果てる命を愛で射よ

のざわあらし

果てる命を愛で射よ


 建築物に命が宿っているならば、廃墟は草木に命を吸われた抜け殻だ。

 破れたガラス窓から大浴場に射し込む夏の陽光が、鈍色にびいろの床石から顔を出した雑草たちを淡く照らす。蛇塚へびづか温泉第三ホテル・白蛇はくじゃの湯は、その命と引き換えに退廃の美を体現していた。

 神秘的な光景の中にカベ先輩は佇んでいた。その右手に握られた包丁は、廃墟には不釣り合いなまばゆい輝きを放っていた。


「返して欲しけりゃ俺と戦え」


 斜め掛けにされた二台のデジタル一眼デジイチの内の一つが、俺に見せつけるように掲げられた。休憩中に愛機から目を離した不用心さを俺は呪った。


「意味わかりません、冗談ですよね」

「さっさと準備しろ。武器、持ってこいって言ったよな」


 包丁を俺に向けてにじり寄るカベ先輩を前に、俺は慎重に後ずさった。虫除けのために着込んだ紺色のジャージの内側が酷く汗ばむ。同じ格好のカベ先輩も額を濡らしていた。

 床に置いたリュックの中へと手を伸ばす。ジュラルミン製の太い筒が指先に触れる。汗ばんだ五本の指に力を込め、俺は黒い懐中電灯を取り出した。大学に入った頃にアウトドアブームに乗せられて買った、警棒になるという触れ込みの輸入品だ。


「いいモノ持ってんじゃねえか。来いよ、アジマ」


 包丁の切先は微動だにしていない。本気の証だ。

 殺されるなんて御免だ。カベ先輩を殴るのも嫌だ。

 でも、撮影したデータは絶対に取り返さければ。

 唾を飲み込んでも焦燥感は消えない。襲い来る悪寒が俺の背中を押した。



 暗室を兼ねた写真部の部室は、蛍光灯を点けていても陰りがあった。部屋中に染み込んだ酢酸の臭いとカベ先輩の鋭い声がなければ、すぐに睡魔に襲われてしまうだろう。


「いいか、必ず武器を持ってこい」

「はぁ」


 学食から運んできたカツカレーを頬張りながら熱弁するカベ先輩に、つい俺は空返事をした。

『夏休み明けの学外展示に蛇塚の廃ホテルを撮って出す』と豪語したカベ先輩は、そのアシスタント、即ち荷物持ち兼話し相手に俺を指名した。単なる小旅行と呼ぶには少々刺激的な計画だったが、廃墟という未知の空間への憧れと、何よりも頼りにされる嬉しさが勝っていた。


「なあ、廃墟で一番危険なもの知ってるか」

「……不法侵入罪? まさか、幽霊なんて言わないでくださいよ」

「ムショ行きも霊障もまだマシだ。一応命はあるからな、多分」


 カベ先輩は眉間に皺を寄せ、俺の方に身を乗り出した。漂うカレーの香りが鼻を突いた。


「この世界にはな、廃墟に住むしかないヤツがいる。人目を離れて生きるしかなくなった、社会常識の通じない連中だ。で、そいつらの最優先事項は自分の命だ。縄張りを侵されたと判断された途端、ヤツらは牙を剥いてくる。もし抵抗できなければ、お前はその餌食になった挙句、埋められた土の中でグズグズ腐ってミミズに喰い尽くされる」


 いかにもカベ先輩らしい暴論に、俺は目を背けて怪訝な顔を浮かべていたはずだ。でも、飲み会でクダを巻いている時より、それなりに話の筋が通っている気がした。


「安心しろ、いざとなったら二人がかりで向かえば大丈夫だ。正当防衛か緊急避難か知らねえけど、悪いようにはならないって」


 物騒な話をした直後なのに、カベ先輩は満面の笑みを浮かべていた。

 カベ先輩はいつも強引で豪胆で、消極的な俺の胸を震わせる力を持っていた。だからこそ、入部したばかりの頃から、俺はその活力溢れる姿に着いて行くと誓っていた。



「最初からこのつもりだったんですか」

「そうだ。騙し討ちせず正々堂々戦ってやるんだから、有り難く思え」


 カベ先輩が露わにする苛立ちと怒りの火種に、一つだけ心当たりがあった。微かに思い当たる節を、俺は恐る恐る口にした。


「……六月の人物写真ポートレート展ですか」

「わかってんじゃねえか。お前、ユリさんと近過ぎるんだよ」


 想像が的中し、俺は頭を抱えたくなった。

 部長を務める三年生のユリ先輩は、俺のような一年生からも、カベ先輩たち二年生からも人望を集める存在だった。年齢以上に大人びた雰囲気も、フィルムカメラと暗室を誰よりも巧みに使いこなす様子も、部長の器に相応しい人だった。

 そんなユリ先輩をモデルに、俺は写真を撮った。

 くじ引きで決まった異性の部員を撮り、写真の出来を品評し合う部内展で、カメラ初心者だった俺の写真は絶賛された。普段は撮られることを嫌がる照れ屋なユリ先輩の、自然な笑顔を評価して貰えたらしい。でも、それは俺の実力ではなく、モデルの魅力とアドバイスの賜物に過ぎないと思っていた。

 とにかく、そのイベントをきっかけに、俺がユリ先輩と話す機会が増えたことは確かだった。

 

「あの、違いますから、俺たち付き合ってなんか──」

「二人でコソコソ会ってんの、バレてるからな」

「いや、それは別に、写真の話とかしてただけで──」

「黙れ! 去年ユリさんを当てたのは俺だったけどな、あんな表情は向けてくれなかった。写真だけじゃない。いつもそうだ。違うんだよ、俺に向ける目とお前に向ける目は!」


 ヒビだらけの大浴場を崩しそうな怒声に気押され、俺の喉は詰まった。

 続く言葉が見つからなかった。余計な勘繰りを避けるために、人目を避けて会っていたことも事実だ。

 でも、その裏にある真実は伝えられない。伝えても意味がないと、過去の経験で俺は学んだつもりだった。


「……わかってない」

「あぁ?」

「わかってない! カベ先輩は何もわかってないんですよ!」


 衝動的に俺は叫んだ。叫んで、誤魔化して、感情を有耶無耶にするしかなかった。


「ふざけんな!」


 カベ先輩は牽制を止めて駆け出した。

 俺は身体を守ろうとして、反射的に両腕を前に構えた。

 包丁は容赦なく、ジャージ越しに左腕を切り裂いた。


「っ──!」


 痛みに耐えきれず、俺はその場に転がり込んだ。流れ出した血の生臭さに嘔吐えずいた俺に目もくれず、カベ先輩は俺のカメラを弄っていた。


「データは貰ってやるよ。良い写真があったら、俺が代わりに出しといてやる」

「……待って……」


 胃酸が喉に引っ付いて声にならない。俺はただ、届かぬ手を伸ばすしかなかった。


「……何だこれ」


 放っていた殺気が困惑に変わった。

 きっと、大量の自分の姿を見ていたからだろう。

 撮影に夢中になると周りが見えなくなるカベ先輩を、俺はひたすら撮り続けていた。


「おい、アジマ──」


 戸惑いが篭った呼び声で、頬の中の血が駆け巡る。

 腕の傷と痛みも忘れ、手の先に転がっていた懐中電灯を掴み、スイッチを入れた。

 強烈な光量で目を灼かれたカベ先輩が怯む。その隙を突いて、俺はかがんで突進し、両脚を掬い取った。


「がっ」


 カベ先輩は後ろに倒れ込んだ。石床に打ち付けた頭が、バスケットボールのように跳ね返る。

 俺は懐中電灯を振り被って、勢い任せに眉間を殴り付けた。



 裂けた眉間から止めどなく流れる血が、石床の隙間を伝い流れていく。

 自分でも驚くほど冷静になれたのは、血の臭いに慣れたせいかもしれない。

 だから、今すべきことを俺は即座に理解した。

 力なく横たわった華奢な身体を抱え、俺のカメラを引き剥がす。激しい衝撃が加わったにも関わらず、本体とレンズは生きていた。しかし、レンズの先に取り付けた保護フィルターは、石を投げられたガラス窓のようにヒビ割れていた。

 ファインダー越しにカベ先輩を覗く。教わった通りにピントを合わせ、俺は破れた世界に向けてシャッターを切った。


『人物写真は目が命、手前側の目にピントを合わせんだよ。良い顔を撮るためには、表情を和らげる話術も信頼関係も必要だけどな……。何より大切なのは、被写体と向き合う勇気だ』


 カベ先輩のアドバイスを、俺は一瞬たりとも忘れていない。

 でも、俺には勇気がなかった。どんな相談も受け入れてくれたユリ先輩の優しさに甘えてばかりで、本心を伝えるべき人からは目を背け続けてきた。

 初めて真正面から捉えたカベ先輩の左目は濁っていて、もう何の感情も見えない。

 吹き込むぬるい夏風が、また俺の想いの終わりを告げた。



【完】

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