バラより厚く
ファラ崎士元
バラより厚く
黒松の間から見える、海と空の青。
今この時にしか映らない、青の流動。
それらはサナの幼い感傷を包みこみ、白い波のかなたへ洗い流してくれる。
だから心に刻まれる、その一瞬を描きたかった。絵の勉強なんてしたことがない、中学生の拙い絵が、日々、何枚も描きあがっていく。
それは無駄なものかもしれない。けれどもこの景色を、潮風の温度を、波のささやきを伝えるには絵だ。いつかその絵が、どこかで誰かの心を、きらきらとした波間の輝きで照らしてくれるような気がしていた。サナは学校にも行かず、ひたすら海を見つめ、日ごと移りかわる景色に向きあい続けた。
サナが真鶴町に引っ越して来てから一年と少しになる。親族の遺した一軒家を相続した父が、家族を連れて、穏やかな時間の流れるこの町に移り住むことを決めたのだ。
前の住所からそれほど離れたわけでもない。父も母も、通勤時間こそ伸びたが同じ職場に通っている。サナも約束さえ取りつければ、幼馴染たちと簡単に会うことができる。父につきあう形の転居に不満はなかった。サナが小学校を卒業する時期に合わせて引っ越せるよう工面したので、煩雑な転校を経験せずにも済んだ。
サナが不登校になったことを、両親は気に病んだ。中学校の教員たちも心配している。そんな大人たちを見てサナは、馬鹿だなあ、と思っていた。
学校に行っている場合ではなかったのだ。サナは幼いが、ありのままの彼女自身を俯瞰する。
小学生のころ、生徒全員が買うように指示された水彩絵の具のセット。サナは図工の時間が苦手だったし、夏休みの宿題で描く絵画も好きではなかった。だから海岸の絵を描き始めたころには、筆も絵の具もまだまだ使える状態で余っていたので、それを持って海へくり出すことにしたのだ。……今となっては、もう何度買い足し、買い替えたかわからない。
特に、青はすぐ無くなる。空と海を描いているのだから。今日も晴れた、まだ肌寒い海岸に、サナはスケッチブックと絵の具セット、それから水道水を入れたペットボトルを持って訪れる。ランチにはやや早いくらいの時刻。サナは冷えきったコンクリートに腰をおろし、スケッチブックの新しい白紙を開く。そして絵の具セットから、プラスチックの使い古したパレットを出し、青の絵の具を絞ろうとして、手を止める。
今日は天気だ。空も海も青い。サナは首をかしげた。青の絵の具が、今ある分だけれは足りなくなるような気がした。使いたい分だけ色を使えず、せこせこと描く絵はくだらない。しかしこの景色を描かずに帰るのも気乗りしない。サナは知っている。午前と午後のはざまで、この町の海はわずかに表情を変える。そしてサナは、今日は春の遅い朝の、静かにほほ笑むような海を描きに来たつもりだった。
サナは知っている。この時間は勉強に使うには惜しい。大人ではないが、無垢な子どもとも言えない、この時期でしか見えないものが確かにある。あと少し経てば、目に映る景色は変わってしまう。それは良いことなのか、悪いことなのかは、まだわからない。ただ、今ある感受性で見える世界が、誰にも理解されず、過去になってしまうのが悲しかった。絵なんか描かず、学校で勉強するべきだったと後悔する日がいつか来るとしても、今のサナにはこうして過ごすことしかできないのだ。
スケッチブックを閉じて、サナは立ちあがる。思いきり、心のままには表現できないとわかれば、さっきまでの創作意欲は嘘のように消えてしまった。
家に荷物を置いたら、文房具屋へ行こう。残念な気持ちがため息に出る。サナは海岸をあとにしようとする。
……水平線と平行に、白い岩大橋がまっすぐ線を引く、海辺。今日、スケッチブックに捉えるつもりだったその画角へ、ふらり、と割って入る影があった。
ここらを通りかかる近所の住民は、学校をさぼって絵を描く少女のことを覚えている。それはサナの視点からでも同じだった。だいたい誰が通るのかは把握している。顔なじみというものだ。
しかしサナは、その女性にまだ見覚えがなかった。砂浜を歩きながら、白いスカートと長い髪を潮風に揺らすその姿は、きれいだけど幽霊みたいだな、とサナは思った。
スケッチブックを抱えたまま、サナはしばらく彼女を見ていた。他人をじろじろ見て、ろくなことじゃないとは思いつつも、何となく、すっかり自分のテリトリーとなったこの浜辺で、知らない人が足跡をつけている様子に、むず痒い心地を覚えていたのだ。そして、
(わたしの方に歩いてきてる)
サナは気づく。
中学生のサナから見れば、大人という人物像の範疇は広い。その女性も大人に見えた。すらりと高い背がよりサナにそう思わせた。
「ぼく、こんにちは」
ぶ厚い、黒ぶちの眼鏡をかけた女性は言う。化粧をしていない肌は白く、みずみずしく、あどけない印象をあたえてくる。もしかすると結構、年が近いのかもしれない。そう思うと警戒心が薄れ、サナも返事をする。
「こんにちは。わたし、そんなに男の子っぽい格好かしら?」
「あら……ごめんなさい。私、あんまり目が良くないから、小さい男の子がひとりでいると思って、声をかけちゃったんです」
今日サナが着てきた服は、黒いパーカー、安物のジーンズといったもので、遠目からは確かに男子に見えなくもない。しかし髪型はボブカットで、体型も同年代の少女たちに比べて女性らしいため、中学生になってからは性別を間違われることはなかった。
「……この辺の人? わたし、あなたのこと初めて見るんだけど」
サナは不登校だが、人間嫌いではない。むしろ根は人懐っこい性分である。話し相手なら本当はいつでも欲しかった。
「私、東京から旅行に来たんですよ」
「こんな時期に、海水浴場へ旅行?」
「ううん。絵を見ようかと思って」
絵、という言葉を聞いて、スケッチブックを抱きしめる腕の力が強くなる。サナは学問としての美術、それから美術史には疎いので、絵の話はできない。けれども絵を愛する人の気持ちには興味があった。
「絵とか見れるの、この辺で」
「見れますよ。美術館があるんです。そういえば……あなたも絵を描かれるんですか。もしかして美大生の方?」
「あ……」
女性は目が良くないと言っていた。だからか、サナの幼さには気づいていないようだ。それでもスケッチブックの存在感は見て取れていたらしい。
「趣味みたいなものだけど……描くかな」
使命感のような情熱で描いてはいたけれど、どうにも謙遜してしまう。実際に美術を熟知している人に対し、胸を張って絵を見せる勇気はなかった。
「もし良かったら、見てもいいですか?」
「えっと……本当に、たいした絵じゃないんだけど、それでも大丈夫なら……」
それでもこの女性なら、悪いようには言わない気がして、サナはスケッチブックをさし出した。ありがとうございます、と嬉しそうに女性は言って、スケッチブックを手に取り、サナのそばに座る。サナもまた、先ほどまで座っていたコンクリートへふたたび腰かけた。
スケッチブックの表紙がめくられる。一枚目。今日描こうと思ったアングルと同じ、でも曇り空の、冬の海岸。女性は黒ぶち眼鏡の奥の、丸い瞳を細めながら、顔を近づけたり遠ざけたりして絵をよく見ている。
「ここから見える景色ですね。白い橋がくっきり描かれてて、印象的で、すてきです」
「あ、ありがとう……ございます。色づかいは、どうですか。わたし、そこはこだわっているので……」
「……色、ですか」
「はい」
すると、女性の顔がふいに暗くなる。
「ごめんなさい……私、あんまり色がよく判別できないんです。でも、きっと上手に塗られているんでしょうね。雲の質感とか、波の白とかが、私にだってとってもきれいに見えているんですから」
「……波の白さ、うまく描けたと思ってたから、嬉しいです」
サナの感受性がもっとも鋭敏に感知し、絵に残したはずの色合いは、この女性には伝えることができない。言い知れない無念がわき上がる。けれども、通りすがりの女性が絵を褒めてくれたその言葉は、サナにとって単純に喜ばしかった。両親や先生たち、それからスクールカウンセラーだって、サナの描いた絵は一応褒めてくれる。けれども、『子どもの心理学』『不登校との付き合い方』なんて資料や本を机に並べて、つとめて優しく接してくれる大人たちの感想は、サナにとってあってもなくても同じようなものだった。母に至っては良い絵だと褒めてきた同じ日に、不格好な絵なんか描かずに勉強をしなさい、などと怒ってきたりするのだ。
「繊細で、でも個性的で、なんだか私の見てきた風景画とは違う面白さを感じます。他の絵も見ていいですか?」
「はい、もちろんです」
「あ、そうそう。申し遅れましたけど、私はレイって言います」
「わたしは……サナです」
「サナさん。すてきな絵を見せてくれて、ありがとうございます。サナさんは画家を志望されてるんでしょうか」
「いえ、そういうのはまだ考えてなくて……それと、わたし、まだ中学生だから、敬語とか使ってくれなくていいですよ」
「えっ、そうなんですか! 絵もうまくて、話し方も落ちついてるから、もう少し上かなって思ってました」
「レイさんはいくつなんですか?」
「私は十七歳。ちゃんと学校に行ってたら、高校三年になってる歳ですね」
レイはスケッチブックをめくり、サナの描いた荒削りの風景画を、一枚一枚じっくりと吟味するように眺めている。背が高く、身に着けているものも決して安っぽくないレイは、もっと年上に見られていそうだな、とサナは思う。そして平日の午前に大人のいない海で、女子ふたりだけがすごしているというのは不思議だな、とも。これは同年代の子のほとんどが知らない、珍しい時間だろう。
どうして学校に行かないのか、きっとお互い気になっていた。特にサナなんて中学生だ。でもしばらくの沈黙の間も、レイがそれを尋ねてくることはなかった。サナは別に、学校にネガティブな思いがあるわけじゃないので、聞かれれば答えても良かったのだけど。
「……レイさんが見に来た絵って、どんな絵なんですか。わたしもこの町に引っ越して来たのは去年だから、まだ知らない場所とかもあるんです」
熱心にサナの描き記してきた海の絵を見る、レイの横顔へと問いかける。まだ冷たさを残す空から降りそそぐ、透きとおった日の光が、レイの白い鼻すじと、ぶ厚い眼鏡のレンズを青白く浮かびあがらせていた。
「ここから歩いて一時間くらいかしら。中川一政の町立美術館があるの」
「かなり歩くんですね」
「バスも出ているから、帰りはそれで駅に行くつもり。今日は晴れているし、早い時間に着いたから、町を歩いてみようと思ったの。よかったら、いっしょに来る?」
「どうしようかな。わたし、お金はあんまり持ってないんです。でも今日はもう絵を描く気分じゃないし……美術館に入るかどうかはわからないけど、ついて行っていい?」
毎日座って絵を描いているサナにとって、たくさん歩くことは億劫だった。絵の具と画用紙も荷物になる。けれども少しだけ年上の、今日この時しか会うことがなかったレイとは、いっしょに過ごしたいと思っていた。
「うん、行きましょう。うれしいなあ」
「でもわたし……レイさんの言ってくれた画家のこと、なんにも知らないですよ」
「そうなの? でもつき合ってくれるなんて、親切なのね。じゃあ、ついてきてね」
サナは画材をひと纏めにしたトートバッグを、肩にかけて立ちあがる。日の高くなった浜で、海風が涼しく頬を冷やす。レイの黒髪が揺れる華奢な背中を追って、サナはまだ知らないその美術館へと向かうことにした。
レイは真鶴の町並みを、のどかでかわいい、なんて言いながら楽しんで歩き続けていた。サナは建物に興味がなかったけれど、自分の絵を褒めてくれた通りすがりの少女の感性は気になった。美術館へ行く理由だってそうだ、わざわざ東京からどんな絵を見に来たのだろう。しかし屋根の低い、古い建物が並ぶこの町並みが、そんなに珍しいものなのか。レイの近所にはない景色なのかもしれないけど。
「建物って、いつ見ても同じじゃないですか。見ててどこが楽しいんです?」
レイの感性を否定するつもりはなく、ただ疑問に思ったのでサナは聞いてみた。
「そうかなあ。どんなものも、時間や季節で変わっていくと思うよ。それに私にとっては、また見れる景色だとは限らないし」
「ここに来たらいつでも見れますよ」
そう言ってみたら、レイは帽子の広いつばを下げ、影の中でほほ笑んだ。透明な日差しが、かすれた雲の浮かんだ青空から射してくる。青の絵の具にたっぷり水をふくませて、画用紙が濡れるほど色を落としたその上に、白の絵の具を水でのばさず、そっと乗せて静かに滲ませたような……。
「サナさんは、どんな絵が好きなの?」
「……特にないです。しいて言えば手塚治虫」
「へえ、それもいいね。かわいいよね。美術だと誰が好き?」
「わたし、絵画に興味ないんです。あんまりレイさんにとって面白い話できないかも……」
「そうなの、いい絵を描いていたのに。どうしてサナさんは絵を描くの?」
少し目を離した間に、かすれた雲は乾いた青の中にまぎれ、消え入りそうになっていた。サナはそれが惜しかった。惜しむ気持ちごと惜しかった。だから絵を描いていた。だけどそれを納得のいく言葉にできず、サナはしばらくレイの足元の影を見つめていた。
「小さいころに見ていた海と……今になって見える海って、違うなって思ったんですよ」
本当に言いたいことと少し違うな、と自覚しながらも、サナは少しずつ声に出していく。うん、と優しい相づちが、レイのうしろ姿から聞こえてくる。
「多分それは、見ている海が違うから、とかじゃなくて、わたしが変わってしまったからだと気づいたんです。小さいころ見た海には人魚姫がいて、ジョーズがいて……水平線の上を渡る船は海賊船に見えていました」
「そうね、私もそうだったかも」
「今はもちろんそんな風には見えません。そして、変わってしまった世界観は、もう戻らないってわかったんです。それが、何だろう。怖かった、のかな。……今の自分の世界観も、いつか消えてしまうのを理解したみたいで」
「それであんなに優しい絵を描けるのね」
「別に優しいことはないはずだけど……あと、海とか空って、まったく同じ形になることが二度とないから、それも怖くて……いや、怖いって変ですよね。そんなの当然なのに」
「とっても素敵な感性だと思う」
「そうなのかな。……だから絵に残さなきゃ、と思ったんです。わたしが見たその時の景色を、今のわたしが描きたいように描かないと、ここにある何もかも、なかったことになってしまう気がして。……こうやって言葉にしてみたら、変な理由ですよね。みんな、こんなことなんか考えず、今日もちゃんと学校に行って、大人になる準備をしてるっていうのに」
「……あなたはよく知っているのね。羨ましいわ。今見えるものは、今しか見えないって。とてもきれいな動機だと思った。だからいい絵が描けるのね」
「そういえば、レイさんは絵を描くんですか」
「描こう、描こうって思っていた。……私も早く気づいて、とにかく描き始めるんだった。受験勉強しなきゃとか、どうせプロにはなれないんだからとか、余計なこと考えずに……」
描けばいいじゃないですか。そう言おうとしたけど、サナは思いだした。一見不自由なく道を歩いているようだから忘れていたが、確かレイは目が良くないと言っていた。
「勉強してたんなら、レイさんの方がずっと偉いです。わたしなんか、ただのサボりだし」
サボりなんて、大人に言われると一番腹の立つ言葉だったのに。でもサナに受験勉強なんて考えられないのは本当だ。絵を描かねばという焦燥をごまかして、来るのかわからない将来を見すえて勉強できる気がしなかった。
「私は私が偉いなんて思わないかも」
レイはサナの方を見て笑った。ぶ厚いレンズはレイの輪郭を屈折させていて、サナの目には奇妙にへこんだ顔に見えてしまう。
「ふふ、もう結構歩いたね。いい天気で良かったな。ずっと、雲ひとつない青空だわ」
長い髪を風になびかせて、レイは空を仰ぐ。ふとサナはトートバッグを覗いて、かさ張るスケッチブックをなんとなく確かめる。そうしてふたりは細い坂道を登っていった。
そこは緑にかこまれた静かな場所だった。建物の、少しくすんだコンクリートの灰色が、正午のまっすぐ降りそそぐ陽光をあびて、バニラアイスのような涼やかさで浮かんでいた。
「サナさん、せっかく来たんだから入ろう。入館料は私にまかせて」
「まかせてなんて、それはいいよ。お金がないのは確かにそうだけど」
「じゃあサナさんの絵を見せてくれたお礼に、招待させて。それにサナさんと、もっと絵のお話したいの。いいよね」
「……じゃ、誰にも内緒にしてくれるなら」
「もちろん」
そんなやりとりをして、レイはチケットを買いに窓口をたずねる。サナは何歩か離れてその手元を眺めていた。レイはどこかの学生証らしい物を窓口に渡していたので、学校に在籍はしているのだろう。やがておもむろに振り向いて、チケットをさし出してきたレイに、サナは聞いてみる。
「レイさん、どこの学校に行ってるんですか」
旅行客のレイがどこに通っているか聞いたって、何にもならないが知りたかった。
「通信制よ。私は独学で高卒認定も考えていたんだけど、お母さんが勧めてくれて」
「そうなんですね。通信制、いいなあ」
「そうかな。私は行きたい高校があったんだけどね、普通の全日制だとちょっと不便が多くて、入学辞退したの。こんなことなら受験勉強なんて、適当にしておくんだった」
「そっか……無神経に、いいなあとか言ってごめんなさい」
「何も気にしないでいいよ、やりたいことがあるなら時間がたくさん要るに決まってるし、サナさんの気持ちもすごくわかる!」
レイはここまでずっと明るく楽しそうに、サナと接してくれている。高校生の一人旅としては、大した長旅ではないけれど……レイがこの町を選んで東京から来てくれたことが、とても困難で奇跡的な出来事であるように、サナにはだんだん感じられてきた。
風と日の当たらない、ひんやりとした館内へと進んでいくレイにサナはついて行く。
「あの……レイさん、チケット、ありがとう」
「こっちこそ、見ず知らずの私と来てくれてありがとう。しかもあなたはいい絵が描けるし、知り合えて良かったなあ」
絵を褒められるのは何度でも嬉しい。そして、そういったセンスを持つレイがこの町に来る動機となった絵に、今となってはサナも興味津々だった。
第一展示室の真っ白な壁に、額縁が間隔をあけて飾られている。はっきりとした色彩のその絵は、遠目からでも存在感を伝えてくる。
「ほら、こういう絵」
レイはひとつのとある絵の方へ歩いていく。そして絵に顔をぐっと近づけ、十数秒ほど見つめて、場所を代わるように後ずさりする。
乾いた清潔な空気の中で、サナはゆっくりとまばたきをした。おそらく油彩かアクリルの、盛りあがった絵の具の層が、キャンバスに本物の陰影を作っている。
ビビッドで、直接頭に色味を伝えてくるような、力強いそれはバラの絵だった。
「私の好きな絵なの。でも、サナさんは気にいってくれないかしら」
「そんなことないです。どうしてそう思うんですか?」
「サナさんは、とても柔らかそうで、透き通るみたいな水彩の絵を描くから。すごくこだわって色を滲ませているように見えたの。私にはその、本当の色味がわからないのが残念なくらい。……ごめんなさい。あなたの絵が素敵だと思う気持ちは嘘じゃないけど、一番いいところに気づくことはできないわ」
そのバラは厚かった。花びらのふちを、本来の天然色とは全く違う色を使い、大胆な筆跡で描写していた。濁った闇の背景に、蠢くような生命力を持つバラの花束が、重そうな花弁たちを咲かせている。瑠璃や珊瑚で造られた彫刻のような、重厚さというか、物々しさも、また同時に感じられた。
「わたしは別に……自分の絵が好きじゃないです。こういう絵の方が好きかもしれません」
「そう? 気を遣ってない? ふふ……」
展示室の絵をサナは見渡す。すべての絵が生きて、来館者に存在を示している気がした。油彩の、あるいは岩絵具の、質感を保ち続ける画面が、描かれたその日の時間を閉じ込めている。サナが水彩画を描いている理由は、単に家にあるのがそれだったというだけで、深い理由はない。それでも淡い色の混じり合う、偶発的な描き方で、ひと時も同じ表情にならない空と海を描写するのは楽しかった。
だから繊細な絵だけが描きたいわけではない。感性を強調した、その時々にしか生まれない絵が描きたいのだ。そう自覚すると、何かひとつサナの中で、不気味にわき出て急き立ててくる気持ちが、手に取って理解できる形に結晶化したような心地がした。
「レイさんも、こういう絵が描きたかったんですか?」
「わからない。美術部では石膏のデッサンをみんなやっていたし、私もそれは必要な勉強だと思ってて……気の向くままに描くことは特になかったから、イメージが持てないの。描きたいものがあるサナさんが羨ましいな」
「……わたしは本当に絵を描きたいのかな」
いつも急かされるようにサナは描いている。嫌だとは思わない。ただサナにとって、絵はたまたま手が届いた自己表現の手段だった。レイは真剣に絵そのものと向きあっている。
「サナさんは絵を描いていて楽しくないの?」
「さあ……でも、夢中になるっていうのは、学校とか、家族のこととか忘れられて楽です」
「いいね。私、サナさんの絵、ちゃんと見てみたかった。岩大橋のまっすぐな白の奥に、たくさんの青と白を重ねた空があるんだろうな、って私にもね、わかった。……私が中川一政の絵を見たかったのはね。覚えているからなの。どんな色をしていたか。すごく印象深いから、どこにどう色を乗せていたか、見えてくるの。それはきっと、私にしか見えない景色なんだけど、もう何にもならないのよねぇ」
レイは残念そうに、そっと笑う……食べたいケーキが売り切れていた時くらいの様子で、首をかしげてから次の絵に顔を近づける。
サナは幼く、まだ人生なんて想像しようとは思わない。しかしレイの姿を通して思う。
人生は長い。その年月を、失ったものを常に意識させられながら、なおかつ彼女にしか味わえない異質な視界で、レイは生きていく。そういった暮らしで特異な感受性を得ても、レイの愛した絵にして伝えることは難しい。
「水彩画も好きなのよ? ずっと」
物思いにふけるサナを、レイは覗きこむ。ぶ厚い眼鏡のレンズには、むこうの壁にある福浦の風景画が映っていた。とても小さく映るそれは、鮮やかで複雑な色彩を放っていた。
「じゃあ、私はバスで駅に行くから……サナさんはどうする? いっしょに乗っていく?」
美術館を出ると、外気は午前よりも暖かくなっていた。木漏れ日がアスファルトに不規則な輝きを落としている。
「ううん、大丈夫です……わたしの家はバス停と少し離れているし、それに帰ったらお婆ちゃんが待ってるから。ゆっくり帰りたい」
「仲が良くないの?」
「そうじゃないけど、今日はひとりで考える時間が欲しくて」
「そっか。美術館は、楽しかった?」
サナは答えられなかった。中川一政の作品には書や陶芸、そして水彩画もあった。何か心を動かされたのか、それすらわからない。ほとんどが力強い、大胆な作風で、サナには理解できなかった。嫌いというわけでもない。どうしてそのように表現しようと思ったのか、想像がつかなかったのだ。ただ、肉筆に乗せて、その日その時にしか発揮できない感性を遺した絵は、サナの焦燥を回りくどく慰めてくれているような、不思議な味わいで言葉にできない心の底に触れてきている気がした。でもそれは単純な癒しではなく、同時に幼さを打ちのめす虚無感も与えてくる。
「……せっかく誘ってくれたのに、わたしには楽しみ方がまだわからなかったみたいです」
「そっか。サナさんにも見てると気分が上がるくらいの、好きな絵ができるといいわね」
ふたりはしばらく歩いて、バス停に着く。サナは時刻表を見る。スマートフォンで読みあげアプリを起動しようとしてレイは、よかったら次のバスを教えてくれるかしら、と言う。サナはすぐに直近のバスの時間を答える。
「十分後ね」
レイは言った。
「……連絡先とか、教えてくれませんか」
サナは自分専用の端末こそ持っていないが、家には妹と共有しているタブレットがある。スマートフォンを持ち歩けないことに不満はなかったが、今だけはもどかしかった。
「スマホ今ないんで、ここにメモします」
サナは鉛筆とスケッチブックを取り出して、裏表紙をめくる。レイはスマートフォンを操作し、SNSのプロフィールを見せてくれた。サナはそのアカウント名を書き記しただけの、白紙の画用紙をちぎり取った。そして、
「これ、レイさんにあげます」
半分以上のページを水彩画で埋めた、その一冊のスケッチブックをレイにさし出した。
「どうして?」
「この絵をちゃんと気に入ってくれたのは、多分レイさんだけだから」
「私が持っていても仕方ないよ。だって細かい色とか、よく見えないし」
「かまいません。わたしはもう、気が済んだんです」
衝動的な選択だし、スケッチブックなんて帰りの文房具屋ですぐ買える。明日にはまた気が変わって、絵を描いているかもしれない。しかし少なくとも、今のサナにはもう描き続けるつもりはなかった。
ただ誰かに理解されたかったのだ。すべての時間と風景が、二度と訪れない奇跡であると思う感性を。絵そのものを正確に把握してもらえなくたって、サナにとってそれ自体は重要ではないことが今、わかったのだった。
「じゃあ、私が預かっておこうかしら。連絡をくれたら、いつでも返すからね。ふふっ」
「……レイさんは、わたしに絵を描き続けてほしいですか」
「そうねえ。描こうと思って行動できたサナさんを羨ましいと思うけど、それは私の後悔のせいだけかもしれない。どうしてほしいかなんて、私からはないわ。ほかにやりたいことが見つかるのも、とっても素敵だと思う」
午後の空は青々としていて、透明な太陽が時刻表のアクリル面に照りつけている。曲り角の向こうからバスが走ってくるのが見える。
「レイさん。機会があったら、勉強を教えてくれませんか。受験勉強、がんばったんですよね」
「ええ、もちろん」
晴天も、緑も、町並みも、レイにどのように見えているのか、サナにはわからない。レイが感じる世界を理解するにはきっと、大人にならなければいけないんだ。……感性が枯れるのが怖かった。しかし白いバラの花弁のふちを、ぶ厚く、紫に描く画家がいた。本物の感受性は宝物のように、脈々とみずみずしく遺る。恐れることはない。もし失われてしまったなら、それは元から消滅を惜しむまでもない、ひとりよがりの幻覚なのだろう。
やがて、ふたりの前でバスが停まる。
「また会いましょう、サナさん」
「はい。わたしも会いたいです」
スケッチブックを抱きしめて、レイはバスに乗った。サナは何も惜しくなかった。そして、いつも海の香りがする風に、わずかな排気ガスのにおいが混ざって、驚くほどすぐに、あっけなく吹き去っていった。でもそれだって、もう、悲しくない。
バラより厚く ファラ崎士元 @pharaohmi_aru
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