浪漫テリング
ハヤシダノリカズ
私はなぜ書いているのでしょう?
自主企画の中に【あなたはなぜ、書き続けているのですか?】https://kakuyomu.jp/user_events/16818622172449360019
というトピックを見つけました。
改めて『私はなぜ書き続けているのだろう?』と自問すると、その質問文の後に『PVが少ないにも関わらず、何故なんだい?』と自傷行為的な修飾語句を足してしまいます。バカですね。
さて、まずは自己紹介ですかね。私は現在五十代の自営業者です。五十代男性ということで、カクヨムのユーザー層にマッチしていないことがそもそもの間違いであるようにも思います。どうしたって現役の学生が持っているキラキラをオッサンが表現できる訳ありませんからね。
ま、それはともかく。
私は小学生の頃から文章を書くのが好きでした。5人くらいの班で共有していた担任に毎日提出する日記――毎日違う班員が何かを書いて提出するもの。五日に一度ほど出番が回ってくる共有日記――は、担任から常に感想が書き添えられて帰ってきたのですが、私の書くものは担任から大抵評価が高く、『随筆を読んでいるみたいでした』という担任からの感想は今でも覚えています。
読書感想文なんかでも苦労した思い出はありませんし、学生時代の国語の成績は常に良かったですね。他の教科は地を這っていましたが。
ですが、学生時代に文章表現を趣味として嗜むという事はしていませんでしたね。もちろん、仕事としてそれをした事もありません。
カクヨムを始めたのも四十代後半でした。
そんな私の物語創作の原点は小学四年生の時に友達と描きあって読みあった漫画描きであったように思います。ですが、中学以降そういった事はいっさいしませんでしたね。小学生時代には江戸川乱歩の児童文学を読み漁り、中学時代には星新一の文庫を舐めるように読んでいましたが、創作らしいことは中学以降していませんでした。
そんな私が物語づくりを始めたのは、結婚して娘を授かって、幼稚園児だった頃の娘を寝かしつける為にベッドの上で寝物語を毎日していたのがキッカケでしょうか。
おぼろげながら覚えていた昔話を毎晩聞かせて、それが尽きたら、怪談になって、それも尽きたら、頭の中で即興で物語を紡いでいくアドリブとなりました。
たぶん、何十という嘘話、作り話を娘に聞かせたと思います。
そして、後年、友人たちとアートイベントを主催した際にその中の一遍をちゃんとテキストに落とし込んだのが【こいぬのポロのおはなし】https://kakuyomu.jp/works/16816927861464040932 で、これが言わば私の処女作という事になるんですかね。
もちろん、この時にはカクヨムに参加していませんし、当時、少なくともカクヨムはありませんでしたね。
そして、そのアートイベントを共に行った友人に息子が生まれた時に、誕生祝いとして贈ったのが【ひるとよかぜ】https://kakuyomu.jp/works/16816927861439389176 です。『なにか、変なものを贈ってやろう』というのが動機でして、その息子さんの名前を主人公に借りて書いたんですね。
あぁ、思い出した。三十代の頃はブログで【コラム4054】というタイトルのものをずっと書いていました。
そこから文章書きはフェイスブックに移行しましたが、小説という体裁のものは上記の二点が私の原点ですね。
フェイスブックでは【神たらし、与太バナシ】https://kakuyomu.jp/works/16816927861531824859 という実話ベースのものを書きました。コイツのフェイスブック内の反応がとても良かったのも、今の私を形作っているかも知れません。
さて、ついつい長々と自分語りを綴ってしまいましたが。
『私はなぜ書き続けているのだろう?』
『PVが少ないにも関わらず、何故なんだい?』
への答えは、結局のところ、
『文章で誰かを楽しませるって楽しい』
これに尽きます。
そして、その【誰か】には私自身が含まれているんですよね。
そして、【自分自身を楽しませる】には【私が知らない物語】を書く必要がある訳で。
その【この世にまだ存在していない物語】を生み出す楽しさは、【出来立てホヤホヤの誰も知らない物語】を一番に楽しめる興奮と共にあるんですね。
ま、そこには【生みの苦しみ】というスパイスもついて回りますが。
私が物語を生み続けているその原動力の根源はそれなんでしょうね、たぶん。だから、PVが振るわなくても書いてしまう。
でも、きっとPVゼロは堪えるでしょうね。1と10000の差は大きいですが、【誰かに読まれている】という本質において同じです。でも、1と0の差はまるで別物ですから。
そして、PV0にはない【私の書いた物語がどこかの誰かに衝撃を与える】という可能性はPV1には存在している。そこには浪漫がありますから、PVが0でない限り絶望する必要はないのかな、なんて思っています。
そんな思いをカク同志に送りたいと思ってこんな話も書きました。
【ジャンクション】https://kakuyomu.jp/works/16817330663688410649
私たちが同好の士である物書き趣味の人、いわゆる素人が書いた小説を読むとき、こんな感想を持つことがあります。
・読みにくい
・内容が頭に入ってこない
・理解はできるがまるで面白くない
これらは、自分の書いたものが他人に読まれた時にも持たれる感想なのだと自戒しながら書くのですが、書いている時には自分の中で、時には頭の中に映像を思い浮かべたりなんかして、過不足のない表現が書けているように思ってしまうんですよね。
書いている最中の自分にはその文章の粗が見えない。書いている時の興奮状態では客観性をもってその文章の表現不足や、構成や展開の不備を見つけられない。なぜなら、書いている最中の自分の頭の中では綺麗な傑作が紡がれている訳ですから。頭の中のその傑作はキーボードを叩くアウトプット作業の中で、傑作の傑作たるゆえんの部分がポロポロと落ちて欠落していく。
だから、ソイツを他人が読んだり、数か月後数年後に自分で読み返した時にハテナマークが山盛りに浮かんでしまう凡作駄作に成り下がる。
客観視って執筆にはめちゃめちゃ大事なんだけど、それを獲得するのはとても難しいし、客観視に縛られると勢いのある魅力的な文章が書けなくもなる。難しいものです。
でもね。自身と似た感性を持っている読者にその作品が出会えた時には、表現不足が表現不足じゃなくなったりもしますし、作者が無意識にすっ飛ばした表現を文脈や行間から読み取る事に長けた読者もいます。もちろん、それを前提に拙い表現技術を拙いままにし続けるのは悪手ですが、読む人がいてこそ完成するのも小説ですから、表現の拙さそれ自体に絶望する必要はないのだろうと思っています。少しずつでも上手くなればいい。
PVがゼロじゃなければ、その作品にはどこかの誰かの心に刺さって、その人の人生をめっちゃいい方向に導く……そんな可能性がある。
そんな事を思っているんです。
だから、書き続けているんです。
千夜一夜物語のシェヘラザードのように物語を紡ぎ続けている人がいっぱいいるんですよね、現代って。
その何千万という物語は、きっと、時に誰かを救い、誰かを鼓舞し、誰かを導いたりする可能性を内包しているんですよね。そのすべてが。
それって、浪漫ですよね。
だから、これからも、書いていきましょう。
可能性はゼロじゃなければ、無限大なのですから。
浪漫テリング ハヤシダノリカズ @norikyo
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