最終話

 転入届を出したり、免許証やマイナンバーカードの住所を変更したり、郵便物の転送手続きをしたりしているうちに、あっという間に日々は過ぎていった。いつもなら面倒くさいとしか思えないことも、いまの俺には楽しかった。ああ、平穏って素晴らしい。


 そんな手続きも一段落したある日の夜、玄関のチャイムが鳴った。


「夜分にすみません。二〇一号室の鈴木と申しますが……」


 インターフォンからは中年の女性の声が聞こえ、モニターには、その声にふさわしい五十代後半くらいの小柄な女性の姿が映っている。


 二〇一号室ってことは、下の階の人? 俺、そんなにうるさくしたか? それとも引っ越し早々水漏れとか?


 疑問と不安を感じながらドアを開けたとたん、女性の顔がぬっと目の前に迫ってきた。のけぞる間もなく、焼けた鉄の棒でも突っこまれたみたいに腹が熱くなる。


 すっと離れた女性の手には、血まみれの包丁が握られていた。俺の腹からも血があふれ出す。――あの女の幽霊のように。


「なん、で……ぐっ……!」


 灼熱と激痛に呻きながら膝を突いて倒れた俺を、女は憎々しげに見下ろした。


「あなた、あの女を成仏させてしまったのね? お祓いか何かしてもらったのね? 優花ゆか……私の娘はね、二年くらい前にここに住んでたの」


 じゃあ、こいつは以前の入居者の母親? 幽霊を見てすぐに引っ越したっていう三人のうちの一人の――。


「あの女のせいで、優花はすっかり心を病んでしまって。引っ越しても、実家に……私たちの家に戻ってきても、あの女の姿が頭から離れないって言って、とうとう首を……」


 女の顔が歪み、目に深い悲しみの色が広がった。同情する余裕は全くなかったし、そんな義理もないだろうが。


「だから、私は思ったの。毎日毎日念じてたの。絶対に、優花が死ぬきっかけを作ったあの女を成仏させてなんかやらないって。でも、不本意だけど、念じてるうちにあの女と何らかのつながりができてしまったのかしらね……十日くらい前に突然わかったのよ。とうとうあの女が成仏してしまったって。自由になってしまったって」


 そうか、「彼女をあの世に行かせまいとする強烈な意思」とやらを放っていたのは、こいつだったのか――!


「念のため、その次の日から毎日この町に来て、こっそりあなたの様子を観察してたわ。それで、自分の直観に確信を持ったの。あなたはいかにも人生を謳歌してますって顔をしてて、毎晩幽霊に苦しめられてるようにはとても見えなかったから」


 女は再び憎悪を剥き出しにしてしゃがみ、玄関の床に左手を突いて、


「どうして、どうして余計なことしたのよ! おとなしく他の家に引っ越してればよかったじゃない!」


 二度、三度と俺の腹を刺した。「激」を千個つけても足りない、さっさと殺してくれと叫びたくなるくらいの痛み。女の服にも大量の返り血が飛ぶ。


「そうだ、お祓いしたのは誰なの? お寺とか神社の人? 霊能者とかいうやつ? ねぇ!」


 女が肩を揺さぶって問いつめてきたが、饗庭にとっては幸運なことに、俺にはもう人の名前一つ口にする力も残っていなかった。


 次第に女の声が遠ざかっていき、痛みも和らいでくる。俺は心の底からほっとした。本当は、遠ざかっていったのではなく聞こえなくなってきたのであり、和らいできたのではなく感じられなくなってきただけだとわかってはいても。


 死んだら、俺もこの部屋に化けて出るのだろうか。


 俺を見たやつがまた心を病んで自殺して、その家族が俺を成仏させまいと念じて――なんてことが繰り返されるのだろうか。


 朦朧とした意識にそんな思考が浮かび、何だか妙におかしくなった。



〈了〉

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