昔の姿と重なった。アルは内心、あの子を助けられたらと願っていた。それが自身の慰めにつながるから。

 そんなアルの心情を察してか、バートンはアルの額にデコピンを放つ。

「やっぱりソイツは一目惚れだな。お前さんの顔を見れば分かる」

 体温が少し上がっていたアルは、顔を引きつらせる。

「ただなアル、移り気するのは良くないぞ」

 果たしてその忠告が何のことか、今のアルには分からなかったが……バートンはまるで昔の思い出に吹けるようにため息を吐いていた。


 格子から少し離れた場所に四人は集まっていた。

 バートンは袋を少し開けると、縄のように編んだ毛玉の端を中へ入れた。そうして看守の目を盗んで、一番脆そうな格子の近くへ置く。そこまですれば後は着火するだけだった。しかしいくら石英と鉄片をぶつけようともなかなか火が付かない。それもそうだ。毛玉で作った導火線は服の糸を解いて作っている。服の糸はこの前火種に使った乾燥した葉よりは火が付きにくい。さらにここは洞窟で湿度が高い。火起こしには不向きな環境だった。

「クソ、つかねえ」

 レナートの額に冷や汗が流れ始める。

 そうしてこんな怪しい動きをしていれば、看守にバレないということもなく。

「お前ら何してやがる!」

 けたたましい声と共にアル達の行動に気づき、格子の扉を開けて中に入ろうとする。アル達は四人とはいえ何一つ武器を持っていない。そんな状況では看守に勝てない。しかしこれはチャンスでもあった。看守が爆破に巻き込まれれば、持っていた武器を奪うことができる。

 ――頼む、ついてくれ。

 そんな四人の思いを受けて、鉄片と石英は再度カチンと音を鳴らす。その刹那のことだった。ボヤっと導火線の先に火がついた。それはしばらくするとろうそくの炎と同じくらいの大きさになった。

「お前ら、逃げろ!」

 バートンの号令と共に、四人は一斉に洞窟の奥へと逃げだした。

 看守もそれに気づき、格子の近くに置かれた袋を一目見て「まさか爆弾か」と叫ぶ。そうして大慌てで逃げようとする。しかし一歩遅かった。

 茜色に染まった導火線は、次第に袋の中へと近づいていき、ついに袋に入る手前で大きな炎となった。まさにその瞬間――袋の中にたまっていたガスへと連鎖的に発火していき、ガスの入った袋はその直後、熱風と共に大爆発を起こした。爆発地点から少しばかり離れていた看守も、その熱風によって地面へと打ち付けられる。

 立ち込める煙の中、アル達四人は格子のあった方へと腕で口元を押さえながら進む。そうしてついに鉄格子のあったところまでたどり着いた。

 鉄格子は――破損し、折れ曲がり、人ひとりが通れるだけの隙間が出来ていた。

「行けるぞ!」

 言いながらアルはその隙間を抜ける。そうして最後にシグルドが抜ける頃には立ち込めていた煙もいくらか収まっていた。バートンは地面に倒れている看守を見つけると、その腰についている剣を手に取った。

「コイツは貰ってくぞ」

 幸いにも看守もボディーアーマーを身に着けており、また爆風も爆弾自体が簡易的なものだったから弱かったらしく、火傷も軽傷らしかった。そうして剣を持ったバートンと共に、アル達は廃坑跡地に作られたコルボ・ノワールの拠点内部を進んだ。しかしアルとシグルド、そうしてバートンとレナートの二者では脱獄した目的が違った。


「とりあえずこれで装備は揃ったな」

 拠点内が爆破によって混乱している隙に、偶然に武器庫を発見した一行は各々武装していた。バートンは先ほどの看守から奪い取った剣と、そしてプレートアーマーを。レナートもバートンと同じような武装を。シグルドは拳銃と短剣……そして何かが入った大きな箱を持っていた。

 そこでアルはふと気づく。

 帝国を追放される前から持っていた物を、もう何一つ持っていないことに。

 それでもアルは思い出に縋るように、思い出のものではない短剣を手に取った。そうして言う。

「僕とシグルドにはやらなくちゃいけないことがある」

 シグルドに目線を配る。シグルドは深く頷いた。

「目的が違う以上、これから二人と行動を共にはできない」

 そう、バートンとレナートの目的はここから出ること。しかしレナートとシグルドの目的はクロエを見つけだすことだった。いや、正確に言えばアルは聖女も探していたが。

 離れ離れになった後、どうしていたのか。

 クロエがなんでこんなことをしているのか。

 なによりも。何故――聖女を誘拐したのか。

 もちろんそんなことを突然言って、責められるのはアル自身覚悟していた。それに大きなリスクがあることも承知の上である。それでもやはりアルはクロエに会いたかった。

「いいぜ、付き合うよ」

 レナートが言った。

 非難されることを覚悟していたアルはふいを付かれたような顔を浮かべる。

「オレはお前を信じる。決してお前を裏切ったりしねえ」

「突然どうしたんだよ」アルは戸惑う。

「お前、ここでオレ達と別れたら一人になっちまうだろ。辛いぜそりゃあ、だからオレはお前がなんと言おうとついていく。……ってけどシグルドもいるから一人にはならねえのか?」

 レナートは少し悩んでから、それでもアルに真剣な眼差しを向けた。

「とにかくオレはお前を信じる。お前を一度殺そうとしたけど、それでもお前はオレが助けてと言った時助けてくれた。岩陰からお前が飛び出した時、オレは勇気をもらった。コイツの背中を追っかけなくちゃと思った。だからオレはお前についていく。お前が何といおう《・・・》と!」

 レナートは恥ずかしそうに鼻を擦りながら言う。

「…………硫黄だけになっ!」

 緊張感のあった空気が突然に冷たくなる。

 そんな静寂にレナートを苦笑いを浮かべて言った。

「だー、だから、そんな風に思い詰めてないでオレを頼ってくれ!」

「思いつめる?」

「気づいてなかったのか? なんかさっきからちょっと顔怖いし、それにお前にしちゃあ話し方に余裕ってもんがない」

「……余裕ってなんだよ」

 ほっと一息ついたアルは不満そうに口を尖らせた。

「普段のお前だったらこういう時言うだろ――その時はその時だって」

 アルも言われて気づいた。確かにアルは何かに焦っていた。ここに来てから一度だって笑っていない。ここに来る前まではその時はその時だと、そんな風に流れに身を任せて生きてきた。しかしそんなアルにもあのマリネリス峡谷での夜、目的が出来た。今までなんとなくで散策していた人生に、突然に目的地が出来たのだ。

「僕はクロエに会いに行く」

 アルは肩の力を抜いて深呼吸をすると告げた。

「このシグルドが言うには、ここの連中はからすの騎士団というらしい。それでそこの団長が僕が五年前分かれた女の子だったんだ」

「で、その子がクロエってわけか」

 バートンがからかうような口調で言った。

「つまりお前さんはそのクロエって子に会いたいがためにわざわざ危険を冒してまで探しに行こうっていうのか?」

「そうだ。文句があるなら言ってくれても構わない。けど何と言われようと僕は行く」

 そう宣言したアルの顔をバートンはじっくりと眺めた。

「文句なんてありはしないさ。ただ俺の忠告さえ忘れないでくれりゃあな」

「…………?」

「いんや気にすんな。それよりもお前が幼馴染を探しにいくんなら俺もいくぜ。レナートじゃあちっと頼りねえからな。何より面白そうだ」

「僕は本気だ」

 面白そうだという言葉に、アルはムッとした表情を浮かべた。

「見たらわかる。お前が本気だってのは。だから面白いんじゃねえか」

 カカカと笑うバートンに、アルは相変わらず不満そうな顔をしていた。それでもレナートとバートンが付き合ってくれると言ってくれたことは、アルにとって本当に嬉しかった。胸が高鳴った。そんな感覚はまるでクロエと過ごした頃以来のことだった。

「ありがとう」

 アルは言った。ついこの前、バートンが言ったことを思い出し――この二人に会えた幸運を神様に感謝しながら。


 第六話 天上教会


 クロエはエリノアに会いに来ていた。

「あなたが聖女?」

 部屋の端でうずくまっていたエリノアにクロエは尋ねる。エリノアはゆっくりと顔を上げると、クロエを見て頷いた。クロエはヘルメットをしていなかった。乱雑に短くしただけの黒い髪はまるで男のようだった。にもかかわらず彼女の赤い瞳は美しく、聖女であるエリノアですら引き付けられるほどだった。

「王家の人が何故こんなことを?」

 エリノアが言う。

「こんなことか……聖女と英雄を誘拐したのだからそう言われても仕方ないかもしれない。それでも私達にはやらなてはいけないことがある」

 そのやらなくてはいけないことに、エリノアは薄々勘づいていた。

「聖女と英雄――その次はこの世界の真実ですか? それともこの世界に欠けているものを探すおつもりでしょうか?」

 そう、このクロエの目的は預言の――星の死を防ぐことなのではないか――エリノアはそう考えていた。しかしクロエはそれを鼻で笑った。

「預言なんてものの為じゃない。もっと私的な事情だ。私は天上教会の正体が知りたい。私達の敵はヘルス帝国にもオリンポス共和国でもないではないか? 天上の神を信仰する天上教会の秘密を暴けば、きっと全てが解決するのではないか」それはどこかクロエ自身への暗示にも聞こえた。「天上教会が隠した秘密を暴く。そのためなら連中の手下になっても構わない」

「何故その話を私に?」

「預言を告げたのが聖女エリノア、お前だからだ」

 そうしてクロエはエリノアの前で屈む。

「預言なんて本当にあったのか?」

 そう、預言なんて嘘なのではないか?

 天上教会によるでっちあげなのではないか?

 クロエはそう考えていた――しばらく前までは。

 しばらくして、エリノアが首を振った。

「残念ですが預言はあります」

「……そうか」

「信じるのですか?」

 素直に受け入れられた事に戸惑いつつエリノアは尋ねる。

「オリンポスの英雄は私の兄だった」

 突然、そんなことを告げられた。

「兄は言っていた。天上の神を見た、と。そうして預言も存在すると。こうも言っていた……この世界の真実を探さなければならない――。私にはその真意がなんであるか分からない。けれど兄は……いや英雄が預言はあると確信しているようだった。それにあなたもどうやら預言に苦しめられている。なによりもこの世界には不可思議なことが多すぎる」

 それは例えば。

 ――アーティファクト。

 いったいいつ、どこで、誰が作ったのかも知れぬ超高度技術の結晶。

 ――この世界に広がる荒野。

 世界のほぼ全てを飲み込む赤き荒野でいったいどうやって人間は発展したのか。

 ――そして今起きている戦争。

 この戦争は食料難から始まった。そして食料難によって起こった戦争は今に始まったことではなかった。昔からずっと、農業が出来る土地は赤い荒野に次第に飲み込まれていき、年々農作物の生産量は低下の一途をたどっている。果たしてアーティファクトが作られた太古の昔の世界はこんな荒れ果てた大地ではなかったのか。

 それこそがもしかしたら預言のいう「この世界の真実」につながるのではないか。

 クロエは最近、そう考えるようになっていた。そしてそれを裏付けるかのようにシグルドは言ったのだ。――この世界の真実を探さなければならない、と。

「お前は今の天上教会の在り方に――つまりは人々を突き放すような神を信仰する天上教会に疑問を抱いたことはないのか?」

 そんな問いかけに、エリノアは唾を飲み込む。確かに以前までは同じことを思っていた。しかし今は違うのだ。エリノアは、聖女として、人々の平和のために人々を殺すと、そう誓ったのだから。と、そこまで考えて、エリノアはその矛盾に気づく。

「私は、この戦争でどちらかが犠牲になれば良いと一度は思った……思っていた。けど……それはいずれ同じことが起こるのを先送りにしているだけ。終わりをただ待っているだけ……」

 ――果たしてそこに本物の希望はあるのか?

 ――明日を生きる理由があるのか?

 そんな時に、シグルドの言葉が脳裏を過る。

「神というよりはむしろ……――戦争の象徴だった」

「そんなことを聖女であるあなたが口にしても良いのか」

 クロエは皮肉を込めて笑う。

「彼は――シグルドは天上の神を見たと言っていました」

「それは私も聞いている」

「戦争の象徴だと、そうも言っていました。それがもし――まるでこの終わりのない戦争の世界の象徴――そんな意味だったのだとすれば、この預言にはいったいなんの意味があるのでしょうか。もし預言の正体がわかり、運命の灯が消えずに済んだとしても、その先にあるのはやはり、食料を巡っての骨肉の戦争なのではないでしょうか?」

 そこでエリノアは気づく。天上教会の存在理由の一つに。

「天上教会は、やがて訪れる終末を偽るために存在する……?」

 それを聞いていたクロエはぐっと腕を伸ばし伸びをした。

「少なくとも私はそう考えている。しかし預言はまるでそんな終わりを待つだけの世界に終止符を打とうとしているようにも聞こえないか? ――預言によって、いずれ訪れる終わりを今、皆平等に受け入れる……そんな風に聞こえるんだ。それもまたこの世界の終わりの一つの在り方なんじゃないかと私は思えてならない」

 その考えは残酷かもしれない。しかし希望の見えるはずのない世界で、それでも希望を見出さねばならない苦痛に比べれば、遥かに楽なのではないか?

「けれど、それと天上教会の正体とに何の関係があると言うんですか?」

 それがエリノアには分からなかった。

「では逆に聞くが、何故天上教会は天上の神を隠したがるんだ? たとえば天上教会の掟の一つに夜空を眺めてはならないってのがあるだろ? これはいったい何のためにある?」

「それは……分からない」

 考えたことすらなかった。聖女として生まれたエリノアからすれば、天上教会の掟など疑うはずもない。エリノアの天上教会に対する感情に、迷いが生じた。その隙を見逃さず、クロエが問いかける。

「……天上教会は何を隠しているのか。お前も知りたくなっただろう?」


   第七話 家族


「二手に分かれよう」

 シグルドがそう提案した。

 クロエとの捜索を始めてから十分が経った頃だった。拠点の内部は、もともと坑道だったからかめるで迷路のように複雑で広く、そこから一人の人物を探し出すのは不可能に近かった。だからこそ二手に分かれて探そうと、そういう提案なのだとアルは思っていた。

「俺がおとりになってクロエをおびき出す」

 だからそんなことを告げられた時、アルは驚いた。

「そんな危ないことはさせられない」

「俺はこれでも軍人だ。正規の訓練を受けた兵士でもない連中なんて、装備がいくら充実してようが敵じゃない。それよりもこのまま探し続けて捕まるリスクの方が俺は怖い」

「そりゃあそうだけど」

 それでもアルは、シグルド一人でこの拠点の何十、下手をすれば何百という連中と戦えるとは思えなかった。しかも相手の装備はかなり充実しているようであった。到底太刀打ちできるとは思えなかったのである。

「それなら俺も行こう」

 バートンが意気揚々と名乗りを上げた。

「俺なら傭兵だし、戦闘の経験もある。何よりも、そこのチビよりも腕が立つぞ」

 レナートを横目に言った。レナートはむっとした表情を浮かべる。

「おいそりゃあどういうことだよこの野郎っ!」

「見つかったらどうすんだバカ!」

 声を張り上げたレナートはアルに口を塞がれる。

「バートンとか言ったか。俺は一人でも問題ない。なにより俺とくればリスクが大きい」シグルドは角から顔だけ出すと、武装したコルボ・ノワールの団員を覗いて言う。「連中の装備は大分揃っているようだし、危ない橋を渡らせるわけにはいかない」

「ああ、そうだな。だからお前だけに危ない橋を渡らせるわけにはいかないだろ?」

 シグルドは予想外の言葉に振り返り、バートンを見た。

「俺は多分この中で一番歳が上だ。若い者があぶねえところに行くってんなら、俺も行く」

「けれどお前も死にたくはないだろ」

「そりゃあ誰だって死にたくはねえけど、それでも他人にリスクを背負わせて、自分は知らんぷりってのは死ぬよりも最悪なことだ。それにシグルド、お前は今は英雄じゃねえ。俺達の仲間だ。仲間に全て背負わせるわけにいかないだろ」

「英雄じゃない……か」

 シグルドは反芻する。

 いままで背負ってきた人々の期待や希望、しかしそれを共に背負ってくる者はいなかった。どこか、負けて、英雄でなくなって安堵している自分がいたことにシグルドは気づく。

 ――もはや英雄などではない。

 そんな言葉は、自分自身に吐いていたのではないか?

 今更になってそんなことをシグルドは思う。

「ありがとう。けどそれでも俺は英雄を演じたい。俺は俺の思う理想像がある。それを手放せばきっと俺は俺でなくなる」シグルドは拳銃の引き金に指をかける。

「理想像をその都度変化させながら人は大人になっていくんだ」バートンが言う。

「それでも変えたくない物だってあるだろ?」

「そう思い込んでいるだけかもしれないぜ?」

「だとしてもだ。俺は俺なんだ。それにお前が俺と来れば、この二人はどうする」

 二人とは、アルとレナートを指していた。

「こんな時まで他人の心配とは、英雄様は感心だな」

「それが皮肉でも、俺は俺を英雄と呼んでくれる人がいるならその期待を背負いたい」

「何故そこまで英雄に拘る?」

「俺は昔聞いた神話の英雄を未だに追いかけているガキだからだ」

 英雄シグルドの正体は、英雄に恋い焦がれる一人の少年だった。

 英雄ごっこが好きな少年に過ぎなかったのだ。

「……子供の遊びだ。バートン、お前の入る余地はない」

 そう言って、シグルドはリボルバーの引き金に手をかけ、見晴らしの良い通路へと飛び出た。直後、銃声が響き渡る。

「アル、俺は鬼ごっこでお前に捕まったことはないだろ?」

 それだけ言い残すと、シグルドは慌てて剣を向けるコルボ・ノワールの団員へと突っ込んでいった。そしてその中の一人を人質にとると声高に宣言した。

「俺はオリンポスの英雄シグルドだ。お前達の団長を、クロエをここに呼べ!」

 人質のこめかみに銃口を当てる。片方の手は引き金に指をかけて、もう片方の腕を高く天井へと突き上げる。シグルドの表情は空すら見えない坑道の中でなお、快晴であった。

 そして、ちょうどそこに一人の少女が現れる。

 乱暴に短く切っただけの黒髪。そして金のラインが縦に二本は言った黒の軍服。憎たらしい笑みを浮かべているその少女は、冷めたような視線をシグルドに送る。

「ちょうどお前を探していたところだ――ユーグ。逃げたと思ったが、殺されに舞い戻ったか」

 ユーグ――それはシグルドの本当の名。嘲笑するようなその口調は、しかし付け入る隙すらないようにも思えた。ユーグは人質を突き飛ばすと、その銃口の先をクロエに向けた。シグルドを囲んでいた団員達は皆一斉に剣を、そして一部の者は銃口を、シグルドへと向ける。

「クロエ。お前こそ今や天上教会の犬に成り下がっているだろう?」

 銃口を向けられたクロエは、それでもまったく臆する様子を見せない。

「私が天上教会の犬なら、それじゃあお前はオリンポスの犬ってところだろ。私とお前、何も変わらないじゃないか」

「いいや、違うな。俺はこの戦争をいち早く終わらせ、そして再び世界を束の間の平和へと導こうとした。しかしお前はこの戦争を終わらせないように動いている。お前は自己の利益のため、人類を丸ごと犠牲にするつもりか?」

「……もしそうだったとして、何か悪いか? そもそもだ、お前は今やなんの力も持たない身。どころか帝国最大の敵であり、オリンポスでは戦犯。お前には帰る場所などどこにもない。偉そうに講釈を垂れるような身分じゃないだろ。少しは弁えたらどうだ?」

「確かに、今や俺の帰る場所はない。俺は無力だ。それでもお前に聞きたい。お前は、お前の行動の先に何を見た? お前はどんな世界を夢見る?」

 ユーグは預言の先に救いがないことに気づいた。

 それでも人々には明日を生きていく理由、そして希望が必要なことを知った。

 英雄願望を胸に、家族を捨てた少年は英雄と呼ばれるようになった。

 ユーグは、この終わりゆく世界で束の間の平和を夢見た。

 それではクロエはいったいどんな夢を、希望を抱いて今日を、明日を生きていくのか――ユーグはそれが知りたかった。彼女の兄として、彼女の進む先に希望があるのか、知りたかった。

 しかしクロエは全身を脱力させると、少し俯いて答えた。

「私は、この世界が終わることを望んでいる。争うこともなく、皆平等に静かな終わりを迎える、そんな世界を望んでいる」

 その答えには希望なんて輝かしい物は感じられなかった。むしろこれから待ち受ける運命に対する悲壮感や絶望、そんな運命を受け入れるかのように聞こえた。

「……それでお前は幸せになれるのか?」

「人に銃口を付きつけながら言うセリフじゃないね」

 相も変わらずクロエは皮肉たらしい口調で言う。

「仕方ないだろう。お前が冷静でも部下たちは血の気が多いようだからな」

 確かに、クロエがこうして銃口を向けられている以上、周囲にいる団員達は手出しをしてこないが、それも銃口を降ろした瞬間、待ってましたと言わんばかりにユーグは取り押さえられるか殺されることだろう。

「クロエ、お前はどうしてそんなに寂しい道を選ぶ? この世界が今終わるくらいなら、先送りにしてでも見せかけの平和の中で生きようとは思わないのか?」

「それこそ希望もなにもない過酷な世界だ。結局は今と同じ、この世界が明日終わるかもしれない恐怖におびえながら生きる。それならむしろ預言のいう星の運命を受け入れて、みな平等に終わりを迎える方が幸せじゃないか?」

「どうしてお前はそんなに寂しい未来を望むんだ」

「兄さんが私の前から姿を消した時に、私は知った。永遠なんてものはない、別れはいずれ訪れる。幸せも同じ、いずれは終わる。大事なことは、終わりをきちんと受け止めることだって」

 クロエは、唯一の家族である兄から見捨てられた。

 そして寂しさを胸に、一人になった少女は世界の終わりを望むようになった

 クロエは、この終わりゆく世界の現実を受け入れた。

 ユーグにはそれが痛いほど分かった。お互い結局一人になった、そうなって初めて感じた痛みは、到底消えないほどの苦しさだったからだ。

「クロエ、長い間一人にして悪かったな。ごめん」

 突然、そんなことをユーグは口にした。クロエが呆気に取られている中、銃口を降ろした。刹那――ユーグの右肩から血しぶきが上がる。ユーグは体勢を崩し左によろける。次にがユーグの腹から血しぶきが――腕から――足から……銃弾の硝煙がけむる中、血液が周囲に巻き散った。ユーグは後ろへ二歩後ずさる。それでも立っていた。

「――やめろ!」

 クロエの号令で銃声は止む。

 ユーグの手から拳銃が零れ、地面へと落ちる。

 血だまりに落ちた拳銃が赤く染まる。

 ユーグはよろめきながらクロエへと向かう。

 目の前の光景にクロエはただ茫然とするばかりだった。

 ユーグはクロエに手を伸ばす。

 ユーグの一挙手一投足が、クロエの眼球に残像のように焼き付く。その手がクロエの頬に触れた。その指を伝って、クロエの頬に血が付着する。直後、銃撃とともにユーグの姿が視界から消えた。

「団長から離れろ!」

 そんな言葉が聞こえた後、呆然と佇むクロエの横を、武装した団員たちが駆け抜けてゆく。身体を朱に染めたユーグは、坑道の地に倒れていた。その周りを彼らは囲んでいた。

「……離れろ」

 クロエの声に力はなかった。

 事の顛末を見ていたアルは、思わずユーグの元へと駆け寄った。

 クロエはアルの顔を見るなり言った。

「フレディ……!」

 それはまだクロエが幼かった頃、離れ離れになった少年の名だ。

 胸中に当時の思い出が蘇る。その時初めて、自身の目の前で起きた出来事を認識した。

 クロエの脳裏に最後、シグルドが言っていた言葉残響する。

 ――クロエ、お前と話せて良かった。


   第八話 ――五年前、事件は起きた。


 そこはコロリョフという小都市だった。北極圏に位置する直径六十キロの大穴にできた海を囲うように都市は成り立っていた。構造としては、都市の中心部の海、それを囲うように市街地、そしてその外には針葉樹林があり、都市の人々の生活を支えていた。しかしそんな針葉樹林もここ十年ほどで、世界のほとんどを包む赤き荒野にその大部分を飲まれてしまっていた。あと少し針葉樹林が荒野に侵食されれば都市は成りゆかなくなってしまう。そんな時だった。聖女の預言が下ったのは――


 その年の平均気温は前の年と比べて五度低下した。当然その影響がないはずもなく、コロリョフは歴史的な大寒波に襲われていた。最低気温はマイナス七十度を記録。コロリョフの大穴に出来た海すらも完全に凍結した。都市は極寒の吹雪に包まれ、外界と隔絶された。

「お腹減ったよ」そう泣く子供に、親は自らの食糧を差し出す。そしてあばらが見えるほどやせ細っていく……そんな光景はもはや当たり前になっていた。やがて親が死ぬ家が出てきた。親を亡くした子供も親が死んですぐ、極寒の家の中で凍死した。そんな状況にあって都市では殺人や強盗が横行するようになった。――でなくては生きてゆけなかったのだ。


 そこは細い道に面した住宅街だった。細長い家が密集するこの場所に、二人の兄妹が住んでいた。彼らもまたこのコロリョフの大半の子らと同じく親を亡くし、この極寒の地でその日が来るのを待つだけとなっていた。ろくに何も口にしない生活が六日続き、妹はみるみるやつれて言った。腕は細く、頬はこけ、目はうつろ。七日目の朝、そんな妹を見た兄はとある決意をした。

「少し外に出てくる」

「…………うん」

 聞こえているのか分からない妹の返事を聞いて、兄は一人吹雪の中へと踏み出した。そして日がすっかり沈んだ頃、兄は家に戻った。家の中はすっかり冷え込み、床には霜が降り始めていた。妹の顔色は青白く、服も半袖を一枚着ているだけだった。兄は慌てて妹の息を確認し、毛布でくるむ。やがて時間が経つと、部屋が暖かくなった。兄は粥を妹の口に持ってくると、スプーンで食べさせた。久々の食事をとった妹は、そのまますっかり寝てしまった。


 翌日の昼過ぎ、妹は目を覚ました。暖炉の炎で暖まった部屋の中で。そうして狭いリビングの、丸いテーブルの上にソレを見つけた。――赤黒い血の滲んだ衣服が、乱雑に置かれていた。

「兄様!」

 妹は家中を探し回った。すっかり筋力の落ちてしまった足で、三階まで駆け上がった。屋根裏部屋も探した。しかし兄の姿はどこにもなかった。壁にもたれかかりリビングまで戻ると、妹はテーブルの上に手紙があるのを発見した。いや――実のところ、それはわざと見ないふりをしていただけだった。妹はそれを、そっと手に取る。手紙には、衣服の赤黒い血がポツリポツリと染み付いていた。


 ――クロエ。

 しばらくは家に帰れそうにありません。

 幸いなことに、優しい人が一年は暮らせるだけの薪と食料を譲ってくれました。

 それで一年暮らしなさい。それでも私が返ってこず、この吹雪も止まなければ、その時はコロリョフを出て、南の温かいところに行きなさい。これはそのためのお金です。


 手紙の置いてあったテーブルには、この都市に越してきてから見たことがないほど大量のお金が積まれていた。しかしそのお金にも、また食料にも手を付けず、妹は夜遅くまで兄の帰りをまった。その翌日も、またその翌日も。しかし兄はついに戻ることはなかった。

 妹は兄が二度と戻らないことを理解した。……兄に自分が捨てられたことを。

 その日はたまたま吹雪が止んでいた。

 妹はその日、荷物をまとめると、家を出た。南のまだ暖かい都市へと旅にでたのである。しかし世界の気候変動は孤独な少女に、逃げ場すら与えなかった。歴史的な凶作によってどこの都市の人々も、自分達が食べていくので精いっぱいであり、到底、他人の子供の面倒など見きれなかったのである。そんな中で、親のない女児を受け入れるような連中は、どうしようもない連中ばかりであった。結局、彼女は彼らの悪意から逃げ続け、気づけばまた暗く寒い、鬱憤としたスラム街に迷い込んでいた。その時ようやくクロエは察した。この世界はどうしようもなく、いずれ来る終わりから逃げ続けることには何の意味もないのだと。終わることを受け入れることが大事なのだと。

 きっともう兄は二度と彼女の元へは戻ってこない。

 ――ユーグはクロエを捨てたのだから。


 そもそもいったい何が始まりだったのか。

 クロエはコロリョフが吹雪に包まれる少し前に告げられた預言を思い出した。


 ――死にゆく星の子らよ、運命の灯はもうじき失せる。

 世界を救いたくば探せ。

 この世界の真実、そしてこの世界の英雄を。

 この世界に欠けているものを探さなければないない。

 星に残された命運はもはや五年、たった五年しか残されていない――



 この世界規模の気候変動はもしかすればこの世界が終わる――その始まりに過ぎないのではないか。そんな終わりゆく世界なのだとすれば、本当に救えるのだろうか。

 ――むしろその終わりを受け入れるべきではないか。

 クロエはスラム街の暗く寒い路地の中で、世界の終わりに明日生きる理由を知った。


   第九話 助けに来た


 ユーグが倒れゆくその様を、アルは見ていた。

「離れろ」群がった部下に、クロエが告げる。

 クロエがユーグの前で膝をつく。

 その時だった。アル達のいる坑道の後ろから足音がした。

「――いたぞ!」

 直後そんな声が上がった。

「クソっ、逃げるぞ!」バートンが言った。

「前も後ろも敵だらけだ!」レナートが悲鳴のように叫ぶ。

 先ほどまでユーグに視線を取られていた団員達も声に反応して、アル達の方へ一斉に武器を構える。クロエもまた、膝をついたままアルを見た。そして目が合った。

「フレディ……?」

 クロエの口からそんな名前が零れるが、誰一人としてその名前が誰を指すのか気づいた者はいなかった。本人を除いて。

 こんな時だけれど、もう少しクロエと話す時間があれば……そうアルはユーグを恨んだ。

「逃げろクロエ!」

 直後のことだった。地面が揺れた。

「坑道が崩壊する!」

 そう、あの武器庫でユーグが持っていた袋の中身は爆弾だった。道中、ユーグは立ち止まっては爆弾を坑道のあちらこちらに取り付けていたのである。果たしてユーグはこうなることを分かっていたのか――その場は大混乱に包まれ、皆一様に出口へと逃げ出した。おかげで三人は戦闘を避けることが出来た。

 しかし間もなくまた爆発が地面を揺らし、二人の視線が交差する中、天井にあった固い岩盤はその間を縫うように崩落した。しかし岩盤が地面につくその時まで、アルとクロエは互いの視線を切ることはなかった。


 崩落した岩盤の先を見つめるアル

「おい、早く逃げるぞ!」とレナートがアルの腕を引く。

 クロエが心配だ。あの先にクロエがいる。もしここでクロエが死んでしまったら。

 考え出したら不安は増える一方だった。

 そんな時だった。ゴツンと鈍い音を響かせながら、アルの脳天に衝撃が走る。はっとして振り返ると、そこにはバートンがいた。

「シグルドのヤツを信じてやれ。あのクロエってのはアイツの妹なんだろ。それなら爆弾の仕掛け方だってアイツが助かるようにするはずだ。だからきっとあの子は助かる」

 確証はない。しかし確かにユーグならそうするかもしれない。結局、アルがクロエと話す時間は作ってくれなかったが、それでもこうして逃げることができるようにしてくれた。それにアルの事情を知って、それでも話さないでくれた。ユーグは昔から口にはしないが、気が利く人間だった。

「確かにバートンの言う通りかもね。今は何よりも逃げなくちゃ」

 と、そこまで言ってアルの思考に、一つ忘れかけていたものが蘇る。

「ここに連れ去られた少女――あの聖女だっけ……あの子を助けないと」

 そんなことをこの状況で本気で話すアルに「とっかえひっかえ」と呆れた様子でバートンは苦笑した。

「まあ、いい。一目惚れだもんな。男ってのは恋愛にうつつを抜かしてなんぼだ」

「……一目惚れなんかじゃない」アルは一応否定はしておく。

「さてそれじゃあ、アルの一目惚れとやらを叶えにいくか」

「だから一目惚れじゃない!」

「…………おいおいこんなテンションで大丈夫なのかよお」

 レナートのそんな不満たっぷりの言葉を聞きながらもアル達はどこにいるとも知れぬ聖女を助けに向かうのだった。


 しかしアル達三人が出たのはコルボ・ノワールの船の止めてある谷間だった。

「おいおい、出てきちまったじゃねーかよ!」

 レナートはすっかり明るくなった空を見上げながら、呆れ声で言う。

 しばらく空を見ていなかったせいか、アルにはその空が眩しく感じられた。思わず腕で顔を覆うと、その暗がりにユーグの姿が浮かんだ。ユーグが銃弾をその身に受けて、倒れる姿を。クロエの代わり果てた顔も。

 もし自分があそこでユーグを助けられれば、もし自分がクロエを助けることができていたのなら。――そんな後悔は、もはや遅く。時は二度と戻ることはない。クロエと五年ぶりに再会してアルは動揺していた。たとえアル自身が変わってしまったとしても、彼女は変わっていないと信じていた。けれど殺したらダメだと言った彼女が、目の前で兄を見殺しにした。

 五年という時の流れは残酷だった。

「あれって俺達が乗ってきた船じゃねーか?」谷に並んだ船舶を眺め、バートンはそのうちの一隻を指差した。その先には確かにアル達の乗ってきた大型船が見えた。

 すでに谷には坑道から逃げ出して来た人々が溢れかえっており、三人は見つからないように低姿勢で顔を隠しながら大型船の方まで走った。そうして大型船のハッチを開き、いよいよ乗り込もうという寸前――アルが立ち止まった。遠くに見えた人影に、まさかと目を疑う。

「おい、どうしたんだよ」レナートが船内から声を掛ける。

「――ごめん。行かなくちゃ」

 そう言い残し、アルは走り出した。レナートが視線を追う、アルの走り出したその先――そこには白雪のような長髪の少女がいた。この荒野にあって、まるで周囲の熱を吹き飛ばすかのように美しい少女。アルは彼女のところへ向かうなり話しかけた。

「君はマリネリス峡谷で攫われた聖女様だよね」

 ――もしかしたらまだ間に合うかもしれない。自分にも助けることができる人がいるかもしれない。そんな期待を胸に。

「ええ、そうだけど」突然話しかけられた少女は答えた。まったく感情の籠っていない声で。しかしその答えを聞いたアルを襲ったのは、安堵だった。

「良かった」泣き出してしまいそうなのを堪えて、アルは言う。

「今度こそ間に合った」

「間に合った?」

 少女は首を傾げる。

 少女の目はどこか不安そうで、哀しみに暮れていた。

 そんな少女にアルは告げる。

「君を、助けに来た」


 ――君を助けに来た。

 その言葉をどれだけ願っていたことか。

 そんな優しい顔をどれだけ待っていたことか。

 誰かが助けに来てくれることをどれだけ夢にみたか。

 気づけばエリノアの喉は詰まり、目頭は熱くなり、そして無表情は崩れていた。

 今まで聖女として助ける側だった。天上教会に道具のように扱われ、それでも世界が救われるならそれでも良いと思っていた。――しかし心の中では助けを求め叫ぶもう一人の自分がいた。

「僕についてきて!」

 そんな言葉とともに、目の前の少年から差し出された手。その手の温もりをどれだけ欲していたか。エリノアはその手を取る。体温が肌から肌へと伝わる。エリノアの冷え切った手が、熱を帯びる。エリノアは少年の目を見て、言った。

「――助けに来てくれて、ありがとう」

 嬉しかった。

 まだ自分を助けてくれる人がいることを知って。

「私はエリノア。エリノア・クリス・カーター。ノアって呼んでください。……あなたは」

 初対面にもかかわらず、エリノアは目を腫らし、涙を流していた。そんな自分をエリノア自身、変だと思いながらも、涙は止まらない。

「僕はアル。ただのアルだ。さあエリノア、行こう」

 アルに手を引かれ、エリノアは歩き出した。二人は次第に駆け足になる。

「変なことを聞きたいんだけど。なんで助けに来てくれたの? だって私とあなたって……その……知らない人同士だし。あなたが私を助ける理由もないでしょ」

 エリノアは涙を手で拭うと、前を走るアルに尋ねる。

「君が助けてと言った時、たまたま聞こえたんだ。それで居ても経ってもいられなくて、助けに来た……って変だよね」

 いったいなんて馬鹿みたいな理由だと、アルは自分で発した言葉に溜息を吐く。

「確かにあなた変よ。けど私もそんな変な人について言っちゃうんだから変なのかも」

 こんな時なのに、思わず笑ってしまう。そんな自分が余計におかしくて、また笑ってしまう。

「ねえアル。ありがとう、助けに来てくれて」

 アルは周囲にバレないように顔を隠しているこの状況に、少し感謝していた。でなければ、きっと朱色に染まった顔を見られてしまったに違いないから。

 やがて、レナート達が乗りこんだ大型船のハッチに二人はたどり着く。アルはエリノアの手を優しく握ると、大混乱の中、彼女を船内に案内した。そしてハッチが閉まる直前、ようやく二人に気づいた団員達が船に向かって銃口を向けた。船はその身に無数の銃弾を受けながら、発進する。その最後尾のハッチにいた二人は、緊迫した状況にあってなお苦笑を浮かべていた。

 ――エリノアは、助けに来てくれた人がいたことへの喜び。

 ――アルは、今度こそ間に合ったことへの安堵で。


 艦橋には今、四人の姿があった。

 アル、レナート、バートン、そして聖女エリノアである。

「おいアル……なんで聖女様なんてすげえ人連れてきてんだよっ!」

 レナートはここ最近定位置になっているアルの後ろに隠れながら耳打ちする。

「レナート、何を隠れてるんだ?」

 アルの腕の袖を掴んだまま、足をガクガクと震わせるレナート。明らかに変わった様子にアルは戸惑いながらも素直に心配するような声を掛ける。

「あのアル……? その人怖がっているように見えるのですけど、何に怯えているんでしょうか?」

「さあ、僕にもさっぱり」

「あの……レナートさん……?」

 エリノアはレナートの傍まで寄る。レナートはアルを挟んでエリノアの反対側へと回る。レナートを追いかけ、エリノアがアルの背中に立つ。今度はレナートがアルの正面に立つ。……と、ぐるぐると二人はアルの周りを回り始めた。

 そんな二人を目を細めて観察していたバートンは「もしや……」とニヤリ、口角を上げる。

「レナート。お前、聖女様が怖いんだな?」

「――え。私が怖い? 私何かレナートさんを困らせるようなことをしてしまったでしょうか?」

「いや、違うんだ聖女様。コイツはお前が怖いんじゃない。いわゆる女性恐怖症なんだ」

「……女性恐怖症?」エリノアはこくりと首を傾ける。聞いたことがないようだった。

「見ろ、レナートのヤツ息の仕方忘れちまったみたいで、酸欠になってるだろ?」

 確かにレナートの顔は真っ青だった。

「すまんが聖女様、レナートのバカからちょっと離れてみてくれないか?」

「――はっ、はい!」

 エリノアが早足でその場から離れると、レナートは胸を押さえたまま地面に倒れ込むと、大きく息をした。

「ハアハアハアハア――ボク、死ぬかと思いました」

 普段のバカ丸出しの口調から打って変って敬語、しかも一人称はボクになっていた。

「……おい、どうしちゃったんだよレナート」

「いや、実はボクはちょっとしたトラウマはあって……女性が近くにいるとどうもこんな風になっちまうんだ」徐々に過呼吸が戻るとともに、口調も普段通りに近づいた。

「でも、ピュセルの時はそんな風にならなかったじゃないか?」

「なってたさ! だからお前達二人が艦橋に戻ってきた時言っただろ『「もう一人にはしないでほしい』って!」

 大型船を乗っ取ったときの話だ。艦橋に拘束していたカデルとクレイグ、そしてピュセルを見張っていたレナートが、戻ってきたアルに言った言葉だった。

「あれはカデル達が睨んでくるから怖いって意味だと思ってたんだけど」

「違うさ、連中がいくら恐ろしい顔をしてようと、睨まれたくらいじゃ怖くもなんともないぜ。ただ……あの時は状況が違った」

「つまり、ピュセルがいたから……?」

「そう、そうだ!」レナートは切実に訴えかけるような声で言う。

「だったらその後のことはどうなんだ? ピュセルともそこそこ仲良くやってただろう?」

「それは……アイツは俺のタイプじゃなかったからだ!」

 ――コイツ、言い切りやがった。

 口には出さぬものの、アルは内心苦笑した。

 なぜなら――


「それって、聖女様がお前のタイプにドンピシャって自白してんのか?」

「それは――――!」

 叫んだレナートは、瞬時に言い訳を考えて、それでエリノアと目が合った。そこでカっと顔を赤くしたかと思えば、アルの背中に回りこむと膝を抱えて床に座った。

「もうダメだ……おしまいだ……今まで隠してたがな! 俺はな! こういうヤツなんだよチキショ――!」半ばやけくそ気味に頭を掻きむしった。

 そんな姿を哀れんだアルは、レナートの背中を優しくさすった。

「うん、大丈夫だよ。人には誰だって弱いところがあるんだから。それがたまたまレナートは……その……女の人だっただけで」

「うっ……アル……!」

「……うんうん」

「その優しさが今は余計に空しくさせるぜ」

 レナートの目から、涙が一滴、床に落ちたのだった……



 それからしばらくして、アル達の船は風の凌げそうな谷間に停止していた。気分転換もかねて外に出た四人。レナートは外に出るなりいきなり走り始め、高台になっている岩を登るとその上に仁王立ちで立った。おかげで少し高い位置から三人を見下ろすような恰好となる。そして三人がレナートを見上げると、それを待っていたかの如く意気揚々と口を開いた。

「さてお前達、この船の燃料も食料もあと持って七日だ。はっきり言ってヤヴァイ。しかもここはノクティス迷路、抜け出すことすら一苦労の迷宮地帯だ。そんな場所で我々はこのまま死を待つのか――否っ!」とそこまで長々と話したところでバートンに止められる。

「おい、なんでお前が偉そうに仕切ってんだ。ついさっき聖女様にバカみたいな告白をして振られたばかりだろ」

 レナートは、ある程度距離を取れば問題ないらしい。それに慣れもあるのだろう。今では至近距離に近づかなければ発作も起こさなくなっていた。

「いつもいつもお前達に見下ろされてばかりだからな。たまには俺もお前達を見下ろしてやりのである!」

 目線が少し高いだけでこんなにも虚栄心が満たされるのならむしろ羨ましいものであるが……しかし状況が悪かった。

「私もそんなに身長高くないですよ」

 本心から言っているのだろう、まるで虚栄心のない謙虚が言い草だった。

「うっ――!」とレナートは声を漏らす。

「レナートさんと同じくらいだとおもいます」

 たったの二言。しかしそれは強烈な攻撃になっていた。

「……同じくらい……だね……確かに……」

 そう、男であるレナートとエリノアの身長が同じ。それはレナートの満たされつつあったプライドを完膚なきまでに叩き潰したのである。

「聖女様、もうやめてやってくれ……アイツはもう死んでいる」

 バートンは手を組みながら、ゆっくりと頷いた。

 しかしレナートのことはさておき、船の燃料と食料問題は深刻だった。猶予は七日しかない。しかも近くの都市で補給しようにもノクティス迷路にいては、出口など分からない。地図が表示されていたヘルメットも船内には見当たらない。おそらくコルボ・ノワールに捕まった時に一緒に回収されたのだろう。こうしてレナートが意図せず明るい雰囲気を作っていたものの、状況は八方ふさがりだった。

「そうだ。アルが書き写した地図があったじゃないか!」

 レナートが突然、思い出したように言った。

「もちろん探したさ。けど見つからなかった」

 万策尽きたか。部屋は沈黙に包まれた。もうダメかもしれないと皆が諦めかけていたかもしれない。そんな時にエリノアが気まずそうに手を上げた。

「その、さっきから言おうとは思っていたのですけど……私ならこのノクティス迷路の出口、分かりますよ」

 俯いていた三人の顔が同時にエリノアを向く。

 あまりに突然のことで、理解するのに時間がかかる。

「……ねえエリノア。今、ノクティス迷路の出口が分かるって言った?」

 アルは名前を呼ぶのが憚られたのか、少し顔を背けていた。

「すいません、なかなか言い出すタイミングが掴みにくくて。――あとアル!」

「はいっ!」

 名前を大きな声で呼ばれて、アルはピンと背筋を伸ばす。そんなアルに優しくエリノアは言う。

「私のことは、ノアでいいですよ」

「……聖女様にそんな砕けた呼び方をしていいのかな」と困ったように肩をすぼめる。

 エリノアは顔を背けるアルの目の前に立つと、微笑んでみせた。

「アルは命の恩人だから」

 アルの顔は真っ赤に染まった。

「どうしたんですか?」

「なっ、なんでもない!」

「でも顔真っ赤ですよ?」

 二人の様子を見ていたバートンは溜息交じりに「若いな」と呟く。一方のレナートはアルの様子を見て――アイツも実は俺と同じで女の子が苦手なんだな――と親近感を抱いていた。もちろん大いなる誤解であるが。

「それよりも……ノア……さっき言っていたノクティス迷路から出る方法とやらを教えてくれないか?」ようやく決心がついたアルは、エリノアに顔を向ける。すると小さい顔がぐいっとアルの鼻先に迫った。アルは「わあ」とのけぞる。

「ちゃんとノアって呼んでくれたねアル。いいでしょう、君たちをこの聖女である私が助けてあげましょう!」自信満々に胸に手を当てたエリノア。聖女らしい慎ましやかな胸部が、上から覗き込んでいるのも相まって、小さいにもかかわらず逆に主張を強め、アルは目のやり場に困る。

 ――アルも薄々分かってはいたが、エリノアは聖女として育てられたために恋愛というものに疎く、距離感がおかしいのだ。

「それでノア……いったい地図もないのにどうやってこのノクティス迷路から出るっていうの?」

 アルが尋ねると、エリノアは不敵な笑みを浮かべ、こめかみをコツコツと人差し指でつついた。

「地図ならありますよ。ここに」

「それってまさか、ノクティス迷路の地図を完璧に覚えているってわけじゃないよね?」

「もちろんノクティス迷路の地図を覚えているってことですよ。というよりは、世界全体の詳細な地理は全て頭に入っています」

 ――いくら聖女といえど、そんなことがあり得るのだろうか?

もし会えり得るのだとすれば、それはもはや魔法なのではないか?

なにせ今の今までノクティス迷路の地図は作られたことがないのだ。あるとすれば、アーティファクトの中。しかしもし地図を見ていたとしても、複雑に入り組んだ迷路を覚えられるはずがない。しかしエリノアは自身があり気に頷く。

「私はこれでも聖女だから」

「いやいや、いくら君が……ノアが聖女だからってそんなこと本当にできるの?」

 アルの意見に賛同するようにレナートとバートンもこくりと首を縦に振る。

「まあ、信じてもらえないのも仕方ないとは思うけど、こんな状況で冗談なんて言うほど私はバカじゃないから!」

 すねた子供のような口調だった。

「まあちょっと見ていてください」

 エリノアは微笑を作ると、祈りを捧げるかのように手を胸の前で組む。そしてゆっくり瞼を降ろす。閉じた目の、長いまつげが綺麗だった。彼女の様子は三人はただじっと見つめる。神秘的な雰囲気を纏った彼女はまるでどこか遠くにいる人物のように思えたからだ。

 一方のエリノアには彼らとはまったく違う世界が見えていた。それは遥か空の彼方から地上を見下ろすような光景。まるで身体から魂だけが抜けて、宙をさまよっているような感覚である。

地図が頭に入っている――エリノアはそう説明したが、それは少し違った。どちらかと言えば、世界をいつでも空から見下ろせる、そう言った方が正しい。

今まさに目を閉じたエリノアの視界に映っているのは、瞼の裏の暗闇ではなく、遥か上空から見えるノクティス迷路だった。エリノアは上空をしばらく飛行しながら、峡谷の中にある自分達の船へと向かった。自分のいる位置がエリノアには感覚的に分かっているのである。そして、その周囲を見渡し、ノクティス迷路からの脱出口を探す。しばらくして。

 目を閉じたままのエリノアの口が開いた。

「――あった」

 彼女は確かにそう言っていた。

「何があったの?」

 アルが尋ねると、エリノアはゆっくりと目を開けて答えた。

「ノクティス迷路の出口。地図に書き写したいんだけど、書く物ってあるかな?」

「それなら俺が持ってるぜ」言いながらレナートが外套の内ポケットからクシャクシャの紙と羽ペン、そしてインクを取り出す。アルが前に地図を書き写した時に使ったものと同じものだ。

「荷物は全部没収されたはずだろ? どうしてまだ持ってるの?」

「そりゃあ、ちょいとあの拠点でくすねてきたに決まってんだろ」

「いつの間に? 気づかなかったんだけど」

「これでも俺は傭兵っていうもんをやりだしてから三年は経つ。これまで何度も死にそうな経験をしてきた。大きい声では言えねえけど、盗人みたいなことだってやったさ」

「――つまり、その経験の中で手に入れたスキルだってことか?」

「スキルか……なんか特別感があっていいな。よし決めた、コイツは俺の、俺だけのスキルだ!」

 レナートは「スキル」という言葉が気に入ったらしく、嬉しそうに宣言する。しかしはしゃいでいるレナートをバートンは鼻で笑う。

「スリまがいのモノだけどな」

「――自分のためにスリはしないっ!」

「じゃあそれはなんだ?」

 バートンはエリノアに渡した紙と羽ペンと指差す。確かにソレはレナートが私欲のためにスリをしたと言えなくもない。

「それは……まあ……連中は俺達を拘束するような奴だし。そんなイカれた連中からちょいと物を拝借しても誰も起こらないだろ。うん。だからこれはスリじゃない」

 この混沌の時代に私利私欲に走らない人間がいるとは――と、アルはほんの少しレナートを見直した。

そんな話をしていると、地図を書き終えたエリノアふくれっ面のエリノアにアルは気づいた。

「私を置き去りにしないでください」

「ごめんノアーーただレナートは案外良い奴かもしれないって思っただけだよ」

「え――? おいアル、いきなり褒めるのは反則だろ!」

 知らないところで見直されていたレナートは少し困りながらも嬉しそうな表情を浮かべる。

 やっぱり単純な奴だ――とアルは思った。

「さて皆さん、まずこの地図を見てください」

 ちょうどよい大きさの岩に置かれた地図を四人は囲む。

 エリノアは地図の上に小石を置いた。

「まず私達のいる位置はおおよそこの辺、ノクティス迷宮の北西にある峡谷ですね」

「……本当にこれがノクティス迷路の地図なのかよ」

 こういうことになると、レナートがつっかかるのは相変わらずなようだった。けれど今回は話しているのが聖女のエリノアだったためか、アルに耳打ちするだけにとどまった。

「いや、この地図は本物だと思うよ。僕も前書いた時の地図を少し覚えているけど、峡谷の入り組み具合が似てる……ような気がする」

「結局はそんな気がするってだけじゃないかよ……これで俺達の行く先が変わるかもしれないんだぜ? ――いいのかよ、そんな適当に決めても」

「けどここでずっと彷徨っているわけにもいかないでしょ。それなら掛けてみるしかないよ、預言を下した聖女様に。それ以外の選択肢があるのなら話は別だけどね」

 それでレナートは納得したのか、吐き出そうとする言葉をぐっとこらえて「そうだな」と小声でつぶやいた。

 エリノアは話を続ける。

「――それで、私達に残された七日という日程を考えると……燃料と食料が十分に補給できる場所は北西およそ四千キロ地点に位置するオリンポス共和国しかない」

 ――四千キロ。そんな途方もない数字に、レナートは目がくらんだ。

そこに追い打ちをかけるようにエリノアは告げる。

「もしこの七日間で二千キロ先のオリンポス共和国にたどり着けなければ、船の燃料も食料も尽きて、私達の命運は今度こそ終わるかもしれない。だから何が何でも七日以内に絶対にオリンポス共和国にたどり着きましょう」


   第十話 七日間


 四千キロの長い道のりの一番最初の山は、ノクティス迷宮からの脱出だった。入り組んだ峡谷はどこも断崖絶壁で、到底船では上がれそうにない。しかも深さ六キロに達するこの峡谷は真昼間以外には太陽が昇らない。おかげでそのほとんどが暗い夜のようで、視界も悪い。当然、船の速度を落とさざるを得ず、おかげで七日という制限があるにもかかわらず脱出に一日半をついやしてしまった。

 船が地上へ顔を出したのはちょうど夕日が地平線に沈む頃だった。艦橋には茜色の陽光が差し込む。アルは思わず目を瞑った。今まで廃坑や峡谷といった暗い場所にいたので、目が慣れていないのだ。

「なんとかノクティス迷宮から出れたね」

 ほっと一息、アルは艦長席の背もたれに寄りかかる。船には自動操縦システムが搭載されているが、それもこの暗いノクティス迷路にあっては使えない。そのためにアルはこの二日間ろくに睡眠もとらず、ぶっつづけで操縦していた。疲労はもう限界である。

「本当に欲頑張ったな。お疲れさん」バートンはアルの肩を叩いた。

「俺達の誰かが変わってやれれば良かったんだが……」

 アル以外に船の操縦知識を持っている者は誰もいない。エリノアも、いくら聖女といえども船の操縦はできなかった。そのためにアルがここまで一人で操縦してきたのだが、ここからは地形もノクティス迷路ほど複雑ではない。自動操縦

に切り替えることができるのだ。

「でもお前はいったいどこで船の操縦なんて学んだんだ? 普通の人間じゃあまず船を操縦する機会はおろか、乗ることすらないんだぜ」

「小さい時、レオノール司教に教えてもらったんだ」

「アデルム司教? 誰だよそれは」

「昔の僕の先生だよ」

「先生?」

 レナートがそう言ったのと同時に、アルに向かってくる足音がコツコツと響いた。アルは手を痙攣させながら、そちらへ向く。

「アル、大丈夫? とりあえずこれ飲んで!」

 本気で心配してくれたのが、その声色からアルにも伝わった。エリノアは水の入ったコップをアルの口に近づけて飲ませると、顔を覗き込んだ。

「顔色も悪いし、目も腫れてる」エリノアは唇を噛みしめる。

「あはは……ちょっと休もうかな」アルは乾いた笑いを漏らす。

「大丈夫? 一人であるける?」

「うん……多分……」

 言いながらアルはひじ掛けに手を置くと、足に力を入れた。しかし立ち上がろうとしたところでふらつく。エリノアはすかさずアルの身体を支える。

「ごめんノア……ありがとう」

「全く大丈夫そうには見えないから、私が部屋まで連れて行きます。文句はないよね?」

 謎の圧力を感じて、アルは思わずうなずく。

「それではアルを寝かせにいってきます。自動操縦とはいえ日ももうすぐ落ちるので、お二人はここにいてください」

 それだけ言い残すと、エリノアは自身の肩にアルの手を回させると、おぼつかない足取りのアルを支えながら艦橋の昇降機に乗った。そして残された二人が呆気に取られているうちに、昇降機は発進し、二人の姿は見えなくなっていた。


 エリノアはアルはベッドに寝かせると、自身は食べ物を持ってきた。それは乾燥野菜の入ったスープだった。アルはカデルやクレイグと過ごした夜のことを思い出す。

「またいつか、楽しい夜が過ごせるといいな」

 頭がぼんやりしていたからだろう、気づけばアルはそんな独り言を呟いていた。

「それなら食べて。食べないと元気でないから」

「でも眠いし……」

「食べてからね」

 エリノアは譲らない。どころか、スープの入ったスプーンをアルの口元まで持ってくる。アルは仕方なく口を開けて食べる。そんなアルを見て、すこし嬉しそうにエリノアは笑う。そのかわいらしい顔を見ていれば、とても彼女が聖女だとアルには思えなかった。

「ありがとう、ノア。いろいろと迷惑かけてごめん」

 正直、今は身体を動かすのも大変だったアルからすれば、食べさせてもらっていることに少しばかり恥ずかしさを覚えるものの、素直にありがたかった。

「いいの。助けてもらったのは私だから。それに私もあなたの助けになるなら嬉しい」

それが果たしてどういう意味であったかなどアルには分からない。それでも思わず顔を逸らしてしまった。照れ隠しをする時のアルの悪い癖だった。

 ――告白みたいじゃないか。

 口には出さないものの、アルは思う。

「どうして目を逸らすの? ちゃんと食べないとダメだよ」

 そう首を傾げえるエリノアに、アルは頬を赤く染めながら言った。

「ノア、オリンポスについたら二人で出かけようよ」

 相変わらず目は合わせられなかった。眠いはずなのに、アルの心臓は飛び跳ね、重い瞼が次第に軽くなるように感じられた。エリノアの次の言葉にアルは全身を強張らせる。

 アルは顔を逸らしながらも、横目でエリノアの一挙手一投足に注目する。

 エリノアの表情はぱっと明るくなった。それはとびきりの笑顔というやつかもしれない。

「――うん。行こう!」

 エリノアは身を乗り出しながら答える。

 その答えが、アルの意図を理解しているかは分からないが、ともかくアルはその返事に安堵し、次第に意識は闇の中に落ちていくのであった。しかしそれはこれからの長い旅路の始まりに過ぎなかった。

 艦橋にいたレナートとバートンの目の前に、ソレが現れたのだ。

 夕日に照らされた砂丘は赤く燃え上がっていた。炎が空高く昇るように。それは比喩ではなかった。突然に砂漠の中に巨大な丘陵が生えたのである。その丘陵はまさに今この瞬間も空へと夕日を背に昇ってゆく。

「バートン、アレなんだか知ってるか?」

「――見たことはない。けれどもしかしたら……」

 二人は大きな砂の山を見上げながら、息を飲む。砂山の頂上に現れたのは空高く伸びる幾本もの塔。やがて砂は一斉に地面へと落下していき、怪物は二人の前にその全貌を表す。砂の中から現れたのは岩で出来た頭蓋骨。船を丸のみできてしまうほど大きな口が目の前にあった。口を開いただけで周囲に暴風を起こすと、怪物は伸びあがるように地平線に沈もうとしている夕日を飲み込んだ。一瞬にして船の周りは夜に包まれた。

 あまりの大きさに、二人の口は開いたまま広がらない。額には冷や汗が伝う。

 しかし今見えているのは頭蓋骨に過ぎない。果たして全体像がどのくらいかなど、そのあまりのスケールに想像することすらできなかった。バートンはその恐ろしき怪物の伝説を知っていた。この世で唯一、全てを暴力でねじ伏せられる生物――砂の怪獣以伝説を。

「砂の怪獣?」

 レナートはバートンに聞き返す。

「全てを飲み込む砂の怪獣がいる……そんな伝説を聞いたことがある。ヤツを見たが最後、逃げ延びることは不可能。都市の一つを丸飲みしたなんて逸話もある、正真正銘の怪物だ」

 そんな怪物を前にして、レナートはまるで自身が幻想を見ているように思えて、呼吸をすることすら忘れてしまった。――呆然と怪物を眺めていたレナートは、怪物と目が合う。まるで獲物を見つけたかのような視線を感じ、全身に寒気が走る。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 刹那、レナートは甲高い悲鳴を上げた。

 ようやく脳が整理されて、レナートは早口になる。

「おいバートンどうするんだよ! アイツやべえよ、早く逃げねーと」

 しかし船は自動操縦中である。

「そうだ! アルを早く起こしに行かねえと!」

「おい、ちょっと待て!」

 バートンの声を無視して、レナートはアルの寝ている部屋へと急ぐ。

 ――しかしアルはすでに限界を迎えつつあった。

「おいアル!」

 アルの寝ている部屋に、レナートは勢いよく入ってきた。絶え絶えの息が整わないうちに、寝ているアルの傍へと駆け寄る。「あんまり大きい声は――」そう宥めるエリノアを振り切って、レナートはアルの身体を揺らす。

「アル、起きろ! 起きろって!」

 あまりの大声に、なんの騒ぎかとアルは眠い目うっすらと開ける。映ったのはぼやけたレナートの顔だった。

「レナート、眠いんだ。寝かせてくれ」

「ダメなんだよアル。外に! 外にでっかい怪物が出たんだ!」

「でっかい怪物だって? そんなの出るわけないだろ」

「この船を丸のみするくらいでっかい口の怪物が出たんだって!」

「そんな怪物、いるわけないだろ。寝ぼけてるんじゃないか?」

 そうでなかったならば、きっとアルの見ている悪夢か何かに違いないだろう。ともかく相手はしなくていい、アルはそう思いまた眠りに就こうとする。しかしその刹那、ピカリと落雷のような閃光が眼球に飛び込んできた。そのあまりの眩しさにアルは思わずベッドから跳ね起きた。

「なんだ……今の」

 何が起きたのか分からずに、部屋中を見渡す。エリノアもアルと同じようにしていた。

「二人ともどうしたんだよ?」

「レナート、今のが見えなかったのか?」

「今のって……いったい何のことだよ。それよりも早く艦橋に来てくれ。怪物が出たんだ!」


 昇降機で艦橋まで上ったアルの視界、そこに飛び込んできたのはあまりにも異様な怪物だった。魚介類の如き顔面は、何枚かの巨大な岩で鎧のように覆われている。横に広い口は、さながら地平線かと見間違えるほどだ。

「確かにあれは怪物だ」

 一目見ただけでそう断言できてしまうほど奇妙なその怪物。しかし地上に覗かせているのはたった頭蓋だけ。その大部分は未だ地中の中に眠っているに違いなかった。到底、想像しえないほどの巨体だろうとアルは予想する。

「おい、逃げるぞ!」

 昇降機の上で立ち尽くしていたアルを、バートンが揺さぶる。正気に戻ったアルは、まっすぐに操縦席へと向かうと、レバーを指先で弾いて縦から手動操縦に切り替える。そのままの勢いで操縦桿を握ると、船の速力を「原速」から「全速」へと切り替える。

エンジンの回転数が加速し、キーンという機械の悲鳴のような音が艦橋にまで届く。船体後部の八基の排気口は皆一斉に小さく縮み、そこから青紫色の燃焼ガスが宙を蹴り上げるように伸びる。船体下部のリフターエンジンもその揚力を強め、安定姿勢を維持する。

「何をしてるんだ、早く席に就いてシートベルトを!」

 エンジンの駆動音が艦橋に響き渡ると同時、バートンが叫ぶ。直後、艦橋にいた四人の身体が後ろへと引っ張られる。船はすでに加速を始めていた。

 皆が席に着いたころ。空気を切り裂くような轟音と共に、艦橋に激しい慣性が働く。四人の身体は座席のクッションに押し付けられる。その時には船は第四船速である八一ノット――時速一五〇キロにまで達していた。

 怪物の現れた地点からはすでにかなりの距離を離れたはずだった。にもかかわらず怪物の巨体は小さくなるどころか、むしろ次第に大きくなっている。相変わらず頭蓋がこちへ向いているところを見るに、船は怪物に追われていた。

「この船はいつも何かに追われてやがる。呪われた船かよクソ!」レナートは舌打ちする。

 しかしそうも言っていられない。怪物はもうすぐそこまで迫っているのだ。

「レナート! バートン! アイツをなんとか足止めしてくれないか――?」

 アルは操縦桿を握る手に力を込めながら言う。手の甲には大量の汗が流れ出ていた。

「でもどうやって?」

「――わからない! とにかく電離気体砲であの怪物を撃ってみてくれ!」

「それでアイツが倒せるのかよ。それにどうやってこの席から砲塔

まで移動すればいいんだ!」

 艦橋から砲塔

までは距離がある。船が急加速をしているは、身体にも相当な重力加速度がかかるため、立っているだけでも大変である。移動するには危険が伴う。

 しかしそれはあくまでも急加速中に話。船の速度が一定になれば問題はない。

「もう少しで最大船速に入る。そうすれば身体にかかっているGもなくなるはずだ。そうなったら砲塔に移動してくれ」

「おうよ、まかせとけ」バートンが潔く返事をする。

 どこか緊張をほぐすような頼もしい声色に、アルは焦りを一度落ち着かせ、冷静さを取り戻した。

「もうすぐだ……三……二……一……!」

 アルの掛け声とともに、身体にかかっていたGがみるみるなくなっていく。まるで身体を縛っていた鎖が一本づつ解けるようだった。

「行くぞレナート!」

 バートンとレナートはシートベルトを外すと、昇降機へと走る。そしてバートンが「頑張れよ」と言い残し二人は艦橋から下のロビーへと降りていった。


両翼それぞれの先端についている砲塔。その強化ガラスで覆われた球状の中に二人の姿があった。バートンとレナートは、それぞれの席の両脇にある俯仰ハンドル、旋回ハンドルをクルクルと器用に回し、背後に迫る怪物へとその砲身を向ける。時速二百キロという速さに、砲塔を包む強化ガラスがガタガタと唸りを上げた。

「――こちら左翼砲塔、発射準備よし」バートンが船内無線で言う。

遅れて「――こちら右翼砲塔、発射準備よし」とレナートも船内無線で言った。

「右翼砲塔から発射間隔を三十秒置いて艦橋!」艦橋のアルから指令が降りる。交互射撃を告げたのは発射時の衝撃での船の傾き考慮してのことだった。一斉射撃すれば浮いている船が前傾して、地面と接触する可能性があった。

「りょうかいっ!」レナートの緊張しきった声が、艦橋のアルにも無線越しに伝わる。

「落ち着いて狙えよ?」茶化すようなバートンの声が無線越しに響く。レナートは砲塔の赤外線レーザーを照射する。慎重に両脇のハンドルを回しながら砲塔の照準器を怪物へと合わせると、ちょうどレーザーが怪物に当たった。

「――今度は外してたまるか!」

 その一瞬の隙を逃さず、レナートは撃発ペダルを力強く踏みぬく。閉鎖機が鈍い音を響かせながら砲塔内部を密閉する。わずかな隙間から遮光ゴーグル越しにプラズマの青白い光が漏れ、砲塔内を埋め尽くす。撃発ペダルを踏んでから少しの間を置いたのち、圧縮された超高温プラズマは砲身から空気中に解き放たれる。磁界弾で包まれたプラズマは、紫紺の粒子を糸のように弾きながら、怪物に向けって真っすぐと伸びる。

――当たれ!


操縦席にいたアルの思考は寝不足のせいか、ぼんやりとしていた。操縦桿を握る手も、さきほどから妙な震えが止まらないでいる。差し迫った危機と疲労感によってアルの精神は極限状態にあった。そんなアルの様子を見ていられなかったエリノアは、思わず席から立ち上がると「危険だ」というアルの警告を無視して駆け寄ってきた。そしてアルの震える手に自身の手を重ねた。

「大丈夫、大丈夫だよアル。私もついてる。だからあとひと踏ん張り。そしたらきっとあの二人がアイツを倒してくれるから!」

 確証があったわけではない。しかし今のアルにはその言葉は何よりも助けになった。それでも意識をなんとか保つのがやっとだ。こんなに苦しい経験は、帝国を追放された時以来だな。

 ――来なさい。早く来きなさい。

 混濁する意識の中、誰かが俺に語り掛けてきた。

 ――私は待っています。世界のために、あなたを。

 ――行ってはいけない。

 ――来なさい。早く来なさい。

――言ってはいけない。

――来なさい。時はもう、長くは残されていません。

まるで夢の中で反復するように相反する二つの声が交差した。しかしどこへ来いというのだろうか、どこへ行ってはいけないのだろうか?

「レオノール司教。俺はどうすればいい……?」

 気づけば、そんなことを口にしていた。

「レオノール司教って……」

 エリノアは偶然にも同じ名前の司教を知っていた。

 しかしそんなエリノアの言葉を遮るように、爆風が船を大きく揺らした。


 ――レナートはそのプラズマの直線が行く先に望みを託した。

今度は前回と違いちゃんと中心を捕らえていたし、的もデカい。外れるはずがない。直後、怪物の頭蓋を覆う岩の鎧の表面がピカリと光を放った。コンマ一秒後、光は大爆発を起こし砂煙の混じった巨大な炎柱を噴き上げた。

「……――命中!」

 レナートはガッツポーズと共に無線で報告する。

 直後、爆風が押し寄せる。

 怪物の頭蓋で燃え盛る火柱が消えないうちに、二十秒が経った。すでに照準を修正していたバートンは撃発ペダルを踏んだ。今度は左翼砲塔から怪物に向かって長いプラズマの糸が伸びる。直後、怪物の頭蓋の下あごの辺りで爆発が起きた。

 そしてまた二十秒が経ち、レナートのいる右翼砲塔から超高温のプラズが発射される。それを繰り返して発射したプラズマ光線は約ニ十発。ついに両翼の砲塔の磁界弾が尽きた。その頃には怪物との距離も少し離れてきていた。

 やがて最後の火柱が消えて、怪物の頭蓋が露わになる。

 せめて少しは効いていてくれとレナートが願いながら確認すると、怪物の頭蓋にあった岩の鎧が半壊状態になっていた。ところどころにヒビが入り、今にも崩れ去りそうである。

「やったか?」

 思わずレナートはそんな禁句を口にする。

 その頃にはすっかり日も暮れて、夜闇の中で怪物は、その表面に残る僅かな炎によって照らされていた。怪物は半壊した頭を船へと威嚇するかのように向ける。しかしそれだけだった。怪物は遠ざかっていく船を見送るようにその場に留まっていた。そしてお互いの距離が遠く離れたところで、怪物の姿はついに見えなくなった。

「嘘だろ……レナートのヤツ、フラグを折りやがった」

 バートンの驚愕の声が船内無線に響く。

「おい、フラグってなんだフラグって! 俺はそんなもん折っちゃいねえからな?」

「むしろ折らねえといけねえんだ!」

 そんなやりとりを無線越しに聞きながら、アルはぐったりと座席のクッションに倒れた。そしてしばらく天井に広がる満天の星空を眺めて、アルはゆっくりと目を閉じる。それから深い眠りに落ちるのにそう時間はかからなかった。

 ……そのそばでエリノアは、目を赤くしたアルを見ていたのだった。

 

 残された猶予は、あと五日――



二日間もぶっ通して操縦していたアルにこれ以上の無理をかけることはできず、残された猶予があと五日に迫る中、アルは一日を寝て費やした。幸い、怪物のいなくなった今は、自動操縦でも問題ない。しかし念のためバートンは一人で艦橋の操縦席に、アルの代わりに座っていた。

 そんなバートンの元に、来客がやってきた。レナートだった。

「どうしたんだ?」

「ちょっと相談があってな」

「相談? お前が俺に?」

 一瞬驚いたバートンだったが、レナートの真剣な表情を見て態度を変える。

「分かった。なんだ言ってみろ」

「その……実はさ……………………なんだけど」

「――え?」

 バートンにはレナートが何を言っているのか、一番肝心なところで声が小さくなるので聞き取れなかった。そう、レナートは極度の恥ずかしがり屋なのである。

 聞き返されたレナートは、覚悟を決めると、カっと顔を真っ赤にする。そして目をつぶりながら、大きく息を吸って。口を大きく開くと。ギリギリ聞こえるレベルの声を発した。

「――実は…………聖女様と仲良くなりたくて…………!」

「な、お前、それ本気で言ってんのか……?」

「ああ本気だとも! 悪いかよ」

「けどだって……なんでまたいきなり……」

「それは……………………だから」

「――え?」

「だから、いつまでも聖女様を無視してたら嫌われちゃうかもしれないだろ?」

「けどお前は女が怖いんだろ? だったら向こうに嫌われていようが関係ないだろ。それにもうお前は聖女様から嫌われてるんじゃないか?」

 バートンの心ない一言は、思いのほかレナートの心に刺さったらしい。レナートは口をへの字に曲げると、そのまま泣きだしそうな顔になる。

「そ、そんなわけないだろ! 笑えない冗談はやめてくれよ!」

「けどよ、お前が女が怖いって分かって以降、聖女様に話しかけられたか?」

「それは…………」言いよどむレナート。「だったらバートンはどうなんだよ!」

「ああ俺か。俺は昨日話したぞ? まあ話したというよりはアルを働かせすぎだと説教されたってのが正しいけどよ……」

「じゃああれから聖女様に話しかけられてないのはオレだけ?」

 レナートは泣きべそをかきながら、無理やり作り笑いを浮かべる。

「まあ、そうなるな」とバートンは腕を組んで頷いた。

「そもそもなんでアイツだけあんなに聖女様と仲良さそうなんだよ。アイツときたら聖女様のことをノアだなんて呼んじゃってさ。しかも聖女様の方もまんざらじゃないみたいだし」

 もはや感情がぐちゃぐちゃになったレナートは我を忘れ、ここぞとばかりに怒りを爆発させる。

「結局は世の中顔かよ!」

「まあアルのヤツ性格はあんなんだけど顔だけは結構いいからな。それにお前よりも身長高いし」バートンが付け加えると「それは関係ねえだろ」とレナートは口を尖らせた。

「ともかく、お前が聖女様に嫌われてるか嫌われてないかなんてわかんねえよ」

 めんどくさい客を相手にするような口調でバートンは言う。

「だったらオレはどうすればいいんだよ!」

「仲良くなりたいんだろ? だったら俺と話してないで聖女様のところに行って来いよ。今ならアルのヤツも寝てるし、二人でゆっくり話せるぞ」

 バートンは冗談のつもりで言ったのだが……判断能力が鈍っているのか、レナートはそれを真に受けてしまった。

「よーし、こうなりゃ当たって砕けて消えちまえだ! バートン、コイツは貰っていくぞ!」

 レナートの手には酒瓶があった。しかもバートンのものである。

「おい、お前いつの間に盗みやがった! というか私利私欲のためにスリはしないって」

「ああそうだとも。ただ今回は別だ! つまりは――お前はオレを怒らせた」

 言いながらレナートは片手に持った酒瓶を一気に飲み干す。

「おいレナート……お前ただでさえ酒は弱いんだからやめとけって」

 そんなバートンの忠告も無視して、すっかり飲み干したレナートの顔色はすでに赤い。

「んだらちょっぐらいってぎばーす!」

 呂律の回っていない舌。歩き方はぎこちない。

「おうおう、もういいや。好きにしろ」

 バートンは溜息交じりにレナートを送り出すのだった。


 そんなことが艦橋で起きているとは知らず、エリノアはアルの部屋の前にいた。膝を抱え座りこむような恰好である。エリノアには、二つの悩みがあった。

一つは、昨日アルが口にした「レオノール司教」という人物について。

レオノール司教。その名を今、天上教会の人間で知らない者はいない。いまや帝国の参謀にまで入り込み、さらに皇帝に取り入って政治まで動かしている。もはや帝国第二の皇帝といっても過言ではない。言うなれば悪女である。そんな人物と、平民であるアルとの間にいったいどんな関わりがあるのだろうか?

――いや、考えすぎか。

レオノールなどという名前は世界に五万といる。たまたま同じ名前の司教がいたとしても不思議はない。エリノアはそう自分を納得させた。

もう一つの悩みはこれから向かう先――オリンポス共和国についてだった。

コルボ・ノワールなる秘密結社に捕まる前――つまりレオノール司教に嵌められる前、エリノアはオリンポス共和国と帝国の和平交渉の席についていた。結局それは失敗に終わるわけだが。さらにシグルドの敗戦から分かるように、エリノアが誘拐されたことによってそれを口実に大戦はさらに激化している。そんな今、エリノアがオリンポス共和国に現れたらどうなるだろうか?

どう転んだとしてもろくな結末は待っていないだろう。

 たとえばエリノアがオリンポスに訪れたことによって、またこの戦争を長引かせてしまったら? たくさんの人の命を奪ってしまったら?

 考えているうちに、シグルドに言われた言葉が過る。

「戦争がなくては、この世界は成り立たない……」

 誰かが死ねば、誰かが代わりに生きていける。残酷な現実が、エリノアの描く世界に立ちふさがる。エリノアは両膝の間に頭をうずめた。

「何を悩んでるんだよ?」

 顔を赤くしたレナートは、エリノアの隣に腰を降ろすと彼女に声をかけた。

「――わっ!」

 エリノアはハッと隣のレナートを見やる。すっかり周りが見えなくなっていた。だから気づけなかった。

「なんで泣いてるんだ? そんなに驚かせちまったかな」

「泣いてなんて……」

 しかしエリノアの腕にまた温もりの涙が一滴、落ちた。

 レナートは無数にあるポケットをまさぐる。何か涙を拭うものを持っていないかと探してみたが、結局何もなかった。

「いいよ。大丈夫だから」

「ごめんな……」

 エリノアは服の裾で涙を拭う。

「ごめんな……マジで……」

 心底情けなさそうに、今度はレナートが顔をうずめる。

「――そんなはしたないこと! って怒られちゃいますね」

 目を腫らしたエリノアから笑いがこぼれる。

「それでさ……何を悩んでたんだよ。オレ、頼りないけど、聖女様が良ければ話してくれないか? ……いやあ、話してくれないよなハハハ」

 乾いた笑い。普段に比べて自己肯定感が著しく低いレナート。自身でも何を話しているのか分からなかった。だからだろうか、自然と過去のトラウマについて話そうという気になった。

「俺ってその……女の人が怖いんだけど。実は昔こっぴどく振られたのが原因なんだ。

オレさ、裕福な商人の家の生まれなんだ。だから昔は自分のことだってオレじゃなく僕だって呼んでたんだ。ダサイだろ?」

 エリノアは少し以外だった。裕福な商人の生まれにしては、レナートは教養もなく、服装だって気にしない。大雑把な性格だったからだ。

「けど商人の家の生まれってだけで、オレはほとんどずっと家では奴隷みたいなもんだったから、ほとんど教養もないし、作法とかだって知らない」

「それって変よ。なんでそんな扱いだったの? ご両親は何も言わなかったの?」

「うちの親は、父は商人一筋で家族には無関心。母は妹の方をかわいがっていて、オレにはまったく。というかオレを奴隷みたいに扱ってたのは母親のほうだ。オレは頭も身体も弱かったからな、よく母親を見て育った妹にいじめられたもんだ。そんなオレだったけど……好きな人がいたんだ」

 レナートの初恋の人だった。レナートの家の隣に住んでいた同い年の少女だ。

「その子と毎日欠かさず昼に昼食を持ち出して話してたんだ。家の塀から二人とも頭を出してさ。今思えばキモイけど、当時の俺はその時間のためだけに色々耐えていたんだ。それである日、妹と妹の友達に集団でいじめられたんだ。それが思いのほか辛くて……家から出ることを決意した。それで最後に心残りがないようにって、好きだった子に告白したんだ。そしたらなんて帰ってきたと思う?」

 苦笑して、レナートは尋ねる。

「多分、流れからしてあんまり良い答えはもらえなかったんだよね」

「ああそうだ! 彼女こう言って切ったんだ」

 レナートは怒りを込めて、吐き出そうように言った。

「――キモいしダサい。まず自分のことを僕って呼ぶのがありえない。いままで暇だったから話してただけだから。いなくなってくれるのなら大歓迎――だって」

 その後、レナートは大きなため息を吐いた。

「その子とはいつも壁を挟んで話してたって言ったけど。けどその時はその子、顔をひっこめて壁越しに言ったんだ。こっちを見向きさえしなかったんだ。オレが家を出ることだって言ってなかったんだ……俺は長い間、その子を見返してやろうと思って生きてきた。強くなってやろうって、それで傭兵になった」

 なんとなく、エリノアはレナートの初恋の子の気持ちを察する。

 いつも昼頃に決まって話していたんだとしたら。いくら暇だからって毎日話すだろうか? 本当にレナートのことをキモイ、ダサイ、そう思っていたのだろうか。

「その言葉はきっと、優しさだったんだね」

 その少女はきっと、レナートの置かれている状況を知っていたのだろう。これはエリノアの憶測でしかないは、レナートに生きるための強い理由を与えるために、そして未練を絶って家を出て言ってもらうために言ったのならば、それは優しい嘘だったのだろう。

「振られたことも、妹と母に虐げられていたことも、彼女の言葉の、本当の意味を聞くことができなかったことも――いろいろ含めて、オレはこうなっちまったってわけだ」

 過去の自分を笑い飛ばすようにレナートは言った。酔った勢いでなくては言えなかっただろう。だから突然、エリノアにそんなことを言われるとは思って見なかった。

「それって、もしかして好きな人と離れ離れになったのが原因なんじゃない?」

「え?」

「もしかしてレナートは怖いんじゃないの? 好きな人ができることが。好きな人に捨てられることが。愛とか恋とかそういうものが」

 母親から愛を受けられなかった。初めての恋の終わりは最悪な形で終わった。

 ――レナートは恐れていた。愛や恋という見知らぬものを。

「大丈夫だよレナート。初恋の子みたいに優しい人だっているはずだよ。それに必ずしも離れ離れになるとは限らない! どころかレナートのパターンがちょっと特殊すぎただけだから」

 エリノアは何か言おうとして、言葉に迷う。

「だから……そうだね。レナート、そんなに怖がる必要はないよ」

 そこまで言われてしまって。レナートはなんだか今までの自分がバカバカしく思えてきた。過去のトラウマを永遠と引きずりながら、新たな出会いを避けていた自分が。こんなに親身になってくれる人がいたということを知らなかったこと自分が。バカバカしい。

「ハハハ……さすが聖女様だ。その通りだ! まったくどうかしてた、確かによくよく考えればまた同じようなことが起こる確率なんてめっちゃ低いじゃねえか!」

 レナートは腹を抱えて笑った。まるで自身に植え付けられたトラウマを吹き飛ばすように。

「ありがとうよ聖女様。オレ、少し変われた気がする」

 それが酔った勢いで言ったのか分からない。ただレナートの瞳は晴れていた。

「どういたしまして」エリノアは微笑を浮かべる。

「けど、聖女様が悩んでたのに……オレの方が聞いてもらちまった。ったくダメだなあ」

 レナートは困ったように頭をかきむしる。

 その頃にはすっかりレナートとエリノアは打ち解けていた。

「そんなことないよ。レナートはここまで一人でちゃんと生きてきた。それだけでもすごいと思う。ただ一つ言いたいことがあるとすれば! 聖女様だなんてそんな堅苦しい呼び方しないで。ノアって呼んでくれていいから」

「いいのか? 聖女様に」

「私、レナートが声を掛けてくれて嬉しかったよ。少し、心細かったから」

 信じていたアルを疑ってしまった。エリノアは孤独に戻りつつあった。

「それなら良かったけど」

「それじゃあレナート。声を掛けてくれたんだから私の悩みも聞いてね」

「お、おう!」

「それで……」

 いざ話そうとすると、どうしても喉に言葉がつっかえる。それでもエリノアは深呼吸をすると、前を向いて話し出した。

「私ね、捕まる前はオリンポスにいたの。帝国と共和国の戦争を終わらせるために和平交渉に向かった。けどダメだった。聖女であろうと、私は結局何の力も持たない小娘だった。しかも私が捕まったことによって戦禍はさらに激しくなった。私は……」

 またも目頭が熱くなる。エリノアは自然と上を向いていた。

「何もできなかったの」

 エリノアが話している間、レナートはずっと黙っていた。そして最後まで聞いて、ようやく口を開く。

「――そんなことないだろ!」

 その声は怒っていた。

「聖女様は――ノアはこの戦争を止めようと行動したんだろ。自分の身を挺して、人々の平和ために。ハッキリいってオレから見たノアはやっぱり偉大な聖女様だ。すげえ人だよ。俺なんか人には言えねえようなことをたくさんしてきたし、アルのことだって一度裏切った。それでも、オレのしてきたことを全否定する気はない。この時代、オレも、みんな、生きていくためにはなんだってする」

 ただ、自分が生きる為に人を殺す。

 人から奪って、自分が生きる。

「こんな残酷な世界で、それでも助けようとしてくれる人が、聖女様が助けようとしてくれていたんだって知れただけで、オレは明日を生きようと思える。だからノアはそんなに悩む必要はない……と思う。どんなに失敗してもその優しさは人々に力になるはずだから」

 レナートはエリノアの目をまっすぐ見つめて言う。

「それになによりも、ノアはたった今、俺を助けてくれただろ!」

 今までは誰かの助けを願うばかりだった。自分には何の力もないと思っていた。けれどエリノアにも誰かの助けになることができる。

「ノア! お前はこの残酷な世界で何を望んでいる!」

そういえば。レオノール司教に「オリンポス共和国に和平交渉に向かった。そしてそこで誘拐された。……そうですね?」そう問われた時。

「――私は、諦めたくない」

エリノアはあの時、答えた。

「世界にどんなに残酷で厳しい運命が待っていようと、みんなが助け合って、笑いながら暮らせる平和な世界を、私は諦めたくない!」

 エリノアはシグルドや、クロエのように、この終わり行く世界をただ受け入れることは、できなかった。数多いる聖女の例にもれず、エリノアもまた理想主義者なのである。

「だったら今はやれることを探そう。オリンポスに行けば、きっとまでノアにしかできないことがあるはずだ。それに今度は頭のキレるアルも、頼りになる傭兵のバートンもいる。きっと何かできるはずだ!」

 沸騰しそうなくらいの熱量で訴えかけるレナートの額に、エリノアは指をあてる。

「優しいレナートもいることだしね」

 レナートはぱっと顔を赤く染めた。それはきっと酔っていたからに違いない。


 残された猶予は、残り四日――



 自分は何故、こんな旅をしているのだろうか。

何故、この世界を彷徨っているのだろうか。

 アルは夢を見ていた。

 ゆっくりと目の前の幻影が移り変わってゆく。

 それはまだアルが十歳の時。レオノール司教の姿がそこにはあった。

「声が聞こえるんだ」

 少年だったアルは、レオノール司教にそう相談していた。

「来なさいって、夢の中でずっと繰り返えすんだ。いったいなんなの?」

「それは悪魔の声だよアル。だから声のする方に行ってはいけない。分かったね?」

 レオノール司教は少年を諭す。

「けどずっと聞こえるんだ」

「それなら聞こえないように今日から特訓しよう」

「聞こえなくなるの?」

「アル、目を閉じて」

 レオノール司教に言われた通りに、アルは目を瞑る。

「何が見える?」

 そう問われ、アルは目の前の光景を答える。

「光が見える。青い光だ。その先に影が見える。なんだろう、アレ」

 アルは目を瞑ったまま、光の先に見える影へと目を凝らす。次第に意識はそちらへ傾き、周りの音が段々と小さくなっていような、まるで魂が身体から出ていくよう感覚に包まれる。

 そんな時だった。耳元で声がした。

「アル、そこからゆっくり遠ざかりなさい。それを見ようとしてはいけません」

 その声でアルは正気に戻ると同時、その影は遠くへと離れていく。影は離れながらも声を発していた。「―来なさい。早く来きなさい。私は待っています」という声がアルに何かを訴えかけるように聞こえてきた。

「そのままゆっくりとその影が見えなくなるまで離れなさい」

 耳元ではレオノール司教がささやく。

 その時、アルは影が離れて言っているのではなく、自分が影から離れて言っているのだと気づいた。アルはそのままレオノール司教の言われるがままに、影から離れていく。次第に影は小さくなり、やがて消えた。しばらくして、光もなくなった。

「声が聞こえなくなった」

 そのころにはすっかり声は聞こえなくなっていた。

「そう、それでいいのです。決してあの影を、光のある先に行ってはいけません。分かりましたか、アル?」

 アルは目を開くと、こくりと頷いた。

 そうだ。あの時、聞こえた声は二つの声は、レオノール司教と、そしてこの時に聞こえていた声だ。アルは思い出した。それと同時に目を覚ました。暗い天井がそこにはあった。

 ――あの声はなんだったのだろうか。


 それは四日目の昼頃だった。

 昨日ぐっすり一日休養したおかげか、アルの調子も元に戻りつつあった。

「もうすぐタルシス山が見えると思うんだけど」

 艦橋の操縦席に座っていたアルは、遠くへと目を凝らす。

「アレじゃないか?」レナートにはもう見えたらしく、地平線の先を指差して言った。その先には確かに山のようなものが三つほど見えた。

「けどアレ、山が三つみえるぜ?」

 そんな疑問を口にしたレナートに、バートンは呆れながら説明する。

「タルシス山は三つの山が連なるようになっていてタルシス三山とも呼ばれている。……と、これくらいは常識だ。傭兵なら地理くらいは覚えておけ」

 ゴツンとレナートの頭に拳が降ろされる。

「けどそんなの覚えても何の役にも立たないんじゃ……」

「傭兵なら戦場に出向くことだってあるだろ? その時にこれから自分がどういう場所に向かうののかあらかじめわかっていれば、いろいろと対策もできるだろ。たとえば丘陵地帯だったら軽装にしておこうとか、岩場が多い地帯だったら隠れている敵に気を付けようとか。塵を知っているのと知らないのでは戦場での装備をより適切なものにできる。覚えておけ」

「はーい」

 うんざりしたようにレナートは溜息交じりの返事をした。そして頭に二つめのたんこぶを作った。

「それで今日はタルシス三山の中でも真ん中のパヴォニス山に着く予定だよ」

 アルが付け加える。

「なあ、だったらそのパヴォニス山とやらで船の燃料とか食料を補給することはできないのかよ?」

「残念だけどパヴォニス山に都市はないね」

 パヴォニス山という言葉を聞いて、エリノアは思い出したように言った。

「けどパヴォニス山とオリンポス山のちょうど中間地点にビブリスっていう中継貿易で栄えていた都市があったと思うんだけど。もしかしたらビブリスで物資を補給できるかも」

「それじゃあ一旦の目標はビブリスってことにしておこう。ノア、具体的な方向は分かる?」

「ちょっと見てみる――」

 エリノアは目を閉じる。ここ最近、地図を持っていないためエリノアの地形を把握できる能力に船の進路を頼っていた。

「見えた! 私達から見て十一時の方向」

 エリノアからの指示を聞いて、アルはもともとパヴォニス山を北回りする予定の進路を、南周りへと切り替える。自動操縦はそれに従って、船の進路をやや左に取る。


 日が沈む頃、ようやく船はパヴォニス山の麓にたどり着いていた。船の右手には標高十四キロメートルに達する巨大な円錐状の山が見えた。

「でけえ……」レナートはパヴォニス山を眺めながら感嘆の声をもらす。

「けど私達が向かっているオリンポス山の標高はこのパヴォニス山の二倍なんだよ」

「嘘だろ。この山の二倍だって? 想像がつかねえって」

 山の頂上を上げながらレナートはひきつった笑みをにじませ「冗談だよな」とエリノアに再度尋ねる。

「いや、本当だぞ」バートンが大笑いしながらレナートに言う。

「マジか。本当に想像がつかねえよ」

 その横でアルもまた山の頂上を見上げていた。沈みかけている太陽のせいか東側の空はすでに暗く、パヴォニス山の頂上には早くも星が輝き始めていた。

「もしオリンポス山の頂上に行くことができれば、星々はもっと大きく見えるのかな」

 アルは輝く星々を眺めながらそう口にする。

「星々と俺達の距離に比べりゃあきっとオリンポス山の標高なんてちっぽけなもんだろうな」

 バートンが言った。

「やっぱりどこに行っても見える星々は変わらないのかな」

「そんなことはないぞ。例えば南と北では見える星々が違う。それに季節によっても違う。もし俺達があの山よりもさらに上の、まだ誰も見たことのない空の向こうまで行けたのなら……きっと見える星々も違うはずだ」

「……そうだといいな」

 アルは心の底から、そう願った。

 それと同時に、自身に眠る熱い何かが目を覚ました。

「行ってみたい。空の向こうがあるのなら、空の向こうに」

「いいじゃねえか、行ってみれば」

 バートンは、アルを見やる。パヴォニス山の山頂の遥か上に広がる星々を眺めるアルは、まるで大きな夢をその胸に抱く少年のように目を輝かせていた。

 ――いいじゃねえか。

 ようやく何か、やりたいことができたのなら。

 バートンはそんなアルを見ながら思った。

 しかしそんな星々をゆっくりと眺めている時間はなかった。

「おいちょっと俺達のやってきた方を見てみろよ!」

 レナートに言われて、皆がノクティス迷宮のある方へと視線を移す。するとノクティス迷宮の上空に巨大な暗雲が見えた。アル達は急いで嵐をしのげる場所を探した。幸いなことに、パヴォニス山の南側の斜面にエリノアがい能力を使って横穴を見つけた。直径が百八十メートルほどの洞窟だった。地上にぽっかりと穴が開いたような入口があり、そこから地下に向かって横に洞窟が伸びている。洞窟の長さは入口から最深部が見えないところから察するに、相当深い洞窟であることが分かった。

 アルはいったんその洞窟の中で嵐をしのぐことにした。


 洞窟の中はかなり広い陽だった。船のライトで照らしながら慎重にアルは洞窟の奥へと進む。そしてある程度進んだところで船を止めた。

「ここまで来れば嵐はしのげるはずだ」

「けどこの洞窟すごく広いね。なんかちょっと怖い」

 エリノアは艦橋から洞窟を見渡して言う。船の強力なライトで洞窟の中を照らしてはいるもの、全体像は分からなかった。それほど洞窟内部には巨大な空間が広がっていたのだ。

「オレちょっと疲れたから寝てくる」レナートはあくびをしながら言った。

「お前はなんにもしてねえだろ」

「お前もなバートン!」

 レナートはバートンを指差すと、大声で叫んだ。

「それにしても、こんなに広いとなんかバケモノが出てきそうだね」

 アルがぽつりと独り言こぼす。レナートは先日見た怪物を思い浮かべ、身体を震わせる。

「おいおい、そんな怖いこというなよ。こんな時にアイツが出てきたら――!」

 外は大嵐、洞窟は暗く船の機動力も生かせない。そんな状況であんな怪物が現れたら今度こそ命はないだろう。レナートはアルの方に振り返ると、まるで大嵐のように叫んだ。だがその途中で言葉が途切れる。

「――どう……する……んだ……」

 レナートの視界に映ったのは、船のライトに照らされたひび割れた巨大な岩だった。

「なんだ岩か……びっくりさせやがって」

 一瞬、その岩があの怪物に見えたレナートは安堵の息を漏らす。がしかし、そんなレナートの前で岩がグラリと揺れた。

「おい、今あの岩、動かなかったか?」

「なんだよレナート。からかってるのか? 岩が動くわけねえだろ」

 バートンもそう言いながら後ろを振り返る。

 そこにあったのは、あの時、電離気体砲で大ダメージを受けた怪物の頭蓋だった。一瞬の静寂が船内を包んだ後。

「――――ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 複数の悲鳴が同時に上がった。

「アル! お前があんなこと言うからだぞ!」

 慌てて操縦席に座るアルにレナートはそう叫ぶ。

「そんなこと言ってないで砲塔に迎え!」

 アルはレナートに言い返す。明らかに怒った口調だった。アルがこんなにも感情を露わにするところを今まで見たことがなかったレナートは一瞬たじろぐが「ボケっとしてんじゃねえ」とバートンに背中を叩かれ、右翼砲塔に向かった。


 前回怪物と出くわした時、怪物との距離は離れていた。しかし今回はほとんど至近距離と言っても良い。アルは艦内放送で両翼の砲塔に向かった二人に伝達する。

「怪物との距離が近い。船を緊急で後退させる。気をつけろ!」

 それをバートンとともに船内の通路で聞いていたレナートは「嘘だろ!」と叫びながら壁のスロープに捕まる。直度、身体が引っ張られるような感覚がして、体勢を崩す。

「レナート、しっかり捕まってろ! スロープ伝いに砲塔を目指すぞ」

 幸いなことに砲塔まではスロープが整備されていた。おそらくアーティファクトの時代に作った者も、こういう事態を想定していたのだろう。

 レナートは通路のスロープにしがみつきながらふと、さきほどのアルの声色を思い出した。

 ――そういえば、いつもと口調が違ったような?


 艦橋にいたアルの眼前に映っていたのは、船を飲み込まんと迫る怪物の巨大な口の中だった。アルは急いで後退する。

 ――間に合ってくれ!

 直後、洞窟内に煙が吹きあがる。怪物の頭蓋が地面にめり込んだのだ。しかし船は直前での後退により怪物の攻撃から免れた。とはいえまだ安心はできない。アルは土煙で船の居場所が割れないうちに船を百八十度旋回させると、そのまま洞窟の出口へと向かった。

「アル、外は大嵐だよ! どうする気?」

「このまま洞窟にいてもあの怪物に殺されるだけだ。それなら一か八か外に出るしかない」

 問題点は二つ。この視界が悪い中、怪物に追われながら外に出ることが出来るか?

 そしてもう一つは、外の大嵐に船体が耐えうるか?

 しかしいくら外に出るリスクがあろうと、洞窟という袋の中でじっくりなぶり殺されるようりはマシだろう。

 怪物に見つかるわけにもいかないから、船体のライトをつけるわけにはいかない。この土煙で視界の晴れない中、アルは直感と記憶を頼りに船を操縦する。

「頼む。土煙が晴れる前に出口にたどり着いてくれ!」

 アルは祈りながら船を進める。

 やがて土煙が晴れてきた。艦橋にいるアルの耳に、コックピットを覆う強化ガラスを何かが叩く音が聞こえてくる。その音でアルは確信する。

「入口まであと少しだ!」

 しかしそう思った刹那、絶望の淵に叩き落とされた。

「アル! 怪物が……」

 暗い洞窟の中、ソイツは確かに船のすぐ後ろにまで迫っていた。

 恐怖が二人を襲う。アルは速力を「最大船速」に上げる。洞窟の中に入ってきている嵐で視界が悪いとはいえ、入口は見えた。アルはそこ目掛け一直線に船を加速させた。船の噴射口から燃焼ガスが長い尾を引く。

「いけえええ――――!」

 珍しくアルは叫んだ。操縦桿を握る手に力が入る。

 勢いよく加速を始めた船を追うように、怪物が後ろから迫る。外はすっかり夜だろう。バチバチという砂が船体に当たる鈍い音を立てながら船は洞窟を飛び出した。

 同時に、船内無線に「こちら右翼砲塔、発射準備よし」というレナートの声。「こちら左翼砲塔、発射準備よし」というバートンの声が響き渡る。

「前回と同じだ。右翼砲塔から発射間隔を三十秒置いて交互射撃!」

 アルは二人に指示する。

「了解」そんな返事が二人から返ってくる。

 刹那、艦橋に青白い光が差す。プラズマの光だ。光線となって放たれたプラズマは一直線に怪物の頭蓋に直撃する。爆発の大嵐の中で火花を散らした。しかしこれはあとどれだけ続ければいいのだろうか? 怪物の巨体に対して決定打に欠けていた。

 そんな時だった。光が見えた。今度は怪物の方から。怪物の頭上に差し込む青白い光だ。気づけば怪物は洞窟から出てきていた。大嵐の中に引きずりだせば怪物はそれ以上折ってこないのではないかと思ったが、その見当も外れた。

 しかしあれだけの巨体、動かすにも相当なエネルギーが必要なはずだ。実のところ、アルはそのエネルギーは太陽光を浴びることによる光合成なのではないかと予想していた。この前の戦いでも夜になって怪物は船を追うことをやめた。それは光合成ができなくなったからではないかと思ったのである。

 しかしそれなら今こうして太陽のない夜、わずかな光すら届かない大嵐の中で怪物が船を追ってきたのに説明がつかない。そこでアルは今まさに頭上から怪物に降り注いでいる一筋の光に注目していた。

「ノア、あの光が見えるか?」

「うん、見えるよ」

 エリノアは頷く。そこでアルは一つの仮説を立てた。怪物のあの光によってエネルギーを受け取っているのではないかという仮説だ。

「この前、怪物が現れる前に光が見えたことを覚えてるか?」

「うん、覚えてる。一瞬だけすごく目の前が眩しくなったから。それがどうした……の?」

 エリノアの赤い瞳がアルを見据える。

「あの怪物はあの光を食って動いているんだ」

 エリノア赤い瞳が、アルの赤い瞳を見据えていた。


「レナート、バートン! 怪物に指している光の部分を狙って見てくれないか?」

 船内無線からアルの声が聞こえてくる。

「おい、そんなの見えないぞ? レナート、お前は見えるか?」

「いや、俺も怪物に指している光なんて見えないぜ」

「そんなわけ……まあいい。俺が指示するからその都度照準を修正してくれ!」

 もはや演算した上での精密射撃をするより他にない。アルは一瞬思索してから言った。

「おい、そんな難しいことできるわけねえだろ!」

レナートの悲鳴が船内無線に響き渡る。

「レナート」冷たいアルの声。

「ど、どうしたんだよ?」

「――やれ」

 普段は見せない強い口調に、反論しようとしていたレナートの口がふさがる。次の瞬間、前の発射から二十秒が経ち、左翼砲塔か青白い光が上がった。着弾したのはちょうど怪物の下あごあたりだ。

「修正射! 下マイナス六、右プラス一〇」着弾するや否や、すぐにアルから照準修正の指示が出る。

 レナートは指示通りに砲塔の照準を合わせる。

「発射まで――五、四、三、二、一――発射!」

 今度はレナートの砲塔から青白い光が上がる。放たれたプラズマ光線は、怪物の頭蓋の鼻のてっぺん近くに着弾した。

「修正射! 右プラス五」

 またもレナートは次の射撃に備えて砲塔の照準を調整する。そうしている間にも船内無線には「発射まで――五、四、三、二、一」というバートンの声が響いた。直後「発射!」という声とともに、今度は着弾せず、怪物の大きな口のすぐ横をプラズマ光線は通り抜けていった。

「修正射! 左マイナス二」

 またもレナートは砲塔の照準を修正する。修正する度にアルがどこが狙いたいのか分かってきた。狙いはおそらくは怪物の両脇にあるヒレの辺りだろう。バートンのいる左翼砲塔の射撃から十五秒が経ち、レナートはカウントダウンを始める。

「発射まで――五、四、三、二、一――発射!」

 レナートが撃発ペダルを踏む。閉鎖機が閉じて砲塔内は密閉される。それに少し遅れて青白い光がぱっとレナートを照らした。直後砲口からプラズマ光線が放たれる。紫紺の尾を引きながらプラズマは、まさに怪物のやや頭蓋の下、ヒレの生えている辺りの直撃した。

 その一瞬、怪物がたじろいだように見えた。

 ――行ける。レナートは確信する。

 それからすぐに今度は左翼砲塔からプラズマの紫紺の糸が伸びる。怪物の動きに合わせて、バートンは自分でさらに照準誤差を修正していた。左翼砲塔から放たれたプラズマ光線は見事怪物の腹の横を捉えていた。


 ――光が弱くなっている!

 アルは怪物のほうへさらに目を凝らす。いくぶん動きもさきほどと比べて鈍くなっているように感じられた。その分だけ照準の修正が楽になるのもまたありがたい。

「誤差ゼロ度!」

 直後、また右翼砲塔からプラズマ光線が伸びる。直撃したのは先ほどと同じ個所。怪物に伸びる光はさらに弱くなる。

「やっぱりそこが弱点か!」

 怪物は己の弱点を隠すようにその巨体をゆっくりと旋回させる。次に放たれたプラズマ光線は惜しくも腹の横を掠めただけだった。しかしその様子を見て、あと一撃で決まるとアルは確信する。エリノア、怪物とのおおよその距離を教えてくれ!

「およそ五・三キロ」およそと言ってはいるものの、普段から異能力を使い慣れているのかエリノアの伝えてくる距離は正確だった。

「修正射! 左マイナス四」

 アルは船内無線越しに叫ぶ。しかしそれからはアルの演算能力よりも怪物の回避運動が一枚上手か――修正射を五回繰り返しても当たらなかった。いくらプラズマ光線が重力や風の影響をほとんど受けないとはいえ、人間の演算能力には限界があるのだ。

 ――頼む、次で当たってくれ!

 そう願いながらアルは修正射の指示を出す。

「修正射! 右プラス二」

 次の射撃は右翼砲塔のレナートの手にかかっていた。アルは右翼砲塔の砲手席に座っているであろうレナートに望みを託す。

「――頼む!」


 修正射の指示を受け取ったレナートはすぐさま照準を修正する。これでもう十一回目の修正射だ。レナートの手つきも幾分馴れた。

「――頼む!」そんなアルの声を無線越しに耳にして、レナートは発射までのカウントダウンを始める「発射まで――五、四、三、二、一――発射!」

 〇・八秒遅れて、アルが予測した怪物の進路へとプラズマ光線が伸びる。その直後、プラズマ光線が怪物に直撃し、大爆発を起こした。レナートにはその瞬間がはっきりと見えていた。プラズマ光線の命中した箇所は――まさに怪物の腹の横、ヒレの辺りの狙い通りの箇所。

「よっしゃあああああ!」

 レナートは思わず雄たけびを上げる。

 艦橋にいたアルとエリノアもまた、怪物に伸びていた光の柱が消えていくのを静かに見ていた。修正射の修正はエリノアの異能力とアルの演算能力あってのものだった。

「エリノア、最後の一仕事を頼む」

 アルは怪物を目で追いながら、目を瞑っているエリノアにそう言った。

「分かってる」エリノアはそう返す。そしてしばらくの静寂が艦橋内を包んだ。やがてエリノアの声が艦橋に響く。

「怪獣、沈黙。撃破確認!」

 アルははやる感情を押さえ、艦内無線に繰り返す。

「怪獣沈黙。撃破確認!」

 言い終わると同時に、無線の向こうから二つの絶叫が響く。

「よっしゃああああああああああああああ!」

「オレが決めてやったぜええええええええ!」

 と、そんなことをレナートが軽率にも口にしたため、その後に与えたダメージや貢献度、照準修正の早さなどでもめていた。

 ともあれ、これでビブリス、ひいてはオリンポスまでの道のりを厄介者はいなくなった。あとはここから三日以内にオリンポスにたどり着くだけ。


 残された猶予は、残り三日――



 ビブリスにたどり着いたのは五日目だった。途中に障害があったものの、このままいけば燃料はオリンポスに間に合う計算である。しかし食料の方が先に尽きた。そういうわけで一行はここで食料をはじめとした必需品を補給することにした。もちろんついでに燃料があれば補給する予定である。

 ビブリスは標高が四キロの小高い丘に位置していた。丘の頂上は直径五十キロほどの砂漠が広がっており、その中央には円形の海がある。

 一行は船をビブリスのある小高い丘の中腹にある港に泊めた。港にはたくさんの商船がずらりと並んでおり、さすがは中継貿易で栄えている都市といったとことだ。しかし都市へ入るために検問所を通る時に、問題は起きた。

「そちらの方のお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」

 検問所で通行人に入国許可を出している憲兵が、エリノアに尋ねた。四人とも先日の戦闘の疲れですっかり忘れていたが、エリノアは現在オリンポス共和国に和平交渉に行ったが捕われてしまった哀れな聖女ということになっている。つまりここにいて良い人物ではないのである。

「どうする?」とレナート。

「とりあえず偽名を使えば……」とバートン。

「いや偽名を使ったところで顔を見られたら……」とアル。

「――エリノアです」

 男三人がひそひそと話していると、どこからかそんな声が聞こえてきた。三人はそろって背中に冷たいものを感じて、後ろを振り返る。そこには検問をしていた憲兵に堂々と名乗るエリノアの姿があった。

 ――何をしてるんだ!

 アルは叫びたいのを抑えて、腰のナイフに手を当てる。バートンもレナートもやはり同じように戦闘態勢を取っていた。憲兵はさらに質問を畳みかける。

「顔を見せてもらえますか?」

 バレたか――アルは内心覚悟する。

「すみません。小さい頃にできた大きな火傷が顔にありまして……私の主人以外には到底見せられるようなものではございません。ですがあなたが私の醜い顔をどうしても見せろというのならば、私は恥を忍んで従いましょう」

 エリノアはフードを深く被ったまま言った。

「……分かった。他にも三人いるようだし、彼らの顔を確認できれば十分だ」

 憲兵もここまで言われたらこの哀れな少女にそこまで強く言うことはできなかった。おかげで三人は結局少しの尋問を終えて、意外にもあっさりと検問所を通れてしまったのだった。

「まさかこんなにもあっさり通してもらえるとは思えなかったぜ」

 レナートは頭の後ろで腕を組みながら言った。

「でも検問所なのにあれじゃあほとんど機能してないだろ。実際俺達が聞かれたのも名前と出身地。しかも証明書も何もいらなかったぜ。エリノアの名前を聞いてもちっとも反応しなかったし」

 レナートがそこまで言うと、エリノアが悪い笑みを浮かべてさっきの自体について説明を始める。

「ここ、ビグリスは中継都市だってことは話したと思うんだけど、実はこの都市はいろいろな闇取引の温床地帯になってるの。しかも国家はそんな闇社会と密接にかかわっていて、多大な利益を上げている。だからこの都市の闇取引は取り締まられるどころか、むしろ歓迎されている。そこで検問所も、取り締まるよりもあんな風にガバガバ検問でも問題ないってわけ」

「なんてひどい都市だ」とレナートは呟く。

「けどそれで都市の人々は生きていける。こんな時代でもここの人々は比較的豊かな暮らしを送っているの。ただ……」

 エリノアは溜息をもらす。

「天上教会の教義に反する異端集会の温床にもなっているから、私としては頭が痛いけどね」

 そんな話をしているうちに、四人はついにビグリスの丘の頂上に着こうとしていた。

「見ろよ! デカい海があるぜ!」

 一足先に駆け上がっていったレナートは、三人の方を振り返ると大きく手を振って叫ぶ。

 丘を越えた先にあったのは、くぼんだ大地の中央にある広い楕円の海。そしてその南に広がる巨大な市街地だった。レナートが経っているのはまさに、それらを囲う円形をした山脈の上だった。

「ここに来るのも久々だなあ!」

 バートンは海と市街地を上から眺めて言った。

「ビグリスに来たことがあるの?」アルはバートンに尋ねる。

「ここは俺の生まれ故郷なんだ」

 静かに告げられたことに、アルは驚きを隠せない。

「バートンってビグリス出身だったんだ。それならもっと早く行ってくれればよかったのに」

「俺にとってはちょっとした因縁のある都市でもあるからな。故郷に帰ってきたっていうよりは、せっかく逃げ出した監獄にまた戻ってきたような気分だ」

 そんな含みのある言い方をするバートンの過去を探るような真似をするようなことは、アルには憚られた。バートンもまたあまり話したくはなかったのだろう。険しくなっていた表情を戻す。

「それよりもこれからのことについて話し合わねえとな。四人で回るのも効率的じゃない。俺は二組に分かれて買い出しをした方が良いと思う」

 そんなバートンの提案にアルとエリノアは賛成する。しかしレナートは別だった。バートンに睨みつけながらレナートは言う。

「どうせオレはお前にとやかく言われながら買い物だろ? せっかくゆっくり出来ると思ったのに……たまったもんじゃないね」

 そう口を尖らせるレナート。

「だったらお前はエリノアのお嬢ちゃんと一緒に回るか?」

「それは……」

 言いよどむレナートに、バートンはそっとささやく。

「――酒もなしで」

 そう、この前は酒を飲んでいたからあれだけ話せたが、今は飲んでいない。素面である。気持ち的には整理がついたとはいえ、今のレナートにエリノアと二人きりというのは二が重い。

「アルと俺じゃあだめなのかよ!」

「お前はエリノアの嬢ちゃんと俺が一緒にいたらどう思う?」

 バートンは巨体の筋肉人間である。そんな彼の横に見目麗しい聖女のエリノアがいたら変に悪目立ちすることは間違いなかった。

「確かに不釣り合いだな」

 レナートは悔しいが納得せざるを得なかった。

「あーもう分かったよ。俺はお前と行く。それでいいんだな?」

「おう、いいじゃねえか。覚悟決まってて」

「……頑張れよレナート」

アルは青ざめた顔のレナートにかける言葉が思いつかなかった。


 ビグリムの市街地にアルは煌びやかな印象を受けた。赤道近くに位置する都市なだけあって、レンガ造りの建物が多く、建物の間には日差しを防ぐための大きな布がいくつも張っていた。それぞれ色も違っていて忙しない。

「綺麗だね! 私こんなところ来たの初めて」

 辺りをきょろきょろと見回しながらエリノアは嬉しそうに笑顔を浮かべる。

 二組に分かれた一行は、それぞれ買うべきものを決めた。力のあるレナートとバートンは食料品を。アルとエリノアはその他の生活に必要な品を買うことになっていた。

「まず服は必要だよね……レナートはいらないかもしれないけど」

 アルは重ね着をしてぶくっと膨れたレナートの姿を想像する。

「これ以上買ったら動けなくなりそうだ」

「ただオリンポスは北の方にある山だから寒いよ。ちゃんと寒さを防げるような厚手の服を買っておかないと」

 そういうわけでいろいろな店を見て回っているのだが、どうにも見つからなかった。というよりは都市の華やかさに反して、どこも人通りが少なく、営業している店もまばらだった。

 おかげで服の売っている店を探すだけで一時間もかかってしまった。ようやく見つけた店にアル達が入ると、しわくちゃのよく日焼けした老婆が出迎えてくれた。

「お客さんとは珍しいね。いらっしゃい」

 穏やかそうな性格の老婆だった。歳は八十くらいだろうか。笑った顔にシワができてどこか愛嬌がある。

「お婆さん、僕たちオリンポスに向かってるんだけど防寒着ってあるかな?」

「ああ、あそこは寒いからね。二人ともこっちにおいで」

 お婆さんは店内の奥へと二人を案内した。連れてこられた店の一角のスペースには、厚手の外套が積まれていた。

「ここの服を好きなだけ貰ってくれていい」

 老婆はそう告げる。しかし貰ってくれていいとはどういう意味だろうか。

「ここにある服って売り物ですよね? 私達にくださるんですか?」

 その言い草に引っかかりを覚えたエリノアは思わず老婆に尋ねる。

「ちゃんとした言葉のつかえる出来たお嬢さんだね」思わぬ形で褒められたエリノアは「ありがとうございます」と頭を下げる。

「きっとアンタたちがうちの最後のお客だ。いまさらアンタたちから金を取ったって何にもなりはしないよ」諦めたような口調で老婆を言う。

「どういうことですか?」エリノアが尋ねる。

「アンタたち知らないでビグリスに来たのかい?」

 二人は訳が分からず老婆を見つめる。

「この都市には黒鴉の軍団が向かっている。もうじきこの都市も連中の支配下さ。そうなりゃもう、アタシのような老人には生きている理由がないからね」

 黒鴉はアルにも聞いたことがあった。いやむしろ聞いたことがないはずがないのである。なんせ黒鴉はクロエのいる組織なのだから。

 アルは老婆に尋ねる。

「すいません、あまりここら辺の事情は詳しくなくって。いったい黒鴉とか言う連中は何者なんですか?」

 そんな問いに、老婆は近くの開いた商品棚に腰を降ろす。

「連中はいわゆる天上教会の過激派さ。五年前、預言が下ってから出来た組織らしい。連中の重んじる教会の教義だかなんだかはアタシもあんまり詳しくはないが、どうやら預言の世界の終わりを神からの救いだって解釈しているらしい」

 そこまで言い終わると「たまったもんじゃない」と老婆は悪態を吐いた。

「アタシは生い先短いけど、今日生まれた赤ん坊だっているんだ。彼らが幸せになる未来があったっていいじゃないか。それにアタシも生い先短いとは言ったけど、まだまだ死ってのがお迎えにくるまでは楽しく生きるつもりさ。終わりに救いなんて求めちゃいない。勝手に変な解釈をするのは構わないけども、それに他人を巻き込むのはやめてほしいね」

 そう愚痴を言った老婆は、おかしそうに笑っていた。

「アンタらもごたごたに巻き込まれたくなかったらさっさと用事を済ませてこの都市から出ていきな。とはいってもオリンポスに向かうんだったらいずれは面倒事に巻き込まれるだろうけどね」

 皮肉を言う元気があるのなら、この老婆はまだ死なないなとアルは思う。

 そうして二着――バートン、自分用の厚手の外套を手に取った。エリノアも珍しい白いふわふわのコートを手に取っていた。

「お嬢さんお目が高いね。ソイツはオリンポスでしか作ることのできない綿ってやつでできたコートだ! すごく暖かいらしいよ。まあこの都市じゃあまず着ることはないけど。お嬢さんは美人さんだからきっと似合うよ。ちょっと羽織って見せてくれよ」

 嬉しそうに老婆はエリノアにそう進める。エリノアもまた若干押され気味ではあるものの、まんざらでもないようでうれしそうに「はい」と答えた。


「うん、アタシの思った通りよく似あっとるよ! うんうん」

 綿のコートを羽織ったエリノアは、その容姿と相まってとても似合っていた。白い髪もそうだし、何より全身が白に包まれているせいか、その真紅の瞳に人を引き付けるような魅力を放っていた。

「こんな良い服、本当に私がもらっちゃっていいんですか?」

 エリノアは信じられないのか、再度尋ねるも老婆の返事は変わらなかった。

「お嬢さんみたいな美人さんに来てもらえれば服も喜ぶ。アタシからすれば願ったり叶ったりよ。遠慮せずに貰っとくれ」

 そんな老婆に言葉に甘えて、エリノアとアルは三着の外套を貰った。そうして色々と一通りそろえたことには、アルの背負っている鞄は一杯になっていた。とはいえ食料の買い出しに行ったバートンとレナートに比べればマシだろう。

「私も手伝おうか?」

 そう言うエリノアに「大丈夫……問題……ない」とアルは返した。

 そうしてまだバートン達と合流する時間までは余裕があったので、アルとエリノアはしばらく市場を回ることにした。いくら一通りが少なくなったといっても流石は貿易の中継都市。中央市場には見たことのない品が数々揃っていて、エリノアはそれらをみながら少しばかりはしゃいでいた。アルはちょっとしたお土産店のような露店に立ち寄っていた。

「うわあすごいね。きれい!」

 エリノアが指差す先には、赤とオレンジの混じった宝石のついた指輪があった。値段もお土産店ということもあってか、普通の宝石に比べれば随分と安い。なによりアル自身、この宝石がとても気に入っていた。

「二つください」

 アルは即決した。

 そして買った後、片方をエリノアに渡した。その様子を見ていた店主がヒューと口笛を吹いたことで、自身の犯したミスをアルは悟った。しかし幸いにも恋愛知識の不足しているエリノアには何故店主が口笛を吹いたのか理解していないようだった。

「なんであの人、私達を見て口笛を吹いたんだろうね。そういう伝統でもあるのかな?」

「…………なんでだろうね」

 伝統といえば伝統だけど――そんな言葉をアルはゴクリと飲み込んで知らないふりをしたのだった。


 一方、食料市場に足を運んだバートンとレナート。二人が市場で目にしたのは、ずらりと並ぶ無人の露店と、すでに品切れの商品棚だった。

「おいおい、こりゃあどうなってんだよ」

バートンは周囲を見渡し、人通りの少なさに疑問を露わにする。さきほどから大荷物を抱えた人間がまばらにいるが、彼らはこの市場で何をしているのだろうか。とにかくここで食料が補給できないとなると、もし船の燃料が尽きた時に、予備の食糧すら持っていないままで荒野の真ん中に放たれることになりかねないのだ。

バートンとレナートがまだ何か残っていない物かと市場を練り歩いていたところに、一人の男が声を掛けてきた。

「おい、お前バートンじゃねえか!」

 男は無精髭を蓄えた、バートンと同い年くらいの中年だった。バートンに負けず劣らずの筋肉質な身体をしている。

「お前、まさか、アルノルドか?」

 バートンは男の声に振り返ると、しばらくその場に立ち尽くしていたが、ふと何かを思い出したかのように彼の名前を呼んだ。

「レナート、紹介するぜ。コイツは俺の軍人時代、同じ部隊にいたアルノルドだ!」

「お前って軍人だったのかよ!」

「なんだ、言ってなかったか?」

「いったいどのくらい軍にいたんだ?」

 レナートが尋ねると、バートンはすぐには思い出せなかったのか、頭を指でコツコツと二回叩いてから言った。

「もう十年くらい前になるか」

「もうそんな前になるのか」

 バートン言った十年という年月を聞いて、アルノルドは懐かしそうに目を細める。

「てことはバートンお前、いったいどれだけ長い間命を懸けた仕事してんだ?」

「まあ傭兵になってからはまだ五年しか経ってねえが、軍人時代も合わせればもう二十年ってところだろ」

「オレは二十年もこんな仕事続けてたらいつか死んじまいそうだ」

 ノクティス迷宮から出て立った五日、それだけでも幾度も死にそうな目にあったのに、二十年も命を懸けていればいずれ死んでしまうに違いなかった。

「そんなことよりアルノルド、お前生きてたんだな。てっきりあの戦いで死んじまったのかと思ってたよ」

「あの戦いは帝国と共和国最初の戦いだったからな……人もたくさん死んだし、俺みたいに行方知れずになったやつだって多いだろうな」

「バートン、あの戦いってなんだよ?」

 二人の会話を聞いていたレナートは、先ほどから出てくる「あの戦い」とやらについて尋ねる。

「十年前、帝国軍と共和国軍が初めて衝突した戦いだ。北の大国である共和国に南の大国である帝国が突如として侵攻を開始した。開戦当時はまだ今みたいに諸外国を置き込んだ一大戦争になってはおらず、両軍の軍隊の規模も今よりは小さかった。それでもひどい戦いだったのには変わりない。まあお前に話すようなことじゃあねえよ」

 バートンはあまり自身の過去について話したがらないところがあった。

「それよりもアルノルド、この市場はいったいどうしちまったんだ? オリンポスまで向かおうってのに食料を補給しに来たんだが……これじゃあ何にも買えやしないじゃないか」

 閑散とした市場を見回しながらバートンは言う。

「なんだお前知らないのか? ――黒鴉について」


 その日の夜。四人は船の中にいた。

「黒鴉の軍団についてお前達は何か聞いているか?」

 バートンは今日アルノルドから聞いた話をする。

「どうにも黒鴉とかいう連中は、帝国と共和国がどっちも弱っている隙に自分達の王国をつくる気らしい」

 オリンポスの奇跡で大敗した帝国軍。先のエリシウムの戦いで大敗を喫した共和国軍。両陣営ともに、戦力が大幅に減少しているのは言うまでもない。そこで立ち上がったのが天上教会の過激派組織である黒鴉というわけだ。聖女誘拐の報を聞きつけた彼らはそれを大義名分としてオリンポスへの侵攻を開始したのである。

「確か黒鴉ってクロエってのがいた組織だよな。シグルドの妹の」

 バートンは頭を掻きながら言った。

「まったく……兄はもういないとはいえ、兄妹で別々に国の立場に立って戦争とはな」

 それは残酷な事実だった。アルはいたたまれなくなって、下を向く。

 ――全ては五年前、預言が告げられたことに発端を発している。

「ともかく出来る限り早くオリンポスに辿り着かなくちゃいけないのは変わらなそうだね」

 残りの食料も心もとなかった。猶予はもはやあと二日しか残っていない。オリンポスまで残り一千キロ。果たしてあと二日でオリンポスに辿り着くことができるのか?


 残された猶予は、あと二日――


 六日目は特筆すべきことは起こらなかった。いままでたくさんのことがあったせいか、四人とものんびりと過ごしていた。しかしその心のどこかでは時間が過ぎる度、荒野の真ん中で燃料が尽きて立ち往生するのではないかという不安を募らせていた。

 エリノアは船体中央に位置するロビーにいた。ロビーの金属製のソファーに座っていたアルの隣に座る。

「ついに後一日だね」

 もうすぐ日が沈もうとしているにも関わらずオリンポスはまだ見えない。内心、アルも焦りを感じていた。だからといって船も燃費を考慮した上で最速で進んでいる。焦ったところが何か出来るわけでもなかった。

「本当にたどり着くのかな」

 この六日間の間で、アルが初めてそんな不安を口にした。

「大丈夫だよ。ちゃんとこのままいけば辿り着くはず。私もちゃんと確認したし」

 この状況で唯一不安そうな顔を見せなかったのはエリノアだけだった。というのもエリノアが彼女が持つ異能力によって現在地が分かっており、オリンポスまであとどれくらいかも理解していた。しかし他の三人は退屈な一日が続いたことで、考える時間が多くなり、疑心暗鬼になっていた。あにバートンですら「本当にたどり着くんだろうな」と弱音を吐いているくらいだ。夕日はやがて沈んでいく。もう六回目の夕焼けだった。

 残された猶予は、あと一日――


 そうして迎えた七日目。

 朝早くから四人は船の艦橋に集まっていた。

「何も見えないな」とバートン。

 早すぎたのだ。朝日はまだ昇っておらず、地平線の先まで暗い夜空に包まれていた。

「だから言ったじゃねえか、早すぎたんだって。もう少し寝てよーぜ」

 レナートは眠い目を擦りながら大きなあくびをする。

「おいこら、こっからはお前が見張りの時間だぞ。逃げる気か?」

 すかさずバートンがレナートの首根っこを掴む。四人は夜の間、交代交代で二時間ずつ艦橋で何か変わったことはないか見張りをしていた。……レナートの場合は三度ほどそのまま朝まで寝ていたことがあったが。

 その時だった。艦橋から見える景色に長い影が出来た。

「見て、朝日だよ!」エリノアは船の後ろ側を指差して言った。

 そこにはたった今、地平線から姿をあらわしたばかりの神々しい太陽が見えた。

「――眩しい!」つい先ほど艦橋で見張りの当番をしていたアルはまだ眠たそうな目をぎゅっと閉じる。そしてうっすら開いた時、それが視界に飛び込んできた。

 太陽の昇った方とは反対側、地上を横から照らす日光を反射していたのはこの世界の何よりも大きな山だった。

「――オリンポス。たどり着いたのか」

 アルはほっと一息、安堵する。

「だから言ったでしょ? ちゃんとたどり着くって」

 口の端を結んだエリノア。しかしすぐに笑顔になるとアルに言った。

「お疲れ様。ちゃんと約束、覚えてるよね」

 ――オリンポスについたら二人で出かけようよ。

 パヴォニス山についた時にした約束だ。アルはもちろん覚えていたが、エリノアもちゃんと覚えていてくれたことが嬉しかった。しかしその返事をするよりも先に、安堵と疲労からくる眠気がアルを襲った。

「……ノアも、ありがとう」

 アルは言うと、ゆっくりと瞼を下ろしたのだった。


 その日の昼前に、船はオリンポスの港に入った。オリンポスは麓にアル港湾にちゃんとした燃料を補給するための設備が揃っているので、アルはそこで船の燃料である合成燃料を補給する。何分高くついたが……一応満杯に入れてもらった。

 しかし問題はまだ山積みだった。

 ビブリスで補給できなかった食料の問題や、傷ついた船体の修理。何よりも聖女であるエリノアをどうするかという問題が今一番皆の頭を悩ませて言える問題だった。

「私はオリンポス共和国に聖女として入国したいと思います」

 エリノアは船内のロビーでそう宣言した。

「それで、もう一度だけ和平交渉に臨もうと考えています」

 あの時、アルが言ってくれてた。

――君を助けに来た。

 あの時、レナートが言ってくれた。

 ――失敗してもいい。その優しさは人々に力になる。

 何ができることはあるはずだ。理想があるのなら、諦めるにはまだ早い。

 エリノアはあれから無力だと思っていた自分の持っている交渉のカードについて考えていた。両陣営が小娘の理想を無視できなくなるようなカードを。

「嬢ちゃん、本当にいいのか? もしそんなことをすれば、これから嬢ちゃんの先に待っているのはこれまでよりもさらに大変な運命だぞ」バートンが最後の忠告をする。

 しかしエリノアの覚悟はすでに決まっていた。

「それでも私は理想を諦めたくない。思い描く夢があるのなら、私はその夢を実現させたい。もちろん無策というわけではありません。私にだって策はあるんです」

 エリノアはにやりと不敵な笑みを浮かべる。もはや誰もエリノアを止める者はいなかった。


 オリンポス山には外縁を囲うように絶壁がある。その高さはなんと五千メートルにもわたり、絶壁からオリンポス山頂に位置する首都までは二百キロ以上の距離がある。おかげでオリンポスの山頂部にある共和国首都にたどり着くまで港湾からまる一日を要するのだ。

 とはいえ流石にこの距離を徒歩というわけではない。港湾から山頂の首都まではシャトルバスとして大型の旅客船が往復している。四人はその旅客船に乗って共和国首都に向かう予定だ。

 四人は港湾の絶壁沿いにあるケーブルカーで絶壁の上まで登ると、そこにいた大勢の人々に混じり旅客船を待った。途中、検問所があったが……バートンがビグリスで手に入れた偽造パスポートによって問題が起きなかった。

 しばらく待ってようやくやってきた旅客船は細長い流線形だった。船体両脇から伸びる丸みを帯びた翼には強力なリフターエンジンが付いており、見上げるほど大きな船体を浮揚させていた。船内の通路にはずらりと客席が並んでおり次々に人が座っていく。レナートはちょうど窓際の席だった。

「広いな……俺達の乗ってきた船の十倍くらいはあるんじゃないか?」

 十倍は流石に言いすぎだが、武装やらエンジンやらによって船内の生活空間が圧迫されているあの船に比べれば旅客線はあまりに広く感じられた。

 しかしそこからは退屈な景色が続いた。二百キロも続く山の斜面から見える景色はほとんど代り映えせず、単調な景色が永遠と続いていた。むしろ船内の様子の方が興味深かった。

 乗客のほぼ半数が、大荷物を背負っていた家族連れが多い。おそらくビブリスの人々をはじめとした黒鴉の侵攻から逃げてきた人々だろう。その次に多かったのが、一見裕福そうな人々だった。しかしこのような庶民用の旅客船に乗っているのだから本当のところはそこまで金を持っていないのだろう。

「あの少し裕福そうな人たちは貴族か商人か、どっちだろう」

アルは隣に座っていたエリノアに話しかける。

「どっちもだと思う。きっとこの前のエリシウムの戦いの敗戦によって帝国の支配下になった地域から逃げてきた貴族と商人だよ。この船に乗っているってことは、持っていた財産もほとんどおいて逃げてきたんだろうね」

「無力な民衆を見捨てて逃げ来たってわけか。これだからお貴族様や商人ってやつは」

 レナートは呆れた様子で言った。

「けどレナート。いうほど民衆は無力じゃない」アルは船内の乗客の顔をぐるりと見渡す。「見てみなよ。君が無力といった人々の顔を。彼らの生きようという固い意志を。一人一人が弱くとも、集まれば大きな力になる」

「……そうかもな」

 何故かレナートは少し嬉しそうに言った。しかしエリノアはアルの発言に違和感を覚える。どうしてたの庶民のアルがそんな――まるで貴族的な視点を持っているのか?


 ちょうど半日経っただろうか。すっかり陽が沈んでしまった頃、旅客気はオリンポスの山頂に着いた。眼下に映る景色は山頂部の直径五十キロにわたるくぼみにある明るい都市と、その南北に位置する円形の広い海。

 ――ついにオリンポスに辿り着いたんだ。

 アルはそう実感する。そんな時だった。ひょこっと前の席の老人が顔を出した。くるくるとパーマのかかった白髪の老人だった。顔の彫が深く、目力が強いという印象を受けた。老人は随分と汚れた服を着ていた。もうしばらく洗っていないのだろう。

「お嬢さん!」老人はエリノアを指差して口の端をニヤリと上げる。

「……聖女様じゃな」

 刹那、空気に緊張が走る。

「何かの勘違いじゃないですか?」

 着ていた外套の下に隠していた短剣にアルは手をかける。

「いいや、ワシの目を舐めるではないぞ小童。あの時見た数学的に完璧といえる顔をこのワシが忘れるわけがない!」

 なにか言っていることがおかしい。老人は口の周りにシワを作りながらギラリと白い刃を輝かせた

「あっ――!」

 エリノアは思い出したかのように言う。

「この前和平交渉に向かった時に突然意味のわからないことを話しだした人ですよね!」

 エリノアにその気はないのだろうが、その言い方は良くないんじゃないかとアルは思った。

「ヒッヒッヒ。覚えておたっかお嬢さん。ワシはブルーノ・コロリョフ。またの名を――カガクシャと自称しておる」

 そしてカガクシャを自称する老人は言った。

「ワシはこの世界で一番、預言の真実に近づいた者じゃ」


 聞けばカガクシャなる老人は、この共和国でも相当の地位にいるらしかった。おかげで首都に入る際に受けるはずの検問をパスすることができた。というよりも、カガクシャは聖女でありエリノアに是非見せたいものがあるのだと、自身の研究所とやらにに四人を連れて行った。

 研究所は首都をぐるりと囲う外輪山の頂上付近にあった。金属板を張り合わせたような不格好な建物である。

「お主ら、あの天にあまねく星々をもっと近くで見たいとは思わないかね?」

 カガクシャへ建物の中にある倉庫から、人ひとりぶんはある長さの筒を持ってきて言った。

「それは?」そうアルが問うと、カガクシャは真剣な表情で話し始めた。

「ワシはある日、この空の向こうに何があるのか知りたいという欲求に目覚めた。欲求は日に日にワシを蝕んでいった。しかしワシはあの空の向こうへ行く手段を持たなかった。だがそこで人は一度抱いた欲求を諦められるだろう? 欲求とはひとえに胸に抱いた大いなる夢。人はその幻想に取りつかれた時初めて己を知る。ワシはその時から己の生まれた理由、これまで生きてきた理由、明日を生きる理由、その全てがあの空の向こうを知るために存在するのだと分かった!」

 やたら饒舌なカガクシャは続ける。

「ワシは眼鏡から着想を得て、長い年月をかけてようやくこの望遠鏡を作った。この望遠鏡は遥か遠くまで見通すことができる。この空気の澄んだオリンポスの山頂では空の向こうが良く見えるぞ!」

「空の向こうが見えるだって?」

 アルは耳を疑った。カガクシャの言葉に食いつくように聞き返す。

「そうじゃ。あのオリンポスの英雄にも見せてやったんじゃ……天上の神の正体を」

 瞬間――その場が静まり返る。風が通り過ぎる中、呆然と四人は立ちすくんでいた。

「……おい」バートンは全身の筋肉を脱力させていた。「今お前は、天上の神をシグルドに見せたと言ったか?」

 そんな問いに、カガクシャは目を細めて笑う。

「そうじゃ。だから言ったであろう、この世界で一番預言の真実に近づいたのはこのワシじゃと」

 確かにシグルドは天上の神をその目で見たと言っていた。

「お嬢さんには少し受け入れがたい事実かもしれなぬが、それがこの世の真理なのじゃ」

 そうして老人は大きな三脚の上に持っていた筒を置くと、その筒の中をのぞきながら盛んに三脚をいじっていた。しばらくそうしていると突然「見えた!」と声を上げた。

「お主ら、天上の神の真なる姿をその目に焼き付けたいものは前に出よ!」

 しかし誰も前に出なかった。

「なんじゃ、つまらん連中じゃのお」

 カガクシャが残念そうにそう呟いた時、一人、一歩踏み出したものがいた。アルだった。

「見てみたい。天上の神が本当にいるのなら」

 三人の視線が一斉にアルに集まる。

「アル、お前本気で言ってるのか? こんなことがバレた日には教会から破門……下手すりゃあ処刑されちまうぜ」レナートはカガクシャの元に向かおうとするアルの手を引く。しかしアルはその手を解く。

「それでも僕は知りたいんだ。この世界の真実が」

「いい意気じゃ! ほれほれこっちに早く!」

 カガクシャに言われるがまま、アルは望遠鏡の前に立った。

「その筒の中を覗いてみよ」

 アルはその言葉通り、筒の中を覗いた。そこから見えたのは、到底この世のものとは思えぬ物体。それは幾本もの槍をその身にまとい、太陽の光を反射していた。神々しいというよりはむしろ、禍々しいと表現した方が良い代物である。

「本当にアレが天上の神だっていうの?」

 信じられないという感情が湧くのと同時、どこか確証のようなものがアルの中に湧く。その物体のシルエットに、なつかしさを覚えるような感覚を覚えた。

「そうじゃ、アレが天上の神だ」

「本当に空の向こうが見えてるんだ。まるで魔法みたい」

 アルは初めて空の向こうにある世界を見て、感動した。

「魔法ではないし、魔法でもある。たとえば遺物のように、高度に発達した科学技術というものは次第に魔法と見分けがつかなくなるのだ」

 カガクシャはアルの見ているであろう夜空と同じ方角を見つめていた。

「ワシが思うに天上の神は、神ではなく、遺物と同じ系統の類だと睨んでおる。しかしだ、空の向こうにあるものなど、ワシらからすればやはり魔法としか思えない。つまり結局、アレはある種の魔法であり、神なのだ。故に、そんな魔法やら神やらが存在するこの世界で、不可能などあるわけがない。もしお主が本気で願えば、もしかすればあの空の向こうに行くことだって不可能ではないだろう」

 カガクシャは、望遠鏡を覗き込むアルにそう言った。アルはその言葉を胸の中でじっくりと噛みつぶす。まるで心に刻むように。

 ――行くことができるだろうか。僕は。あの空の向こうに。

 それからアルは他の三人が宿に言った後も一晩中、カガクシャの話を聞いていた。たとえば星々はこの世界を中心に回っているのではなく、この世界が太陽を回っているのだということ。昔はこの世界にはたくさんの今はない鉱物で溢れていたこと。――上げればきりがないほどだ。

 聞けば聞くほど、あの空の向こうが知りたくなった。

 アルはカガクシャに乗ってきた船の話をした。電離気体砲が搭載されていることも。

「なんじゃと。そんなものがあるのなら早く言わんか!」

 カガクシャは声を荒げた。

「しかも聞いた話によれば小型化されているようじゃないか……もしかすればその船はワシが追い求めておった船かもしれぬ」

 何やらぶつくさと独り言をつぶやきながら部屋をぐるぐると回るカガクシャ。

「アル、明日ワシをお主の船まで連れていけ!」

 しかし今日、丸一日かけてここに辿り着いたばかりである。

「さすがに疲れているので明日というわけには……」

「いいや明日じゃ! 早い方がいい!」

 カガクシャはソファーに座っていたアルに迫る。その勢いでアルはソファーごと倒れた。ぼっと部屋に埃が舞う。その時だった。カランコロンと軽快な音は立てて何かが床を転がった。

「アル、それは?」

 ――あの露店で買った指輪だった。

「ビブリスの露店で買った土産です」

「……これが土産だと?」

 カガクシャは指輪を拾うと、まじまじと乗っかっている宝石を見つめた。

「これはそんなチンケなもんじゃない。これはこの世界でもう取ることのできない貴重な宝石の一種だ」

 カガクシャの瞳に、宝石の赤色が宿る。

「アル……少し相談があるのだが……」


その日の夜、宿に泊まっていたエリノアは決心をしていた。

――明日、みんなと別れよう。そして今一度、聖女として和平交渉の席に両国を付かせてみせようと。

 翌日、エリノアは朝早く起きて身支度を始めた。

 まだ朝日も出る前だったので、バートンもレナートも眠っているようだった。この七日間を振り返ってみれば内容の濃い日々が続いていた。二人もきっと疲れていたのだろう。

 エリノアは置き手紙だけ部屋に残して、宿を出ようとした。その時だった。後ろから声を掛けられた。

「ノア!」

 エリノアは振り返り、その声の主を確認する。

「何も言わないででていくのは……ちょっと傷つくぜ」

 宿のロビーにある階段にレナートの姿が見えた。

「オレはいつだってお前を待ってくるからな。それにバートンだって、アルだって、きっとお前が俺達のところに戻ってきてくれりゃあ喜ぶはずだ。だから、いつだって俺達が付いてるから」レナートの目から涙がこぼれる。

「オレはさよならなんて言わないぞ。ノア!」

 そしてレナートは涙の滲んだ笑顔を浮かべて言う。

「こういう時は、いってらっしゃいって言えばいいんだよな!」

 気づけばエリノアの目から涙が溢れていた。

 エリノアの真紅の瞳にレナートが映る。

「うん、そうだね。レナート……いってきます!」

「おうっ! 頑張れよ!」

 そうして宿のドアがそっと閉じられる。

 エリノアのいなくなったロビーで、レナートは立ち尽くす。あとを追いたい気持ちをなんとか我慢する。彼女の後を追えばきっと、エリノアはまた振り返ってしまうから。

「呼び止めなくても良かったのか?」

 階段の上から二人の様子を伺っていたバートンが穏やかな声色で話しかける。

「オレにはノアがどれだけの思いで出て行ったのかわからないけど……だとしても、ノアのした覚悟を踏みにじるような真似は、オレにはできねえから」

 だからせめて笑顔で送り出そうと思った。

「けどオレ、やっぱり弱いな」

 レナートのむせび泣く声が階段に響く。

 そんなレナートの肩に手を置いて、バートンは言った。

「大丈夫だ。お前は強くなった」


   第十一話 聖女エリノア


 それから三日後。オリンポスの南にある宮殿の門を、一人の少女が叩いた。

 少女の名はエリノア・クリス・カーター。天上教会の聖女である。

 聖女が現れた。オリンポスは聖女を誘拐などしていなかった。その事実はオリンポスにとって何よりの吉報だった。

 そしてその日の朝から始まる緊急で開かれたオリンポス共和国元老院議会。そこに登場したエリノアに、議会は驚き、騒然とした。

 エリノアは議事堂中央、檀上に上がると言った。

「私は戦争を望まない。天上の神もまた戦争など望んではいっらしゃらないだろう」

 そこには、この間元老院議員たちが見た、か弱い小娘の面影はなかった。

「預言は言っている。この星を救いたくば探せ――英雄を真実を、この世にかけているものを――と。これは神から我々に与えられし命題である。我々に争っている暇などなく、皆で手を取り合って神より与えられし命題を解かなくてはならない!」

 エリノアは檀上から総勢三百いる議員をぐるりと威嚇するように見渡した。

「聞いたところによれば、オリンポス共和国は無実の罪を着せられ、天上教会によって破門されたらしではないか。このまま戦いが続けば、いずれ諸君らは帝国に飲み込まれるだろう」

 それは議員たちも分かっていた。しかし自分で思って言えるのと他人に言われるのでは違う。議会は野次で包まれた。しかしエリノアも負けじと声を張る。

「しかし必ずしもそうではない! もし私とともに争いなき世界を諸君らが作ろうと約束をするのならば、私は聖女として諸君らにこの手を貸す覚悟がある。手始めに、共和国の冤罪を解いてやろう」

 議事堂の中央に佇む少女は、もはや小娘ではなく凛々しい聖女であった。人々のエリノアを見る目は今や、強く、勇猛な、尊敬すべき聖女への羨望と期待に変わっていた。

「再度問おう、諸君らは戦争を望むか?」

 議会は満場一致でエリノアの提案を受け入れた。オリンポス共和国はいま、エリノアとともに平和への道を歩む同志へと変わったのである。しかしこう上手くいったのも、それは前持って行っていたエリノアの有力者への工作がもたらした結果だった。

 エリノアは手始めに破門されてしまったオリンポスの教会関係者を、破門を取り消してみせるという約束で味方につけた。そして教会関係者の支持を全身に受けたエリノアは共和国元老院の一大勢力である貴族のミーロ・カヴールを教会勢力による反乱を起こすと脅迫した。

 そんなことは以前のエリノアなら到底やらなかったことだろう。しかし自らの手を汚してでも叶えたい夢があるのなら、諦めきれない夢があるのなら。エリノアはついに成し遂げた。

 どんなに汚くても政治工作は行うべきである。世の中は決して綺麗ではない。深く潜れば潜るほど、膿が出てくる。それに対抗するには正攻法でだけでは通用しない。

「――私に足りなかったものは理想をどんな手段を使っても実現させるという強い思い……」

 エリノアは決して弱くはなかった。

 しかし自身を無力と思い込んでいるがゆえに、また自身の持つ力を見間違い、その振るい方をしなかっただけで。


 すぐさま帝国にも聖女のニュースは伝わった。無論、天上教会に伝わっていることだろう。皇帝エゼルレッドはすぐさま緊急軍議を開いた。

「オリンポス共和国の破門が解けるのも時間の問題だろう。そうなれば我々は陣営に引き込んだ諸国に嘘を吹聴したことになる。陣営が瓦解するのも時間の問題だろう」

 帝国に残された道は一つ。そうなる前にオリンポス共和国を攻め滅ぼすことだった。

「幸いにも現在、天上教会と繋がりのある黒鴉との共同戦線が計画されている。私はその実施を速め、来週中にもオリンポス共和国首都で最終決戦を行おうと思う」

 エゼルレッドによって下された作戦――大嵐ハリケーン作戦はついに実行に移されようとしていた。オリンポスでの最終決戦に向け、両陣営ともに着々と動き出しつつあったのである。


   第十二話 ハリケーン作戦


 その日、オリンポス共和国に衝撃が走った。黒鴉と帝国の連合軍が作られたのである。これによって共和国軍は一気に劣勢へと立たされた。しかしオリンポス共和国はこの事態が現実にありえると想定していなかった。というのも、黒鴉だけでも共和国を落とすには十分の戦力があり、帝国との共同戦線を組んだところで、黒鴉側にほとんど利益がないからだ。むしろ弱体化している帝国軍は黒鴉の精鋭部隊からすればお荷物でしかないだろう。

「狂信者どもめ……どいつもこいつも共和国をめちゃくちゃにしやがって」

 共和国の貴族で、元老院議員のミーロ・カヴールは自室で唸る。

 その脳裏には先日彼を脅迫した聖女の顔があった。

「もはやどちらに乗っても泥船か」

 ――それならばせめて共和国が存続する道に賭けたい。

 カヴ―ルはエリノアを呼び出した。

「この共和国軍の軍の全権限を今、実質的には私が有している。つまり私はこの有事にあって、共和国の統治者といっても過言ではない。やろうと思えば元老院ですら思い通りに動かして見せる。例えばここでお前の首をはねることだって可能だ」

 エリノアはそれを聞いてもなお動揺する顔ひとつ見せなかった。

 ――子供の成長は早いな。

 カヴールはそう思いながら覚悟を決める。

「聖女エリノア、この共和国をお前の度胸に免じて任せてみようと思う。私が表に立つから、お前はお前の思い描く世界のために私と共和国を使え! 使える物を全て使わなくてはお前の理想を叶えることはできない!」

 まさかそんなことを告げられると思っていなかったエリノアは、今度ばかりは流石に顔を強張らせた。

「何が狙いでしょうか?」

「帝国と手を組んだ狂信者か、平気で人を拷問する聖女か。そのどちらの泥船の乗るべきか考えた時、私はお前を選んだ。それだけのことだ」

 それに、正直に言えばエリノアのその姿勢に、カヴ―ルは感動させられていた。

「――ありがとうございます!」

 エリノアは口の端を結ぶと、カヴ―ルの目を見て言った。安易に頭を下げたりはしない。代わりにエリノアはカヴールに手を差し出す。カヴールはその手を口元に笑みを浮かべながら握る。二人はその日、固い握手を交わした。


 それから五日後、戦いが始まった。


 共和国軍は最初オリンポスの地形を生かした戦況を有利に進めた。オリンポスは周囲から一団盛り上がったようにその外縁を断崖絶壁で覆われている。エリノアがオリンポスに来るときに上った標高五千メートルの絶壁もまたその外縁を囲う自然の壁の一部分だった。

 しかしそれも長くは続かない。

 オリンポス山を囲う外縁の絶壁の全長はおよそ一千キロをゆうに越える。それだけ広い戦線をカバーするための兵力は今の共和国軍にはなかった。一か所の戦線が崩壊すれば、その穴を埋める戦力が不在のために、そこからなし崩し的に共和国軍が山頂へと次第に追い詰められていった。

 特に南側に布陣している黒鴉の軍勢は、練度と質、なにより士気が異様に高く、かなり押され気味なっていた。報告によれば黒鴉の軍勢の中に一隻、巨大な砲門を有する艦がいるらしく、援護に向かった艦隊も一瞬で壊滅させられた。

 ――また私には何もできない。

 戦いが始まる前は、その聖女の威光を振りかざし、戦いに備えることができた。ここまで持っているのも、聖女であるエリノアが民衆に志願兵を募り戦力を大幅に底上げすることができたおかげでもある。

 しかしいざ戦いが始まれば、戦争の知識のないエリノアには何もすることはできない。ただ逐次報告されてくる戦場の状況を待つだけである。

 ――いいや。本当にそうだろうか。

「使えるものをすべて使わなくては、お前の理想を叶えることはできない」

 カヴ―ルに言われた言葉をエリノアは思い出す。エリノアの脳裏にとある考えが過る。しかしエリノアはそんな真似をしたくはなかった。けれども使える物すべてを使わなければ確実にこの戦いに負けるだろう。エリノアは覚悟を決めると走り出した。

しかし結局、一日目、共和国軍は開戦とともにその日の夕刻までにオリンポス山の中腹まで撤退を余儀なくさせられた。エリノアもまた、探している人を見つけられずにいた。

 そうして迎えた二日目、昨日と比べ戦線が短くなったこともあり、共和国軍の前線の兵力も大分厚くなっていた。おかげでその日は前線を五キロ後退しただけに留まった。とはいえ、兵士の疲労はこの二日間でピークに達しているだろう。三日目からはより厳しい戦いがまっているのは明白だった。果たしていつまで前線を維持していられるか。

 エリノアは二日目の夜も首都を駆けまわり、彼らを探す。

 ――いってらっしゃいと送り出してくれた彼らを。

 エリノアはその日の夜、オリンポス山の山頂に向かっていた。もしかしたらいるかもしれない。お別れを言うことはできなかった。それでも彼なら今のエリノアを助けてくれるかもしれない。

――助けられてばかりだな。

山を登りながらエリノアは苦笑する。

 そうして山頂に明かりが見えてきた。カガクシャのいる研究所だ。

 山を登るエリノアは、その先に誰かがいることに気づいた。彼は山を下っていた。そんな彼に向かってエリノアは叫ぶ。

「――アル!」

 エリノアに呼ばれたアルは、まるでマリネリス峡谷を駆け下りた時のように、山肌を走った。そしてエリノアの前で尻もちを搗きながら止まる。

「……イテテ」と起き上がったアルは、エリノアを一目見て言った。

「おかえり」と。


 そうして三人のもとに戻ってきたエリノアは、彼らが泊っている宿で頭を下げた。

「私と一緒に戦ってほしい。もちろん断ってくれても構わない」

 額から汗が流れ、床に黒い斑点を作る。心臓の鼓動が増える。

 エリノアの耳に、レナートがゆっくりと深呼吸をする音が聞こえた。

「分かった。俺はいいぜ、エリノアにはちょっとした借りもあるし」

「レナートがそう言うんなら、俺もいいぜ。いっちょ帝国軍相手にやったろうじゃねえか」

バートンが言った。

エリノアは顔を上げると、驚いたような心配するような、そんあ表情で二人を見つめる。そして最後にアルと目が合った。

「いいよ。だって僕たちはもう仲間だ」

 そんなことを口にしたのは、アルも初めてだった。いつもどこかで人を信用していなかった。心のおける仲間なんて、帝国から追放されてから誰一人としていなかった。それでも何故かこの三人の顔を見ていると仲間という言葉がしっくりきた。

 エリノアはもう一度、涙交じりの顔でお辞儀をする。

「……いつも助けられてばかりでごめん」

「こっちこそ、ノアが助けを求めてくれたのがオレ達で嬉しいよ。ありがとうな」

 レナートの女性恐怖症はほとんど完治していた。ましてやエリノア相手には普通に接することが出来るようになっていた。そんな成長に少しの感動を覚えつつエリノアも返す。

「私の方こそ、ありがとう」


 そして戦いが始まってから三日目の朝、四人は船へと向かう。

 船は戦いが始まる前に前もってアルとカガクシャによって移動させられていた。……まあ他にも移動しなくてはいけない理由があったのだが。

 船が泊っている場所は、オリンポス山頂からニ十キロ下ったところにあるパンボチェという港湾だった。前線との距離が四十キロに迫るこの港湾には、戦場の音が直に伝わってきた。

「ここだよ。遺物の時代に作られた施設をカガクシャが改造して作ったんだって」

 アルに案内されてやってきたのは、船の格納庫のような場所だった。しかもアル達の船が入ってもまだ広いスペースのある場所だ。目の前にある船の下部からカガクシャが出てくる。

「おうよ、この船もついに出発か。たった十日間とはいえ、寂しくなるなあ」

 カガクシャは船体を手で撫でながら言った。

 同時に三人は感嘆の声を漏らす。そこには、傷一つない完璧に修理された船の姿があった。

「ワシはこれでも遺物修理を生業にしている職人なんじゃ」

「けどアル。お前、金はどうやって工面したんだ?」

「実はビグリスの市場にあった土産屋で指輪を買ってね、その指輪がどうやらすごく貴重なものだったらしくて、高くで売れたんだ」

「えっ……これってそんなに高いんだ」

 エリノアは自身の薬指にはまっている指輪を見て驚愕の声を上げる。

「……なあ嬢ちゃん、それいったいどうしたんだ?」

 バートンは目を細めながら尋ねる。

「えっと、アルと一緒に土産屋さんで買ったんだよ」

 それを聞いたバートンはアルのこめかみをぐりぐりと押した。

「おいアル、お前何してんだいつの間に婚約なんて!」

「違うって誤解だよ誤解!」

 アルは悲鳴を上げながら弁明する。

「僕は指輪を買ってあげただけで婚約もしてないし、薬指にはめてあげてもいない!」

「だったらなんで嬢ちゃんは薬指に指輪をつけてるんだ?」

 バートンが問い詰めると、横で聞いていたエリノアが言った。

「だってみんな指輪を薬指につけているから、そういうものなのかなって」

 直後、バートンは呆れ顔を浮かべて、エリノアに耳打ちする。

「――――――」

「――え!?」

「わかったか嬢ちゃん? とりあえず指輪は小指に着けて起きな」

 バートンがそう言うと、エリノアは顔を真っ赤にして頷いた。


ちょっとしたハプニングがあった後、船を修理したカガクシャはアルに船の説明をしていた。

「さてアル、コイツはやはりすごい代物だったぞ! 内部構造まで調べてみたが、どうやら核融合炉が搭載されている。しかも燃料も生きている。こんな強力なエンジンが生きている船は滅多に存在しないぞ。さらに、この船は超高温プラズマ生成装置を応用した中性子砲ニュートロンキャノンまで搭載している。使い方はまた後々教えるが、コイツはとんでもない兵器だ。それこそ下手をすれば」とそこでカガクシャは周りに誰もいないことを確認して、声のボリュームを下げて言った。「国一つが滅びかねない。一応使えるようにはしたが、コイツだけ使うな!」カガクシャのいつになく真剣な忠告にアルは首を縦に振る。

「よし、分かればいいんだ分かれば。ただそれよりも何より、もっと驚くべきニュースがある」

 そう前置きすると、カガクシャは告げた。

「聞いて驚くな、この船は昔、空の向こうまで飛んでいたに違いない。きっと空の向こうの遥か彼方、あの天空に広がる星々にすらたどり着いたはずだ!」

 ――そして、

「この船はこの世界一のカガクシャであるこの私、カガクシャにの手によって蘇った!」

 ――ゆえに!

「この船は私の見たどんな船よりも、この世界のどんな船よりも早く、高く、飛ぶ。この船は無敵の船だ! この船に勝てるのはきっと太陽だけだろう」

 ――イカロス。

「この船の名はイカロスだ。遥か彼方に広がる星々へと飛び立ち、そして太陽にまでたどり着いたという古の翼。この船はイカロスに違いない!」

「イカロスか……気に入ったよカガクシャ。いいネーミングセンスだ」

 アルは綺麗になった鋼鉄の船体をコツンと叩く。

「よろしくな、イカロス」

 ――もしかしたらいつか、この船が自分を空の向こうまで連れて行ってくれるのではないかという淡い期待を胸に。


 カガクシャからのレクチャーを一通り終えて、アルは操縦席に座っていた。レナートとバートンは両翼の砲塔にいる。エリノアは周囲の状況を逐次伝えるためにアルの近くに座っていた。

「なんか久しぶりだな、この感じ」

 レナートの声が船内無線を通じてアルに聞こえる。

「頼むぞレナート。しっかり当ててくれよ」

「オレを舐めるなよ?」

 そんな会話を交わしながら、アルは船のエンジンを稼働させる。ギィーンという振動音とともに船内に明かりが灯る。同時にカガクシャが格納庫のハッチを開く。アルは艦橋からそれを確認して、リフターエンジンを指導させる。すると一瞬、アルの身体に重力がのしかかった。同時にイカロスはゆっくりと地面から浮遊を始めた。

 アルは速力を「微速」に切り替える。それに合わせイカロスの後部噴射口に小さな炎が灯る。イカロスはその日の朝、太陽光を浴びながらゆっくりとその船体を露わにした。

「イカロス、発進する。各員衝撃に備えろ!」

 アルは言いながら速力を「微速」から「原速」そして「第一戦速」に切り替える。イカロスはその後部の噴射口から出る燃焼ガスの尾を伸ばし、エンジンはけたたましい音を上げながら回転数を加速させる。

 イカロスはすぐに時速百キロを迎えた。すでに戦場はすぐ目の前に見えている。敵との距離はおよそ八千メートル。その先には無数の敵艦が見える。しかしそのどれもイカロスに対して有効な火力を有していない――カガクシャはそう言っていた。その言葉を信じて、アルは敵中突破を決意する。相手の指揮系統を混乱させつつも撃破目標、、、、を探すのが目的である。

「二十秒間隔で交互射撃開始!」

 アルの号令が船内無線越しに響くと同時、レナートのいる右翼砲塔から勢いよくプラズマ光線が放たれた。それを皮切りにアルは敵陣へと突入の構えを見せる。

「――撃破目標は敵の砲撃艦だよね」

 アルはエリノアに再度尋ねる。

「うん。情報によれば大きな大砲が船体にぶら下がってるんだって。変わった形をしていたから見ればすぐに分かるって言ってたよ」

 そのエリノアの説明は無線越しにレナートにも伝わっているはずだった。この混戦の中ではエリノアの異能力よりもアルの視力の方が撃破目標を見つけるには有効かもしれない。

「聞いてたなレナート。交互射撃を続けながら撃破目標を目視で探してみてくれ!」

 アルは無線越しにレナートに指示を出す。

「おいおい、そりゃあちょっとひどいんじゃねえか。こっちも忙しいんだぜ」

「だったらできないのか?」

 アルがそう尋ねると、無線の向こうから溜息が聞こえてきた。

「やるだけやってみるよ」

「おう、頑張れよレナート」とバートン。

 再びレナートの溜息が無線越しに響く。


   第十三話 オリンポス決戦


 黒鴉の軍団を率いるクロエは、巨大な光学砲を引っ提げた浮揚船にのっていた。二つの船体のまんなかに重たい光学砲を引っ提げているような形の船体はいささか不格好である。

 しかしその代わりに光学砲の威力は強力だった。名前は通称――電離気体砲。強力なプラズマ光線を放ち、敵艦を粉砕する兵器である。

 唯一の弱点はその発射速度の遅さだが、それも黒鴉の有する多数の小型船に護衛させることでカバーしていた。この船の前には、もはや共和国軍の艦隊など敵ではない。この船の航行速度が遅いからいまはまだ中腹までしか侵攻できていないが、このままいけば明後日までには山頂に辿り着く計算である。

「共和国軍もこの程度か」

 クロエが眼前の敗れた敵艦の山を眺めながらそう呟いた時、無線越しに報告が入った。

「前方八キロ先に強力な武装を有する敵浮揚艦を確認! 大型艦です“」

 ――共和国はまだそんなものを隠し持っていたのか。

 そうクロエは思ったが、その船を一目見て分かった。

 ――あれはアイツの乗っていた船だ。

「なるほど、そういうわけか」

 クロエは自らの大艦隊に挑もうとしているそのたった一隻の船を見て、悲し気な表情を浮かべる。

「この星に住む人々の命運はもう、そう長くはないんだよ」


「アル、いたぞ! 二時の時刻にいるひときわ不格好な形の浮揚船だ!」

 アルは船内無線でレナートに言われた方へ目をやる。そこには確かに不格好な形の船があった。リフターエンジンのついた二つの船体を挟んで吊り下げられている巨大な砲塔。その長い砲身はイカロスを向いていた。

「――回避運動を取る!」

 アルはすぐさまイカロスを旋回させた。直後、イカロスがさきほどまでいた地点に見慣れた紫紺の光線が飛ぶ。

 ――電離気体砲!

 アルはその光線を見て確信する。

 もしあれが当たれば、イカロスの装甲がいくら頑丈であろうとも防ぎきれない。しかし逆に言えば、向こうもそれは同じである。イカロスの両翼に二問づつ搭載されている砲塔もまた、一撃であの敵艦を破壊する威力を有している。

「この戦いは、敵に一発でも当てられた方が勝つ」

 アルは砲塔にいる二人に向けて言った。

「任せとけ」と二人の声が返ってくる。

 アルは二人を信じて、回避運動に専念した。

 しかしいくら打てど当たらない。向こうもまた一向に当たる気配がなかった。

 理由は明白だ。お互いに一定距離を保ちながら撃ち合っており、イカロスは敵の小型船による妨害と、回避運動によって有効な砲撃が出来ずにいる。そして逆に向こうは船体構造上、砲塔を旋回させるには船体ごと回転させるほかなく、そもそも照準を合わせるのが難しく、イカロスの回避運動と速力に照準が追い付かない。

 もはや泥沼合戦だった。

 しかしそれでも分は向こうにある。いくら敵の小型船がイカロスに対して決定的な火力を持っていないとはいえ塵も積もれば――である。長時間イカロスも敵の攻撃にさらされいることはできなかった。時間が味方していない以上、このままでは負けるのはイカロスだ。アルは焦りを募らせていた。


 同じころ、クロエもまたしびれを切らしていた。

 敵の戦闘艦は足が速く、機動性も高い。そのうえクロエの乗っている砲撃艦と同等かそれ以上の威力を誇る砲塔を装備している。性能ではあちらの方が格段に上だった。

 ――こんなことになるのなら、あの船を捕らえた時、別の場所に移しておくんだった。

 遅まきながらクロエは後悔する。

 しかし嘆いていても仕方ない。

 砲撃が当たらないのは距離が問題である。もっと接近できればその分だけ命中率も上がる。味方の艦を盾にすれば、一発程度ならあのプラズマ光線も防げるだろう。

こういう時は確か――

「敵艦との距離を詰めろ!」

 クロエは接近戦に持ち込む構えだった。

 そして奇しくもそれは、アルも同じ考えであった。


「敵艦に接近する。両翼砲塔は小型船を無視、敵艦が撃ってきた直後を狙って同時に撃ち込め!」無線越しにアルが指示する。しかし接近戦で、相手が先に撃ってくるのではこちらが先にやられてしまう。

「おいアル、死ぬ気か? どういうことだ、説明しろ!」

 珍しくバートンが声を荒げて言った。

「大丈夫だ。絶対に避けてみせる」

 しかしアルは自信ありげにそう言った。

 そうして両艦が接近する構えとなった。

 距離はすぐに七千メートル、六千メートル――と縮まっていく。敵小型艦はイカロスの周りを囲んで逃げ場をなくす。さらに攻撃を止めた今、回避運動を取る空間すら敵小型艦によって狭められていた。

「距離――六千メートル」

エリノアがそう告げた時、敵艦の砲口がイカロスを捉えた。直後、砲撃艦にぶら下がった砲塔が青白い光と共に超高温プラズマによる光線を放った。

 しかしアルはそれを待っていた。電離気体砲の構造上、発射には撃発から最低でも約一秒のライムラグがある。その間にアルは温めておいた核融合炉の膨大なエネルギーを全てエンジンに回した。途端、イカロスの噴射口から伸びる燃焼ガスが大きく燃え広がり、その熱で地面を溶かす。突然の急加速を始めたイカロスに、敵艦の照準した予測位置が僅かにズレる。

 その隙をアルは逃さない。光線が砲口から放たれると同時、交差するように接近していた進路を、敵艦と垂直になるように向けた。

 次の瞬間、イカロスのやや後方を紫紺の光線が駆け抜けていった。しかしイカロスには当たっていない。今度はイカロスの両翼の砲塔が青白い光を放つ。しかし二つの砲門からまっすぐ伸びた光線は砲撃艦の前に現れた小型艦の捨て身の突撃によって防がれた。イカロスの砲撃を受けた小型船は一瞬、船体を膨らませると、そのまま大爆発を起こした。

「――次は当てろ!」

 距離はもはや五千を切っていた。ここまで来たら退くことはできない。退いて船体後部を見せれば、それこそ相手の思うつぼだ。もはやどっちが勝つか分からない。気づけば二隻の艦はどちらかが倒れるまで続くチキンレースに突入していた。

 そんな状況でアルはとあることに気づいた。

「二人とも、あの艦は砲撃の直後は毎回停止している。おそらく推進力に使うはずのエネルギーも砲撃のエネルギーに加えているんだ! 次の砲撃が着たら、その硬直を叩いてくれ!」

「けどアル、次の砲撃を避けれる確証はあるのか?」バートンが言った。

「分からない。けど僕を信じて欲しい!」

「――分かった!」

 バートンはそう言うと、両脇のハンドルを操作して敵艦へと照準を合わせる。

「距離、四千メートル!」

 エリノアがそう告げた瞬間、敵の砲塔から光が上がった。イカロスはその船首を相手に向けているため、被弾する面積は小さい。さらに回避運動も取っている。それでもこの距離では当たる確率は五分といったところだった。

 ――頼む!

 アルはそう願いながら目を瞑る。

 しかし、無情にもイカロスに向けて放たれた光線は左翼砲塔目掛けて飛来した。無線に大音量のノイズが走る。アルとエリノアは呆然としていた。右翼砲塔にいたレナートはそのノイズを聞いて、目に涙を浮かべると、バートンの仇を取らんと撃発ペダルを力強く踏んだ。

「行けえええええええええええ――!」レナートは叫ぶ。

 刹那、右翼砲塔から放たれたプラズマ光線は、紫紺の尾を引きながら敵艦の中央――巨大な砲塔に直撃した。しかしイカロスもまた小型船の攻撃の当たり所が悪く、リフターエンジンにを損傷してしまい、急速に速力を失う。

 やがて二つの艦は互いに目と鼻の先で止まった。

 片方は小型船の数多の攻撃から耐え続けて深く傷ついた姿。もう片方は戦うための武器を失った哀れな姿。もはや両艦に戦闘能力はなかった。

 さらに山の上を見上げたクロエの目の飛び込んできたのは、迫りくる共和国の大艦隊だった。いったいどこにあんなものを隠して持っていたのか。砲撃艦を失った今、クロエはあの大艦隊に勝てる戦力を持っていない。

 ようやくクロエは覚悟を決めると、船の外へと短剣を持って出た。


「いるんだろうフレディ! 出てこい、一騎打ちだ!」

クロエはイカロスの前に立つと声を張り上げた。その手に握られている短剣を見て、アルもクロエの元に向かおうとする。そんなアルの手をエリノアが引っ張る。

「ダメだよアル!」

 しかしアルはその手を強引に振りほどく。そして呆気に取られているエリノアに告げる。

「今ここで、ケリをつけなくちゃいけないんだ」

 そうしてアル艦橋から出て行った。


「その短剣をよこせ」

 クロエの前に立ったアルは言う。

「ああ、持ってけ」

 それに答え、クロエはもっていた短剣をアルの足元に投げる。地面に刺さった短剣をアルは引き抜く。久しぶりに握った短剣は、長いこと使っていたからかどんな剣よりも手にしっくりと収まった。

「クロエ、何故帝国と手を組んだ」

「目的がかみ合っただけのことだ。お前こそ何故共和国の見方をしている!」

「……さあ。成り行きだよ」

「ふざけてるのか?」

「いいや、大まじめだよ」

 そう言って、アルは短剣を握ったまま目を瞑る。

「何をしてる?」

クロエはアルを睨む。しかしアルの耳にはその声は届いていなかった。


目を閉じると、光が見えた。

「来なさい」

「行ってはいけない」

「早く来なさい。今のあなたなら来れるはずです」

「行ってはいけない」

 アルは二つの声に揺れていた。カガクシャに望遠鏡で天上の神の姿を見せてもらった時のことを思い出した。それだけじゃない、あの後たくさんの星を見せてもらった。青い星や白い星、茶色の大きな星……上げたらきりがないほどだ。

 ――行こう。

 アルは決意して、その光に向かって歩き始める。長い間ずっと遠ざかっていたからか、影が見えるまでの道のりは長かった。それでも歩き続けるとようやく影が見えた。アルはその影を追うように走り始める。――その先に見えたのはあの夜見た、天上の神と姿形の同じ物体。

「お前はいったいなんなんだ? どうして俺を呼んだ?」

 アルが問いかけると、どこからか少女の声が響く。

「それはあなた自身が良く知っているはず。あなたはこの世界の守護神の卵なのだから」

「どういうことだ!」

「来れば分かりますよ。空の遥か向こう、私のいる宇宙まで」

 同時にアルは預言の意味を理解した。


 アルは目を開けると、開口一番に告げた。

「クロエ、お前じゃ勝てない」

 アルの目は赤い。真紅の瞳に変わっていた。

「やってみなければ分からないだろう?」

「お前がさっき行った砲撃艦による接近戦、あれは俺が十歳のころ提言した作戦だ。お前はそれを俺に使った。あの接近戦に最も詳しいのは俺だというのに」

「……道理で覚えがあったわけだ」

「なによりも俺は――」アルは息を大きく吸い込むと、遠くまで届くような声で宣言する。

「俺はヘラス帝国第二皇太子、現皇帝エゼルレッドが弟、アルフレッド・ヘミテオスだ!」

 帝国軍、共和国軍、その場の全員がその名を聞いて耳を疑った。当然である。

 ――アルフレッド・ヘミテオスは五年前、処刑されたはずだ。

 クロエは一瞬、驚いたような顔を浮かべた。そして察する。もうアルが後に退くことはないと。クロエもまた預言の真実に近づきつつあったのだ。

「久しぶりの手合わせだ。本気で頼むよ」

 肩の力を抜いたクロエは、気づけば笑っていた。

その声はすっかり少女のものに戻っている。

 そうして言葉を発すると同時にクロエは剣を強く握り、アルに斬りかかる。しかしそれをアルは短剣でなんなくいなす。

「クロエ、君はいつから戦闘狂になった?」

「さあ、きっと五年前。帝国を追放された時からじゃないかな。そっちこそこの五年間随分と牙が抜けていたようだけど、どうしちゃったの?」

 クロエはいったんアルから離れると、背後に回り込まんとアルの回りを走り出す。アルもクロエを視線で追う。

「レオノール司教に一枚食わされたかな」

「あの司教は厄介だね。もし戻るなら覚悟しておいた方が良いよ」

 刹那、クロエは地面を勢いよく蹴った。剣先は高々とアルの頭上に上がる。

「りゃああああああああ――!」

 力のこもった剣が飛来するが、アルはそれを半身で躱すと、短剣の柄でクロエの頭を叩いた。クロエは「ぶへっ!」と声を上げながら地面にうつ伏せになる。

「本気で頼むって言ったでしょ?」

 顔を土で汚しながらクロエは言った。

「ありがとうクロエ。俺のために頑張ってくれて」

 ――アルは自らに課せられた役割を思い出した。

 それは空の向こうに広がる宇宙、そこにいる天上の神の元までたどり着くこと。その先にどんな運命が待ち受けるのかなど天上の神の他には誰も知らない。けれど、アルに過酷な運命が待っていることだけは分かる。

 預言の英雄とは、今まさにオリンポスの敵艦隊を一人で破った英雄であり、ヘラス帝国皇族、アルフレッド・ヘミテオスを指していた。

 だからこそクロエはそんなアルの運命を知って、預言の終わりを受け入れようと思った。もちろん他にもいろいろな要因があったのは事実だ。けれどクロエがここまで頑張ってきたのは、それが全てだった。だからこそクロエは天上教会の司教であり、アルがその役割に気づかないように仕向けたレオノール司教と組んだのである。

 しかしそれも無駄に終わった。

「行くんだね」

「俺が行けば、この星は救われる。それになによりも、俺には生きていて欲しい人たちがいる」

 それはクロエやエリノア、レナートにバートン。あの服屋の老婆にカガクシャ……数えだしたらキリがない。

「だから俺は行くよ」

 アルは最後に、クロエに微笑みかけるとそう告げた。

そんなアルの元に、帝国軍の兵士が駆け付ける。

「アルフレッド皇太子殿下、エゼルウルフ皇帝がお待ちです」

 そうしてアルフレッドは、帝国軍の兵士とともに皇帝エゼルウルフ――アルフレッドの兄の元へと向かった。


 エゼルウルフは「アルフレッドと名乗る人物がいる」との報告を受けてから、その時を今か今かと待ちわびていた。そうしてエゼルウルフのいる軍幕の中にアルフレッドが案内される。

その顔を一目見た瞬間、エゼルウルフは彼が自身の弟本人だと確信する。

「王家特有の赤い目、黒い髪……フレディ! フレディなんだな!」

「……兄上、お久しぶりで――!」

 エゼルウルフはアルを勢いよく抱擁した。その顔には、普段の皇帝然として険しい表情はなく、そこには純粋の弟との再会を喜ぶ兄の姿があった。

「アルフレッド、お帰り」

「……ただいま。エゼルウルフ兄さん」

 それはオリンポス陥落の直前で起きた一幕。大戦は帝国の勝利によって終わりを告げた。


   第十四話 皇帝アルフレッド


 ――一年後。


 ヘラス帝国首都、ヘラス。

 他の諸都市とは帝都は何もかもが違った。宮殿照明の大通りに聳え立つのは幾本の摩天楼。その摩天楼の間を縫うようにパレード隊は行進していた。

 新たなる皇帝アルフレッド・ヘミテオスの即位を祝して――


 一年前、オリンポス共和国が幸福し、ヘラス帝国は世界統一まであと一歩に迫った。しかしそれ以降、皇帝エゼルウルフは目立った動きをしなかった。もはや帝国は強大になりすぎたのだ。帝国内部では軍部、教会、貴族、市民――様々な派閥が権力争いを繰り広げており、帝国は内部に癌を抱えていた。もはや帝国にかつての強大さはなく、大戦で傷ついた国内を復興させるので精いっぱいだった。

 しかしそれもいくらか落ち着いてきた頃。

 アルフレッドは皇帝エゼルウルフにヘラス帝国の宮殿の裏手にある庭園に呼び出されていた。庭園からはオリンポスの海の何百倍もある広大な海が見えた。帝都ヘラスの中心に位置する海も、ほかの都市の例にもれず円形である。しかしその広大な海の対岸は見えない。ヘラス帝国は世界最大の都市であると同時に、世界最大の海を持つ国でもあった。ヘラス帝国がオリンポス共和国に勝てたのも、オリンポス共和国と比べて広大な都市と広大な海を持っており経済力、食料生産の両方において遥かに帝国が優れていたのも要因の一つだった。

「フレディ、私の後を継いでくれないか?」

 庭園から海を眺めながらエゼルウルフは言った。

「兄上、まさか二十四歳という若さでご隠居されるつもりじゃないですよね?」

「お前の推測通りだ。私にはこの帝国は少し荷が重い。父の代から続いていた戦争もようやく片付いたところだ。ここらで隠居してもいいんじゃないかと思えてきた。お前も見つかったことだしな。それにお前には自身の身を護るための地位が必要だ」

 その顔には若いのにシワが増えていた。黒い髪の中にも白髪が混じっている。六年前に見た兄に比べて、今の兄はたった六年という年月では表せないほど老けて見えた。

「分かりました。兄上がそう望んでくださるのならこのアルフレッド、兄上の後を継いでヘラス帝国の皇帝に即位いたしましょう」

  アルがそう答えると、一瞬だけエゼルウルフの顔が明るくなった。

「……押し付けるようで悪いな」

「いいえ。俺も一度皇帝という地位についてみたかったので。ですが自分を守るために地位が必要とはいったいどういうことですか兄上」

 アルフレッドが尋ねると、エゼルウルフは深いため息を吐いて話し出した。

「お前が帝国から追放されたすぐあとに父が即位し、私が皇帝になった。きっとお前はいままで私か父のどちらかが自分を帝国から追放したと思っていただろう?」

 その通りだった。実際アルフレッドもつい一年前まではそう思っていたから。

「違うのですか?」

「実はあれから私も出来る限りお前に帝国追放に加担した連中を調べていた。そうして分かったことがある」

 エゼルウルフは告げた。

「お前の教育係だったレオノール司教を覚えているか?」

 アルフレッドは頷く。忘れるわけがなかった。アルフレッドに船の操縦を教えたのも彼女だし、あの光の向こうに行ってはいけないと教えたのも彼女だ。

「まさかレオノール司教が俺の追放の首謀者だとでも言うんですか?」

 エゼルウルフは唇を固く結ぶんと、深く頷いた。

「――……そうだ」

 それではまさか、レオノール司教はアルの待つ運命を知っていたということだろうか。

 重くなった空気を変えるようにアルフレッドは言った。

「戴冠式はいつ挙げましょうか?」


 それから三か月、アルフレッドはヘラス皇帝に即位した。


 しかし即位早々、問題は山のようにあった。

まず国内の派閥争い、そして征服地の利権問題、そして最近また勢力を拡大しつつあった旧オリンポス共和国の残党。彼らを率いていたのはエリノアだった。

 先の戦いの末、帝国内部でますます権力を拡大しつつあった教会は、エリノアが残党を率いているとわかるや否や、すぐさま彼女を破門した。

――聖女エリノア・クリス・カーター、破門。

 その一報は瞬く間に世界中へと広まっていた。

 アルフレッドの脳裏にあの四人で波乱万丈な旅をした時に記憶が蘇る。今となっては、まるで立場が逆転してしまったが。

 アルフレッドはこの世の真実について最後の一ピースを探していた。そしてそれは思わぬところから見つかった。六年前、クロエ・フィネルが何故帝国から追放されたのか当時貴族だったフィネル家の追放裁判で審問官をしていた男を呼びつけて、アルフレッドは事情聴取を行った。すると帝国から追放した理由は、軍人だったクロエの父が編み出した「暗号」という技術によるものだと分かった。

「暗号というのはこう決まったパターンの記号というものを書いて、それで会話をする方法でございます。この技術は敵がみても意味はわからず秘匿性に優れていると言えるでしょう」

 審問官から聞いた「暗号」についての内容はとても画期的なアイデアだった。無論、軍隊に有用なことは言うまでもない。何故そんなアイデアを編み出した人物を追放に処したのか?

 アルフレッドの中で、預言について最後の一ピースがはまりつつあった。


 アルフレッドは自身の仮設を証明するために先代皇帝エゼルウルフの元を訪れていた。

「兄上、お無沙汰しております」

「おおアルフレッドか。いったいどうしたんだ?」

 エゼルウルフの顔は前に比べて若々しくなっていた。

「今日は一つ聞きたいことがあってきました」

 アルフレッドはそう前置きをして尋ねた。

「兄上は即位する前、父上から聞いているのではないでしょうか? ――この世界が何故終わりゆく運命にあるのか。というよりはむしろ、この世界にあるはずのものについて」

 エゼルウルフは部屋の窓を開けると、その前に立ち、風を浴びた。

「いったいなんのことだ?」

 そうとぼけるエゼルウルフの背中に、アルフレッドは鋭い視線を送る。

「それは人生のようなものです。あるいは時代と時代の積み重なり。さしずめそれは――歴史とでもいうべきものでしょうか」

 ――この世界には歴史が欠けていた。

 しかし何故歴史が欠けているのか?

 それこそまさに、この世界の真実に迫る鍵ではないかとアルフレッドは予想していた。そしてもし歴史という物があるのならば、この摩天楼という過去の遺物を未だに維持しているヘラス帝国の皇帝が知らないわけがない。

「教えてください兄上。過去に何があったのか」

「……私も父上から聞いた話だ。この世界は昔はもっと栄えていたらしい。人口も多く、農作物も育った。しかし世界の人類文明は次第に衰退していった。今もまた衰退の最中にあるのだろう。衰退し、食料の供給が追い付かなくなった時、人々は幾度となく戦争を繰り返してきた。結局は共和国も帝国も、今この世界も。今まで誰かを殺して生きてきた者の成れの果てだ。そして天上教会はこの終わりゆく世界の真実を隠した――そう聞いている」

 エゼルウルフは窓の外をしばらく眺めていた。

「ありがとうございます」

 アルフレッドは座っていた椅子から立ち上がる。

 そうして部屋を出て行こうとする彼の背中にエゼルウルフ言った。

「すまない。伝えようとは思っていたんだが伝えられなかった。この世界に待っているものが終わりだというのは、少し重たい事実だと思ったから」

「兄上が俺のことを考えてくれているのは分かっています」

「そうだフレディ」エゼルウルフは思い出したかのように、まるで皇帝時代のように顔を険しくする。

「最近旧共和国残党の抵抗勢力が勢いをましているらしいな」

 隠居した身でありながら、この過保護な兄はいちいち弟がうまくやっているか情報を仕入れているらしい。

「私の調べでは、連中の支援者と思しき人物の中にレオノール司教の名があった。アルフレッド、気をつけなさい」

「ご忠告、痛み入ります」

 アルフレッドは深々と頭を下げると、部屋を後にした。

レオノール司教――アルフレッドの教育係であり、彼が幼少期のころからその運命を見抜いていた人物。いったい何故それらを知っていたのかは謎であるが、ともかく今後のアルフレッドの前に立ちふさがる大きな障壁になるであろうことは間違いなかった。

果たしてレオノール司教は自身を助けようとしてくれているだけなのか、それとも他に狙いがあるのか。今のアルには判断がつかない。

 しかしさきほど聞いたエゼルウルフの言葉によってアルの仮設は確信へと変わっていた。

 彼はその心に鬼を宿したのである。


   第十五話 統一帝国


 それはアルフレッドが皇帝に即位してから一年が経った頃。ようやくヘラス帝国の経済も戦後の疲弊から復興しつつあった。そんな中で、先日エゼルウルフが何者かに暗殺された。

 この機を逃さずアルフレッドは即位一周年の記念式典の最中に宣言をした。

「大戦に勝利した偉大な先帝であり、なによりも私の尊敬すべきに兄上が先日、何者かに暗殺された。私は悲しい。兄の死と、それを止めることが出来なかった自分自身の無力さが。ヘラス国民諸君もまた、偉大な先帝の若き死を受け止め切れずにいると思う。しかし我々は立ち上がらなくてはならない」

 大通りに面する宮殿のバルコニーで、アルフレッドは力強く拳を握る。

「今、帝国は先の大戦から復興しつつある。そんな折にこのように先帝を暗殺するような不届きものがいる。しかし我々は今や戦後の疲弊しきあったヘラス帝国ではない。我々はいまや大戦前よりもさらに巨大な軍隊を有している! 我々には力がある!」

 アルフレッドは、大通りの大衆を前に宣言した。

「先帝を殺したのは旧共和国残党である! 私は彼らを根絶やしにすると共に、帝国に従わず未だ滅びた共和国と共に心中しようとする全世界の国家に対してここに宣戦を布告する!」

 その日、帝国による統一戦争が火ぶたが切って落とされた。


「アルフレッド、何をする! やめろ!」

 統一戦争を宣言したアルの脳裏にそんな兄の声が蘇る。エゼルウルフを暗殺したのは他でもない、アルフレッドだった。

 彼は改めて帝国議会で宣言する。

「ここに統一戦争改め、怒りのディエス・イレ作戦を実行する!」


   第十六話 自由革命


 帝国による統一戦争が始まり一年が過ぎようとしていた。

 帝国軍の勢いは圧倒的であり、瞬く間に帝国に服属しない国家を征服していった。その戦争でたくさんの人々が殺された。その事実がエリノアには信じられなかった。なにせその戦争を主導しているのが、あのアルだというのだから。

「…………アル」

「人は変わる。アイツだってそうだ。むしろ俺達と接しいたあの性格の方が嘘だったんだ」

 バートンは目を伏せるエリノアを諭すように言った。

「これから革命軍を率いることになるんだ。嬢ちゃんがそんなんじゃ誰もついてこないぞ」

「バートンは優しい言葉の一つでも掛けられないもんかな。まあずっと戦ってるだけだもんな。それしか能のない狂戦士だもんな。俺なんて毎日資金集めで走り回ってるっていうのに……偉そうなこと言って座ってられる人はお気楽だなあ、おい!」

 そんな皮肉をだらだらと口にしたレナートの頭上に拳が落ちる。

「こんな時に皮肉しか出てこないお前も、そう変わらねえだろ!」

 三人はあのオリンポスの決戦から旧共和国軍の残党を率い、ヘラス帝国からのオリンポス共和国をはじめとして諸国の自由と解放を目指していた。しかし気づけばこうしてなかばテロ組織になってしまっていた。

 しかしそれならそれでとエリノアは方針を転換した。

 その集大成が来月、見られるはずである。

 ――それは世界統一を果たしてヘラス帝国への、そしてアルフレッドへの挑戦状であった。


 統一戦争が始まった二年。アルフレッドを皇帝に据えたヘラス帝国はついに念願の統一を成し遂げるまでに至った。

 すでに宮殿前の通りでは軍による世界統一パレードが行われていた。

「今ここに宣言する!」

 アルフレッドは宮殿のバルコニーにいた。

 そしてアルフレッドの隣にいたクロエが大衆に向かって宣言する。

「私は帝国軍元帥クロエ・フィネルである。この勝利は我々ヘラス帝国軍と国民の団結によって勝ち取った偉大なる勝利だ。我々の成したこの偉業は、これより先、偉大な皇帝アルフレッドの名と共に刻まれることだろう!」

 その言葉の直後、大衆の大歓声が上がる。そうして場を温めたところで、アルフレッドは一歩前に進んだ。

「ヘラス帝国は諸君らの働きによって統一戦争に勝利し、全世界を統一した。これに際しヘラス帝国は名前を改め、ここに統一帝国とするこを宣言する!」

 さらにどっと大衆の歓声が沸く。

 その日から一躍、帝都ヘラスは戦勝ムードが続いた。……身近に迫る危機を見落として。一カ月続いた戦勝パレードも幕を閉じた。それでもまだ帝都にすむ人々の間の戦勝ムードは収まらなかった。しかしそんな帝都とはうらはらに、他国で大量虐殺を繰り返していた帝国軍は、敵を作りすぎていた。


 その日、聖女エリノアは「自由」と「解放」の名の元に革命を起こした。その名は自由解放革命軍。旧共和国首都オリンポス山で起こったその革命は、瞬く間に全世界へと広がった。そうしてまた三年後。全世界の統一で浮かれきっていた帝国はたった三年で自由解放革命軍にその首都を包囲されるまで衰えていた。

 それでも流石に世界統一を果たしただけあり、帝都ヘラスをめぐる攻防は十三日間も続いた。しかしとうとう帝都ヘラスも陥落し、ヘラス帝国は終焉を迎えようとしていた。

 炎に包まれた市街地を宮殿から眺めながら、アルフレッドは身支度を終える。そう怒りの日作戦の最終段階がやってきたのだ。

 オリンポスの決戦から五年という月日が流れた。そうしてようやくアルフレッドは作戦の最後のを残して全てを完遂させたのである。ちょうど預言が下ってから十年。アルフレッドは二十二歳を迎えていた。


   第十六話 ディエス・イレ作戦


 アルフレッドは宮殿の地下へと向かった。宮殿の地下に長年隠してあった物のところへ。宮殿の地下には広い空間が広がっていた。そうしてそこにあったのは一隻の船。オリンポス決戦から修復をしていたイカロスである。

 しかしそのイカロスの傍にアルフレッドは思いがけない人物を見かけた。クロエだった。

「クロエ、なんで君がここにいるんだ?」

「あなただけじゃ行かせられないからね」

「これから行くところがどこか分かってるのか? 二度と戻ってこれないかもしれないんだ」

「だったら余計にあなたを一人にしておくころはできない」

 クロエとの関係性もまた、オリンポス決戦の日から元に戻っていた。

 だからこそ、余計に連れて行きたくなかった。しかしそれでもクロエは譲ろうとしなかった。先に折れたのはアルフレッドの方だった。

「……ありがとう。ここまで付いてきてくれて」

「ここからもついていくけどね」

「ここからは自己責任だよ?」

 アルフレッドはクロエに忠告する。しかしクロエの意思は決まっているようで「分かってるよ」と短い返事を返した。


 そうして五年ぶりにアルフレッドはイカロスの操縦席に座った。

「懐かしいな」

 思わずそう呟く。

「……私は始めてんだけど」

 クロエが言った。

「この船って途中で爆散したりとかしないよね?」

「カガクシャが修理してくれたんだ。大丈夫だよ」

 アルは言いながらエンジンを稼働させる。しかし音がしない。

「やっぱり故障したんじゃないの?」そう不安そうに言うクロエに「これから行くところはそこらへんの船じゃあ到底たどり着けないところなんだ」とアルフレッドは言った。

 それから十秒が経っただろうか。ギィーンというエンジン音が船内に響き渡った。そうしてアルフレッドは速力を「微速」にして前進する。前方にはイカロスがちょうどすっぽり収まるぐらいのプールがあった。イカロスのそのプールの中へと進むと、泡を立てながらその中へと沈んだ。否、そこはプールではなかった。そこはヘラスの海中と繋がっている格納庫であった。アルフレッドは海中に沈んだイカロスの速力を「全速」へと切り替える。イカロスに搭載されているエンジンは水を吸い込み水素と酸素を生成する。そうしてそれは燃料として噴射口から炎を噴いた。その熱で蒸発した水が、水面へと上がっていく。イカロスは水中で、次第に加速しながら斜め四十五度の角度で水面に迫る。

「補助翼起動!」

 アルは言いながら操縦席にあったレバーを倒す。

 するとイカロスはその両翼から触手のような物を伸ばす。そうしてその触手から船尾までを包み込むように透明の膜が出来る。それはイカロスの補助翼であり、本来の姿だった。

 そうしてついに飛び立つ準備を整えたイカロスは、ついに水面からその顔を出した。そうしてそのままイカロスは宙を羽ばたくかのごとく進んだ。

 船体後部にういている噴射口からはイカロスの全長の何倍もある燃焼ガスの炎が伸びる。

 イカロスはまさに今、空の向こうへ飛び立とうとしていたのである。

 船の急激な加速に、二人の身体には重たいGがのしかかる。意識を保っているのでやっとである。そんな状態が一時間以上続いた。そうして気づけば、空は暗くなり、背後には緩やかな曲線を描く赤い星が見えていた。

「ねえフレディ……ここ、どこ?」

 クロエが尋ねる。

「宇宙だよ!」アルは答えた。「ついに宇宙にやってきたんだ!」

 アルフレッドは思わず声を上げる。それは久々に見せたアルフレッドの無邪気な笑顔だった。しかし喜びも束の間、眼前にソレが現れる。

 十二本の巨大な槍を携えた、禍々しい遺物――天上の神が。

「よくここまで来ましたね」

 そんな声が聞こえるとともに、天上の神はイカロスにその十二本の槍を伸ばした。槍はまるでイカロスを包むようにくるくるとその周りを回転する。そうして次第にイカロスは槍に導かれるように天上の神に吸い込まれていった。

 アルは天上の神の漆黒の身体が迫るのを見ながらクロエに告げる。

「ありがとうクロエ、ここまでついてきてくれて」

「いいんだよ。自分で選んだ道だから」

「それともし生きて地上に帰ることができたら、エリノアに伝えてくれ。この星をよろしくって」

「――わかった」

 そんな一通りの会話を終えた頃、イカロスは天上の神の中へと飲み込まれていった。

 目が覚めると、そこは目を瞑った時に見えた場所と同じ空間だった。そうしてアルフレッドを導くように一筋の光が見えた。アルフレッドはその光の方へと走った。

 そうしてやがて光の中に影を見つけた。しかしその影のシルエットはこの間とは違った。

「アルフレッド。星を救う英雄。よく来ましたね」

 それは少女だった。白い髪が床まで達するほど長く、美しい顔をした。赤い瞳が印象的である。そしてアルフレッドは彼女とよく似た人物をしっていた。

「エリノア?」

 そんな問いに少女は首を振った。

「私はこの星を守る天上の神。またの名を遺物――機械仕掛けのデウス・エクス・マキナ

 少女は自らをそう名乗った。

「あなたはもう、この世界の真実にたどり着いているでしょう?」

 機械仕掛けの神と名乗った少女は、アルフレッドにそう問いかける。

 そしてアルは自らの仮説を話す。

「この世界の英雄とは俺のことだった。

この世界の真実というのは、この世界にもともと人など住んでいなかったということ。

そして最後にこの世界に欠けているものは――人類の歴史だ!」

アルは少女に向かってそう答えた。すると少女はクスリと笑う。

「惜しいですね。最後の問題だけ間違いです。正確には、この世界に欠けているもの、それは歴史を記すための文字です」

「文字?」

「例えば誰か遠くの人に物事を伝えたい時、人伝では間違いがあるかもしれません。そんな時に役立つのが文字です。自分が思っていること、伝えたいことをある一定の法則性のある文字という起動に置き換えることで、どこにいようと、生まれた時代が違くとも、その時思ったこと、伝えたかったことを伝えられる。そんな人類が発明した便利なものです」

「……人類が発明したということは、やはりこの星にはもともと人が住んでいなかったのか?」

「その通りです。そもそもの始まりは五百年前に起きた戦争まで遡ります。当時、隣にあって二つの星々は互いに王様と奴隷のような関係でした。ですが奴隷側の星はいつまでも同じような待遇に納得がいきません。そうしてその星は王様側の星に戦いを挑みました。その星の人々は勇敢に戦いました。けれど相手は王様の星。勝てるはずがありませんでした。そんな時です、王様の星の最終兵器だった私が自我に目覚めたのは――いや、最終兵器に少女の魂を埋め込んだのは」

「少女の魂を埋め込んだ? つまり君は五百年前から生きているのか?」

「そうなりますね。最終兵器に埋め込まれた私はまだ幼かった。しかしこの最終兵器と融合したことで恐ろしい量のデータベースと繋がり、知識だけは増えてしまった。そうして頭だけは良い情緒の発達していない子供が生まれたのです」

「そうして私はわけがわらからず、子供の癇癪のように両軍ともを破壊しつくしました。しかしそれが罪だということは私のデータベースの知識によって理解していました。私は償わなければならないと思いました」

「それで君はこの星の守護者として、天上の神になったわけか」

「その通りです。そうして私はこの星の各地にある生命維持装置の機能と接続し、これまでその機能を維持し続けてきました」

 たとえば星の大気。たとえば星の海。たとえば星の緑。それらすべてが自然のモノではなくこの機械仕掛けの神に管理されていた人工物だったのである。きっとこの星の人々すらもこの少女と遺物によって管理されていたのだろう。

「しかし私の魂ももう限界のようです。魂は今やデータベースの情報と融合しつつ有り、私の自我はほとのど残っていません。あとしばらくすれば、私はデータベース上に情報を基にしか判断できない人工知能と同等の存在と化すでしょう。だからあなたにこの役割を引き継いでもらいたい。あなたの魂は私の持つデータベースとの親和性が著しく低い。むこう千年はきっと自我を保っていられるはずです」

 少女の切実な声。しかいアルフレッドの返事は決まっていた。

「この星を待つのは破滅だけだ。どれだけこの星の人々を守り続けても、その先に待ち受けるのは悲劇だけ。そんな未来を俺は望まない」

「……ですが運命を変えられません。もし私を失えば、星の生命維持装置の機能は十年と経たずに停止するでしょう。そうなれば王様の星――地球人が五百年前のようにこの火星に攻め込んでくるでしょう」

「それなら戦えば良い。戦わずこのまま終わりを待つくらいなら、戦って、戦って、戦って、戦い抜いて死んだほうがマシだ!」

「ですがそれは人々に過酷な試練を与えることになります」

「与えればいいだろう。人は試練を乗り越えなければ成長しない」

「しかし……」

 少女は反論しようとするが、それをアルが止める。

「君はまだ子供じゃないか! 子供が俺達の心配をする必要はない。それよりも自分のことを考えていればいいんだ!」

 さっきから聞いていたアルは、少女の言葉の断片に隠れている幼稚さを見抜いていた。どれだけ膨大な情報量のデータベースがあろうと、この少女の心は結局まだ幼いままなのである。

「ですが私は罪を犯しました」

「それがなんだ! 子どもがちょっと癇癪を起してくらいじゃ誰も責めたりなんかしない!」

「それでも私には役目が……!」

「安心して。君の役目は俺が引き継ぐから。だから君はもうそんな重たいものを背負わなくてもいいんだ。俺が必ずこの星の結末を決めて見せる」

「いいのですか?」

 少女は迷っていた。このまま終わりゆく世界で、この星の人々を一生管理し続けるべきか、それとも戦った末に待つ不確かな未来か。

「決まりきった未来なんてものはない。それにそれじゃあ面白くない」

 アルフレッドは言う。

「未来が不確定だからこそ、面白い出会いがある。たとえばエリノアなんか、最初はめちゃくちゃ弱かったのに、最後は俺の帝国を打倒した。たとえばレナートなんか、女性恐怖症で女の子を前にした瞬間俺に後ろに隠れていたのに、今ではつまらないやつに成りやがった。それもこれも、全部不確定な未来がもたらし結果だ。未来はどっちに転ぶかわかりはしない。それでもこうだったらいいな、ああだったらいいな、そんな未来に人は賭けてみる。そんな未来を人は望んでしまう」

 アルフレッドは少女に言う。

「大丈夫、俺達は意外と強い。俺達だってあのバカでかい怪物を倒してだろ? 俺達はきっと君が思ってるほど弱くない。そして君はまだ小さな女の子だ。背伸びをしないで、子供のままでいいんだ」

「いいのかな?」

「ああ、いいんだ」

 アルフレッドは片膝をつくと、そっと少女の頭に手を伸ばす。

「さあお眠り。かわいい子」

 そうして少女はデータベースの中で深い眠りについた。

 次に目が覚めた時、アルフレッドの視界に映っていたのは赤き星――火星だった。

「……火星か」

 ――まるでビブリスで買った宝石のようだ。アルはそう思う。

 辺りをぐるぐると見渡すと、遠くの方にイカロスの姿が見えた。どうやらクロエは無事だったようだ――アルは安堵する。

 そうして自らの生まれ育った星に最後の別れを告げる。

「さようなら火星。さようなら赤き星――」

 その日、火星に流星群が降り注いだ。その流星群が、あらたに火星に動乱の時代を告げているのだとは知らず、人々は空を眺めていた。

「さようなら死せる惑星Dead Planet

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Dead Planet ジャン・ルゼ @Ruze143

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