ダンスと犬

夜市川 鞠

第1話

―――ダンスが死んだ。


 昨日、階段から転げ落ちて足首を捻挫さした。1ヶ月前に捻挫して、固定からテーピングになり、もうすぐで完治というところだったのに。また同じ左足をやってしまった。顔には大きなあざができ、もう今日の舞台には立てない。

 午後八時、点滅する街頭に照らされ、空を仰ぐ。白い息の中に、オリオン座を見つけた。今頃、天下無双の友人たちは拍手喝采を浴びているだろう。

 松葉杖にこつん、と何かが当たって、振り向くと真っ黒な大型犬がいた。短毛のゴールデンレトリバーのような犬。彼の漆黒ビー玉のような瞳の中には私の姿がはっきりと映っている。

 びっくりして慌てて逃げようにも、この足ではどうしようもなく、バランスを崩して転倒する。右足に負担がかかる。やってしまったと思った。

 黒くて大きな犬が私に近づいてくる。狂犬病、という文字が頭に浮かぶ。噛みつかれでもしたら、私はもう―――。

 ところが、黒い犬は私の前でちょこんと座った。ちょこん、というのもおかしいかもしれないけれど、静かに私に寄り添った。


「ごめんねってこと? でもきみのせいだよ」


 よく見ると、黒い体は痩せ細っていて、骨に皮をつけただけのようだった。そして、真っ赤な首輪をつけていた。迷子の子猫ならぬ子犬、ならぬ大型犬なのだろうか。

 奇遇だね、私も今日、きみと同じような真っ赤なチョーカーと衣装を着て、踊る予定だったよ。

 不思議な縁を感じた私は、しょうがないなぁ、と腰を上げる。ただの平行コンクリート地面が、針地獄みたいだ。


「うち来る?」


 よろけながら立ち上がり歩き出すと、犬も同じようにしてよろよろとついてきた。




 とりあえず家で匿ったものの、ここ、ペットOKだったっけ。だめだった気もする。ただ、吠えることもなくおとなしくしているから暫くはバレないだろう。

 そんなことを考えながら床をふと見て絶句する。真っ白でふわふわのカーペットが土色になっており、玄関で待っていてねと言っていたはずの犬が私を見上げている。

 

「ぎゃあああ! 待っていてって言ったのに! 黒いから汚れてるの気づかなかったよもうお風呂来て!」


 私は足を引き摺りながら犬を押し出すようにして風呂場へ連れて行き、シャワーをかけた。犬が噴き出す水に向かって吠え出す。私が叫ぶ。泥水が飛んで便器まで汚れる。もう散々すぎて、絶対バレたじゃん、と声を上げて笑った。

 人間のシャンプーとか使っても大丈夫なんだっけ、と思いながら、ゴシゴシと泡を立てる。身震いをされて、四方八方に泡が飛び散り、小さなシャボン玉がぷかぷかと漂う。そんなことには、もう動じなくなっていた。泡が散ったところで、ユニットバスはすでに泥だらけなのだから。

 彼がシルクのような身なりを手に入れた頃には、足が痛いことも、舞台に立てなくなったことも全部が吹き飛んでいた。


***


 アパートにやってきたこの真っ黒な犬を、私は「ダンス」と名付けた。あれから踊ろうとするたびに捻挫を繰り返し、舞台を降りざるを得なかった私は、私のダンス人生と引き換えに現れた真っ黒な天使に皮肉のつもりでダンスを託した。だって犬は踊れないから。

 踊れない犬と、踊れなくなった私。私の人生から消えた名詞を、私は今日も呼ぶ。


「おいで、ダンス」


 彼と出会った翌日、彼を動物病院へ連れて行った。本当は出会ったその日にそうすべきだったと、先生に指摘された。幸運なことに、彼は痩せている以外は極めて健康だった。

 暫くしても飼い主が見つからなかったことから、そのまま私が引き取ることになった。

 近づいてきたダンスを布団の中に引き摺り込み、ぬいぐるみを抱きしめるようにして眠る。暖かな温もりが、私から無くしたものを埋めてくれる。



 ダンスが家族になってから、二年の歳月が流れた。いつからか、彼はよく変なステップを踏むようになった。タタッタカタッタタッ。それは踊っているように見えた。踊れないはずの犬にダンスとつけたから私たちは同じものになれたのに。

 とはいえ、その変なリズムを聴いていると、私の踊り子魂は騒いだ。ダンスは私の後をつけては、踊ろうよ、と言った。洗濯物を干している時は手で音を掴み、料理をしている時はバレエの足取りだった。ダンスと共に私は踊った。犬も踊れるんだと気づいて、今更ながら、酷い名前のつけ方をしてしまったと思った。


―――ダンスが死んだ。


 ある夜のこと、布団のなかでいつものように抱きしめるようにして一緒に寝ていると、ダンスは駆け上がるようにして空へと旅立ってしまった。

 ダンスの鼓動が弱くなり、慌てて動物病院へ電話をかけるも深夜だったので応答せず、慌ててネットで蘇生法を調べて泣きながら実施するも、もう彼は帰ってこなかった。濁った視界に私が映っている。

 病院から折り返しがあり、症状を伝えると、腫瘍があったのでは、と伝えられた。腫瘍。あの変な足取りは、踊っていたのではなく病気の症状だったのかと唖然とする。


 ダンス。ダンス。ダンス。私の、ダンス。


 踊る喜びを取り戻してなお、私は人生で再びきみダンスを失ってしまった。

 踊れないきみにダンスを託したんじゃなくて、本当は、世界で1番好きだったから、きみにダンスと名付けたことにしてもいいだろうか。いや、初めから、きっとそうだったのだ。だから私は、きみにダンスと名付けた。ダンスを託した。

 私は踊れなくなったわけではない。踊らないと自分で決めたのだ。あの日、私のいない舞台で友人たちが団体賞をもらった時から。エースだった私がいなくても、いいんだって気づいたその日から。

 私は、もう一度、もう一度だけでいい。私の人生にダンスを取り戻したい。もう二度と、失わないために。


「ダンス、行ってくるね」


 私の手には、ダンススクールのチラシが握られていた。扉を開ける。一歩踏み出す。あの夜のように、オリオン座が綺麗に見えた。


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ダンスと犬 夜市川 鞠 @Nemuko3

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