春の夜の
悠犬
夢ばかりなる手枕に
憶えていますか、あの日のことを。二人で初めて桜を見た日のことです。
あの日は三月も終わり頃で、つい二、三週間前まで厚手のコートが必要な寒さだったのに、急に暖かく朗らかな陽気となりました。
バス停の前で貴方を待っている間、視界の端に満開の桜で彩られた公園がちらちらと映っていました。
三、四台のバスを見送った後、貴方を乗せたバスが停まりました。バスから降りてきた貴方は、ごめん、遅くなった、と一言。待ち遠しかったです。けれども貴方の顔を見て、声を聴いた途端、そんな気持ちは嬉しさに押し出されてしまいました。
私は貴方の手を握り、引っ張るようにして公園まで歩きました。
ピンクや白の可愛らしい花を咲かせた桜があちこちに枝を伸ばし、空も床も染め上げています。その木の下で、花見客がまばらにシートを敷いて、くつろいでいるのが見えました。
私たちも同じように、木陰に陣取ってお弁当を広げました。
色とりどりのおかずに、大きさの不揃いなおにぎり。おかずは私が、おにぎりは貴方が用意したものです。形が不格好なのが、不器用で大らかな貴方らしく、とても愛おしく思われました。
お昼ごはんを終えて、天気が良くて心地の良い日でしたから、二人とも眠たくなって、肩にもたれかかって少しの間そうしてぼうっとしていました。
目に映るのは輪郭のぼやけた桜と隙間から覗く淡い青空。
聞こえるのはそよ風、葉擦れ、そして貴方の囁くような呼吸の音。幸せとは、このことを言うのではないでしょうか。
少し日が傾いてきた頃、私は貴方に手を引かれて公園を出ました。そして、どこか二人だけになれる場所を探して駅へと向かいました。
幸い、駅のすぐ側にその場所はありました。部屋に入り、靴を脱いでベッドの上に寝転がりました。その後は一緒に映画を観たり、くだらない話をしたり。
そう、この時、私は貴方と初めて口づけを交わしました。私は緊張と少しばかりの恐怖のあまり、目を瞑ってしまいました。
キスの感触も、その時の貴方の顔もあまり記憶に残っていないのですが、つよく握った貴方の手が、少し震えていたのを確かに憶えています。
それと、貴方の腕枕。線の細い人だと思っていたので、予想外にがっしりとした腕に頭を任せた時、あぁ、貴方も男なのだと思いました。
チェックアウトを済ませ、外に出ると、もう夜になっていました。けれどもあちこちに建物の灯りがチカチカと光って、人々が行き交っているので、夜の寂しさというものはありませんでした。火照った体に、夜風が心地よかったです。
私たちはまた、あの公園へと向かいました。駅の喧騒がだんだんと遠ざかり、建物の輪郭も、薄暗い夜の中に溶けていきました。
家々の立ち並ぶ通りを抜けると、十字路の対角線に公園の入り口が見えました。私たちの他に人はおらず、昼間とは雰囲気ががらりと違います。街灯が桜を照らし、夜空には端の欠けた月が輝いていました。
その下を二人で歩いて見て周り、あまり会話はありませんでしたが、繋いだ手から、貴方の温もりが伝わってきました。
写真を撮ったのを憶えていますか? 桜、月、そして、貴方。この景色を残しておきたかったのです。今も残っています。
それから、同じバスに乗って、私の家まで送ってくれました。
ドアの前で、お別れのキスをしました。柔らかな唇でした。貴方の目が、少し潤んでいるのが見えました。別れたくなかった。
今年は随分と冷え込みますね。どうか、風邪など引かないようにお気をつけください。
春の夜の 悠犬 @Mahmud
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます