竜舞崎忌憚

銀狐

寂寥の港

 都会の喧騒から逃れるように、田中健二はその古びた漁港に辿り着いた。


 竜舞崎。地図上で見つけたその名は、どこか荒々しく、それでいて神秘的な響きを持っていた。カーナビは正確に目的地を示したが、港へ至る最後の道は、数年前の大津波が生々しく削り取った爪痕を残していた。


 不自然に途切れたガードレール、基礎だけが残る家々の跡地、そして、海に向かって建てられた真新しい慰霊碑。空気は潮の匂いと、陽光に温められたコンクリートの匂い、そして、どこか拭いきれない寂寥感で満ちていた。


 健二は釣りが趣味だった。いや、趣味というよりは、都会での満たされない何かを埋めるための儀式に近い。週末ごとに各地の海や川へ足を運び、竿を出す。魚が釣れるかどうかは二の次で、ただ水面を眺め、糸を垂らしている時間が彼には必要だった。


 竜舞崎を選んだのは、単なる気まぐれと、その名前が持つ響きへの興味からだったが、実際に訪れてみると、その空気は予想以上に重かった。


 平日の昼下がり、港に人影はまばらだった。数人の漁師らしき男たちが、網の手入れをしたり、船のエンジン音を響かせたりしている。彼らの視線は、見慣れぬ都会風の男である健二に一瞬注がれ、すぐに無関心へと戻っていった。


 健二は、防波堤の先端、外海に面した場所に釣り座を構えることにした。足元のコンクリートは比較的新しい。おそらく、津波で破壊された後に再建されたものだろう。その継ぎ目に、以前の古いコンクリートの名残が見えた。


 海は穏やかだった。深い藍色を湛えた水面が、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。沖には養殖筏が浮かび、時折、海鳥が鋭い鳴き声を上げて空を切っていく。風は生暖かく、頬を撫でる。


 平和な光景だ。しかし、健二の心の奥底では、奇妙なざわめきが生まれていた。この美しい海の底に、どれほどの悲しみと無念が沈んでいるのだろうか。そんな感傷が、釣りへの集中を妨げる。


 リールを巻き、仕掛けを投げ入れる。錘が着水し、ゆっくりと沈んでいく感覚が竿を通して伝わってくる。数投繰り返したが、魚信は全くない。まあ、こんなものだろう。健二はクーラーボックスに腰を下ろし、缶コーヒーを開けた。


 ふと、視線を感じた。気のせいかと思ったが、それは確かな感覚だった。周囲を見渡すが、漁師たちは遠く、こちらを見ている様子はない。海鳥か?いや、違う。それは、もっと粘りつくような、湿った視線だった。


 防波堤の根元、ちょうど陸地と繋がるあたり。そこに、誰かいる。


 逆光になっていて、姿ははっきりしない。ただ、長い黒髪の女性のように見えた。波打ち際に佇み、じっとこちらを見ている。


 なぜ、あんな場所に?健二は訝しんだ。観光客だろうか。しかし、その佇まいは、どこか場違いで、異様だった。風もないのに、彼女の髪は重く濡れているように見えた。


 目を凝らそうとした瞬間、彼女はすっと身を翻し、物陰に隠れるように消えた。幻だったのだろうか。いや、確かに人の気配があった。


 健二は首を傾げながらも、再び釣りに意識を戻そうとした。だが、一度感じた奇妙な感覚は、まとわりつくように離れなかった。


 時間が経つにつれ、空は茜色に染まり始めた。海面に映る夕日が、まるで血のように揺らめいている。気温が下がり、潮の香りが一層濃くなる。健二は、そろそろ納竿しようかと考えていた。その時だった。


「…つれた…?」


 か細い声が、すぐ近くで聞こえた。驚いて振り返ると、誰もいない。聞き間違いか?いや、確かに女性の声だった。さっき見た、あの女性の声だろうか。


 背筋に冷たいものが走る。健二は急いで道具を片付け始めた。早くこの場所から立ち去りたい。焦りが募る。リールを巻く手が震える。


 ザバリ、と。すぐ足元の海面で、何かが跳ねるような音がした。魚か?だが、音はもっと重く、鈍い。健二は恐る恐る、暗くなり始めた水面を覗き込んだ。


 それは、魚ではなかった。


 ゆらり、と。水面に浮かぶ、人の顔。蒼白く膨れ上がり、虚ろな目がこちらを見上げている。長い髪が海藻のように漂い、口がわずかに開いている。それは、明らかに水死体だった。


「ひっ…!」


 健二は短い悲鳴を上げ、尻餅をついた。心臓が激しく脈打つ。警察に、いや、誰かに知らせなければ。震える手で携帯電話を取り出そうとした、その時。


 水面の顔が、ゆっくりと口を開いた。


「…まだ…いる…」


 声にならない声が、泡と共に水面へ浮かび上がる。健二は恐怖に金縛りになりながら、それを見つめることしかできなかった。


 夕闇が急速に濃くなり、港全体が不気味な静寂に包まれていく。遠くで、濡れた髪の女が、再びこちらを見ているような気がした。




 腰を抜かした健二が、ようやく立ち上がることができたのは、完全に日が落ちてからだった。足元の水面には、もう何も見えない。ただ、深い闇が広がっているだけだ。


 しかし、あの蒼白い顔と虚ろな目は、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。「まだいる」という声が、耳の奥で反響している。


 幻覚だったのだろうか。疲れと、この土地の持つ重い記憶が生み出した妄想?そう思おうとしても、恐怖は消えない。手足の震えが止まらなかった。


 健二は、ヘッドライトの明かりを頼りに、逃げるように防波堤を歩き始めた。背後から、誰かについてこられているような気がして、何度も振り返るが、そこには濃い闇があるだけだ。波の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 防波堤の根元に差し掛かった時、健二は息を呑んだ。


 昼間、女が立っていた場所に、再び人影があった。今度ははっきりと見える。それは、やはり長い黒髪の女だった。


 全身がぐっしょりと濡れており、着ている白いワンピースのような服が肌に張り付いている。髪からは、ぽたぽたと水滴が滴り落ち、足元に小さな水たまりを作っていた。


「…帰りませんか」


 女が、静かに言った。その声は、先ほど水面から聞こえた声とは違う。澄んでいるが、どこか抑揚がなく、冷たい響きを持っていた。


 顔立ちは整っている。だが、その美しさは、人間離れしていて、どこか作り物めいていた。そして何より、その目が異様だった。闇の中でも、爛々と光っているように見える。爬虫類のような、冷たい光。


 健二は後ずさった。この女は、普通ではない。


「あ、あの…さっき、海に…」


 健二が言いかけると、女はゆっくりと首を横に振った。


「見てはいけないものを、見てしまいましたね」


 女の声は、責めるようでもなく、同情するようでもなく、ただ事実を告げるように淡々としていた。


「あれは、まだ此処にいたい者たち。海が、返してくれないのです」


「か、返してくれないって…」


「この海は、多くを呑み込みました。喜びも、悲しみも、そして命も。一度呑み込んだものを、そう簡単には手放さない」


 女は、健二のすぐそばまで近づいてきた。強い磯の匂いと、生臭いような、腐敗臭にも似た匂いが鼻をつく。健二は、恐怖で身動きが取れなかった。


「あなたも、気をつけた方がいい。この海に魅入られると、帰れなくなりますよ」


 女の濡れた指先が、健二の腕に触れた。氷のように冷たい。その瞬間、健二は全身の血が凍るような感覚に襲われた。


「ひぃっ!」


 健二は、女の手を振り払い、我武者羅に走り出した。背後で、女の低い笑い声が聞こえたような気がした。


 駐車場に停めてあった自分の車に転がり込み、震える手でエンジンをかける。


 バックミラーで後方を確認するが、女の姿は見えない。しかし、ヘッドライトに照らされた防波堤の入り口に、いくつもの黒い影が蠢いているのが見えた。それは、人影のようにも、歪んだ何かのようにも見えた。


 波の音に混じって、うめき声や、すすり泣くような声が聞こえてくる。


 健二はアクセルを強く踏み込み、漁港を後にした。タイヤが砂利を跳ね上げる音が、やけに大きく響いた。


 ルームミラーに映る竜舞崎は、もう闇の中に沈んで見えない。しかし、助手席の窓ガラスに、びっしょりと濡れた長い髪の毛が数本、張り付いているのを、健二は見つけてしまった。




 あの夜以来、健二は眠れない日が続いていた。瞼を閉じれば、蒼白い水死体の顔と、濡れた髪の女の冷たい目が浮かんでくる。


 耳の奥では、波の音と、すすり泣く声が止まない。都会の自宅マンションにいても、常に誰かに見られているような気がした。そして、時折、部屋の中に、生臭い潮の匂いが漂うことがあった。


 釣りの道具は、玄関に置かれたままで、触れる気にもなれなかった。特に、あの夜に使った竿とリールは、まるで呪われているかのように感じられた。


 ある夜、健二は悪夢にうなされた。夢の中で、彼は再び竜舞崎の防波堤に立っていた。夜の海は、不気味なほど静まり返っている。


 足元には、数えきれないほどの水死体が浮かび、ゆらゆらと揺れている。彼らは皆、虚ろな目で健二を見上げ、口々に「まだ、ここにいる」と呟いていた。


 そして、彼の隣には、あの濡れた髪の女が立っていた。女は、静かに微笑んでいる。その微笑みは、恐ろしく冷たく、底知れない闇を湛えていた。


「あなたも、こちらへ来ませんか」


 女が、濡れた手を差し伸べてくる。その手を取りそうになった瞬間、女の姿がぐにゃりと歪んだ。白いワンピースが剥がれ落ち、現れたのは、人間の上半身と、ぬらぬらと光る巨大な蛇の下半身を持つ異形の姿だった。


 長く濡れた黒髪はそのままに、しかしその瞳は完全に爬虫類のものとなり、縦に裂けた瞳孔が、冷酷な光を放っていた。胴体である蛇の鱗は、濡れて青黒く光り、不気味な模様を描いている。


「ひっ…!」


 健二が悲鳴を上げて後ずさると、半人半蛇の女 -濡れ女は、長い舌をちろちろとさせ、低い声で言った。


「海は、寂しいのです。もっと、もっと、欲しいのです」


 その言葉と共に、海中から無数の手が伸びてきて、健二の足首を掴んだ。冷たく、腐りかけた肉の感触。健二は海中に引きずり込まれそうになる。


「やめろ!離せ!」


 必死にもがく健二の耳元で、濡れ女は囁いた。


「あなたは、見てしまった。聞いてしまった。もう、逃れられませんよ…」


 そこで健二は、飛び起きた。全身に冷たい汗をかいている。心臓は激しく波打ち、呼吸は浅く速い。窓の外は、まだ暗い。部屋の中には、やはりあの生臭い潮の匂いが、濃く漂っていた。


 健二は悟った。あれは、ただの悪夢ではない。あの女は、あの海は、自分を呼んでいるのだと。竜舞崎で見たもの、聞いたもの、触れたもの。それらは健二の一部となり、彼を蝕み始めていた。


 窓の外、遠くでサイレンの音が聞こえる。日常の音のはずなのに、今の健二には、海の底から響いてくる呻き声のようにしか聞こえなかった。


 立ち上がり、窓辺に寄る。ガラスに映る自分の顔は、蒼白く、憔悴しきっていた。その瞳の奥に、暗い海の揺らめきが見えるような気がした。


 ふと、床に落ちているものに気づく。それは、黒く、艶のある、小さな鱗だった。魚の鱗ではない。もっと硬質で、青みがかった光沢を放っている。まるで、蛇の鱗のようだ。


 健二は、それを拾い上げることもできず、ただ立ち尽くしていた。


 潮の匂いは、もう消えることはないだろう。そして、いつか自分は、あの海へ、あの女の元へ、引き寄せられていくのかもしれない。そんな予感が、冷たい確信となって、健二の心を支配し始めていた。


 竜舞崎の海は、今日も静かに、新たな獲物を待っている。その深く、暗い水底で、数えきれない無念と共に、濡れた髪の女が、じっと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

竜舞崎忌憚 銀狐 @zzzpinkcat009zzz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ