アクシスダンス:宇宙要塞の均衡点

イータ・タウリ

アクシスダンス

 私は布団の中で違和感を覚え、目を覚ました。


 振動というわけではない。布団の中でごく微かに、ふわふわと浮いているような感覚だった。


 0.8Gの人工重力に慣れた神経系統が、微細な変動を検知していた。加速度計よりも精密に、私の前庭器官は揺れを感じ取っていた。天下無双の自転が乱れている。


天下無双テンシャーウーシュアン」——直径1.2キロメートルのトーラス型宇宙ステーション。

 中国の技術的勝利の象徴であり、地球-月ラグランジュポイントL1に浮かぶ巨大な人工構造物。


 5000人の国際的科学者と技術者の住処であり、私の家。


 公式には科学研究施設だが、その名が示す通り、天下無双は中国の宇宙要塞という側面も持つ。各国情報機関の間では公然の秘密だ。

 トーラスの内側に配置された対衛星ミサイル発射機構、精密照準レーザーシステム。私のような一般技術者は、それらの区画への立ち入りを許可されていない。


 布団から飛び出し、壁面ディスプレイを起動した。「重力加速度を表示」と命じ、値を確認する。


 通常、自転によって生み出される遠心力は地球重力の80%に調整されている。しかし、今、数値が揺れていた。0.79G、0.81G、0.78G……変動幅は拡大している。


「制御室、応答願う。重力変動を検知した」


 通信機からは沈黙。


 私は急いで制服に着替え、居住区から中心スポークへと向かった。エレベーターは稼働していない。非常用はしごを使って天下無双の中心、ハブ部へ登っていく。


 ハブ部に近づくにつれ、重力は徐々に弱まり、揺れがより鮮明に感じられるようになった。

 重力が0.3G程度まで低下したとき、私はその光景を目の当たりにした。スポーク全体が、まるでダンスを踊っているかのように大きく揺れ動いていたのだ。


 制御室のドアは開いていた。内部は混乱に包まれていた。モニターは赤い警告表示で埋め尽くされ、技術者たちは端末に噛り付いていた。


チョウ主任!」私は中国人主任技術者に声をかけた。「何が起きているんですか?」


「佐藤さん、来てくれて助かる」彼は振り返った。「自転軸に異常が発生した。スタビライザーが機能していない」


「原因は?」


「不明。制御スラスターで補正を試みているが、効果は限定的だ」


 私はメインコンソールに駆け寄り、診断プログラムを起動した。振動パターンを分析する。


「これは……共振だ」私は気づいた。「何かが構造体の共振周波数を刺激している」


「スペースデブリの衝突か?」張主任が推測する。


「可能性はある。だが、単純な衝突なら、こんな持続的振動は生じない」


 私は構造図を呼び出す。天下無双の設計は精密だ。しかし、どんな構造物も固有振動数を持つ。もし特定の周波数で刺激されれば……


 天下無双の揺れは中心部のハブでさえも感じられるようになっていた。外周のトーラス部はさらに激しい揺れに見舞われているはずだ。


「わかった!」私は叫んだ。「スポーク3の接合部に問題がある。センサーデータを見て」


 データを共有スクリーンに投影する。スポーク3の接合部に異常な温度上昇がある。摩擦熱だ。


「スポーク3のジョイントが損傷している。自転による遠心力と構造的不均衡が共振を引き起こしている」


「修理できるか?」張主任の声は緊張していた。


「できる。だが、まず自転を停止させる必要がある」


 沈黙が訪れた。自転停止は前例のない措置だ。0Gでの生活は準備されていない。さらに、減速には大量の燃料を消費する。


「各国政府に通知する必要がある」アメリカ人副主任が言った。「スラスター全開は、軍事行動と誤解される可能性がある。特に軍事衛星網を監視している国々は、これを攻撃準備と解釈するだろう」


 その時、制御室のドアが開き、人民解放軍宇宙軍の制服を着た男性が入ってきた。ヂァォ大佐だ。普段は姿を見せない軍事部門の最高責任者。


「報告を受けた」趙大佐は張主任に向かって言った。「これは偶然ではない可能性がある」


 部屋の空気が凍りついた。


「どういう意味だ?」張主任が尋ねた。


「軌道監視システムが、この1時間以内に複数の不明小型物体が我々の軌道に接近したことを検知している」趙大佐は冷静に説明した。「デブリに見せかけた攻撃の可能性を排除できない」


「それは単なる推測だ」アメリカ人副主任が反論した。「今は技術的問題に集中すべきだ」


「安全保障は妥協できない」趙大佐は硬い表情で言い返した。「張主任、直ちに防御システムを起動し、武装を解放するよう命じる。これは命令だ」


「時間がない」私は議論に割って入った。「このままでは構造的完全性が失われる。自転停止が優先されるべきだ」


 張主任は両者を見比べ、深く息を吸った。「自転停止プロトコルを発動する。全居住者に通知せよ」彼は趙大佐に向き直った。「同時に、防御システムを警戒態勢に移行させる。だが、武装解放は自転が安定するまで保留する」


 趙大佐は不満そうな表情を浮かべたが、頷いた。「了承する。だが、状況が悪化した場合、躊躇する余裕はないことを理解してほしい」


 アラームが鳴り響いた。


 私はスタビライザー制御に移動し、自転減速シーケンスをプログラムした。「減速率0.05G/分。総所要時間16分」


「了解。開始せよ」


「自転減速シーケンス、実行」


 天下無双全体に微かな震動が走った。スラスターの噴射音が振動として伝わってくる。


「各国に通信を送れ」張主任は命じた。「これは非軍事的緊急措置であることを明確にせよ」


 緊張の16分間が過ぎた。私はモニターから目を離さなかった。自転速度は徐々に低下し、重力も弱まっていく。0.5G、0.3G、0.1G……


 そして、ついに0G。「自転停止完了」


 浮遊感が全身を包む。数千の物体が宙に浮かび始めた。トーラス居住区は大混乱だろう。だが、振動は止まった。


「スポーク3に向かう」私は決意を告げた。「修理チームを編成してくれ」


 宇宙服を着用し、スポーク3へ向かう。無重力移動の訓練が生かされる時だ。


 損傷部位に到着すると、問題は明らかだった。スペースデブリによる衝突痕。小さいが、クリティカルな接合部に命中していた。デブリは貫通せず、接合部に埋まっていた。サイズからして、軌道上の電子機器の破片だろう。


「修理開始」私はチームに指示した。


 6時間の精密作業の末、私たちは接合部を修復し、デブリを除去した。構造的完全性は回復した。


 制御室に戻り、報告する。「修理完了。自転再開可能」


 張主任は安堵の表情を見せた。「素晴らしい仕事だ、佐藤さん。自転再開シーケンスを開始する」


 再び微かな震動。スラスターが反対方向に噴射を始めた。徐々に回転が始まり、人工重力が復活する。


「安定している」私は確認した。「振動パターンは正常範囲内」


 趙大佐がコンソールに近づいてきた。「防御システムの状態は?」


「全システム正常です」技術担当者が報告した。「軌道上の不明物体も消失しました」


 趙大佐は無表情のまま頷いた。「警戒態勢は継続する。72時間の強化監視体制を敷け」彼は部屋を出る前に張主任に向かって言った。「今回は技術的問題で済んだようだが、次回はそうとは限らない。覚えておくように」


 その言葉は空気中に重く残った。


 24時間後、天下無双は通常運用に復帰した。だが、以前とは状況が違っていた。


 軍事セクションの人員が増加され、制限区域へのアクセス規制が厳格化されのだ。


 しかしそれでも、天下無双が科学研究施設として重要であることに変わりはない。

 皮肉にもこの宇宙要塞が人類の未来への希望を示し続けているのだ。



 ◇◆◇


 その夜、私は再び布団に横たわった。0.8Gの安定した重力を感じる。


 私は微笑んだ。「アクシスダンス」――私が名付けた今回の現象。巨大な宇宙ステーションの不思議なダンスは終わった。


 布団の中で、私は思う。人類の作り出した最大の構造物でさえ、宇宙の厳しさの前では脆い。だが、我々の知恵と協力があれば、どんな危機も乗り越えられる。


 目を閉じる前に、壁面ディスプレイを最後に確認する。全てのパラメータは正常範囲内。天下無双は再び静かに回転している。


 私は安堵のため息をつき、眠りに落ちた。宇宙の静寂の中で、天下無双は再び静かなワルツを奏でている。


(了)

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