エピローグ
「えっ、それだけ?」
鳥海山をのぞむ国道で、スポーツカーの助手席に座った彼女は、ずいぶんもの足らなそうだった。
「それだけだ。ドゥカティの女とはドライブインで別れた。俺は秋田の大学寮に、彼女は十六羅漢像に沿って旧道を走っていった」
「ふぅ……ん」
彼女はそれ以上何もいわなかった。いい話ともなんとも、
たぬきみたいな垂れ目は山の景観でなく私にそそがれ、何か考えているふうだった。
もしかして——
ブルーラインで私を抜きさった女性ライダーが、彼女にもインパクトを与えたのだろうかと考えた。
俺とその女は何本か煙草を灰にしたあと、そのまま別れた。
それからブルーラインでも別の街道でも行き合ったことはない。
あれから長い長い時間が経っている。
二十歳だった私がオヤジと呼ばれる年齢なのだから、あの女は50の坂を超えているだろう。
無事でいるなら。
走り屋仲間でも鬼籍にはいったヤツを知っている。何人も。
鈴鹿のコーナーを切りぬけた
深夜の国道を大型バイクで走行中、対向車線を右折してきたトレーラーと接触、マシンからふり飛ばされ後続車に轢きつぶされたそうだ。
事故の瞬間、何かが過るのだろうか?
一瞬の魔のような何か……
魔物に目をつけられるとどんなライダーものがれられない、どんな歴戦の勇者——優れたテクニックを持ってしても無駄なのか。
いや、それでも——
無事でいてほしい。無事でいるはずだ、あの
(ピピルマ ピピルマ プリリンパ パパレホ……)
「え、今なんて言ったの? ケンちゃん」
おかしい聴きとられるはずがない。
呪文を唱えたのは二十歳の俺だ。
十六羅漢に向かって疾走する
若造の感傷なんて、思い出しても恥ずかしいぞ。
時空を超えた羞恥心をごまかすためにも私はこう言った。
「生まれたら、親子三人して鈴鹿に行こう」
「鈴鹿って8耐のこと?」
たぬきみたいな目をおおきくする。
「来年日本グランプリだ。赤ん坊のうちに、世界最速の
「情操って、な……」
彼女はよほど呆れたのか? ため息が、空中でエンストしたような……。
「なんだよ?」
「ケンちゃんに言ってたっけ? あたしが思い立ってバイクの免許を取ったの、大藪春彦の汚れた英雄読んだからだって」
彼女の告白も、けっこうレアだぞ。そんなの聞いたことない、どこにそんな女が……
「いや、そ——そうだったのか?」
「キタノアキ……ま、いっかあ」
彼女は何か言いかけてやめ、
黙って、鳥海山の側面を——私の歴戦のコースをながめている。
私の青春のブルーライン、
まるで、かつて恋した女のような。
真紅のドゥカティで、俺を抜き去っていった……。
真紅のドゥカティで俺を抜き去っていった 宝井星居 @yohinoyume
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