失いたくなかった人

緋雪

先輩の彼女だった人

千鶴ちづるさん!」

 僕は、駅の入り口付近の柱にもたれ掛かっていた彼女をみつけた。

「あ……なつ君。ごめんね、電話して」

 彼女は僕を見上げると、力なく笑う。

「こんなにびしょ濡れで。フラフラじゃないですか。ほら、つかまって。僕の車、そこですから」

 ごめんなさいを繰り返す彼女。でも、謝らなければいけないのは、彼女ではない。


「ホテルまで送ります。泊まる予定なのは?」

「……」

「……そうでしたか」

「ごめんなさい」

「どこか探しますね」

 彼女は黙って首を振る。

「もう……いいの。ごめんね、夏君。呼び出しておいて、こんなこと。でも、やっぱり一人でどうにかするから」

「何言ってるんですか! 放って帰れないでしょ!」

「だって……」

「とにかく、乗ってください。着替えないと風邪を引いてしまう」

 彼女を助手席に乗せた。

「うちに寄ります。着替えてください。シャワー使ってくれていいんで。」

「……うん」


 千鶴さんは、助手席に座って、ボーッと外を見ている。

「一体何時間待ってたんですか、こんな雨の中」

 僕は少し怒ったように言う。勿論、怒っている相手は千鶴さんではない。

「さあ……朝一番の新幹線で来たから……。電話が通じなくて……雨が途中で降り出して……でも待ち合わせ場所を動いてしまったら……見つけてもらえない気がして……」

 もう、21時を回っていた。

「きっと、急用が入ったのよ……だから……」

「それならそう電話してくるでしょ?」

 強く言ってしまって、ヤバイ、泣かせてしまうかもしれない。そう、不安になった。 

「とにかく、着替えないと。あと5分くらいで着きますから」

「うん……」

 そこからは、二人、何も喋らなかった。


 僕の部屋の風呂を使い、濡れた髪のままで、僕のTシャツとスエットを着て出て来る。

「貸してもらってごめんね。ラフな着替えとか、持ってきてなくて……」

「気にしないで下さい」

 彼とならパジャマすら要らないだろう。そんなことを考えている自分に腹が立つ。


 千鶴さんは力なく座り込むと、膝を抱えてずっと俯いている。

 ドライヤーを渡そうとしていた僕は、彼女の隣に座って、彼女の髪を乾かし始める。千鶴さんは、震えながら声を殺して泣いていた。僕は、何も聞かず、何も言わず、彼女の髪を乾かした。

 綺麗なストレート。手触りのいい、きちんと手入れされた健康な髪だ。この人の髪に触れることに、少なからず罪悪感はある。でも、僕には、こうすることくらいしか、彼女を気遣うすべを考えつかなかった。

 

 髪があらかた乾いた頃、千鶴さんは顔を上げずに「ありがとう」と、小さな声で言った。


「夏くんならよかったな」

「……僕ならいつでも」

「ふふ。嘘だよ。私に夏君は勿体ない」

「そんなこと……!」

「……ごめんね。彼じゃなきゃだめなの、私」


 千鶴さん、その人は、もう、あなたのことを……。


 千鶴さんと遠距離恋愛になってしまってすぐ、彼は他の女の人に気持ちを持っていかれた。

「千鶴は、俺には重すぎてさ。もっとカジュアルな恋愛がしたいんだよな」

 彼……僕の先輩は、そんな風に言っていた。

 そのことを、千鶴さんに伝えるのは、あまりにも酷だ。


「でも、彼は、もう、私のことを見ていないんだね」

 ドキッとした。彼女は、わかっていて会いに来たのかもしれない。新幹線で4時間もかけて……。

「最後に、一目、顔が見たかったな。会いたかった。ちゃんと彼の口から別れを告げられたかった……」

 また、彼女の頬を涙が流れては落ちる。


 思わず、彼女を抱きしめた。

 いけない。この人の心は、彼のもとにあって、僕のものじゃない。でも、そんなことは関係なかった。僕は、彼女を抱きしめずにはいられなかった。

「僕なら……会いに行くのに……」

 ボソッと呟いた僕の言葉に、千鶴さんは笑う。

「馬鹿ね。私、夏君より3つも年上よ?」

 僕の腕の中、彼女の温もりが、愛しくて切ない。

「でも、ありがとう」

 千鶴さんは、僕の胸に顔を埋め、そう言った。


「僕んちでよかったら泊まっていってください。僕は友達の家に泊めてもらうんで」

 このまま彼女を抱いてしまいそうになる自分を抑える。

「ごめんね、我儘ばかりで」

「いいえ。頼ってくれて嬉しいです」 

 千鶴さんは、僕の顔を見て、にっこりと微笑んだ。

「夏君……ありがとう」



 翌朝、部屋に戻ると、彼女がいない。

 嫌な予感がした。

 先輩に電話するが、出ない。

 何が起こっている……?



 千鶴さんは、彼の勤務先で彼を待ち伏せて、持っていた刃物で彼を刺した。

 そして、そのビルの屋上から飛び降りたのだ。



 何故。何故あの時、彼女と一晩中一緒にいなかったのか。彼女の心を無理矢理にでも奪ってしまわなかったのか。何故、一人にしてしまったのか……。


 僕の体はまだ、彼女の温もりを覚えている。

 彼女の愛が重すぎると言った、先輩の言葉を思い出していた。


〈了〉

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失いたくなかった人 緋雪 @hiyuki0714

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