切れて落ちれば、手は届かない

五色ひいらぎ

なくしたもの、なくしたくなかったもの

 あっ、と声が出た時には、もう遅かった。伸ばした指は空を切り、鮮紅色の輝きはまたたく間に視界から消えた。五年間ずっと身に着けてきたルビーのペンダントトップは、切れた鎖を離れ、側溝の格子蓋へ無情にも吸い込まれていった。

 あわてて屈み込み、暗渠あんきょを覗く。けれど濁った水の流れは早く、小さな石ひとつを探し出すのは不可能に見えた。諦めるしかない。

 胸中を悔いばかりが満たす。鎖を替えておけばよかった。毎日着けるのでなく、時々は休ませればよかった。むしろ大切にしまっておけばよかった。そうすれば、こんなところへ着けてはこなかったかもしれない――


「亜沙子」


 不意に、上から声が降ってきた。


「どうした、いきなり這いつくばったりして」

「ごめん、隆一……ペンダント落としちゃって」


 声に気落ちが隠せない。どう説明したものかと考えていると、隆一が――この場を共にしている恋人が、肩越しに覗き込んできた。だが彼も、側溝を見て静かに首を振った。


「これじゃ探すのは無理そうだな」

「ごめん。気にしなくていいよ、安いやつだし」


 無理に笑いを作る。安物なのは本当だ。ルビーは合成品だし、土台も安価なシルバーだ。ほんの少しの感傷だけを抜きにすれば、替えのきく何かでしかない。


「いいの、本当に? ずいぶん大事にしてたみたいだけど」

「してないよ、別に。そこまで大事なものなら、普段使いなんてしないし」


 あはは、と声をあげて笑う。気付かれてはいけない、心残りの正体に。


「そうなんだ。確かあれ、友達にもらったんだよね」

「だよ。大学で同じゼミだった子に、誕プレでもらった。卒業してから会ってないけどね」

「そう」


 隆一の声が、急に低くなった。

 胸中がざわめく。私は、何かまずいことを言ってしまっただろうか。


「亜沙子、嘘ついてるよね」


 立ち上がった隆一が、私を見下ろしていた。そこではじめて、私はスカートの裾が、砂と土とでひどく汚れていることに気付いた。


「友達にもらった安物のために、そこまでするかな普通」

「え、だって……もう会えない相手だし」

「正直に言いなよ。元カレなんだろ?」


 潜めた声に、冷たい響きがあった。


「違う、そんなんじゃない!」


 あわてて弁解を探す。嘘じゃない。嘘はついてない。美紀はカレじゃない。大好きだったけど、ときどきはハグしたりキスしたりしてたけど、その先にもいったことがあるけれど、女の子だからカレじゃない――でもそれが、うまく言葉にならない。

 その間にも隆一の顔は、みるみる険しくなっていく。眉間に皺が寄り、細めた目は痛いほどに冷たい。


「じゃあなんで俺たち、5回もデートしてて何もないんだろうな? 学生じゃあるまいし、毎回毎回、買い物と映画と食事だけで終わりとかありえないだろ」


 隆一の声音は、あくまで平静だった。だからこそ返す言葉がない。


「わかってたよ、亜沙子が誰かに未練たらたらだってことは。それも亜沙子のうちだって、思おうとしてたけども――」


 隆一は大きく息を吐き、どこか憑き物が落ちたような目で、静かに私を見つめた。


「別れよう、亜沙子。俺、もう無理だわ」


 頭の中が真っ白になる。言葉が、とっさに出てこない。

 待って、と声が出せた時には、もう遅かった。伸ばした指は空を切り、隆一の背中はまたたく間に道の向こうへ消えていった。半年のあいだ繋いできたはずの縁は、あっけなく切れ、無情にもちぎれ落ちていった。

 思わずへたり込み、地面に視線を落とす。けれど土に汚れたアスファルトの地面には、失ったものを取り戻す手がかりなど、なにもあるはずがなかった。

 胸中を悔いばかりが満たす。「恋人」をつなぎ止めるなら、少なくともそのふりをするなら、身も心も、もっと前を向けばよかった。昔の恋の証を、肌身離さず毎日身に着けるなんて、しなければよかった。かけがえない思い出は、誰の目にも触れないよう、大切にしまっておけばよかった。そうすれば、こんなことにはならなかったかもしれない――

 地面にへたり込んだまま、私は涙を流した。スカートは、きっとひどいことになっているだろう。けれどどうしても、私は、立ち上がることができなかった。


【了】

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切れて落ちれば、手は届かない 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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