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二十年が経った。
上京した純一はコンサルタントに就職していた。仕事ができず、上司に怒鳴られる日々。カオナシから解放されても別の虐めが彼を支配していた。
「みんなお疲れ、
彼女もいない純一の癒しは、仕事終わりにVtuberの配信を見ることだった。チヒロはポニーテールと赤の着物が特徴的な配信者である。純一は彼女の同接が少ないときから、有料メンバーシップに加入している古参リスナーだった。
チヒロには、他のVtuberにはない純朴さがあった。初めての仕事で失敗した話、地下鉄で迷子になった話、服装が芋臭くて笑われた話。苦労譚の一つ一つに、健気に頑張るチヒロの姿が思い浮かんだ。人見知りの彼女は他の配信者、特に男とのコラボを避けており、その点も好印象だった。
リスナーはこぞってチヒロに投げ銭をした。それはお腹を空かせた彼女にご飯を食べてもらうためであり、オシャレの勉強としてハイブランドの服や指輪を買ってもらうためだった。
純一も負けじと三万円を投げた。貯金は少なく、残業をしなければ生活は成り立たなかったが、彼女にコメントを読んで貰えたときの幸福に比べれば大した問題ではなかった。それに高額スパチャを投げる新参リスナーに、これ以上遅れを取るわけにはいかなかった。
ある日、彼はネットの掲示板で荻野目チヒロのリスナーが「カオナシ」と蔑まれていることを知った。見向きされる訳がないのに、金でご機嫌を取ろうとする姿をカオナシと揶揄されていた。
心の古傷に矢が刺さる。純一はそれでも忠誠を貫いたが、馬鹿にされて萎えたリスナーは続々とメンバーシップを脱退していった。
タイミングの悪いことに、チヒロの彼氏疑惑が浮上した。ゲーム配信中に男の声が聞こえたという。リスナーは悪意のある切り抜きだと否定したが、ここ最近男物の洋服や下着をよく話題に上げていたり、明らかに趣味ではなさそうなロックバンドを好きになったりと、男の陰を匂わせていたことも相まって、チヒロは炎上した。
チヒロは騒動を意に介することなく、気丈に振る舞っていた。平静を装って雑談配信を続けていれば、炎上が収まることを彼女は知っていた。しかし、それはリスナーに対して、不誠実な対応でもあった。
純一は五万円の長文スパチャを投下した。きちんと説明して欲しい、チヒロは純粋だから男なんて知らないよな、ここで喋らないのはリスナーへの裏切りだ、これ以上不安にさせないでほしい等。ありったけの気持ちをコメントに込めた。これで事態は良くなるはずだった。
「えー純一さん、説明できないのは色々理由があるんです。それを裏切りって言われるのは、ちょっと辛いです。スパチャは嬉しいけど......こういうの"カオナシ"って言うんだよね?」
純一は耳を疑った。同接二千人の中で、誰よりも愛している自分を否定するなんて、思いも寄らなかった。
コメント欄は一斉に純一を叩く流れとなった。大量の「カオナシwww」と罵詈雑言。言葉の暴力が連なる。標的を見つけたとき、人はどこまでも残酷になれた。
純一はそっとPCの画面を閉じた。
一ヶ月後、騒動は嘘のように沈静化していた。チヒロは今まで通り配信活動を続けている。ネットでは、「痛々しいリスナーに執着される可哀想なVtuber」と同情を集めていたが、純一にはどうでもいいことだった。
この日は、チヒロの初めてとなるオフイベントが開催される。いつのまにか男性配信者ともコラボするようになった彼女の元には、多くのリスナーが駆けつけていた。
純一は鞄に出刃包丁と指輪を入れた。指輪の内側には「CHIHIRO OGINOME」と印字されている。世界に一つだけ、彼女のための指輪だった。
白いお面と黒のマントも忘れずに持っていく必要があった。オマージュにはリアリティが欠かせない。最も今から起こす行動は、演技などではなくリアルそのものだった。偉大な芸術は、その偉大さ故に暴力性を孕む。彼はそれを証明するために地下鉄へ乗った。
純一はイベントの中継配信に「いま会いにゆきます」と最後のコメントを投稿した。プレゼントを渡すとき、荻野目チヒロはどのような反応を見せるのか。曇りなき眼で何を見定めるのか。彼女は知ることになる。傷つけられた人間の悲しみを、愛情の裏返しを。
地下鉄は、イベント会場へ向かって加速している。最寄駅まで残すところ、あと一駅だった。
白石純一、三十一歳。今日、世界を丸呑みにする。
オマージュ 楠木次郎 @Jiro_2020
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