第3話 飛翔

 あれ以来、桜樹は自分の枝が落ちそうになると、娘へ「これを使え」といってその枝を渡すようになった。

 その度に、娘は、桜樹の木の影からぬっと出てくる生白い手から、枝を受けとり、飽きもせずに彫った。

 娘が黒ずんだ樹皮を削り落とすと、中から白い木部が露出する。その木部をさらに削り、形を整えてゆく。木部に無数についた削り跡をさらに削ることでならし、それを繰り返して形を整えてゆく。

 かつて桜樹の身体の一部として、花もつけずに項垂れていた枝たちは、娘の手の中で様々な動物へと姿を変えた。ある枝は犬となり、ある枝は狸となり、ある枝は狐になった。またある枝は兎になり、ある枝は猿になり、ある枝は鹿になった。

 枝たちが姿を作り変えられることを繰り返すごとに、桜樹の姿はますます貧相になった。 

 老いた人の禿頭にはえた髪のように、まばらな枝が時折風に吹かれて揺れる。ただ揺れるだけで何の風情もない。

 しかし、桜樹自身は別にそれで構わなかった。腐り落ちて土に還るはずだった抜け落ちた枝は、娘によって新たな形へと生まれ変わったのだから。

「ねえ、そこにいるのでしょう」

 その頃になると、娘はもうすっかり背が伸びて、大人の女性に近づいていた。

 それでも相変わらず娘は木彫りを続けていた。楽しいからしているといった様子もなく、彫るものがあるから彫っているといった調子だった。娘がなぜそんなに木を彫り続けているのか、その理由は桜樹にとってはどうでも良いことだった。

 娘は、桜樹の落とす影に向かって話しかけていた。

 蜩の鳴く晩夏のことだ。西陽を受けて、桜樹の影は濃さを増し、屋敷と庭を囲う築地塀から地面にかかる範囲を黒く塗り潰していた。

「庭師さん」

 桜樹は娘の問いかけに、もし目があったのならゆっくりと閉じた目を開くようにして、意識を向けた。

「私、もうすぐしたら、ここを出ていくの。お嫁に行くの」

 築地塀に伸びた濃い影が、人の形を成した。

 桜樹は、枝を差し出す時のように、人に似せた白い手を伸ばした。濃い影の中で、その手ばかりが、暗い水底で光る魚の腹のように白かった。

「もう、彫らないのか」

「さあ、分からない」

 嫁に行くというのがどういう意味なのか、桜樹にとってはどうでもいいことだった。ただ、彼女がいなくなるのは寂しい、と思った。

「お前から私に話しかけてきたのは、初めてだ。それを伝えるために?」

「そう」

 娘は頷き、「でも、それだけじゃない」とも言った。

「庭師さんは、これを使えと枝を差し出すけれど、何を彫ってほしいのか言ったことはなかった。だから、最後はあなたの好きなものの形に彫ってあげる」

 桜樹は黙った。好きなもの、好きなものとは、一体なんだろう。

 娘は、いつものように、桜樹の根元の間の窪んだ地面に腰を下ろす。娘はそこにうずくまって、ポツポツ言葉を落とした。

「あなたがくれた枝を使って彫った、木彫りの置物たち。時々見ると、姿勢が変わっているし、部屋に置いてあったのに、なくなったり、かと思えば戻ってきたり。不思議なことが起こる。でも、その枝を使って彫る機会もあまり残されていないでしょう。だから、尋ねてるの。なんの形に彫ってほしい」

 桜樹は考えた。好きなものなど特にない。ただ、自分の枝が腐って落ちて地面に還るよりも、彼女の手の中で新たな何かに作り変えられる方が多少はマシだと、なんの理由もなくそう思ったから、枝を差し出しただけに過ぎない。

「思いつかない」

「そう?じゃあ、適当に彫るよ」

「待て」

 その時、桜樹の枝の上に、一話の雀がとまった。小柄な身体を小刻みに動かしながら、忙しなく羽繕いをしている。

「鳥」

 桜樹は言った。

「鳥がいい」

 なぜ、「いい」と思ったのかは、はっきりとしない。ただ、娘は一度も木彫りで鳥を作ったことはない。どうせなら、まだ娘が作ったことのない動物を見たかった。

「私は、鳥が嫌い」

 娘は、桜樹の幹に背中を押しつけて、羽繕いする雀を見上げた。

「籠の鳥という言葉があるけれど、あれって嫌なものね。どこまでも飛べる翼を持つ鳥を、自分で囲っておいて籠の鳥などと哀れんで、ああ、本当に、人って身勝手なものね。そんなふうに人に扱われてる鳥が嫌いよ」

 娘の話してることの意味を、桜樹は捉えきることができなかった。ただ、戸惑った。

「鳥の形に、彫ってはくれないのか」

「そんなことは言ってない。彫ってあげる。枝を頂戴」

 言われるがまま、桜樹は枯れゆく枝を差し出した。娘は懐から使い古した小刀を取り出し、硬い樹皮に刃を当てた。

 サリサリと、薄い木の皮を削る音が聞こえる、ハラハラと、木屑が落ちゆく音が聞こえる。

 何度も何度も聞いた音。けれど最後になるかもしれない音。桜樹は、その音を聞いた。その様を見た。その感覚を味わった。

 娘の手の中で、己の身体であったものが蹂躙されてゆく。切られる、削がれる、剥ぎ取られる、削られる、ならされる、刻まれる。醜い芋虫が蛹となる時、芋虫は蛹の中で、ドロドロに溶けるという。桜樹が味わっているのは、その過程とそう変わらないのかもしれない。娘の手の中で、切り刻まれて再び成形されて、全く別物へと生まれ変わってゆく。

 やがて娘は、手の中に精巧な一羽の鳥を生み落とした。

 ふくふくした可愛らしい雀だった。翼を閉じて、少し首を傾げてキョトンとした目で何者かを見上げている。

 娘は完成した雀を特に眺めもせずに立ち上がると、下駄を脱いで裸足になった。

 幼子の頃のように、木の幹に手をかけて、着物がはだけて素足が晒されるのも気にせず、桜樹へ登る。それに驚いて、本物の雀は何処かへ去ってしまった。

 娘は、木彫りの雀を桜樹の枝の股へ置いた。

「これ、ここに置いてくね」

 木彫りの雀は、キョトンとした様子で娘を見上げている。

「おまえは籠の鳥になっちゃダメ」

 それが、娘と話した最後の言葉だった。

 まだ何度か娘がここに来る時間は残されているははずだと、桜樹は鷹揚に構えていたが、屋敷に娘の気配を感じても、こちらに来ることはなかった。その間、桜樹の枝の上に置かれた木彫りの雀は風に吹かれても雨に降られてもそこから動かなかった。

 やがて、ぷつりと、娘の気配が屋敷から途絶えた。嫁とやらに行ったのだ。

 そうして今度こそ、桜樹に寄りつくものは誰もいなくなった。その静かな時を使って、桜樹はゆっくりと死に向かって行く。

 人は、生きることと死ぬこととの二つしかないような言い方をするが、死んでいくという三つ目の時を桜樹は長く歩んできた。

 生と死の狭間で、桜樹はゆっくり死へ向かう。死んでいく。死んでいく。

 やがて、その長い死へと向かう旅路も終点を迎える。何かの折に芽生え、少しずつ成長していた桜樹の意識は、結局は桜樹の中で途絶えようとしていた。特段それを悲しいとは思わない。

 けれど、まだ娘の笑った顔を見ていなかった。いつか、花を咲かせて、娘に花の雨を見せたかった。それだけが、心残りだろうか。

 それまで決して落ちることのなかった木彫りの雀が、コテンと、桜樹の根元まで転がり落ちた。

 樹齢100年を超える古樹は、とうとうそのまま立ち枯れた。



 


 数年後、誰も住まなくなった屋敷に、若い女性が1人、尋ねてきた。

 かつて屋敷の主人であった男は、子に恵まれることなく世を去った。かつてこの屋敷にも子供の姿はあったが、それは妻が他の男と契って生まれた子供で、男は生涯この子供を愛することはなかった。代わりに養子を引き取り、その男子に事業を継がせた。そして自分はこの屋敷に隠居し、ひっこりと世を去った。

 後を継いだ男子は、古びた屋敷を捨て、郊外に建てた瀟洒な西欧風の屋敷へと越して行った。

 打ち捨てられた屋敷には今、遺品整理のため、かつてこの屋敷で働いていた家令がいるばかりである。そんな屋敷に、かつてここで暮らしていた娘が訪ねてきたのである。

 家令はうやうやしく娘を屋敷に通した。

 娘は、真っ直ぐに枯山水と枯れた桜樹が見える庭へ向かった。

 階を下りて下駄を引っ掛け、白砂を踏んで

 立ち枯れたまま放置されている桜樹の元へ歩む。

 娘は桜樹を注意深く見上げて、それが済むとうろうろと桜樹の根元を、何かを探すようにして、しゃがみ込んだり、目を細めたりしてぐるりと一蹴した。

 地面をずっと見ていたせいで、溢れてきた一房の髪を小ぶりな耳にかける。娘のうなじをすっと汗が流れた。

「やっぱり、なくなってる」

 一つつぶやいて、抜け殻のようになったがらんどうの幹が落とす影へ、娘は話しかけた。

「庭師さん、木彫りの雀は、気に入ってくれた?そうだったら、嬉しいな」

 娘は、笑った。屈託のない笑顔だった。

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桜に彫る。 藤咲メア @kiki33

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