恐山産女(うぶめ)

銀狐

恐山狐綸

 恐山の風は死者の舌先で出来ている。小野瀬藍はバスを降りた途端、その粘稠な風に頬を撫でられて背筋を震わせた。


 硫黄の匂いが鼻腔を灼き、足元から湧き上がる地熱が登山靴の底を焦がす。二十世紀末に途絶えたという巫女口承の記憶が、突然彼女の脳裏に浮かんでは消える。祖母の臨終の床で聞かされた言葉が、今になって意味を持ち始めていた。



「藍の血には穢れがある」


 叔父の隆之が重い荷物を背負いながら舌打ちした。元自衛官の屈強な肉体は、この異界の入り口でさえも日常の延長のように扱っている。「菩提寺の住職が妙な戯言を吹き込んだせいだ。こんな霊場に来る必要は――」


 その声が不自然に途切れた。石段の向こうに聳える鳥居が、夕陽を背にした瞬間だけ黒く反転した。藍は瞼の裏に焼き付いた残像を必死に振り払う。鳥居の柱に絡みつく影が、九本の尾を翻したような気がした。



「叔父さん、今の...」


 振り返った隆之の瞳が石榴色に光っている。藍が喉の奥で悲鳴を噛み殺す。自衛隊時代の戦闘訓練で眼球を負傷したはずの右目が、今や狐狸のそれのように細く吊り上がっていた。



「ん? どうした」


 いつもの低音。だが声紋が0.3秒遅れて鼓膜に届く。藍は首を振り、賽銭箱の前で手を合わせた。銅板に刻まれた狐像の目が、彼女の動きを追う。右から左へ、あまりに滑らかに。


 宿坊の玄関で待っていた老婆は、藍の名を呼ぶのに三呼吸要した。皺の奥に潜む目が、少女の生年月日を暗算するように瞬く。「閏年に産まれた子か」 絞り出すような声が、煤けた廊下に爪痕を残す。「ならば明日の丑三つ時までに」


 次の瞬間、老婆の影が壁面を這い上がった。天井梁に触れた刹那、九つの分岐が現れて消える。藍は叔父のジャケットの裾を無意識に握りしめた。布地の下で隆之の腕が、弾丸の破片が埋まった古傷を中心に不自然に膨れている。



「この寺には護法童子がおる」


 突然現れた円覚僧正の声に、藍は敷居で躓いた。僧衣の袖から覗く数珠が、人骨でできていることに気付くまでに五秒を要した。「恐山の地脈は昨夜から乱れておる。青森側の断層が、死者の爪で引っ掻かれたような痕を残しておる」


 夕餉の膳で藍は箸を握ったまま動けなくなった。味噌汁の椀に映る自分の目が、徐々に細く切れ長になっていく。湯気が狐面を被った女の吐息のように揺れる。障子の向こうで何かが地鳴りを立て、庭石の配置が十メートル西に移動している。



「藍」


 隆之の呼び声が三重に響く。藍が振り向くと、叔父の首筋に黒い毛が密生している。肩越しに見える庭の築山が、巨大な狐の背中のようにうねる。


 彼女のスマートフォンが突然起動し、自撮りモードの画面に映った自分が、ゆっくりと舌先で右目を舐めている。



「...憑かれたな」


 円覚が経文を唱えながらも、その声はどこか達観していた。数珠の骨片が軋み、藍の耳朶から血が滴り落ちる。「九尾の狐ならば、神仏も容易に近付けぬ。この子の血脈に巣食う穢れが呼び寄せた」


 夜半、藍は襖の隙間から漏れる会話に目を覚ました。老婆の声が地下深くから響いてくる。「小野瀬の女は代々、狐の産屋になる。戦後の土葬を禁じた法令が、あの家系の封印を解いた」


 隆之の怒声が梁を震わせる。「そんな妄言で姪を――」 その途端、藍の歯が自らを食い縛った。鉄臭い味と共に、喉の奥から這い上がる毛玉のような塊。吐き出したものは月光に照らされ、生きた鼠の胎児のように蠢いた。


 丑三つ時、藍は自らの意志で納戸の扉を開いた。暗闇の中、九つの影が絡み合う。獣臭が充満する空間で、老婆の白髪が蛍光を帯びて浮かび上がる。「よく来たね、産女様」


 青白い腕が藍の着物を解き始める。抵抗できない体。胸元から現れた三日月形の痣が、老婆の乾いた舌舐めで輝き出す。「お前さんの子宮で千年仔を宿す。それがこの山の約束」


 突如、障子が粉々に砕けた。隆之の拳が老婆の顎を撃ち抜く。しかし老婆の首は糸で吊られた人形のように揺れ、砕けた骨片が空中で再構築される。「自衛隊の犬が、神事を阻むとはな」


 円覚の錫杖が床を貫く。「この寺は元より、憑物落としの場ではない! 恐山そのものが狐の巣窟!」 僧侶の袈裟から無数の御札が飛散し、藍の肌に吸い付く。その痛みに彼女は初めて叫び声を上げた。


 天井が裂けた。夜空に浮かぶ月が、九つの尾を螺旋状に解き放つ。藍の視界が突然180度回転し、逆さまの世界で老婆の正体を見てしまう。あの皺くちゃな皮膚の下で、無数の仔狐が胎動している。



「藍! 目を瞑れ!」


 隆之の叫びと共に、何かが破裂する音。叔父の右腕が軍用ナイフごと老婆の胸郭に突き刺さる。しかし流れ出るのは血ではなく、白い蛆虫の大群だった。老婆の笑声が寺院全体を覆う。「産女の血はもう穢れ切っている。この世と常世の膜が破れた」


 藍の子宮が火照る。腹の底で何かが爪を研ぐ。円覚が唱える陀羅尼が、逆さ言葉に歪んで彼女の鼓膜を破る。隆之が放ったナイフが、今度は藍自身の左手を床に釘付けにする。痛覚が0.7秒遅れて神経を駆け上がる。



「叔父...さん...」


 藍の声帯が他人のように震える。視界の端で、自分で釘を抜き始める右手が見える。血の噴出と共に、指先から白い剛毛が生えそろう。「早く...逃げ...」


 天井から降り注ぐ月明かりが、突然漆黒に変わる。九本の尾が寺院を貫通し、藍の体を空中に引き上げる。着物が裂け、臍から尾骶骨にかけて赤い毛並みが広がっていく。円覚が投げた数珠が空中で砕け、人骨の破片が経文を叫びながら四方に散る。



「藍を...返せ!」


 隆之の拳が虚空を殴る。その瞬間、彼の右目が完全に裂け、眼球の裏から金色の毛皮が溢れ出す。老婆の残骸が笑いながら囁く。「自衛隊の地下で飼われていたものも、同じ穴の狢だ」


 藍の喉から発せられたのは、少女の声と狐狸の鳴き声が合成された不協和音だった。寺院の柱が次々と狐の足に変化し、本堂そのものが巨大な獣の顎になる。円覚が最後の護摩を焚くも、炎が青白い尾に絡め取られて消える。



「約束だよ」


 九つの声が同時に響く。藍の腰骨が軋んで伸び、尾の一本目が生える痛みに、彼女は初めて悦びの声を上げた。


 隆之の変形した右腕が彼女の踝を掴むが、次の瞬間には白骨化して崩れ落ちる。老婆の亡骸から仔狐の群れが這い出し、藍の新しい尾に吸い込まれていく。


 恐山の地鳴りが霊峰全体を妊娠させた。次の満月の夜、産女は千年仔を産み落とす。その時、現世と幽世の境界は決定的に破れ、狐の子らが人間の子宮を次々と借り始めるだろう――


 最後の人間の意識が消える直前、藍は叔父の左目から涙が零れるのを見た。彼の変形した右手が、自衛隊時代の認識票を握りしめている。そこには『実験体No.9』の刻印と、彼女の祖母の旧姓が記されていた。

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恐山産女(うぶめ) 銀狐 @zzzpinkcat009zzz

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