金色のトランペット
色街アゲハ
金色のトランペット
‶誰も僕の前を歩いてくれない。
誰も僕の上を飛んでくれない。
何時だって僕の見たい物、知りたい事、欲しい物は何処にも無くて。
だから、今日も僕は此の未踏の地で、一人自分の足と手で未知の宝を探り続ける。″
例えば、電車の中でぼんやり窓から外の景色を眺めている時、
例えば、寝転がってはみた物の、なかなか寝付けずに取り留めの無い考えにのめり込んでしまう時、
例えば、何も考えず、ただ空に浮かぶ雲の流れを目で追いかけている時、
そんな時、何やら頭の隅にフッと、見た事も無い映像、読んだ事も聞いた事も無い話の筋、そう云った物が不意に浮かんで来て、何故かそれが何時まで経っても頭から離れてくれない。そんな経験ありませんか? 自分はあります。と云うかしょっちゅうです。
始めは、それ等をどのように表現して良いか分からずに色々と試行錯誤した物です。
机の前にじっと座ったまま、息を詰めて、頭に浮かぶ未だ形にならないそれ等を手繰り寄せようと、呼吸をゆっくり合わせる様に息を潜めて、そのまま何時間も、それが意に適った言葉になって出て来るまで微動だにせずにいた物でした。まるで、それ等が空気の中に実際にフヨフヨと漂ってでもいるとでも云うかの様に。そうする事で、まるでそれ等に肉薄する事が出来るとでも云う様に。
兎にも角にも、それが自分にとっての創作の走りだったと思います。そうして出て来た物は、凡そ文章とはとても言い難い言葉の断片でした。詩? 敢えて言えばそうかも知れません。しかしながら、そう呼ぶにも余りにも読み手を想定していない唐突に過ぎる表現。書いた本人にしか伝わらない、正しく断片と呼ぶより他にない代物でした。読み手を想定していない? それも当然の話で、当時はただただ自分の見た(感じた?)イメージを如何に言葉にして表わすか、それだけしか頭に無かったのですから、誰かに読まれるなんて発想自体が無かったのです。そうする事で、自分の中に在る、或いは、自分の周りを漂っている朧げな何かに”形”を与えている様な、そうする事で、それ等をこの世に現出せしめている様な、そんな気分に浸っていたのかも知れません。
‶真昼の喧騒が途切れた刹那、銀色の手摺りや床板の上を駆け抜けて行った金色の猫″
どうしてそんな事に夢中になっていたのか、そんな意固地になってまで、そうする事に血道を上げていたのか。けれども、寧ろどうして今までそうしなかったのか、そちらの方が自分にとって意外な事でした。それまで、何か面白い物、自分が夢中になれるものを求めて、様々な事に手を出して、その度にどうしても乗り切れない感覚を覚えて、或いはどうしても物にならない自分の”鈍さ”に嫌気がさして、手を出す端から止めてしまった自分であるのに。その度に、自分が如何に平凡な人間であるかを否応なく実感させられて、気落ちするのが常であったと云うのに。
今にして思うと、躊躇いの様な物があったのかも知れません。そう自分が感じているだけで、実際は何処にも存在しない、ある筈の無い物に目を向ける事への躊躇いが。そこから目を背けて、既にある様々な物に夢中になっている”ふり”をして、誰かとの繋がりを保っておきたかった。自分の周りの人達から注目されたい、賞賛されたい、自分はちょっとしたものだ、と、そういう風に見られたいと、心の何処かでそう望んでいたのかも知れません。別に悪い事じゃあない、むしろ普通に生きていれば誰しも一度は覚える感情で。しかし、皮肉な事です、その望みが、誰かと繋がりを持っていたいと云うその願望が、何処まで行っても平凡でしかない自分であり続ける原因であったのですから。残念ながら、自分はそう云った、皆の中で既に承知の事柄の中で己を発揮出来る人間ではなかった様です(後年、その傾向も若干緩和され、幾分自分を押し出すと云った事が出来る様になって行きますが、あくまでもそれは後になっての話。当時は、特に秀でた所の無い、ただの目立ちたがりな、所謂”普通”の人間でしかありませんでした)。
その事は、割と早い時期に自覚させられていた様でした。ほら、クラスの中に必ず一人か二人居たでしょう。特に勉強が出来る訳でも無く、運動が得意と云う訳でも無い。けれども、皆に混ざってくだらない会話に興じている時、思わずハッとする様な、或るいは、思わずゲラゲラと笑い転げる様な、そんな一言をパッとノータイムで繰り出す事の出来る、そんな友人が。
運動の出来る子、勉強の出来る子、他にも秀でた所のある子は沢山居た。けれどもそれ等に増して何よりも自分には彼等の存在が眩しく映ったのでした。どうしてあんな気の利いた言葉がパッと即座に出て来るんだろう。その瞬間、ダラダラと続く日常にパッと眩しい光が射しこんだ様な、世界がガラッと変わってしまった様な、そんな感覚すら覚えて、自分は羨む事も忘れて、ただただ彼等の言葉の眩さに目を細めながらも見入る事しか出来なかったのです。
きっとその事がずっと頭の片隅に残っていたのでしょう。自分では忘れてしまったつもりでも、あの時自分の目に焼き付いた眩い言葉の数々が、何時までも瞼の裏に残り続けて、その後自然と言葉の世界に足を踏み入れて行く原因になっていた? 何気ない会話の中にポンと放り込まれた言葉が、見る物感じる物をガラリと変えてしまうその力に、何時しか魅入られていたのかも知れません。自分ではどうあっても届かない、煌めく言葉の数々に。例えるなら、ショーウィンドーの向こう側に陳列された、キラキラに輝くトランペットを物欲しそうに眺める子供と云った所でしょうか。
だからこそ、漸く見つけた自分だけの言葉の世界にあれだけ没頭したのでしょう。しかし、それは嘗て見た様な当意即妙と云った類の物ではなく、じっくりと腰を据えて、自分でも呆れるほどの時間を掛けて取り組まなければ得られない物でした。
しかし、これは今こうして書いている内に思い当たった事ですが、これは自分の性分と云うか、好きな物、魅せられた物にはじっくりと時間を掛けて、何度も何度も味わって、それこそそれ等が自分の身体にゆっくり消化されて行く様な、そんな感覚を味わいたいと云う、そんな自分の持つ傾向を如実に表していたのだと思います。昔から自分の事を、何をするにしてもトロ臭くて、察しが悪くて、人の何倍も時間が掛かる、そんな自分を嘗ては随分疎ましく思い、卑下した物ですが、翻って考えるに、好きな物、事にじっくり付き合いたい、出来るだけ時間を共にしたいと考えるのは寧ろ当然の欲求じゃないか、と思えて、何だかそんな自分を今になって受け入れられそうな、そんな気になって来るのです。もしこれを読んでいる皆さんの中で、自分と同じ悩みを抱えている方がいらっしゃったら、一度でも良い、思い切り自分の好きな事に時間を割いて向き合ってみるのも良いかも知れません。と、話が逸れましたね。まあ、それはそれとして……、
そうして出来上がった言葉の断片が、少しずつですがそれなりの数になって行ったある時の事です。それ等をぼんやりと読み返していて、ふと、そうした断片の幾つかが互いに結び付く様な気がしました。”もしかして、こんな風に繋ぎ合わせて行く事で、何らかの形になるかも知れない。”そう思って、この言葉のパッチワークに没頭し、そうして出来上がった物を見て、今まで自分の追って来た数々の”消息”が、或る方向を向いて動き出す様に思えて来て、驚いた記憶があります。それ迄ただそこにあるだけだった断片が、俄かに繋がって、それが何処から来て何処に向かおうとしているのか、朧気ながら垣間見える様な気がして、何時しか自分が未知の、それでいて何処か懐かしい、そんな場所に佇んでいる様な、そんな感覚に捉われているのでした。何処か懐かしい、それもその筈、それは自分がほんの幼い頃から憶えていたある種の感覚だったのですから。
ふとした折に足を止め、辺りを見回して、不意に覚える感覚。切れ目なく広がる空の下、吊り下がった様に覚束ない地面の上を歩く自分が、息衝き、意思を持ってあれこれと考えている事が、何だか殆ど奇跡の様に感じられて、それ迄慣れ親しんでいた世界が急に見知らぬ何かに擦り替わってしまった様な、そんな不安にも似た気分になる時がしばしばありましたが、その時自分は居ながらにして全く違う世界に迷い込んでいたのでしょう。
繋ぎ合わされた断片の中から朧気に浮かび上がって来た、お話になる以前の文章。それはそんな世界の事を綴った報告書の様に自分には思えたのでした。
なる程だから、と今更ながら納得している自分が居ます。以前より自分は所謂小説と云う物を書いている意識が低い、と云う感覚を抱いていましたが、確かにこれは小説と言える物ではないですね。小説とは違う何か別の物です。
何時か知り合いの一人が、自分の書いた物を読んで、「何でこんな事を思い付くのか」と、心底不思議そうな目で見られた事が有りましたが、多分褒めてくれたのだろうけど、自分としては返答に困った記憶があります。
思い付いた、という意識はさらさらなく、実際に目で見、感じた事をそのまま書いたという感覚でいたのですから。そして、誰に責められた訳でもないのに、何だかズルをした様な引け目を感じて、いや、もしかしたら、自分が忘れているだけで、前に読んだ物の中か、或いは誰かが言った言葉をそのまま書いているだけなのではないか、という不安に駆られて、暫くの間そわそわと過去に読んだ本をあさったり、記憶を掘り起こしたりと落ち着かない気分だったのを覚えています。結局、まあ当たり前の話ですが、それに類する種類のものは何一つ出て来ず、しかし、それでも幾許か”何処からか盗み見た物ではないか”と云う不安は残り続けたのですけども。それも、ある時自分の書いた物は、決して思い付いたのではなく、”見出した物”であると気付いて、その不安から解放される事に成るのですが、それも後になってから。当時はどうにも自分が信じられず、かと言って書く事を止められず、色々と不安に苛まれる日々を送っていたのでした。
こうして振り返ってみるに、この頃大分情緒がおかしくなっていたのだと思います。自分の書く世界と現実の世界との境目がふとした折に曖昧になって、地に足が着いているのに、感覚的にほんの少し浮いている様な気がして、自分でも”あ、不味い”となった時すらありました。明らかにのめり込み過ぎていました。しかし、のめり込まなければ辿り着く事が出来ない。不意に現れた、次の瞬間には揮発して無くなってしまうその場限りのイメージの、先の先の、そのまた先の、行き着く果てに迄辿り着く事が出来ない。頭から毛布を被り、カーテンを閉め切って、外からの気配をすっかり締め出して、目を固く閉じて今にも切れそうなイメージの糸を伝って行き、そのイメージの源泉にまで遡ろうとする。或いは、現われたイメージの、その最終的に齎す世界の、その全体像を必死になって見極めようとする。そこまで言って初めて”見た”と言えるのであって、中途半端な生温い雰囲気だけのファンタジーなどに用は無い、と、半ば意固地になっていたのですから、これは遅かれ早かれおかしくなって当然と云えば当然の話でした。
しかし、それでも、「この侭では、決定的におかしくなってしまうのではないか。」という自分の心配(或いは期待?)に反して、そうなる事は決してありませんでした。
それと云うのも、ここに至って、それ迄散々自分を悩ませて来た、自分の内に根強く巣食った普通、平凡、常識、それ等がその度に自分を元の場所に連れ戻したからなのです。どんな突飛な空想が自分をこの世から引き剥がして連れ去ってしまおうとしても、常識という名の重力が、自分を何度でもこの地へ引き寄せ、そうして自分は何度でも普通、平凡な、何処にでも居るありきたりな自分と云う物に立ち返る事が出来るのでした。
もしかしたら、それ迄自分を苛んで来たこの平凡な自分と云う物は、こうしてなにかと外の世界へと逸れて行ってしまいがちの自分を、元居た所へ戻してくれる、その為にゆっくり時間をかけて自分の内に醸成されて行ったのではないか、と、些か出来過ぎな事を考えてしまう程に、何度となく自分を窮地から救ってくれたのでした。
ですから、もし、自身の内にどうあっても拭えない平凡さ、常識的な思考、そう云った物に嫌気がさし、悩んでいる人が居るとしたら、それは何時かそう云った物から大きく逸脱した世界に直面する事になった時(遅かれ早かれそう云った時は必ず来ます)、そう云った物からその人を守る最後の防波堤となる事でしょう。「扉の向こうへ」「壁を突き破れ」そう言った言葉が人々の間、特に若い人たちの間でまことしやかに囁かれ、夢中にさせている事は何時の時代も一緒ですが、例え一時であっても本当に扉の向こうの世界を垣間見ることになった人間程、自身の内にある常識的な部分に有難みを感じている物です。扉の向こう側から、或いは突き破った壁の向かう側から、絶えず伸びて自分を連れ去ってしまおうとする”手”を払い除け、守ってくれたのは何時だって自身の内にある”普通である事”だったのですから。
ですから、一時期自分が書けなくなったのは別の理由が原因でした。単に文章力の問題です。見た物、感じた物、それ等を文章にする処までは行けた。けれども、そこから先、それ等を背景に物語としてまとめ上げる事、それ等のもたらす世界の、その行き着く果て、それ等を理屈として文章に、形として表すには自分には余りに手段が無さ過ぎた。頭の中では朧気にこうなる、と云う過程が見えるものの、いざそれを文章として形にするとなると手が止まり途方に暮れて、どうしてもそれ以上進めなくなってしまうのでした。やっぱり自分には無理だったのか、自分の手には余る世界だったのか、これ以上進めずに自分の垣間見た世界はここで潰えてしまうのか。誰かに託す事も出来ません。自分の書いている事考えている事が余りに他から孤立した、極めて個人的な妄想である為に、誰かに説明しようにもまずその為の言葉が出て来ない。当然理解もされない。正に進退窮まると云った事態になるに至って、とうとう自分は一旦全てを放り出さずにいられませんでした。真っ白な紙を前にして、書く事は山ほどあると云うのに、その為の一言だって出て来やしない。終いにはそうする事すら嫌になり、遠ざけて全部忘れてしまおうと目を逸らして他の事に目を向けようと意識して。
けれども一度掘り当てた創造の泉は決して枯れる事無く、後から後から湧いてきて、頻りに自分をせっつくのでした。それに対して自分は、「分かってるって、何時か、何時か書くから。」と、誰に対してしているのか分からない言い訳をしながら、徒に時を遣り過ごそうとするのでした。何時かなんて来るかも分からない、そもそも書く必要なんて有るのだろうか、自分だけが分かっていればそれで良いじゃないか、そう自分に言い聞かせて。
正直、その何時かが実際に来るなんて、全く考えていませんでした。けれども、そんな自分の考えとは全く別に、自分の中の何かはその時が来るのを今か今かと覗っていた。
これは自分でも説明が出来ないのですが、不意にある時”何だか出来そうな気がする”と云う感覚に見舞われる時があって、で、実際に取り掛かってみると本当に出来てしまう、そんな時があるのです。この時もそうでした。ぼんやりと夜空を眺めていて、都会の明るい光の中、辛うじてチラチラと見える星を何となく目で追っている内に、ふと、”何だか分からないけど、今ならいけそうな気がする”と、妙な想いが湧き上がって来て、早速近場のコンビニで小さいリングノートを買ってきて(割と自分は形から入るタイプなのです)、思い付くままに書き記そうとして、そこでハタ、と手が止まる。どうにも頭の中の言葉と、実際の手の動きが上手く噛み合わなくて、字として紙に記される頃には、頭の中の言葉が蒸発してしまい、思う様に進む事が出来ない。
非常に感覚的な説明で申し訳ないのですが、どうやらこれは自分の筆圧が原因だったのだと思います。自分が字を書く時は、紙が破れるのではないかと云う位に強い力で書くか、あるいはその反対に殆ど触れるか触れないかの弱い筆圧で書くかのどちらかなのですが、この際必要なのは後者の弱い筆圧の方だと思われました。頭に浮かんだ言葉を即座に書き写すには、字を書くという感覚を極限まで薄めた動きが要求される様に、その時の自分には思えたのです。その時の手持ちの筆記用具は、シャープペンシルかボールペン。それ等が悪いわけではないですが、どちらも字を書くにはある程度の筆圧が必要になり、それがどうしてもタイムラグの原因となり、目的には合致しない。となると、筆か? いやいや、麻呂は平安貴族ではおじゃらぬゆえ、使いこなすイメージが湧かないでおじゃるよ。
思い悩んだ末に、当時訳有って築地に住んでいた自分は、テクテク歩いて銀座の某文房具店を訪ね、
「かような訳で、何ぞ手頃な道具は無いでおじゃるかのう?」などと、非常に感覚的で分かりにくい問いに、若干引き攣った笑みを浮かべながらも応対してくれた店員さんには感謝の言葉しかありません。
「それでしたら、万年筆など如何でしょうか? ペンとしての使い心地で、加えてペンの重みだけで字を書けるので、非常にお手頃かと……。」
フム、万年筆とな? 某、清貧を旨とする浪人故に、その様なハイソな物はとてもとても……、
「いえいえ~、最近は非常にお手頃な物もございまして、例えばこのスケルトンのボディーの物など……、」
バッカ! 万年筆つったら、黒のボディーに金のペン先ダルォオオオオ!?
店員さんの誘導が上手かったのか、単に自分が乗せられやすい性格だったのか、多分その両方でしょうが、気付いたら明らかに身の丈に合わぬ買い物をしていた自分。ま、まあ、きちんと使えば一生ものだし、何より今まで頑張って来た自分へのご褒美()と思えば、何とか納得できる気がしないでもない、きっと多分。
で、そんなこんなで使い始めた万年筆ですが、始めの頃こそ慣れない感触に戸惑いはしたものの、徐々に手に馴染むにつれ、自分でも驚く位スラスラと言葉が溢れて来て、時には考えるよりも先に手が動いて言葉が綴られる瞬間などがあったりして、それはそれ迄の時を埋めようとするかの様で、何だか今迄に溜め込んだ”宿題”を消化して行っているみたいな、そんな感覚に捉われて、非常に感慨深い思いに捉われるのでした。
そうこうする内にノートは四五冊と溜まって行き、ある時ふと、
「これ、何処かで公開できないかな。」
という考えが頭を過り、そんな経緯でこのカクヨムという場を借りて自作を公開させて頂いている次第なのです。
振り返ってみるに、此処に至って漸く、年少の頃のあのクラスメイト達に僅かだけれども追い付けたのかな、という思いがあります。あの頃に見て目を奪われたまま、その光に照らし出された中を歩み続けて、漸く此処まで来れた。
けれども、何処か満たされずにいる自分が居ます。書き上げる度に、
「フッ、また一つ勝利を収めてしまった。敗北を知りたい……。」
などと、何に対しての勝利か自分でも分からないまま満足しているのに、その一方で何処か物足りない物を感じているのもまた事実で……。
もしかしたら、未だ自分は求めている答えに辿り着いていないのかも知れません。未だ自分はその求める”答え”が一体何なのか分からないまま、物欲しそうな顔でショーウインドウの向こう側、キラキラに輝く金色のトランペットを眺めている、あの頃の自分のままなのかも知れません。
何時かこの手がショーウィンドウの向こう側に届いて、手にしたトランペットを高らかに、プァーと吹き鳴らす事が出来たその時こそ、漸く求めた答えに辿り着く事が出来るのかも知れません。
果たして、そんな時は訪れるのかしら?
いや、きっと訪れるさ。
そう思って、今日に至る迄自分は書き続けているのです。何時か求める答えに辿り着けるその時がこの身に訪れる事を願って。
終
金色のトランペット 色街アゲハ @iromatiageha
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