第50話:珈琲の味、今日も変わらず
朝、窓を開けると、潮の香りがふわりと漂ってきた。
空はやわらかく青く、風は少しだけ熱を帯びている。夏が、ほんの少し深まっていた。
なぎはすでにカウンターの上で丸くなっていた。
片耳だけこちらに向けて、こちらの動きを確かめている。
「おはよう、なぎ」
声をかけると、なぎはゆっくりと伸びをして、目を細めた。
その何気ない仕草が、今日も店を始められる合図のように思えた。
焙煎機に火を入れ、豆を選び、ゆっくりと空気を馴染ませていく。
開店準備はもう、体が自然に動くようになっていた。
ドアベルが鳴ったのは、十時ちょうど。
最初の客は、見慣れた画家の常連だった。
「空がいい色でね。ここで一杯飲んでからじゃないと、筆が進まない気がして」
「今日は少し浅めに淹れてみましょうか」
「ええ、それがいい」
珈琲を淹れる手は変わらない。でも、注ぐ気持ちは少しずつ変わっていく。
それでも味は、ちゃんと“ここ”にある。
午後、さゆりがランドセルを置いて入ってきた。
「暑かったー。でも今日は、絶対ミルク珈琲の気分だったんだよね」
「じゃあ、いつもより氷を多めにしてみようか」
「やった!」
窓際の席に座る彼女は、いつも通りで、でもちょっとだけ成長して見えた。
言葉の間の取り方や、表情の落ち着きが、少しずつ変わっている。
けれど、ミルク珈琲を飲むときの嬉しそうな顔は、前と変わらなかった。
「誠さんってさ、これからもここでずっと珈琲淹れるの?」
「そうだね。たぶん、明日も、来年も。
誰かが飲みに来てくれる限りは、きっと」
「……よかった。じゃあ、また明日も来るかもしれない」
彼女はそう言って笑い、なぎに手を振った。
なぎはゆっくりとあくびをして、視線だけで応えていた。
夕方には、町の人たちがぽつぽつと訪れた。
誰もが特別な話をするわけでもなく、珈琲を飲んで、少しの時間を過ごして、そして帰っていった。
そのすべてが、この店の“日常”だった。
閉店後、帳簿を開いて、静かに今日のことを記す。
《今日も変わらず珈琲を淹れた。
猫がいて、人が来て、風が吹いて、味がそこにあった。
なにも変わらないことが、なによりも嬉しい一日だった。
この店は、今日もここにあった》
カウンターの下、なぎが僕の足元に寄ってきた。
そっと体を丸め、店の静けさのなかに身を預ける。
明日も、たぶん、同じように始まる。
誰かが来て、珈琲を飲み、猫がいて、風が吹く。
その繰り返しのなかに、確かな日々がある。
それは何も特別じゃないけれど、とても豊かで、静かで、やさしいものだ。
この海辺の喫茶店には、猫がいる。
そして、今日も変わらない珈琲の味が、誰かを待っている。
海辺の喫茶店には猫がいる るいす @ruis
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