第3話


 天窓から瞬く星を眺めていた。


 こんな日に星を見上げていると、色んな事を考える。

 過去のことも、

 未来のことも、

 

 今という一瞬一瞬のことも。


 携帯が震えた。

 例の件で夕刻に「何とかあと一日待ってくれない?」と食い下がって来たアリア・グラーツに「明日十時までに連絡が無かったらその瞬間に当分貴方を着拒する」と脅しておいたので、前倒して彼女が連絡をして来たかなと思い携帯を取ると、スクリーンにその名前が見えたので思わず仰向けに寝転がっていた所から飛び起きて出た。



『…………シザさん?』



【グレーター・アルテミス】公演以来、聞いていなかったその声に、

 信じられないほど心が揺さぶられて、シザは強く目を閉じた。

 そうしなければ、本当に涙が零れそうだったからだ。


「ユラ」


 心を落ち着けるようにして、数秒間を開け、その名を呼んだ。


『シザさん』


 ユラの声だ。

 微笑ってくれているのが分かる。

 嬉しそうな色が声に溢れているとでもいうのだろうか?


『今、ダルムシュタット天文台の迎賓館にいます。

 案内された部屋で、グレアムもいます。

 ネイトさんとは……シザさんも話をされたって聞きました。

 彼も、一緒にいた人たちも、他の学生さんも、本当によくしてくれてます。

 シザさん。映像見て、びっくりしたと思うけど、

 皆さん本当に僕がゆっくり出来るように気を使ってくれてるのが分かるから、

 安心出来ます。僕は大丈夫です』


「……そうですか。良かったです」


 出来る限り落ち着いた、優しい声で話した。 

 ユラの状態は落ち着いている。それが分かって本当にシザは安堵した。


『シザさんは……天文台にも来たことがあるんですよね?』


「はい。学部は違ったんですが、偶然天文学のある教授の特別講義を受けたことがあって。

 その時に初めて天文学部の講堂に行って、キャンパスを見て回ったことがあります。

 僕は……あまり大学寮が好きではなかったので、よく大学の研究室で仮眠を取ってたんですよ。夜中に目が覚めて、眠れなくなると、天文台に行って星を眺めました。

 天文学部はその学部的特徴から、夜間に活動してる人が多いんです。

 だからいつ行っても入れてくれた。

 あまりにも僕が入り浸るので、見かけた教授が「転部したいなら推薦状を書いてあげるよ」とからかって来たりして」


 初めて聞く兄の在学中のエピソードに、ユラが可愛い声で笑った。




……あんなに傷や苦しみを与えられたのに。




 もう笑えるようになってくれている。

【グレーター・アルテミス】に来た時もそうだった。

 しばらくは弟がどんな状態でも自分が支えて頑張ろうと覚悟していたのに、ユラはすぐに笑えるようになってくれて、ピアノも弾けるようになってくれて、兄弟二人だけの暮らしにもすぐ慣れてくれた。

 だからシザは家に帰ると安心出来たし、慣れない新天地での仕事は気を張っていたけど、あの時期頑張れたのはユラがすぐにそうなってくれたからなのだ。


「……ユラ。グレアムから体調を崩していたと聞いています。

 体調は大丈夫ですか」


『はい。少し公演後は体調を崩してしまったけど、今朝は久しぶりに気分が良くて、実は午前中からずっとピアノを弾いていたんです。

 録っておいたから、後でメールで送ります。

 シザさんに元気だっていうこと伝えたかったから』


「そうですか。安心しました」


『夕方までずっと弾いてしまって。

 そうしたら、ネイトさん達が迎えに来てくれて、びっくりしました』


「そうだったんですね。貴方の釈放はすでに午前中に決定したと速報で見ました」


『ピアノに夢中で全く気付いてなかったです』


 シザは少し笑った。


「ユラ。数日そこでゆっくりして下さい。

 こっちのことは僕が全て準備を整えるので。

 混乱が収まったら、帰国出来るようにします。

 ――でも、貴方が今すぐ帰国したいなら、それも叶えます」


『ありがとうございます。シザさん。

 僕の気持ちは……気持ちだけなら、今この瞬間に貴方の隣に行きたいけど。

 でも数日ここで過ごして、シザさんが大丈夫だと思ったら連絡を下さい。

 僕は平気です。もう自由だから』


「分かりました。僕が準備を整えますので。

 ピアノは弾ける?」


『迎賓館に二つグランドピアノがあります。

 どっちも好きな時に使っていいって言ってもらえたので、

 明日弾きに行きます。

 グランドピアノじゃないけど、この部屋にもピアノがありますよ。

 さっき少し弾いたら、ちゃんと調弦もされてていいピアノでした。

 だから部屋でも弾けます』


「そうですか。安心しました。

 気が向いたら大型天体望遠鏡がある天文台にも行ってみるといいですよ。

 ……とても美しい所です」


『はい』


「遅い時間ですけど……眠れそうですか?」

 ユラは笑った。

『今から眠ろうと思って、ベッドの上です』

「そうですか。良かった……」

『シザさんは今どちらですか?』


「僕は……、……偶然ですけど、星を見てました。

 貴方の部屋の天窓からよく見えるので」


 数秒、ユラが押し黙った。


『シザさん。あの……【グレーター・アルテミス】に戻ってから、ちゃんと落ち着いて話そうと思っていたんですけど』


「はい……」


『僕、今回のことで……。

 本当に貴方のことが好きだって思いました。

 好きになって良かったとも……、

 ごめんなさい、上手く言えないけど……。

 だけど……捜査局の人達に取り調べを受けた時、

 最初は驚いたし、怖かったし、悲しかったけど、

 貴方と恋愛するなんて間違ってるって言われた時、

 悲しさより、湧き上がって来る、怒りのようなものを感じたんです。

 僕はノグラントの学生さんたちのおかげで自由になれたけど、

 例え自由になれなくて、裁判が始まってたとしても、

 何を聞かれても、

 僕は貴方を好きだから、

 恋人同士になったことも後悔してない、

 これからもずっと好きでいます、って言ってやろうと思ってました』


 シザは息を飲んだ。


 ユラは幼い頃から過酷な環境で生きて来たけれど、

 何かに怒るということをしたことがない弟だった。

 自分は窮地に陥ると確かに怒ることで、それを力に変える。

 ユラが逮捕された時も、衝撃を受けたが悲しみより怒りで戦う意志が湧いてきた。

 だがユラ・エンデはそういう人ではなかった。


 ……そう、思い込んでいただけだ。


 誰の胸の奥にも聖域があると、音楽家が言っていた。

 そこに安易に触れられれば、どんな優しい人間でも怒る。

 怒って戦おうとする。

 守る為に。


「ユラ」


 シザは零れた涙を手の甲で押し潰した。


「……【グレーター・アルテミス】公演でも、あなたは怒ってましたね」


 最後のラ・カンパネラ。


『聞いてくれてたんですか?』

 ユラは知らなかったようだ。

「聞きました。

 貴方のラ・カンパネラを久しぶりに聞いた」


 ユラはあれを「思い入れのある曲」と言っていた。

 確かに思い入れはある。

 だがそれは、悪い意味でなのだ。

 シザだけがそれを知っていた。

 

『……聞いてて嫌な気分になりませんでしたか……?』


 ユラが恐る恐る聞いて来た。

 彼は夢中で弾いていたので、多分どんな感じだったのかが分からないのだろう。

 ただ、怒っていたという自覚はあるから恐れている。

 シザにはその怒りがどこから来るのか分かるし、

 共有も出来る。

 だから尋ねて来たのだろう。


「馬鹿ですね……!」


 零れた涙を誤魔化して、あんな凄い演奏をした弟がそんなことを心配するように聞いて来たので、シザは思わず笑ってしまった。


「貴方が凄いピアニストであることは誰よりも分かっているつもりでしたけど、

 あの日は本当に驚きました。

 貴方は……本当に素晴らしい音楽家です。

 僕は今回のことで、ただそれを実感しただけです。

 ユラ。

 貴方は優しいひとですけど、とても強い人です。

 僕は怒りに満ちると、それを人に対しての刃にしか出来ない。

 だけど貴方はあんなに怒っても、その怒りを美しい音楽に変えられます。

 それは……驚くべきことなんですよ。

 あの日聞いたラ・カンパネラは……」


 まだ鮮やかに耳に残ってる。


「今まで聞いた中で一番美しかったです」


 安堵の、ため息のような声が聞こえた。

 彼が微笑っている。


(ユラ)


 今すぐ腕を伸ばして、彼を抱きしめたくなる。


 何度、自分にはこの人しかいないと思って来たか分からない。

 シザの中ではそれこそ、大学時代から恋情と共にそういう想いは揺るぎなくあったのに、

 いつも苦難を自分に課す底意地の悪い運命の神は、ユラをシザの側から遠くに連れて行ってしまう。


 でもそのたびに、ユラは自分の足でシザの許に戻って来てくれる。


 暗がりにいる自分にいつも優しく手を差し出してくれるのだ。




(僕には永遠に、あなただけ)




「シザさん。天文台の話、初めて聞きました。

 もっと大学時代の話が聞きたいです。

 眠くなるまで……もう少し話してて」



 ユラがベッドに潜り込んでそう言うと、まるでその姿が見えていたかのように、シザが電話の向こうで笑ったのが分かった。


『いいですよ』


 少し何やらごそごそと音がした。

 シザも、横になったのかもしれない。


『僕も、もう少し貴方の声を聞いていたい……』


 シザの優しい声が響いて、

 ユラは目を閉じた。


 目を閉じると、暗くなった瞼の裏に今日見た星の光が浮かび上がる。


 

 静かな美しい星空を、シザは見上げた。


 こんな夜に星を見上げていると、色々なことを考える。

 過去のこと、

 未来のこと、

 

 今という、一瞬一瞬のことを。


 時折流れる星のように、

 心は弱さに移ろうけれど、

 星の向こうから彼の優しい声はいつも語り掛けて来てくれる。


 シザにはユラがいなかったら自分はどこかで運命を諦めて、

 死んでいただろうと思う自覚がある。

 だから、自分と生きているせいでユラが糾弾された今回のことは、正直心底堪えた。

 自分のことなら揺るぎなく僕は弟のおかげで生きているんだから、関係のない他人が口を出して来るな、ふざけるなとどれだけでも戦えたが、逆は無理なのだ。


 シザがユラをすぐに帰国させなかったのは、

 自分の心の中に今ある彼への依存や、罪悪感や、守りたいだとか自分のものにしたいだとか、そういう混沌とした感情でユラに触れるのを強く恐れたせいだった。


 シザが養父の、ユラに対する虐待を知ったあと、葛藤を覚えながらも大学に一度戻ったのは今回と同じ理由だ。


 側にいたかったけれど、あのまま側にいたら自分の感情だけがどんどん膨らんで「弟を守る兄」の顔すら出来なくなる、そういう予感があった。

 深く傷つけられたユラを見た時、抱きしめて跪いて、その手の甲に口づけて愛する貴方をこれからはずっと側にいて守りますと誓いたかった。

 一人の男として見て欲しいと、強く望んだのを自覚したから。

 あの時のユラにはとてもではないが、そういう私欲を押し付けられなかった。


 あの養父と同じ人種になるくらいなら、死んだ方がマシだったから。

 だから無理に離れようとしたのだ。


 ライル・ガードナーに「判断を誤った」と言ったのは、その意味も込められていた。




 だがユラ・エンデはその、シザの誤った判断すら遥かに包み込んで――いつも伝えて来てくれる。


 愛情を。


 今回シザは何も出来なかった。

【グレーター・アルテミス】でただ待つことしか出来なくて。

 無力さだけを感じていたから、

 少し離れて考えたいと言われても驚きはなかったのに。


『本当に好きだと思った』


 自分が言いたかった言葉を先に言われてしまった。

 だからもう言う言葉はない。

 言葉が失われたら、

 あとは触れることでしか想いを伝えられない。


 だから、彼の声が聴きたい。


 優しい声を聞いて、愛されていることを感じられたら、

 自分も触れることを恐れなくて良くなる。


 ……貴方に会いたいから帰って来てほしいと、素直に言葉に出来る。





 しばらく話したが、途中でユラは眠ってしまったようだ。

 

 突然色んなことが起きた一日だった。

 疲れて当然である。

 ユラは眠ったようだがシザは通話を切る気になれず、通話中にしたまま、携帯をベッドの側に置いた。



「……ユラ。貴方にずっと伝えようと思っていたことがあります」



 放置した携帯には触れず、シザは天窓から見える星を見上げながら、ごく小さな声で呟いた。




「僕には過去も未来も貴方しかいないけど、

 貴方はそうじゃない。

 閉ざされた場所から羽搏いて、

 色んな世界や人や音楽を知って欲しい。

 その中で貴方を惹き付けて止まないものが見つかったら、

 それを迷わず選んで欲しいんです。

 何もかも自由に選んで来れなかった貴方だからこそ、そうして欲しい。

 貴方はこの世の僕以外の、誰でも選べることを忘れないで欲しい。

  

 貴方は自由に何を選んでもいいんです。

 僕以外の誰かでも。

 心の底から僕はそう祈っています。



 ――――だけど僕は……それでも貴方に僕を選んで欲しい」




 昼間の喧騒が信じられないほど、静かな夜だ。

 

 星が柔らかい曲線を描き、流れた。



【終】

 

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