毎日に潜む悪魔(あるいは健康志向の天使)

郡冷蔵

毎日に潜む悪魔(あるいは健康志向の天使)

 さて、ある一定の人間には共感を得られるということを期待して、俺の得た理解を共有しよう。

 運動をしないと、やせるのである。

 合っている。これで間違いない。運動をしないと、やせるのである。

 とはいえ詳細な説明がないと何が何やらだとは思うので、補足をしよう。

 俺は大学生のころまでは、友人との付き合いでスポッチャに行くくらいの運動をしていた。無論それだけではなくて、大学への往復はもちろん、行動範囲が何かと広かったから、特に何を意識するでもなく、最低限の運動量というものは確保できていたのである。

 だが、就職以降、俺の生活は変わった。

 電車で通勤し、仕事はほとんどデスクワークで、週末は家の中でダラダラと過ごす日々。まともな運動を、していないのである。

 すると何が起こったか。

 そう、筋肉がみるみるうちに落ちていってしまったのである。

 就職から一年と少し。健康診断の折に自分の体重を確認して、まず記憶との違いに頭をひねり、次に体重計の故障を疑った。しかしどちらも間違っていない。

 ゆえに、運動をしないと、やせるのである。やせてしまうのである。

 この先に待つものがいわゆる生活習慣病であることは想像に難くなかった。

 このままではいけない。

 俺は強い危機感に駆られ、すぐさま近所のジムに入会。したものの。

 ものの数週間で、足が遠のいていた……。

 どこに行った危機感。戻ってこい。

 そうはいっても、行くのがめんどくさいし。そもそも俺、腐ってもまだ二十代だし、別に気にしなくてもよくなくなーい?

 という旨を飲み会ついでに上司に話してみたところ、「気持ちはわかるけど、本当に筋肉が落ちてしまってからやろうとすると……つらいよ……」と、遠い目で言われた。服を買いに行く服がない、みたいな。筋トレをするための筋肉がない。

 危機感カムバック。おかえり。

 上司は続ける。

 あれだ、ジムに行くのでなくても、毎日走るだけでもやってみたら?

 確かにそれでいいなら金もかかんなくていいっすねえ。

 というわけで。

 俺は仕事終わりの疲れた身体に鞭打って、夕食前、軽くランニングに出てみることにした。ウェアだのシューズだのはないので、それこそ大学生時代に使っていた運動靴が奇跡的に残っていたものと、あとは車除けにハンディライトを腰に吊るし、俺は夜の街に駆り出した。

 実際、ジムに行くよりかは幾分気楽なものだった。

 静かな夜の道路を、歩調を一定に保ちながら、足を前へ前へと繰り出していく。退屈な作業が脳内麻薬で少し楽しくなってきたころに、それは起こった。

 しん、とした違和感があった。まるで急に周囲の温度が二度、三度下がったみたいな。

 汗が乾いたせいか。そう適当に納得してランニングを続ける俺だったが、ふと気が付くと、足音が聞こえる。俺のものとまったく同じ歩調。俺が進めば同じだけ進み、 止まれば止まる。

 だがこの時点ではまだ俺は焦っていない。

 ははーん、これは反響だな。例えば地下道なんかを走っていればわかりやすいものだが、別に条件さえ揃えば、普通の路上でも似たようなことは起こる。幽霊の正体見たり枯れ尾花というやつだ。

 だが、そうして走り続けて……切れかけの街灯がちかちかと明滅しているところに差し掛かったとき。

 ぶつん、と明かりが消え、同時、後ろからあの足音が聞こえてくる。

 俺が走れば走り……ああ、はいはいこれね、と立ち止まっても、走ってくる。止まらない。

 ぞっと悪寒が背を駆け上ってきた。

 俺はすぐさま走り出した。だが、足音もそれに負けじと速くなっていく。

 気づけば俺は全力疾走していた。息を切らしながら、どこでもいいからと明かりのある場所を目指して走っていく。だが、どんなに進んでも、あるいは曲がり角を曲がっても、明かりはとんと見えてこない。

 進んで。

 進んで。

 進んで。

 ……やっと、街灯の明かりが見えた。

 俺は無我夢中でそこに飛び込むと同時、疲れ果ててその場にくずおれる。

 全身汗でびっちょりで、心臓は割れるほどの早鐘を打っている。

 足音は止んでいた。

 足音はもうしない。

 俺はよろよろと立ち上がって、大通りから遠回りをして、家に帰った。

 この出来事から俺が得た教訓は、夜のランニングなんてロクなもんじゃないということだ。毎日なんてできるか。こんなもの。二度とやりたくない。

 俺はすぐさまジムの予約をした。

 後から考えれば別にランニングをやりたくないからといってジムの予約をしなければならないわけではないのだが、とにかくランニングという選択肢を否定したかったのだ。

 明日は人が多いようなので、明後日の予約を入れた。

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