【仮】Will On Air
千歳 一
第1話 Now On Air
超高層ビルの突端が2000mを超えても、宇宙探査機が太陽系の最外縁に到達しても、「濡れた繊維で埃を吸着させる」という床掃除の原理は変わらないらしい。西向朱嶺は水が滴るモップで床を撫で、水の膜を塗り広げる。
8畳ほどの観覧スペース、訪れる
『人の血が通わぬ物に人を動かす力は無い』
「クソあっちぃ……」
本当に通わせるべきは掃除の手ではなく空調設備の業者だ。開局五十年目にして、ついに当初から現役だった観覧スペースのエアコンが壊れたのだ。「FM穹天原」スタジオAとしては初めての、そして最後のエアコンの無い夏が始まろうとしていた。
『……本日もゆーとぴあスタジオへのご参加、有難う御座います。「鶏卵ソーセージ」さんのお孫さん、ラジオを聴くような年齢になったんですねぇ。時の流れを感じます』
ギャラリー西側の壁に嵌まっている大きなガラス窓、その向こうのブースでは、午前最後の番組『ゆースタ』のエンディングトークが流れている。急ぎすぎないジャズフュージョンのBGMと、濱川漸子の落ち着きあるトークの組み合わせは、空調設備とは違って五十年間変わることの無い空気を醸成している、らしい。
『それでは
朱嶺は生放送が終わると同時に、バケツを手に階段を駆け降りる。忙しくはないが時間は無い。十分後には当局の主力番組、「クロス!」のADとしての仕事が待っているのだ。
朝買ってきた昼食を冷蔵庫の前で飲み込み、咀嚼しながらスタジオAの
「あら朱嶺ちゃん今日はお弁当食べないの?」
「いやあ今日『あつ亭』定休日で……コンビニっす」
「ちゃんと食べなきゃダメよ、朱嶺ちゃんただでさえ細いんだから」
漸子の声は年齢を重ねた深みはあるが、年齢による衰えは全く感じさせない。矍鑠と形容できる足取りで彼女は部屋を後にする。
朱嶺は後から続き、スタッフ用通路へ続く重い防音扉を開けた。
「助かるわ、有難う」
そう言って姿勢良く歩き去る漸子のブラウスからは、微かにクチナシの香りがした。
三方を放送機材に囲まれた椅子に腰を下ろし、朱嶺はタブレット端末から社員用サイトにアクセスする。
午前十一時五五分現在、新着メッセージ二件。一年も関わっていれば見なくても分かる、この二件は「クロス!」ヘヴィーリスナーからのお便りだ。彼らはほぼ毎日番組のオンエアに顔を出してくれる。と言うより、彼ら以外から便りが届いたことはほとんど無い。
「
急に扉が開き、朱嶺は飛び上がる。
「今日は走りながらやるよ!」
「はいはい、動かすのは上半身だけにしな」
やたらと腕を振り回しながら突入する背の低い少女と、扉を押さえてその進路を開く背の高い女性。
彼女たちこそが、このFM穹天原の看板番組「クロス!」のメインパーソナリティだ。
背の低い方――モモはそのままの勢いでブースへの扉を蹴り開けると、定位置のオフィスチェアに滑り込んだ。
「あいつ、昼飯食べすぎたからって動いて消費しようとしてんのさ」
背の高い方――梓叉は呆れた様子で続き、モモの対面に静かに腰掛ける。耳当ての剥げたヘッドホンを装着し、水を少し口に含む。それからこちらに親指を立てて見せた。もう一年ほど続く、準備完了の合図だ。
「三十秒前、今日もよろしくお願いしまーす」
インカムに向かってそれっぽいことを言ってみる。昔は業界特有の仕草や用語もあったのかもしれないが、それを伝え遺す人はもうほとんどいないだろう。
逆に言えば、自分のやり方が「正」だ。朱嶺にとってはそれが心地好くもあった。
「十秒前です」
さあ、本番開始だ。
朱嶺は始まりを告げるボタンを確かに、ゆっくりと、押下する。
――あなたの人生に『交差点』を
お聞きの放送は、FM穹天原です――
午後を知らせる時報と共に、いつもと同じ午後のひとときが幕を開ける。賑やかな声で彩られた、彼らの世界が――。
タブレットに届いた三件目のメッセージは、すでにその「いつも」をわずかに歪め始めていた。
【仮】Will On Air 千歳 一 @Chitose_Hajime
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