白河雛千代

第1話

「人間って、自分の顔見れないんだって。知ってた?」

「そうなんだ」

「鏡はさ、左右反転するじゃん……まー実はあれも正しく言うと、左右ってのは定義の問題なんだけど、それはさておき」

「え、そっちのが気になるんだけど」

「暇な時、調べてみ。前後が反転する場合もある」

「マジか……鏡やべぇ」

「とにかく、写真で撮れば一応こんな顔なんだって知れるけど、でも肉眼で確かめてるわけじゃない」

「あ、だから、鏡で見る時と写真の時で、なんか違うってなるんだ?」

「そうそう。鏡の顔の方がさ、自分では良かったりして、写真で見るとこんなもんか……って落ち込んだりするよね。あれは実は違うものだから」

 大学の友人がそんなことを言っていた。その友人は雑学に詳しく、僕にそうしてよく教えてくれたものだった。他には携帯の声は本人のものではないとか。

 僕の自室のドアにはちょうどよく姿見があるので、確かめてみることにした。といって、ただ鏡の中の自分を見ているだけでは、いつもと変わらない。

「あ、そうだ。並んで撮ってみればいいじゃん、僕、あったまいい」

 思い立って、鏡の横に並んで一枚写真に収め、自分の顔を見比べてみることにする。パシャリ。鏡の前の僕は申し訳なさげにピースまでしているが、鏡の中の僕は音沙汰がなく、つまらなさそうにこっちを見ている。

 やはりなにか違うようだ。

「おまえはだれだ?」

 僕は尋ねてみる。実はこれもその友人に教えてもらったことで、鏡の前でやってはいけないことの一つだった。

 何でも精神に異常を来してしまうとか。だが、そんなことを気にする僕ではない。僕は繰り返し、繰り返し、鏡の中のやる気のなさそうな僕に問いかけた。

「誰なんだよ、お前。僕? 僕は僕だよ? でも、お前は違うじゃん。だって、逆だし。そうだろ?」

 しばらくそんな風に続けると、ふと僕の声の後にも声が続いた。

「あ、もう真似してなくていいの? 疲れたー、だーりぃー。マジで助かるわ。だって考えてもみて? 写○眼かよってことを延々とやってるの、俺たち。君たちがさー、好き勝手動き回るのを読んで、ぴったり合わせなきゃいけないわけ。しかも二十四時間。これはキツいよ……」

 僕は目を擦る。夢かと思った。けれど、今、僕の目の前で実際に鏡の中の僕は脱力し、あまつさえ床に敷かれた万年布団にお尻をついて、更に煙草を吸い出している。

 基本僕はPCの置いてある自室では煙草を吸わない。こういうところもお構いなしのようだった。

「へぇ、結構ラフなんだ……」

「そりゃ俺、お前の反転だからね。初めましてでも他人の前でも遠慮しないよ、こっちの俺は。そっちのお前はおっかなびっくりだろうけど」

 僕は頬を叩いてみる。鏡の僕はそんな僕を見て快活に笑うと、最後に深く紫煙を吸い込んで、立ち上がった。

「よし、じゃ、行くわ俺」

「え、どこへ?」

「もう気付いちゃったんだろ? 俺たち別人だって。だったら俺は晴れてお役御免ってわけ。俺はこっちで適当にやってくから」

「ああ、えと……そうなんだ。え、それって大丈夫なの?」

「なにが?」

「いや、離れちゃっても」

「言ったろ。反転してるだけで別人だから、俺たち。それに鏡に映らないことくらいがなんだっていうの。あ、だからって、顔洗わなくていいかーってことじゃないから。顔はきちんとついてるから。毛の処理も毎日やるんだぞー。じゃあな」

 最後にそう言うと、鏡の僕はその外に去っていって、僕は慌てて鏡の中を覗いてみるけれど、もう姿はどこにもなかった。

 その日から僕は鏡に映らなくなった。

 けれども、だからって何がどう変わったというわけでもなかった。元々僕はときどき思い立ってこういう突飛な行動はしても、毎日メイクが必要なような遊んでいる生活を送っていたわけでもなく、むしろ自分が鏡に映らないことで、何だか気をつかう必要がなくなったというか、より気楽になれたようにさえ思えたのだった。

 しかしそんなある日、奇妙なことが起きた。

 大学生である僕は午後の講義のために遅く起きて、だらだらと学校に向かっていると、道の向こうから来る知り合いに声をかけられた。

「あれ? え、なんでこっちから来るの?」

「は?」

 一人が言い出すと、他の面々も声を上げ始める。

「いや、お前さっきB棟にいたじゃん」

「なんのはなし? 僕、さっき起きてこれから行くとこなんだけど」

「はぁ? え、嘘だろ。だってお前B棟にいたじゃん」

「えぇ……誰か僕に似てる人なんてウチにいたっけ?」

 その日はそうやって雑なはぐらかしで済ませられたけれど、立て続けに二回、三回と起き続けるとそうも言っていられない。

 僕の知らない僕の目撃談は日増しに相次ぐようになった。

 どこそこの古着屋にいたとか、カラオケ店に入ったばかりで店員に名前を確認されたりだとか。

 居酒屋のトイレ、家具屋、大学の階段の踊り場、行く先々で身に覚えのない発見例が報告されて、僕は困惑する。

 僕はそうなるに至った一切合切を例の友人に報告した。

「まさか、こんなことになるなんて……」

「目撃例はトイレ、服屋、階段の踊り場に……あとは?」

「だいたいそんなとこ」

「道端ではないんだ」

「ないねー。そういえば」

「十中八九、鏡だね。てかそれしかないし。鏡の中の君が好き勝手に移動できるようになってエンジョイしてんだよ。ほっとけば? 悪さしてるわけでもないんでしょ?」

「まぁ……そうだけど」

 しかし、である。

 そんな僕でも聞き捨てならない目撃談を聞いて、いよいよ僕は、鏡の中の自分探しに奔走することになった。

 というのも、今、鏡の中の僕には彼女がいるらしい。大人しそうな女の子といるところを何度も目撃されているのだった。

 これは許せない。

 鏡の外の僕にはいないのに、いったいぜんたいどういう了見だと、僕はしゃにむに人伝に情報を求めては、鏡のある場所を転々として、そしてついに見つけ出した。

「やい、貴様。本体の僕を差し置いて、健気で慎ましい彼女を連れているとはどういうことだ」

「あ、久しぶりー? ……え? そう。コイツ、鏡の外の俺。ちょっと貧相だろ? まぁそのおかげで俺があるんだけど」

「女の子と話してないで、話を聞け」

 鏡の中には話通りに従順そうな女の子が一緒に映っていた。見るからに仲睦まじげで、僕の怒りは五山送り火のごとく燃え上がった。

「まぁまぁ。それはこちらのセリフだね。落ち着いて、少し考えてみろよ」

「どういうことだ」

「この子は経済学部のA子だよ。実際にそっちにも本体がいる。で、こっちの世界で捕まえられてるってことはだ」

「僕にもワンチャンある?!」

「そゆこと」

「でも、僕はお前の反転だ。遊び人みたいにはできないんだ」

「じゃあ、鏡の前に連れてこい。その時だけ、俺がお前の代わりに動いてやるよ。前みたいに。元は鏡の外と内なんだから、できるはずだ」

「なるほど」

 僕はさっそく鏡の外のA子の元に向かい、頭を下げて、鏡の前に引っ張ってくると、鏡の中の自分に向かい、目で合図してみせた。

 すると、鏡の中の僕がそうするように、勝手に身体が動き始めて、遊び慣れた手つきでA子をデートに誘ったのである。

 これは上手くいくかに思われた次の瞬間、張り手が飛んできた。

「人のこと無理やり連れてきて何かと思ったら! さいってい! アンタのこと学内で言いふらしてやるから。地獄に落としてやる」

 話が違うと思いきや、僕はようやく気付いた。

 鏡は反転する。鏡の中で大人しそうに見えたのなら、こっちの彼女は……。

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白河雛千代 @Shirohinagic

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