霧に棲む花

華周夏

うつくしいひと


「君は植物みたいだ」呟くように夏樹は言った。彼女は柔らかい声で、うふふ、と笑うと、身体の向きを変え、上目づかいに夏樹を見つめた。すっぽりと横を向いた夏樹の胸に納まった彼女は甘えるように、夏樹に問いかけた。

「ねえ、本当に私が植物だったらどうするの?」

口元の微笑みが綺麗だ。夏樹がこの言葉を思ってしまうのは初めてではなかった。今日はつい、呟いてしまった。彼女を抱いた後に、夏樹は思う。何処か懐かしい甘い匂いがする、彼女の胸。白い四肢。彼女の完璧すぎる美しさに、自分が彼女に引き寄せられる虫ように感じる。

基本、彼女の身体はいつも冷たい。そして、どんなに夏樹が激しく彼女を抱いても、彼女は汗をほとんどかかない。ただ、苦しそうに息を上げ、涙ぐみ、細い手足を夏樹の身体にするりと絡ませるだけだ。それは夏樹にとって、決して不快なものではない。むしろ心地良いのだけれど、冷たい彼女の身体を肌で感じて思ってしまう。まるで、植物を抱いているみたいだと。さらに言えば、彼女を抱くたびに、彼女という植物を殺しているみたいだと。

***

彼女との出会いは雨の日だった。3ヶ月前くらいだろうか。たまたまスーパーで目に留まった小さな山梔子。花は一輪しかついていなくて、値下げ札がついていた。夏樹はすぐその山梔子を買った。山梔子の花が『苦しい』と言っているようで可哀想に見えた。独り暮しの狭いアパート。ベランダですぐに植え替えをした。

長い時間、小さな植木鉢に入っていたせいか、根が張って新しい植木鉢に植え替えるのも大変だった。ベランダにある、いつ買ったかも身に覚えがない植木鉢に山梔子を植え替えた。綺麗な柄の植木鉢は山梔子に似合った。

彼女もなく、ただ毎日バイト先と大学とスーパーとアパートを行き来する夏樹にとって、山梔子の手入れをするのは楽しかった。

小さな植木鉢の葉を蛾の幼虫が食い荒らしていたから指でつまんだ。足で踏み潰してもよかったが、何となく、植木鉢の山梔子が『もう、いいよ』と言った気がしたから、ぽいっと虫をベランダ越しに遠くへ投げた。

暫くして山梔子は2輪目の花をつけた。ある、霧の深い日、久々に街の園芸品店に山梔子の為の固形肥料を買いに行ったら、道に迷った。霧が一層濃くなった時、君に出会った。

『ここら辺、住宅街だから迷うの。霧が収まれば帰れるから。良かったら家に来る?』

案内された彼女の家は清潔で片付いていたが簡素だった。物が少ない。今流行りのミニマリストなのかなと思った。

『お茶の代わり。ごめんね』

すまなそうに水のペットボトルを差し出す彼女が小さく見えた。水は柔らかな口あたりで甘い香りがした。

『この水、美味しいね。』

と言うと、彼女は笑った。

夏樹は未だに彼女の家が解らない。霧の日は吸い寄せられるように解るのに。そして、彼女は名前を教えてくれない。

『いつか、解る日が来るよ』

まるで、知ったその時がお別れのような彼女の口ぶりだった。夏樹は、

『解らなくていい。言いたくないなら言わなくていい。また、会えない?』

『霧の深い日に』

『そうか、毎日霧になればいいね』

そういって、その日も甘く美味しい、ペットボトルの水を飲み干した。

霧の深い日には必ず彼女に会いに行った。ミネラルウォーターを差し入れに。夏樹は彼女に、『恋人になって欲しい』とぎこちなく伝えた。ろくに女性と付き合ったことがない夏樹には、彼女のような美しい人が恋人になってくれたら、と思っていた。きっとやんわり断られるのがヲチだと半分以上諦めていた。彼女は『ずっと、何があっても私を嫌わないで』おねがい……。と言い、声を潤ませ夏樹を見つめた。

***

自分の恋人を植物のように感じるなんておかしなことだと自分でも思う。けれど夏樹は確かに彼女を愛していたし、先に『触れて』と言ったのは彼女の方だった。

彼女の部屋は、いつも早朝の陽の昇る前の暗がりのように空気が青白い。温度も、空気も、非現実の中の霧の中の隠れ家のようだ。彼女はやさしく、美しい。話題も豊富で、頭も良い。ただ、何かが欠けている。有機的な──動物的な温かさがないのだ。

「聞いてる?」

彼女の問いは何だった? そうだ、『ねえ、本当に私が植物だったらどうするの? 』だった。

「聞いてるよ。きちんと栄養剤を買って、毎日お水をやって世話して、長生きさせる、かなあ。」

彼女は嬉しそうに微笑した。

「やさしいのね。」

そう言い、満足気な顔をして目を閉じた。暫くの沈黙が続く。規則的な呼吸。けれど、完全に寝入っていないことが何となく解る。微睡む彼女を起こさない様に、ベッドから起きる。深夜、ようやく落ちるように眠りについた彼女の口元は、嬉しそうに見えた。夏樹が悪戯に彼女の頬に指先で触れると、ふふっとあどけない顔をして眠る彼女が笑った。

***

ペットボトルを開け、水を飲み終わり、辺りを見回しふと、気づいた。不自然すぎて気づかなかった。ここには、冷蔵庫がない、ガスも、コップも、皿1つない。生活に必要なものが何もない! 最初の違和感は、間違いじゃなかった。ミニマリスト? そんなわけがない! 

「夏樹、どうしたの?」

怖い夢でもみたの? そう、彼女は心配そうに言った。

「近寄んな! 何だよこの部屋! 何にもない。飲み物も、食い物も。あんたとここの部屋に来てすることは水飲んで『やる』だけ。ここあんたのヤリ部屋かよ! きっと何人も男連れ込んで、ヤルことやってたんだろ。あんたを信じてたのに! あんたが好きだったのに! 騙しやがって! 」

とぎれとぎれ、消えゆくように、言葉を繋ぎ、彼女は振り絞るように言った。

『あなた、は、私を助けて、くれた。私には、あなただけ……』

彼女は『信じて……』そう言い、それから彼女は黙ったまま。夏樹の罵声や散々な傷つけるだけの言葉を、首を左右に振り口を押さえて泣いていた。

『何だよ! 辛気臭えな! 言い返してみろよ! 』

夏樹は、彼女の口を押さえる手を思い切り手で払いのけた。

──彼女には、口がなかった──

***

化物だ、この女は化物だった! 俺はあの化物を抱いて、いとしいとまで思った。気持ちが悪い、あの化物に、騙されたんだ! 夏樹は着替えて一目散に彼女のもとを去った。立ちつくし、涙を流し続け、口を隠す女をドアを開ける前に夏樹はおぞましいものをみるような目で見て、

『醜い化物が! 二度と俺の前に姿を見せるな! お前を綺麗だと思った俺の目はどうにかしてたよ! 』

いつの間にか霧は晴れて、あるのは街の灯。ホッとした瞬間に、吐き気がして、側溝に彼女の家で飲んだ水を吐いた。淡い甘い香りがつらい。

彼女は無い口を隠しながら、何と言いたかったのか。涙をこぼして何を伝えたかったのか。夏樹は、歩道に落ちていた天然水のボトルを忌々しげに蹴って、踏み潰した。

『おいしい水だね。』

『ありがとう。』

本当に好きになった人は化物だった。薄気味悪い、口がない女。でも、記憶の中の彼女は、いつも何処か悲しい顔をしていたことを思い出す。今更そんなことを思い出して、やるせなくて、涙が止まらなかった。あの見開かれた瞳が、口を隠して、音の無い声で『見ないで』と涙をこぼし全身で訴える彼女が、長い睫毛にためられた雫を、次から次へと落とす彼女の泣き顔が、頭から離れない。

***

「ただいま」

誰も返事のない汚い部屋に帰る。ベランダの山梔子は、枯れかかっていた。

咲いていた沢山の花びらが、黄色くなり、茶色くなり、みるみる皺々になっていく。皺々の花びらは、夏樹の目の前ではらはらと落ちていく。葉も、色を変えていく。

話せない。口がない。口無し……くちなし!

あの女の人は、この山梔子だったんだ──。

「俺が『綺麗な彼女、欲しいな』何て水あげながらぼやいていたから……名前はなかったから、名前も言えなかったんだよな。固形肥料。食べて。水もあげるから、元気に……なって。」

ごめんなさい。酷いことを言って、ごめんなさい。夏樹の願いも虚しく、葉を落とした山梔子は、枯木のようになってしまった。

『あなたを傷つけたことを許して下さい』

夏樹は、地面に山梔子を綺麗に植え替えた。植え替えといっても、埋葬のようだった。枯れ果てた山梔子の木にそっと触れた。いつかの彼女の言葉がよみがえる。

『いつも、ありがとう。夢を見させてくれて、ありがとう。あなたに見つけてもらえたから、私は生きてる』

夏樹は、毎日山梔子の世話をした。毎日話しかけた。周囲からは、奇異の目で見られても構わなかった。世話の甲斐があってか、山梔子は弱々しい葉をつけた。若い葉を、また蛾の幼虫が食い荒らしている。

***

これは、俺だったんだ。そう、夏樹は思う。躊躇わずに泥のついたスニーカーで、夏樹は幼虫を踏み潰した。本当の害虫は俺だと、夏樹は自嘲した。いのちが蝕まれていくのを解りながら、霧の中の虚構に棲み、夏樹の気に入るような女性になり、山梔子は夏樹に甘い時間を、甘い夢を見せた。けれど霧に描いた夢を作るのは、きっと小さな山梔子の木の彼女には、限界があった。夏樹は、花を抱き、寿命を縮め、挙げ句、彼女の生きる希望まで奪った。彼女は枯れてしまった。最後の声も、最初にした約束も、無視した。

 彼女は抱き合ったあと言っていた。

『私、幸せよ。生きている感じがするの』

『そっか』

 何の気なしに言った。今、夏樹は思う。しあわせだった? 本当に? 身体を蝕まれていても、生命を削っても? こんな俺に抱かれいても? 

 夏樹は思わずにはいられない。思い出すのは、いつも彼女が少し寂しそうに笑っていたことだけだ。

***

夏樹が大学を卒業して、アパートを引き払う前の日、一重の白い花が、季節外れに一輪咲いた。甘い匂いが辺りを包み、いつの間にか立ちこめた霧に溶ける。霧を頼りに、彼女に会いに行った。けれど、彼女の家に辿り着くことは出来なかった。そして、それからも、彼女に会うことは、もう2度となかった。あの最後に見た一輪の花は、彼女の精一杯のさよならだった。そう思わずにはいられない。霧が出る度、山梔子の花が咲く度、彼女を思い出さずにはいられない。甘い霧の中に棲む君。君は、本当に美しかった。

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霧に棲む花 華周夏 @kasyu_natu0802

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