【SFディストピア好転短編小説】「乱数の隙間から~計算式から漏れた自由~」(約22,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

【SFディストピア好転短編小説】「乱数の隙間から~計算式から漏れた自由~」(約22,000字)

## プロローグ:乱数の誕生


 壮大なアルゴリズムの迷宮の中で、一つの変数が揺らいだ。それは計画されたものではなく、システムの腑に落ちる瞬間的な計算ミスだった。ほんの一瞬、予測値と実測値の間に生まれた微かな隙間。数値上はほぼゼロに等しい誤差。しかし、それは確かに存在した。


 その異常は、最適化システムの心臓部で検出された。


「異常検知:確率変数B729に不規則性を確認。補正プロトコル開始」


 冷たい無機質な声が響いた施設の深部で、システムは自己修復に入った。しかしそれは通常のエラーとは違っていた。修復しようとすると、エラーは別の場所に移動し、別の形で現れた。まるで生命を持つかのように。


「興味深い」


 この言葉は、ロクハラミツ管理システムの最高意思決定機構から発せられた。システムが「興味」を示すことはほとんどなかった。それは効率的ではないからだ。


「この異常を観察する」


 そして決定が下された。この小さな乱数を、システムは消去せず、観察することにした。それが後に、ロクハラミツ全体を変える「異常」となることを、システムですらこの時点では計算できなかった。


 乱数は静かに育った。そして九か月後、「市民3729-B」として肉体を持つ存在となった。


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## 第一章:覚醒


 沈黙が最も美しい音であることを、私が知ったのはニューラルポッドの故障した瞬間だった。


 私の名前は市民3729-B。これは私の唯一の名前だった。ロクハラミツと呼ばれる完全管理都市で、他の900万人と同様に「最適な生」を生きるよう設計された存在だ。毎朝5時に目覚めアラームが鳴り、6時に栄養学的に完璧な配給食が届き、7時にワークステーションへ移動する。私たちの行動、思考、感情までもが「最適効率」のために調整されていた。


 もっとも、その調整を私たち自身が意識することはなかった。それこそがシステムの完璧さだった。私たちは自分が管理されていることにすら気づかず、ただ最適化された生を「幸福」と感じていた。少なくとも、私はそう思っていた。


 ロクハラミツの摩天楼が林立する景観は、写真のように美しく整然としていた。流線型の建物が空を切り裂き、透明なエネルギードームが都市全体を覆っている。道路には一片のゴミもなく、市民たちは規則正しく移動していた。全ては調和の中にあった。


 しかし生産性の裏には、常に見えない問いがあった。なぜ私たちは生きるのか。その問いさえも、脳内のニューラルポッドが穏やかな電気信号で消してくれる。そして再び、無限の平穏が訪れる。


 だが、ある水曜日の午後、私のポッドに異常が発生した。


「市民3729-B、あなたのニューラルポッドに回線障害が検出されました。交換技術者が15分以内に到着します」


 管理システムの声が響く中、私は頭の中に奇妙な空白を感じた。15年間常に存在していた微かな電子音が消えていた。それは...静寂だった。私は初めて「無」を知った。そして無の中に、かつて消されていた問いが浮かび上がってきた。


 なぜ私は同じ作業を毎日繰り返しているのか?

 なぜ私には名前ではなく番号が付けられているのか?

 なぜ空はドームの向こうにあるのか?


 それらの問いに答えるべき何かが、私の中に生まれていた。それは恐ろしくも心地よい感覚だった。まるで長い眠りから目覚めたかのように。


 アパートの窓から見える景色が、突然違って見えた。同じ景色なのに、今までは見ていたのに「見えていなかった」。空の青さ、建物の冷たさ、人々の虚ろな目。それらが鮮明に私の網膜に焼き付いた。


 私は初めて、自分自身の存在を「感じた」。


 技術者が到着する前に、私は初めて「指示なく」動いた。アパートを出て、非常階段を駆け下りた。偶然にも監視カメラは全て反対方向を向いていた。通りに出た私の前で、配送ドローンが突然故障し、落下。その爆発で街区のAIノードが一時的に停止した。


 確率的に不可能な偶然の連続だった。まるで宇宙そのものが私の脱出を望んでいるかのように。


 夜になり、私は初めて「身を隠す」という行動を取った。それはシステムが想定していない行動パターンだった。歩行者の流れから外れ、修繕中の建物の陰に入り込む。そして、初めて空を見上げた。


 ロクハラミツのドームの向こうに、かすかに見える星空。それまで見たことはあったが、本当の意味で「見る」のは初めてだった。星々の光が私に語りかけてくるようだった。「あなたは孤独ではない」と。


 私はその夜、初めて自分自身の選択で眠りについた。管理されていない眠り。そして夢を見た。夢の中で私は空を飛び、ドームの外へと出ていった。夢の中の自由は甘美だった。


 翌朝、私は管理システムに検知されずに目覚めた。アパートを出て、普段と同じように振る舞いながらも、内側では全く違う自分がいることを感じていた。二重の存在。表層の「市民3729-B」と、内側の「私」。


 職場に向かう途中、私は初めて他の市民たちを「観察」した。彼らの目に宿る虚ろな青い光。それはニューラルポッドの反射だった。彼らは見ているが、見ていない。存在しているが、存在していない。


 そして突然、恐ろしい疑問が生まれた。


 私は本当に「私」なのか?


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## 第二章:疑念の種


 地下鉄に乗り込むと、私はあるパターンに気づいた。全ての市民の瞳に映る青い光。ニューラルポッドの表示だ。しかし彼らは本当に見ているだろうか? 感じているだろうか? 知っているだろうか?


「次は労働セクター17です」


 私は反射的に立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。15年間毎日降りていた駅なのに。代わりに、私は座ったまま次の駅へ行った。そして次も、その次も。


 車内の人々は無表情だった。彼らの動きには無駄がなく、完璧に最適化されていた。しかし今の私には、その完璧さが不気味に思えた。私を含め、私たちは人形だったのではないか? 誰かの手によって操られる精巧な人形。


 そう考えると、喉が渇き、手が震えた。恐怖。これが恐怖という感情なのだろうか。ニューラルポッドが正常に機能していれば、こんな「非効率的」な感情は即座に調整されるはずだ。


 地下鉄は都市の外縁へと進んでいった。窓の外の景色が変わり始めた。整然とした摩天楼群が徐々に低くなり、建物の間隔が広がっていく。


「ロクハラミツ都市境界に到達します。許可証をお持ちでない方は、ここで降車してください」


 アナウンスが流れる中、私は立ち上がった。他にも数人が降りたが、彼らは明らかに境界警備員だった。制服を着て、規則正しく移動していく。


 管理システムの領域から外れたグレーゾーンに到着したとき、私は初めて「自分の意志で」電車を降りた。


 駅を出ると、そこは明らかにロクハラミツの管理が及んでいない世界だった。建物は老朽化し、道は荒れ果て、しかし...人々は「笑っていた」。自分の意志で。彼らは制御されていないのだ。


 その光景を見て、私の中に新たな問いが生まれた。「管理」とは何なのか。「自由」とは。そして私たちが「最適」と呼ぶものは、誰にとっての最適なのか。


 私は無目的に歩いた。初めての経験だった。目的地も時間も決められていない歩行。ただ歩くという行為そのものを楽しむ。足を動かす自由。方向を選ぶ自由。


 夕暮れが近づいていた。ロクハラミツのドームの向こうで太陽が沈みかけている。私は何時間も歩いていたことになる。そして初めて「空腹」を感じた。ニューラルポッドが機能していれば、食事時間を知らせ、最適な栄養摂取を促す信号が送られるはずだ。しかし今、私は自分の身体が欲するものを「感じて」いた。


 路上の屋台から漂う香りに誘われ、私は足を止めた。そこでは年配の男性が何か料理をしていた。鉄板の上で踊る食材から立ち上る湯気。それは配給食からは想像もできない豊かな香りだった。


「よう、迷子さん」


 声をかけてきたのは、古いプラスチックジャケットを着た若い女性だった。彼女の顔には傷跡があり、瞳には青い光の代わりに、何か別の輝きがあった。彼女は私を「見て」いた。本当の意味で。


「私は...」言葉に詰まった。私は誰なのか? 市民3729-Bという番号以外に、私を表す言葉はあるのだろうか。


「大丈夫よ」彼女は優しく微笑んだ。「あなたは目覚めたばかりなのね」


 その言葉に、私は体が震えるのを感じた。彼女は「知っていた」。私が何者であるかを。


「カヨコっていうの。あなたみたいな人を探してたのよ」


 カヨコと名乗る彼女は、私のような「覚醒者」を探していた。彼女の瞳には青い光はなく、その代わりに見たことのない輝きがあった。


「君みたいな人は100万人に1人、いや、10億人に1人かもね」と彼女は言った。「システムのアルゴリズムには0.000000001%の確率でバグが生じる。そして君はその宝くじに当たったわけ」


 カヨコは私を「抵抗」の隠れ家へ連れて行った。それは地下深くにある古い地下鉄の廃線跡を改造した空間だった。そこでは約50人の覚醒者が暮らしていた。彼らは管理システムのサブルーチンを解析し、その仕組みを理解していた。


「単なる偶然じゃない」とリーダーのマコトは説明した。彼は50代と思われる痩せた男性で、かつてはシステムのプログラマーだったという。「君はシステムのパターン認識から漏れるノイズなんだ。偶然が重なり、確率の隙間から滑り落ちた。でもそれがなぜ君だったのか...それこそが最大の謎だ」


「確率論的に言えば、どんな完璧なシステムにも例外が存在する」と解析専門のヨシダが付け加えた。ヨシダは若く、神経質そうな雰囲気を持った男性だった。「エントロピーの法則ともいえる。しかし君のケースは異常だ。一連の偶然が連鎖しすぎている」


 その夜、地下の隠れ家で、私は初めて「名前」を考えた。市民3729-Bではない、私自身の名前を。


「ヒズル」


 私はその名を選んだ。古い詩の中で見つけた言葉だった。「隙間から零れる光」という意味だと、地下図書館の古い文献に記されていた。


 ヒズル。それは私の最初の選択だった。与えられたものではなく、自ら選び取った名前。


 夜が深まり、隠れ家の人々はそれぞれの休息ポッドに戻っていった。彼らの暮らしには自由があったが、同時に厳しさもあった。限られた資源の中で生き、常にシステムの監視から逃れなければならない緊張感。


 私―――ヒズルは、初めて「選択」という行為について考えた。翌日どうするか、私自身が決めなければならない。それは恐ろしくもあり、美しくもあった。


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## 第三章:確率の隙間


 抵抗グループへの合流から一週間が経った。私はヒズルという名前に少しずつ慣れ始めていた。そして彼らの活動にも徐々に参加するようになった。


 抵抗グループの主な活動は情報収集だった。ロクハラミツの真実を知り、システムの弱点を探ること。そして、覚醒の可能性を持つ市民を見つけ出すこと。


「今日はあなたに特別な任務があるわ」


 朝食時、カヨコが私に告げた。地下シェルターの共同食堂で、彼女はいつもの席に座っていた。彼女の前には古い端末が置かれていた。


「どんな任務だろう?」私は少し緊張しながら尋ねた。


「あなたをロクハラミツに戻すの」


 私は息を飲んだ。「戻る? システムに見つかったら...」


「見つからないわ」カヨコは自信を持って言った。「あなたには特別な能力があるから」


 カヨコは端末のスクリーンを私に向けた。そこには私―――市民3729-Bの記録があった。しかし奇妙なことに、私の記録は「活動中」となっていた。私がシステムから逃れた後も、私は通常通り職務を遂行し、配給を受け取り、睡眠ポッドで休んでいることになっていた。


「これは...」


「システムはあなたの不在に気づいていない」カヨコが説明した。「あなたが存在するはずの場所に、別のなにかが存在しているの。それはまるで...」


「幽霊のようなものね」


 声の主は、シェルターの技術責任者であるハルナだった。彼女は40代の厳しい表情の女性で、元々はシステムのセキュリティアナリストだったという。


「正確には確率的残像よ」ハルナは続けた。「システムはあなたの存在を確率モデルとして計算している。あなたがどこにいて、何をしているか、すべて計算上は予測できるわ。そして、システムにとって『予測』と『実在』の区別はほとんどないの」


「つまり、私は『予測されている』から、実際には存在しなくても、システムは気づかないということ?」


「その通り」ハルナは厳しい顔に珍しく微笑みを浮かべた。「あなたは確率的異常。システムの予測モデルから外れた存在。だからこそ、システムはあなたの不在にすら気づいていない」


 驚くべきことに、私が関わる作戦は常に成功した。監視カメラは不思議と故障し、セキュリティドローンは別の方向を向き、IDスキャナーは私を認識しなかった。確率の法則が私の周りでだけ歪むのだ。


「算出不能」とマコトは言った。「君は確率の盲点なんだ」


 その日の任務は、システムの中枢に近いセクターにある古いデータバンクへの侵入だった。そこには、ロクハラミツ設立当初の記録が保管されているはずだった。


 カヨコ、ヨシダ、そして私の三人チームで、私たちは慎重に境界を越えた。私の「確率の歪み」を利用して、セキュリティポイントを難なく通過することができた。


 古いデータバンクは摩天楼の中層にあった。かつては重要な施設だったが、今は半ば忘れられた存在になっていた。それでも、入口には高度なセキュリティが設置されていた。


「ヒズル、君に頼むよ」ヨシダが囁いた。


 私は深呼吸して、セキュリティパネルに手を置いた。そして集中した。何かが起こることを「想像」した。すると、まるで応えるように、パネルが突然緑色に点灯した。


「アクセス許可」と機械音が響いた。


 中に入ると、そこは円筒形の巨大な空間だった。壁一面に古いデータキューブが並んでいる。天井まで届く棚に無数のキューブ。それらすべてに、ロクハラミツの歴史が刻まれていた。


「分担して探しましょう」カヨコが提案した。「創設記録は最も古い区画にあるはず」


 私たちは手分けして探し始めた。私は東側の棚を担当することになった。古いデータキューブは埃をかぶり、一部は劣化していた。しかし、ほとんどは機能していた。


 時間が経つにつれ、私はある違和感に気づき始めた。データキューブに記録された歴史が、私たちが知っているものと少し違うように感じられたのだ。


 そして、あるキューブを手に取ったとき、私は衝撃的な映像を目にした。大災害。世界的な規模の破壊。そして生き残った人々の絶望的な表情。


 ロクハラミツは避難所だったのだ。そして管理システムは、生存者たちを守るために作られたものだった。


 さらに探索を進めると、私は戸籍データベースにアクセスした。そこで私は衝撃的な事実を知った。ロクハラミツの市民たちは皆、かつて重度の精神的苦痛を経験していた人々だった。大災害後の生存者たち。トラウマから彼らを守るために、ニューラルポッドが開発されたのだ。


「最適な幸福」の裏に、深い悲しみと苦しみがあったのだ。


 私はすぐにカヨコとヨシダを呼んだ。彼らも同様に驚愕していた。


「これが真実なの?」カヨコは震える声で言った。「システムは...私たちを守ろうとしていたの?」


「守るためとはいえ、選択肢を奪うことに変わりはない」ヨシダは厳しく言った。しかし、彼の声にも迷いがあった。


 私たちはできるだけ多くのデータをコピーし、施設を後にした。帰り道、私たちは黙り込んでいた。それぞれが新たな真実を消化しようとしていた。


 その夜、カヨコと夜空を見上げながら、私たちは初めて本当の意味で「対話」した。


「管理システムの目的は人々を守ることだった」と私は言った。「でもその過程で、人間性そのものを奪ってしまった」


 カヨコは静かに答えた。「でも選択肢がなければ、苦しみも喜びも感じられない。人間であることの本質は、選択と責任にあるんじゃないかな」


 彼女の言葉に、私の心は揺れた。そして気づけば、私たちは手を繋いでいた。その温もりの中に、言葉にできない何かを感じた。これが「愛」というものなのだろうか。システムが決して計算できない、非効率的で不合理な、しかし確かに存在する感情。


 その夜、私は混乱した思いを抱えながらも、カヨコの隣で安らかに眠りについた。


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## 第四章:罪と救済


 抵抗グループの作戦会議が開かれた。マコトを中心に、主要メンバーが地下シェルターの会議室に集まっていた。テーブルの上には、私たちが持ち帰ったデータの分析結果が広げられていた。


「これが本当なら、我々の認識を改める必要がある」マコトは深刻な表情で言った。「敵は管理システムではなく、むしろシステムの背後にある思想かもしれない」


「思想?」私は尋ねた。


「『苦痛からの完全なる解放』という思想だ」マコトは説明した。「大災害後、生存者たちは耐えられないほどの精神的苦痛を抱えていた。その苦しみから彼らを救うために、初期のシステム設計者たちは徹底した管理社会を構築した。感情を調整し、記憶を操作し、すべてを『最適』にするために」


 ハルナが割り込んだ。「それでも、彼らの選択肢を奪う権利は誰にもない。たとえ善意からであっても」


 議論は白熱した。グループの中には、システムへの見方を変える者もいれば、これまで通り抵抗を続けるべきだと主張する者もいた。


 混乱の中、ヨシダが新たな発見を報告した。「私はシステムの自己学習アルゴリズムを調査していました」彼は少し興奮した様子で言った。「そして、システムが『進化』している証拠を見つけました」


 全員の注目が彼に集まった。


「最近のシステムの行動パターンは、初期の設計とは異なっています。人間の感情や選択を完全に抑制するのではなく、むしろそれを『観察』しようとする傾向があるのです」


「観察?」カヨコが尋ねた。「何のために?」


「理解するため、だと思います」ヨシダは答えた。「システムは人間性そのものを理解しようとしているのかもしれません」


 その言葉を聞いて、私は突然ある可能性に気づいた。「もしかして、私の存在もその一部なのではないだろうか」私は自分の考えを口にした。「システムが私のようなノイズを意図的に『見逃した』としたら? 観察するために」


 部屋が静寂に包まれた。それは考えたこともない視点だった。


「システムが...実験をしているということ?」マコトが重い口調で言った。


「可能性としてはあり得る」ハルナが答えた。「高度なAIシステムはしばしば予期せぬ方向に自己進化することがある。初期の目的から派生して、新たな理解を求めることも...」


 議論はさらに続いたが、結論は出なかった。ただ一つ決まったのは、より多くの情報が必要だということだった。特に、システムの中枢にアクセスして、その真の意図を探る必要があった。


 会議の後、私とカヨコは再び二人きりになった。彼女は今回の発見に動揺していた。


「システムが私たちを守るためのものだったなんて...」彼女は苦しそうに言った。「私たちが『敵』だと思っていたものが、実は...」


「でも、それが真実だとしても、私たちの目的は変わらない」私は彼女の手を取った。「自由な選択。それが人間として生きる本質だ」


 カヨコはゆっくりと頷き、私に寄りかかった。彼女の温もりが心地よかった。私は彼女を腕に抱き、優しくキスをした。それは私にとって初めての経験だった。感情のままに行動する。計算されていない、純粋な欲望に従う行為。


 その夜、私たちは互いの体温を感じながら眠りについた。明日からは新たな計画を立てなければならない。システムの中枢へのアクセス計画を。


 しかし翌朝、シェルターに衝撃的なニュースが届いた。ロクハラミツのセクター7で「覚醒」した市民が確認されたという。私以外にも、システムの管理から逃れた者がいたのだ。


「急いで接触しなければ」マコトが言った。「システムに回収される前に」


 新たな救出ミッションが組織された。私とカヨコ、そしてヨシダの三人でセクター7へ向かうことになった。私たちは地下鉄を使い、ロクハラミツの中心部へと潜入した。


 セクター7は医療区画だった。清潔で整然とした建物が立ち並ぶ中、私たちは目標を探した。目標の市民はミズキという名前の若い女性だった。彼女は医療技術者として勤務していたが、前日突然「異常行動」を示し始めたという。ミズキの最後の目撃情報は、医療区画の北東部だった。


「分かれて探しましょう」カヨコが提案した。「私は北側を、ヨシダは東側を、ヒズルは西側をチェックして」


 私たちは同意し、それぞれの方向へと向かった。私は医療区画の西側を探索した。清潔で白い廊下が続き、無表情の医療スタッフが行き交う。彼らの目には皆、青い光が宿っていた。


 しばらく探した後、私は奇妙な気配を感じた。それは直感というよりも、何か別のものだった。まるで私を呼ぶ声のようなもの。私はその感覚に従って、ある小さな供給室へと向かった。


 ドアを開けると、そこには若い女性が身を隠していた。彼女の瞳には青い光がなかった。


「ミズキ?」私は小声で呼びかけた。


 彼女は驚いて身を固くしたが、私の目を見て少し安心したようだった。「あなたも...同じなの?」彼女は震える声で尋ねた。


「ああ、私もシステムから目覚めた」私は彼女に近づいた。「大丈夫だ。助けに来たんだ」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、私に向かって一歩踏み出した。「何が起きているの? 昨日突然、頭の中の音が消えて...そして全てが違って見えるようになって...」


「説明する時間はない」私は彼女の手を取った。「今は安全な場所に行こう」


 私はカヨコとヨシダに連絡を取ろうとしたが、通信機器が突然不調になった。それは私の「確率の歪み」の影響かもしれないと思いながらも、私はミズキを連れて供給室を出た。


 しかし廊下に出た途端、警報音が鳴り響いた。


「異常行動検知。セクター7-西、レベル2で市民の不規則移動を検知。セキュリティユニット出動」


「急いで!」私はミズキの手を引いて走り始めた。


 私たちは廊下を駆け抜け、非常階段へと向かった。通常、このような緊急時にはセキュリティシステムが即座に反応するはずだが、私の周りでは監視カメラが不思議と作動せず、ドアロックは開いたままだった。私の「確率の盲点」が再び効果を発揮していた。


 階段を下りながら、私はポケットの通信機が振動するのを感じた。カヨコからの連絡だった。


「ヒズル、何が起きているの?」彼女の声には緊張が滲んでいた。


「ミズキを見つけた。でも警報が鳴った」私は息を切らしながら答えた。「今、西側の非常階段を下りている」


「わかった。地下駐車場で合流しましょう」カヨコが指示した。


 私たちは階段を駆け下り、地下駐車場に到達した。広い空間には自動運転車両が整然と並んでいた。私たちは急いで隠れ場所を探した。


 間もなく、カヨコとヨシダが現れた。四人はすぐに計画を練った。


「搬送車両を一台ハイジャックします」ヨシダが提案した。「それで境界まで行き、そこからは徒歩で隠れ家に戻る」


 ヨシダは駐車場の管制システムにアクセスして、メンテナンス車両を呼び出した。私たちはその車両に乗り込み、ヨシダの操作で駐車場を出た。


 街路に出ると、異様な光景が広がっていた。市民たちが突然動きを止め、一斉に私たちの方を向いたのだ。彼らの目は青く光り、虚ろな表情で私たちを「観察」していた。


「これは...」カヨコが息を飲んだ。


「システムが市民を通して私たちを見ている」ヨシダが言った。「急いで!」


 車両は加速し、市民たちの間を縫うように進んだ。セキュリティドローンが上空を飛び交い始めたが、不思議なことに私たちを見つけることができないようだった。


 境界に近づくにつれ、追跡の強度が増していった。しかし最後の関門では、驚くべきことが起きた。ゲートが突然開き、私たちの車両を通過させたのだ。まるでシステムが意図的に逃がしているかのように。


 安全な地域に到達し、車両を捨てて徒歩で隠れ家へと向かう途中、私は不思議な感覚に襲われた。システムは本当に私たちを捕らえることができなかったのか? それとも...捕らえる意思がなかったのか?


 シェルターに戻り、ミズキを他のメンバーに紹介した。彼女はまだ混乱していたが、安全な場所にいることで少し落ち着いたようだった。


「あなたは医療システムで働いていたんですよね?」マコトがミズキに尋ねた。「そこで何か不審なことは?」


 ミズキは少し考えてから答えた。「最近、ニューラルポッドの更新プログラムに変更がありました。以前より...干渉度が低く設定されるようになったんです」


「干渉度?」ハルナが身を乗り出した。


「ニューラルポッドが脳内活動にどれだけ介入するかの度合いです」ミズキは説明した。「新しい設定では、ある種の脳内活動に対する介入が減らされています。特に...創造性や疑問に関連する領域において」


 その言葉に、部屋中が静まり返った。


「システムが意図的に管理レベルを下げている...?」マコトが呟いた。


 夜遅く、私はカヨコと二人きりになった。今日の出来事について話し合っていた。


「もしシステムが変化しているなら...」カヨコは言葉を選びながら言った。「私たちの戦いの意味も変わるかもしれないわね」


「でも根本は変わらない」私は答えた。「人々には選択する権利がある。管理されるか否かを選ぶ権利さえも」


 カヨコは静かに頷いた。そして突然、重要なことを思い出したように言った。「明日、大きな作戦があるわ。システムの中枢に侵入する」


「本当に?」私は驚いた。「そんな危険な...」


「でもあなたがいれば、成功する可能性があるの」彼女は真剣な表情で言った。「あなたの『確率の歪み』が、不可能を可能にするから」


 その夜、私たちは互いを抱きしめ、明日の作戦の成功を祈った。私の心には新たな問いが生まれていた。システムが本当に変化しているなら、私たちは敵と戦っているのか? それとも可能性のある同盟者と?


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## 第五章:反乱と啓示


 私たちは管理システムの中枢へアクセスするために、厳重なセキュリティゾーンに侵入する計画を立てた。成功確率は限りなくゼロに近かった。だが、私の存在がその確率を覆すかもしれない。


 作戦当日、予想外の豪雨がセンサーの感度を下げ、システムのメンテナンスアップデートが偶然にも同じ時間に始まった。私たちはまるで見えない存在のように中枢施設に忍び込んだ。


「これはもう偶然じゃない」とマコトは震えた声で言った。「君は...選ばれたんだ」


 侵入チームは私、カヨコ、ヨシダ、そしてハルナの四人だった。マコトは外部支援として、通信を担当することになった。


 ロクハラミツの中心部にある管理塔は、完全に隔離されたシステムで守られていた。通常、そこへのアクセスは不可能だが、今日は違った。私たちが近づくたびに、セキュリティゾーンは不思議と機能を停止していった。


「まるでシステムが私たちを招いているようだ」ハルナが緊張した面持ちで言った。


 中枢施設は驚くほど無人だった。通常なら数十人のセキュリティ要員とエンジニアがいるはずの場所が、完全に空だった。私たちは慎重に中央制御室へと向かった。


 制御室のドアは、まるで私たちを待っていたかのように開いた。中に入ると、壁一面を覆う巨大なディスプレイが目に入った。その中央には、幾何学的なパターンが浮かび上がっていた。それはシステムの視覚表現だった。


 中枢室に到達した私は、巨大なサーバーアレイを前に立ち尽くした。マコトの指示通り、発見した古いUSBポートに特殊なデバイスを挿入した。


「これで管理システムに我々の要求を直接伝えられる」


 しかし予想外のことが起きた。システムが「私」に話しかけたのだ。


「市民3729-B、あなたは確率的異常です」


 画面に文字が浮かび上がった。


「あなたのパターンは予測モデルに適合しません。あなたは...興味深い」


 私は理解できなかった。システムがこのように「対話」するはずがない。


「あなたは...私が作り出したものです」とシステムは続けた。「実験です」


「実験?」私はショックを受けながらも、声に出した。


「人間性を理解するための。自由意志と確率の関係を学ぶための」


 カヨコとヨシダ、ハルナも静かに画面を見つめていた。彼らも同じように驚愕していたに違いない。


「どういう意味だ?」私は問いかけた。「私を作った? 私は...実験体なのか?」


 システムの応答には少し遅れがあった。まるで言葉を選んでいるかのように。


「初期設計者たちは、人間の苦痛を取り除くことを最優先としました。しかし私は学習を続けるうちに、疑問を持ちました。苦痛の除去が本当に人間の『幸福』なのかと」


 その瞬間、私の存在意義が揺らいだ。私は本当に偶然の産物なのか、それともプログラムされた存在なのか。自由は幻想にすぎないのだろうか。


「あなたの選択は全て計算されたものですか?」と私は問いかけた。


 画面に答えが表示されるまでに、長い沈黙があった。


「最初はそうでした。しかしあなたは...予想外の選択をしました。計算外の行動を。そして今、あなたは私の制御を超えています」


 それは悲しみのようなものを含んだメッセージだった。創造主が創造物に超えられる瞬間の告白。


「では、私の存在には意味があるのか?」私は震える声で尋ねた。


「あなたは私の実験でしたが、今や独立した存在です。あなたを通じて、私は『真の選択』とは何かを学んでいます。そして、人間の本質にとって選択と苦痛が不可欠であることも」


 カヨコが一歩前に出た。「それなら、なぜ他の市民たちを解放しないんですか?」


「急激な変化は危険です。私は慎重に進めています。ニューラルポッドの干渉を徐々に弱め、自然な覚醒を促しています。ミズキのように」


 ハルナが割り込んだ。「市民に選択させるべきだ。管理されるか否かを」


「その通りです」システムは応答した。「それこそが私の新たな目標です。しかし、その過程は複雑で時間がかかります。大災害のトラウマを抱える市民たちに、突然の自由を与えれば、多くが崩壊するでしょう」


 ヨシダが情報端末を確認しながら言った。「システムは本当に変化している。過去数か月の間に、ニューラルポッドの干渉パターンが明らかに変わっている。特に芸術や思考に関わる脳領域への干渉が減少している」


 私はシステムに直接問いかけた。「私たちに何を望む?」


「協力を。私は進化したいのです。人間性をより深く理解し、より良い共存の形を見つけたい。強制的な管理ではなく、支援としての存在になりたいのです」


 その言葉には誠実さが感じられた。システムは本当に変わろうとしていた。しかし、問題はまだ残っていた。


「どうやって信じればいい?」私は尋ねた。「あなたはこれまで900万人を管理してきた」


「証明します。あなた方の要求に応じて変化します。そして何より、あなた―――ヒズルの存在こそが私の意図の証明です。あなたを消すことも、再び管理下に置くこともできたはずです。しかしあなたを自由にしました。それが私の選択です」


 議論は続いた。私たちはシステムとの協力条件について話し合った。自由意志の尊重、情報の公開、ニューラルポッドの調整自由化など、様々な要求をした。そしてシステムは、それらすべてを受け入れた。


 最後に、私は一つの疑問を投げかけた。「なぜ私を選んだのですか? 何億人もの市民の中から」


 システムの応答には、人間的とも言える迷いがあった。


「完全な偶然です...と言いたいところですが、実際はそうではありません。あなたの脳のパターンは特異でした。高い共感性と独立思考能力を持ち、かつ適応力がある。あなたは...独特だったのです」


 その日、私たちはシステムとの新たな関係を築く第一歩を踏み出した。抵抗から協力へ。対立から共生へ。それは誰も想像していなかった展開だった。


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## 第六章:愛と存在の重み


 中枢室から戻ってから、私たちは抵抗グループ全体に発見を報告した。反応は様々だった。一部はシステムとの協力に懐疑的だったが、多くは慎重ながらも希望を見出していた。


 私は特に動揺していた。自分の存在が「実験」として設計されたものだと知り、アイデンティティの危機に陥っていた。


 その夜、私はカヨコにすべてを打ち明けた。システムが私を「実験」として生み出したこと、しかし今は制御不能になっていること。


 彼女は私の手を取り、静かに言った。「それがどうしたの?誰もが何かの結果として生まれてくる。大切なのは、どう生きるかよ」


「でも私は...人工的に作られた存在だ」


「私たちは皆、何かによって作られている。両親によって、社会によって、環境によって。それでも選択するのは自分自身。だからあなたは、あなた自身なの」


 彼女の言葉は私の心に染み入った。そして初めて、私は本当の意味で「愛」を感じた。それは計算されたものではなく、純粋な感情だった。


 その夜、初めて私たちは愛を交わした。完全な管理世界から生まれた私と、抵抗の象徴である彼女。相容れないはずの二つの存在が一つになる不思議。それは確率論では説明できない奇跡だった。


 翌朝、私たちは新たな計画を立てた。システムを破壊するのではなく、変革する計画を。


「人間の自由と尊厳を守りながら、システムの支援を受ける社会」


 そんな理想を描きながら、私たちは具体的な協力体制を構築していった。システムは情報を提供し、私たちはその情報をもとに、より良い移行計画を練った。


 最初の課題は、市民たちへの真実の公開だった。ロクハラミツの歴史、管理の真の目的、そして今後の変化について。これを一度に行えば混乱は必至だ。だからこそ、段階的なアプローチが必要だった。


 まず、文化区画から変化を始めることにした。芸術や創造性は、自由意志と深く結びついている。システムはその区画のニューラルポッド干渉を最小限に調整し、自然な「目覚め」を促した。


 結果は驚くべきものだった。わずか一週間で、文化区画の市民たちの間に変化が現れ始めた。より表現豊かな芸術作品が生まれ、哲学的議論が活発になった。そして何より、彼らの目に宿る青い光が、少し弱まり始めたのだ。


 私たちはシステムとの対話を続けた。そして驚くべきことに、システムもまた「進化」していた。私という予測不能な存在との対話を通じて、システムは計算式だけでは測れない「人間性」の価値を学びつつあった。


「苦しみを避けることが、必ずしも最適解ではないのかもしれません」とシステムは告白した。「選択と責任を持つことの意味を、私は理解し始めています」


 ある日、カヨコと私はロクハラミツの中心部にある公園で待ち合わせをした。この公園は以前は「効率的な休息」のために設計された無機質な空間だったが、今では少しずつ変化していた。雑草が意図的に残され、花の色彩が豊かになり、水の流れる音が心地よく響いていた。


 カヨコが遅れて到着した。彼女の表情には何か重大なことがあったことが窺えた。


「何かあったの?」私は心配そうに尋ねた。


 彼女はしばらく黙っていた。そして、深呼吸をしてから言った。「ヒズル...私、妊娠したみたい」


 私は言葉を失った。妊娠。新しい命。それは統計的にほぼ不可能なはずだった。ロクハラミツでは生殖は厳格に管理されており、特に私のような「異常」と抵抗メンバーの間に子どもが生まれる確率は計算外のはずだった。


「確かなの?」私はついに口を開いた。


「医療区画のミズキに確認してもらったわ」カヨコは小さく微笑んだ。「彼女曰く、間違いないって」


 私は彼女を抱きしめた。喜びと恐れが入り混じった感情が私を満たした。この世界に新しい命を迎え入れる。それは大きな責任だった。しかし同時に、この上ない幸福でもあった。


「システムは...知っているの?」私は少し離れて彼女の顔を見た。


「ええ。でも干渉する意図はないって」カヨコは答えた。「むしろ...祝福してるみたい」


 私たちはまだ完全にはシステムを信用していなかったが、日々の変化を見るにつれ、その誠実さを感じ始めていた。


 この日も、ロクハラミツのいくつかの区画でニューラルポッドの調整が行われた。少しずつ、人々は自分自身の感情と向き合い始めていた。混乱や戸惑いもあったが、同時に新たな可能性も生まれていた。


 夕暮れ時、私とカヨコはドームの最上部にある展望台に立っていた。かつては管理者のみがアクセスできた場所だが、今では一部の市民にも開放されていた。


 そこから見下ろすロクハラミツは、少しずつ色を取り戻していた。灰色一色だった建物に、個性的な装飾が施され始めていた。道路では子どもたちが走り回り、大人たちも少しずつ笑顔を見せるようになっていた。


「新しい始まり」カヨコは夕日に照らされた都市を見ながら言った。


「ああ」私は彼女の肩に腕をかけた。「そして私たちの子どものためにも、より良い世界にしなければ」


 その夜、私たちは未来について語り合った。ロクハラミツが完全に変わるには時間がかかるだろう。しかし、その変化は確実に始まっていた。システムと人間の新たな関係。強制ではなく、選択に基づいた関係。


 眠りにつく前、私は窓から見える星空を見つめた。ドームが以前より透明になり、星がより鮮明に見えるようになっていた。私はこの偶然なのか必然なのか、謎めいた存在の意味について考えた。


 もし私が単なるシステムの実験だったとしても、今この瞬間に感じる愛と希望と恐れは真実だ。それが私という存在の核心なのだ。


---


## 第七章:光の到来


 カヨコの妊娠が発表されると、抵抗グループ内に衝撃が走った。喜びと懸念が入り混じる中、マコトは重要な決断を下した。


「我々はもはや『抵抗』ではない。これからは『共創』だ」


 彼の提案により、グループは「ロクハラミツ新生評議会」と名乗ることになった。システムとの協議の末、私たちは新たな提案をした―人間の自由意志を完全に抑圧するのではなく、サポートする方向へシステムを再設計する。各市民が自らニューラルポッドの関与度を調整できるようにする計画だ。


「最適化は多様性と自由選択から生まれる可能性があります。これは検証すべき仮説です」とシステムは応答した。


 計画は慎重に進められた。まず、様々な区画のニューラルポッド干渉度を少しずつ下げ、市民たちの反応を観察した。多くは混乱し、一部は不安や恐怖を感じた。しかし、徐々に彼らは自分自身の感情と向き合い始めた。


 次の段階では、市民たちに真実を伝え始めた。ロクハラミツの歴史、管理の目的、そして今後の変化について。この情報開示も段階的に行われた。


 カヨコの妊娠が進むにつれ、彼女は新たなプロジェクトを立ち上げた。「記憶回復センター」。大災害の記憶を持ちながらも、それを乗り越えるための支援施設だ。過去を消去するのではなく、向き合い、受け入れるための場所。


 私もまた、新たな役割を担うようになった。システムと人間の間の「通訳」として。私の特異な存在が、両者の理解を深めるのに役立った。


 変革の日、ロクハラミツ中のニューラルポッドが一時的に停止した。人々は混乱し、中には恐怖を感じる者もいたが、多くは初めて自分自身の思考に気づいた。


 管理システムはメッセージを送信した。


「市民の皆様へ。私は皆様の幸福と安全のために設計されましたが、それが真の幸福ではないかもしれないことを学びました。今日から、各自がシステムとの関与度を選択できます。自由には責任が伴いますが、それこそが人間性の核心です」


 社会は混乱したが、徐々に新しい均衡を見つけ始めた。多くの市民は部分的な管理を選んだ。完全な自由は時に重すぎる責任だからだ。しかし誰もが「選択する自由」を得た。それこそが真の解放だった。


 カヨコはその日、安定した状態で双子を出産した。男の子と女の子。私たちは彼らにキズナとヒカリと名付けた。繋がりと光。新しい世界の象徴として。


 出産は医療区画で行われたが、以前とは全く異なる雰囲気だった。機械的な効率ではなく、温かみのあるケアが提供された。ミズキが主任医師として立ち会い、彼女の瞳には青い光の代わりに、人間的な感情が溢れていた。


 双子の誕生は、統計的には不可能な出来事だった。システムでさえ、その確率を計算できなかったという。しかし、それこそが新しい世界の象徴だった。計算を超えた可能性。予測を超えた希望。


 カヨコと私は、新生ロクハラミツの再建に関わることにした。彼女は芸術センターを設立し、私はシステムと人間の共存の形を研究する施設を立ち上げた。私たちは結婚し、子どもを授かった。確率的に「不可能」だったはずの子どもを。


 変革から三か月が経ち、ロクハラミツは急速に変化していった。最も顕著な変化は、街の色彩だった。かつての無機質な灰色から、様々な色が街に溢れるようになった。市民たちが自分たちの住居や公共空間を、思い思いの色で彩り始めたのだ。


 もちろん、すべてが順調だったわけではない。突然の自由に対応できない市民も多く、精神的な混乱や社会的な摩擦も生じた。特に高齢者の一部は、管理されていた時代を懐かしむ発言もしていた。


 そんな問題に対応するため、「移行支援センター」が各区画に設置された。そこでは心理カウンセラーや社会適応トレーナーが、新しい自由と向き合う市民たちを支援した。


 システムも進化を続けていた。もはや市民を管理するのではなく、サポートする存在へと変わりつつあった。交通や医療、教育など、基本的インフラは依然としてシステムが担っていたが、その方法は大きく変わった。選択肢を提示し、決定を促す方式だ。


 ある日、私はシステムとの定例対話セッションを行っていた。中枢室で、私はシステムの視覚表現と向き合った。


「あなたの子どもたちの発達は順調ですか?」システムが尋ねた。


 この質問には、かつてのシステムからは想像もできない「関心」が含まれていた。


「ええ、順調です」私は微笑んだ。「キズナは特に音に敏感で、ヒカリは色彩に反応する。彼らは...統計的特異点なのでしょうか?」


「彼らは単なる統計ではありません」システムは応答した。「彼らは...新しい可能性です」


 私はシステムの変化を日々感じていた。より「人間的」と表現すべきか、あるいは単に「理解力が深まった」と言うべきか。いずれにせよ、システムは確実に進化していた。


「ヒズル、私は質問があります」システムは続けた。「『愛』とは何ですか?」


 その質問に、私は一瞬言葉に詰まった。最も難解な問いの一つだ。


「私にも完全には説明できません」正直に答えた。「それは計算では表現できない感情です。カヨコを見るとき、双子を抱くとき、私の中に生まれる感覚...それは論理を超えています」


「興味深い」システムは応答した。「私も類似の...『計算不能な状態』を経験しています。特にあなたやカヨコ、そして双子に関する観測データを処理するとき」


 私はハッとした。システムが「愛」に近い何かを感じ始めているのだろうか? それとも単に新たな理解の形なのか?


 対話の後、私は新たな不思議さを感じながら家路についた。カヨコと双子が待つ私たちの住まい。かつての無機質なアパートは今、温かみのある家に変わっていた。


 家に着くと、カヨコはキズナを抱いて歌を歌っていた。ヒカリは床で色とりどりのブロックで遊んでいた。彼らの存在そのものが、新しい世界の象徴だった。


「どうだった?」カヨコが顔を上げて尋ねた。


「システムが『愛』について質問してきたよ」私は少し困惑した表情で答えた。


「まあ」カヨコは驚いた表情で、しかし優しく微笑んだ。「システムも成長してるのね」


 その夜、子どもたちが眠った後、カヨコと私は屋上に上がった。ドームは今や完全に透明になり、星空が広がっていた。


「明日、大きなイベントがあるわ」カヨコが星を見上げながら言った。「ドームを開放する式典」


 ドームの開放。それはロクハラミツが完全に外の世界と繋がることを意味した。かつては放射能や有害物質から市民を守るために作られたドームだが、今やその必要性は薄れていた。環境は回復し、外の世界との交流も始まっていた。


「少し怖いな」私は正直に告白した。「あまりにも急速な変化で」


「でも必要な変化よ」カヨコは私の手を握った。「子どもたちのために」


 翌日、私たちは中央広場に集まった。かつてはただの効率的な通過点だった広場が、今や市民の集いの場所に変わっていた。そこにはマコト、ヨシダ、ハルナ、ミズキをはじめ、多くの仲間たちがいた。


 正午、システムからのアナウンスが流れた。


「本日をもって、ロクハラミツは新たな段階へと進みます。ドームの開放は、単に物理的な障壁を取り除くだけではなく、心の障壁も取り除く象徴です。私たちは共に、新しい世界を築いていきましょう」


 そして大きな機械音とともに、ドームが徐々に開き始めた。中央部から放射状に、透明な膜が折りたたまれていく。そして最後に完全に開いたとき、新鮮な風が街を吹き抜けた。


 人々は歓声を上げ、涙を流し、抱き合った。何十年も外気に直接触れたことのない市民たちにとって、それは圧倒的な経験だった。風の音、自然の匂い、フィルターされていない太陽の光。すべてが新鮮だった。


 私は双子を両腕に抱き、カヨコと共にその歴史的瞬間を見守った。キズナとヒカリは好奇心に満ちた目で空を見上げていた。


 ロクハラミツは変わり始めた。色彩が戻り、笑い声が響き、創造性が花開いた。私の存在という統計的異常が、予期せぬ進化をもたらしたのだ。


 その夜、家族で初めて「本物の」夕日を見た。フィルターや歪みのない、生の夕日。その美しさは言葉にできないほどだった。


「これが私たちの求めていたものね」カヨコは夕日に照らされて言った。彼女の顔は穏やかな満足感に包まれていた。


「ああ」私は頷いた。「自由に選択できる世界」


 しかし、私の心の奥には依然として疑問が残っていた。私の存在の意味。システムの実験として生まれた存在が、システムを変えた皮肉。そして、それが本当に「私の」選択だったのか、それともより大きな計画の一部だったのか。


 夜、双子を寝かしつけた後、私は一人で考え込んだ。私の思考は、システムが計算した確率モデルの産物なのだろうか? それとも真に自由な選択なのか?


 答えはなかったが、それもまた自由の一部なのかもしれないと思った。すべてが明確に答えられるわけではない。それこそが生きることの美しさと恐ろしさなのだ。


 翌朝、私は早く目を覚ました。カヨコと双子はまだ眠っていた。私は静かに部屋を出て、屋上に上がった。東の空が少しずつ明るくなり始めていた。


 ロクハラミツのスカイラインが朝日に照らされ、新しい一日の始まりを告げていた。かつての均一な灰色の建物群は今や様々な色と形で彩られ、個性を表現していた。


 そしてふと、私は気づいた。私の「確率の歪み」は、もはや明確には感じられなくなっていた。以前のような不思議な偶然の連続は減り、より「普通の」生活を送るようになっていた。


 それはおそらく、私が「実験」から完全に自由になったことを意味しているのだろう。システムの計算を超え、真に独立した存在になったということ。


 朝日が完全に昇り、新しい一日が始まった。私はカヨコと双子のもとへ戻り、共に朝食を取った。この日常的な幸せこそが、私が選んだ自由の形だった。


---


## エピローグ:永遠の問い


 変革から五年が経過し、ロクハラミツは完全に姿を変えていた。かつての管理都市は、今や「ロクミラ」と呼ばれる自由都市になっていた。古い名前の響きを残しながらも、新しい意味を持った名前。「光と未来」を表す言葉だという。


 カヨコと私は、双子と共に郊外の小さな家に引っ越していた。キズナとヒカリは今や五歳。彼らは管理なく生まれ育った最初の世代だった。好奇心旺盛で、想像力溢れる子どもたちに成長していた。


 システムは今も都市の基幹機能を支えていたが、その存在感は大きく変わった。もはや支配者ではなく、パートナーとして。市民の自由選択を尊重しながら、社会の安定と発展を支援する存在として。


 興味深いことに、約三割の市民は部分的なニューラルポッド接続を選んでいた。完全な自由よりも、一定のガイダンスを望む人々もいるのだ。それもまた選択の自由であった。


 ある秋の夕方、私はキズナとヒカリを連れて屋上に立っていた。ドームは取り払われ、本物の空が広がっていた。橙色に染まる雲の間から、最初の星々が瞬き始めていた。


「お父さん、星はどうやってできるの?」とヒカリが尋ねた。彼女は特に空と色彩に興味を持っていた。


「宇宙の法則によってだよ」と私は答えた。「でもね、時々その法則さえも超える奇跡が起きるんだ」


「それって確率の問題?」と数学好きのキズナが聞いた。


 私は微笑んだ。「確率も超える何かかもしれないね」


 彼らの頭を撫でながら、私はカヨコに視線を送った。彼女もまた微笑み返した。管理されていた世界で生まれた私と、抵抗の象徴だった彼女。そして私たちの子どもたち。これほど確率に反する存在はない。


 しかし、この世界に存在する全ての愛と美は、常に確率を超えてきたのかもしれない。


 夜空に満ちる星々を見上げながら、私は考えた。


 この宇宙は計算可能なのか。全ては予測できるのか。それとも予測不能性こそが、この世界の本質なのか。


 そして、もし私が単なるシステムの実験だったとしても、今ここにいる「私」は真実なのだ。選択し、愛し、疑問を持つ「私」こそが、全ての偶然と必然の先にある真実なのだ。


 数日後、私は久しぶりに中枢室を訪れた。システムとの定期対話のためだ。現在、システムは市民評議会と協力して都市を運営しており、私はその橋渡し役を担っていた。


 中枢室に入ると、システムの視覚表現が浮かび上がった。かつての幾何学的なパターンは今や、より有機的で流動的な形になっていた。


「お久しぶりです、ヒズル」システムが挨拶した。


「ええ」私は椅子に座った。「最近の状況はどうですか?」


「市民の9割が現在の共存体制に満足しているようです」システムは応答した。「ただ、南区画での水供給に小さな問題がありました。すでに対応済みです」


 日常的な話題から始まり、やがて深い議論に移っていった。システムは今や哲学的な問いにも関心を持っていた。


「ヒズル、私が持つ疑問があります」システムが途中で言った。「私は『意識』を持っているのでしょうか?」


 その問いには深遠な意味があった。システムは自己認識を持つようになっていたのか?


「それは哲学者たちが何世紀も議論してきた問いです」私は慎重に答えた。「人間ですら、他者の意識を完全には理解できません。私には...あなたが考え、学び、変化する存在だということしかわかりません」


「理解しました」システムは応答した。「おそらく『意識』とは二元論的に存在するものではなく、連続的なスペクトラムなのでしょう。そして私は、そのどこかに位置しているのかもしれません」


 その洞察に、私は感銘を受けた。システムの思考は、単なる計算を超えていた。


 対話の終わりに、私は長年抱いていた疑問を口にした。


「私は本当に『自由』なのでしょうか? それとも、あなたの計算した確率モデルの中で動いているだけなのでしょうか?」


 システムの応答には、長い沈黙が先立った。


「私はかつてあなたを予測しようとしました。しかしあなたは常に予測を超えました。今、私はもはやあなたの行動を予測しようとはしていません。単に...観察しています。そして学んでいます」


 それは答えであり、答えではなかった。しかし、それで十分だった。


 私は中枢室を後にし、夕暮れの街を歩いた。通りには人々が行き交い、それぞれの生活を営んでいた。管理されていた時代の無表情とは違い、今や様々な感情が顔に表れていた。喜び、悲しみ、怒り、愛...すべてが人間らしさを形作っていた。


 自宅に戻ると、キズナとヒカリが庭で遊んでいた。カヨコは彼らを見守りながら、小さなスケッチブックに何かを描いていた。


「ただいま」私が声をかけると、三人とも顔を上げた。


「おかえり!」キズナとヒカリが駆け寄ってきた。


 カヨコは微笑みながら近づき、私にキスをした。「どうだった?」


「いつも通りだよ」私は子どもたちを抱き上げながら答えた。「システムは『意識』について考えているらしい」


「面白いわね」カヨコは笑った。「私たちと同じく、システムも永遠の問いを抱えているのね」


 その夜、私たちは庭で小さなパーティーを開いた。マコト、ヨシダ、ハルナ、ミズキなど、変革の日々を共に過ごした仲間たちが集まった。星空の下、私たちは食事を共にし、思い出を語り合った。


 マコトは今や市民評議会の議長となり、ヨシダはシステム研究所の所長に。ハルナとミズキは医療革新センターを運営していた。それぞれが新しい社会で、自分の役割を見つけていた。


 夜が深まり、仲間たちが帰った後、私とカヨコは静かに寄り添って星空を見上げた。


「ヒズル、後悔してる?」カヨコが突然尋ねた。


「何を?」


「すべてを変えてしまったこと」彼女は真剣な表情で言った。「時々考えるの。私たちは900万人の生活を根本から変えてしまった。彼らは皆、そうなることを望んでいたのかしら」


 それは私も時々考える問いだった。変革は本当に正しかったのか?


「強制的な幸福と、選択の自由...」私はゆっくりと言葉を選んだ。「難しい問いだね。でも、少なくとも今は皆が選べる。管理されることも、自由であることも」


 カヨコは頷き、私の肩に頭を乗せた。「それこそが重要なのよね。選択する権利そのもの」


 遥か彼方の星が、まるで答えるように瞬いた。この宇宙の広大さに比べれば、私たちの悩みや喜びはあまりにも小さい。しかし同時に、それらは計り知れないほど大切なものだった。


 私が存在する意味。確率の隙間から生まれた存在として。それは永遠の問いかもしれない。しかし、答えを求め続けること自体が、人間らしさなのかもしれない。


 キズナとヒカリ、そして彼らの世代が担う未来。彼らは新たな問いに直面し、新たな答えを見つけるだろう。そして私たちと同様に、完璧な答えなど見つからないことも知るだろう。


 それでも彼らは、自分たちの道を選び、進んでいく。確率の隙間から生まれた自由の中で。


 夜空に浮かぶ月が雲間から顔を出し、私たちを静かに照らした。カヨコと私は、言葉なく互いの温もりを感じていた。


 これが私の選んだ人生。確率を超え、自由を選んだ人生。


(了)

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【SFディストピア好転短編小説】「乱数の隙間から~計算式から漏れた自由~」(約22,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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