エピローグ

●おわりに


 太田千代子さんの声を録音し、それを書き起こし、一冊の本にまとめる過程は、私自身にとっても深い学びの旅だった。


 初めて千代子さんの部屋を訪れた日、私は単に「高齢者の話を聞く」という職務以上のものを期待していなかった。しかし、彼女の語りに耳を傾けるうちに、私の歴史観、人生観、そして老いと死に対する考え方までもが変容していった。


 大学で日本近現代史を専攻した私は、教科書や資料から多くのことを学んだつもりでいた。だが千代子さんの語りは、教科書に書かれた「客観的事実」とは全く異なる生きた歴史を伝えてくれた。関東大震災、太平洋戦争、高度経済成長期……これらは単なる歴史的出来事ではなく、一人の女性の人生の一部として描かれていた。


 最も印象的だったのは、千代子さんが百年以上の時間を俯瞰して見る視点だった。彼女の語りの中には、時代の変遷を超えた「人間の普遍性」への洞察があった。技術は進化し、社会構造は変わっても、人間の基本的な喜びや悲しみ、愛や希望は変わらないという深い理解。それは長い時間を生きた人だからこそ持ち得る視点だろう。


 千代子さんと田中正雄さんの九十五年越しの再会と愛の物語は、私が想像し得る最も美しい「歴史の偶然」だった。二人の静かな愛は、若い恋人たちの情熱的な愛とは質的に異なる、時間によって証明された深い絆を感じさせた。百十歳の春に咲いた愛は、人生において「遅すぎる」ということがないという希望のメッセージを私たちに伝えている。


 本書をまとめながら、私は「歴史」という概念そのものを再考するようになった。歴史とは単なる過去の出来事の記録ではなく、無数の個人の物語の集積なのだ。そしてその物語は、次の世代に語り継がれることで、現在と未来を形作っていく。


 千代子さんの語りを聞くことができたのは、私の人生における大きな幸運だった。彼女の言葉の中には、百年以上の時を生きた知恵と、四つの時代を跨いだ記憶が詰まっている。本書がその知恵の一部でも伝えることができたなら、編者としてこれ以上の喜びはない。


 最後に、本書のインタビューに快く応じてくださった太田千代子さんと、その家族の皆様に心からの感謝を申し上げたい。また、千代子さんと田中正雄さんの九十五年越しの再会を見守り、支えてくださった陽だまりの丘介護施設のスタッフの皆様にも感謝の意を表したい。


 千代子さんの言葉が、時代を超えて多くの人々の心に届くことを願って。


藤原誠



●付録:太田千代子さんの年表


明治45年(1912年):横浜市に生まれる

大正12年(1923年):関東大震災を経験、仙台へ避難

昭和10年(1935年):太田喜一と結婚

昭和12年(1937年):長男・正彦誕生

昭和14年(1939年):次男・智明誕生

昭和16年(1941年):娘・花子誕生

昭和17年(1942年):夫・喜一が出征

昭和20年(1945年):終戦、喜一帰還

昭和39年(1964年):東京オリンピックを家族で観戦

昭和45年(1970年):夫・喜一が脳卒中で倒れる

昭和55年(1980年):夫・喜一死去(68歳)

平成元年(1989年):昭和から平成へ

平成28年(2016年):百歳を迎える

令和元年(2019年):平成から令和へ

令和3年(2021年):田中正雄さんと九十五年ぶりに再会(百十歳)

令和3年(2021年):田中正雄さん死去(百十二歳)

令和4年(2022年):千代子さん死去(百十一歳)



●写真資料


1. 大正時代の千代子さん(15歳頃)――横浜市立第一高等女学校の制服姿

2. 昭和10年、結婚式の日の千代子さんと喜一さん

3. 昭和16年、三人の子供たちと千代子さん

4. 昭和39年、東京オリンピック観戦時の家族写真

5. 平成28年、百歳の誕生日を祝う家族写真

6. 令和3年、桜の木の下で撮影された千代子さんと田中正雄さん

7. 「千代子桜」と「正雄桜」が植えられた施設の庭



●謝辞


本書の編纂にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。


太田家の皆様、特に長女・花子様には貴重な写真資料や補足情報をご提供いただきました。


田中正雄さんのご家族、特に長女・みどり様には、父上の思い出や千代子さんとの再会についての証言をお寄せいただきました。


陽だまりの丘介護施設の近藤雅子施設長をはじめとするスタッフの皆様には、インタビュー環境の調整や、千代子さんと正雄さんの日常生活についての情報提供など、多大なるご支援をいただきました。


また、千代子さんの語りの歴史的背景の検証にご協力いただいた〇〇大学歴史学部の△△教授にも深く感謝申し上げます。


最後に、本書の出版を支援してくださった××出版社の皆様に心より御礼申し上げます。


藤原誠



本書に収録された太田千代子さんの証言は私が個人的に録音したものです。個人情報保護の観点から、一部の固有名詞や細部を修正している箇所がありますが、語りの本質は忠実に再現するよう努めました。

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【百歳超恋愛短編小説】九十五年目の桜・もうひとつの物語 ~ある介護士の記録~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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