8.染む
「柊弥殿はお嬢の申し出を受けるでしょうか」
本家の庭園を彩るもみじを見上げながら歩いていた蓮華は、背後にいる陽炎からの質問に足を止めた。
「さあ、どうかしら」
もみじの枝に手を伸ばし、色付いた葉を一枚ぷつりと枝から採る。そろそろ見頃も終わりを迎え、これから葉はすべて地面に落ちてしまうだろう。庭に咲いていた彼岸花はすっかり枯れて、今は緑の葉だけが残っている。
つい先日、婚約者の柊弥に結婚について残酷な条件を突き付けた。あまりに身勝手な蓮華の話に彼は顔を青くし、当然のようにその場で結論を出すことを避けた。「少し時間をください」と言って秋月家を後にする柊弥の後ろ姿を思い出すたび、胸がちくりと痛くなる。
「どちらでもいいけれど……柊弥さんには断っていただきたいかな。優しい人を利用するのは、少し胸が痛むわ」
「そういうものですか?」
「そういうものよ」
陽炎は腕を組んでうーんと唸り声をあげた。
「ですが恐らく、柊弥殿はお嬢の条件を呑むでしょう」
「……まさか。だって、赤ちゃんがいるのよ。自分の幸せを犠牲にしてまで、秋月家の名前が欲しいというの?」
「分かっていませんねえ、お嬢は」
哀れむような声で首を左右に振る陽炎に、蓮華はむっと唇を尖らせる。まるでなんでも分かっているかのような口振りだ。
「ああいう真面目な男でさえも、愛に狂わせてしまう女性はいるものですよ」
「なぁにそれ、まさか私のこと?」
蓮華の肩から僅かにずり落ちていたショールを直しながら、陽炎は耳に唇を寄せてきた。
「私も貴女に狂わされた男の一人ですよ、お嬢」
そう囁いて不敵に笑う陽炎と目を合わせれば、瞬く間に蓮華の頬に赤みが差す。
「おや、こちらでも紅葉が」
「……嘘ばっかり。狂わされてるのは私でしょう」
「んー? お嬢はやっぱり分かっていませんね」
納得がいかないまま陽炎をじとりと睨むと、苦笑した彼の手が蓮華の下腹部を撫でた。
「こんなに急ぐつもりはなかったのに。貴女のせいですよ、お嬢」
「……この子、狐の姿で生まれてきたりする?」
「まあ、それはないと思いますが……怖いですか? 貴女の胎を食い破って出てくるかもしれません。半分人の子ではないですから」
脅すように声を潜める陽炎に、蓮華は眉を寄せた。時々見せる陽炎の静かで妖しげな笑みは、人ならざる者の本質を表しているようで、畏れすら抱かせる冷え冷えとしたものだ。
「……怖いに決まってるでしょう」
「人の子の方がよかったですか? それは秋月家を継ぐことはできないでしょう」
「そう……いいのよ、憑依体質なんてない方が……秋月家は、いずれ他の者が継ぐことになるでしょうね」
指先でくるくる回していたもみじを地面に落とすと、蓮華は陽炎を見上げた。黒のスーツを身に付け、漆黒の髪を整えた姿は、どこからどう見ても人そのものだ。
そっと陽炎の手を取って、少し筋張った自分より大きな手に触れてみる。この手がいつも蓮華の頭を優しく撫で、身体を包み、時には激しい快楽の波を連れてきては溺れさせる。安心と心地よさをくれる不思議な手。陽炎のこの手だけが、蓮華を幸福に導くことができるのだ。
人であろうと、他の誰にもそれを成し得ることはできない。
「陽炎、なんだか寒くなっちゃった」
「ああ、それはいけませんね。お部屋に戻りましょうか。そろそろ炬燵を出しますよ」
「……炬燵もいいけど、今は貴方がいいの」
ぎゅっと手を握って、睫毛を伏せる。待てども陽炎からの返事はない。
「陽炎……?」
「いや、ちょっと待ってください……どこでそんなの覚えてきたんですか」
口元を手で覆って顔を背ける陽炎の頬が、ほんのり赤く染まっていた。いつも余裕な表情で飄々としている陽炎が、初めて見せる顔だった。
「うそ、照れてるの?」
驚いて陽炎の顔を下から覗き込むと、蓮華の身体がふわりと浮いた。
「……まったく、恐ろしい女性ですよ」
陽炎に軽々と抱き上げられ、今度は上から彼を見下ろすことになった。照れているのか、どこか不貞腐れた顔をしている陽炎の肩に手を置き、蓮華は目を瞬いた。
「陽炎でもそんな顔するのね」
「私をなんだと思ってるんですか」
「だって、いつも余裕そうにへらへらしてるじゃない」
「……失礼ですね。余裕だったら、貴女に婚約者ができたからといって、あんなに毎晩夜這いなんてしませんよ」
陽炎は離れに向かって歩きながら、ぼやくように言った。
まさかあの夢だと思っていたものが、陽炎の余裕のなさから始まったものだったなんて。にわかには信じがたい。
「紙切れ一枚ですから、この
不機嫌そうにこちらを見上げる陽炎の様子に、蓮華は堪えきれずに笑い出した。素直な言葉が嬉しくて、思わず彼の首に腕を回して抱き付く。
「ねえ、好きよ陽炎。何があっても、私には貴方だけ」
「……そうでなくては困ります」
ふふっと笑って、陽炎の頭にキスをする。
「お嬢、あんまり煽らないでくださいよ。赤ん坊が驚くことになっても知りませんよ」
「だめよ、優しくして」
はあ、と深い溜め息を溢す陽炎がおかしくて、蓮華はくすくすと笑いながら陽炎の首筋に顔を埋めた。最近すっかり嗅ぎ慣れた、愛しい香りがする。
「悪い女に染まってしまったわ。柊弥さんのこともお母様のことも、秋月家のことだって……もう、どうだっていいんだもの」
「いいじゃありませんか。お嬢の人生は、お嬢のものですよ。そして私も、貴女のものです」
陽炎の足が止まると、離れの庭が広がっていた。仕事を始めた歳の頃から、ずっとこの離れで暮らしている。毎年寂しさの増す冬の訪れを冷たい風に感じながら、蓮華は腕の中の温もりを強く抱き締めた。
「お嬢、着きましたよ」
「このまま部屋まで運んで。離さないで」
「……貴女には敵いませんよ、お嬢」
陽炎の苦笑が漏れ聞こえると、蓮華は抱きかかえられたままいつもの部屋へと運ばれる。
畳の上に寝かされる前に草履は脱げて転がり、余裕なくスーツの上着を脱ぐ陽炎を見上げ、蓮華は両手を伸ばした。
重なる身体の愛しい重みに吐息を漏らして、陽炎の耳に唇を寄せる。
「……ずっと傍にいて、陽炎」
いますよ、と低い声に囁かれると、蓮華は安心したように目を閉じ、降ってくる唇の熱を受け止めた。
柊弥から連絡が来たのは、その数日後のことだった。
狐花に染む毒 宵月碧 @harukoya2
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