上映前の内緒事

野々山りお

上映前の内緒事

『まもなく上映を開始します』


 そんな聞き慣れているはずの陽気なアナウンスも今日はなぜか新鮮に感じちゃう。

 隣にいるのがあなただから?




**



「ワンピース姿、可愛いね」


 会ってすぐに、そんな言葉をさらっと言えちゃう彼は、やっぱり女の子と遊び慣れているのかなと思う。


 だってそれは、「ワンピース」じゃなくて「私」をほめてくれているって錯覚しちゃうような言葉だから。


「似合うね」と言われるよりも、もっと心の奥がくすぐったいような感じで。私自身に対して「可愛いね」って言ってくれてるって勘違いしてしまいそうになる。


 こうやって隣に座る彼を見ていたら、今日最初に桜井の車に乗り込んだときに彼が言った言葉が自然と思い出された。


 桜井のそんな言葉も、ちょっとラフな私服姿も、全部今日が初めてで、新鮮だった。


 男の人と、しかも彼氏じゃない人とふたりっきりで出かけたりするのなんてすごく久しぶり。


 しかもこの距離。

 なんだか私は少しドキドキしていた。


 さっきレストランで食事したときは、ここまでじゃなかったんだけど。

 でもここはレストランと違って席も隣同士だし、距離がさっきよりずっとずっと近いから。


 桜井から男物の香水か何かのいい匂いが漂ってきて、やっぱりどうしても、なんとなく意識しちゃう。


 でも、普段の私だったらこんな状況、ドキドキで頭がいっぱいになっちゃいそうなのに。今はこんな風に一歩引いて考えてる。


 きっとそれは……、ううん、絶対それは、この変なメガネのせい。絶対そう!


 いい歳の男女二人がさ、こんなおっきな3Dメガネを膝に乗せて映画を待つなんて。なんだかちょっとまぬけで変な感じがするんだもん。


 いくら観たかった映画だからって、やっぱり選択ミスだったかも……。こんな不格好なメガネ姿を見せなきゃいけないなんてホント失敗だよ。


 だって、お世辞にもおしゃれとは言えない。

 というかむしろダサいよね、これ。できることならメガネかけたくない!

 それじゃあわざわざ3Dで見る意味ないけど。


 でも、せっかくのムードが台無しというか、吹っ飛んじゃうというか……。

 この映画があったから、こうして二人でここにいるわけだし、今更仕方ないことなんだけどね。


 でも……。

 本当に、なんでこんなことになったんだろう。

 あの時、どうして桜井は私と……。


 私は桜井が座る左側に、こっそりと目線を向けた。


 気づかれないようにしたつもりだったのに、彼と目が合ってちょっと焦る。


 桜井は、私が何を考えているかお見通しみたいに「楽しいね」と、ふっと微笑んだ。


 あぁ、もう! まただ。

「楽しみだね」じゃなくて「楽しいね」って。


 彼の言葉に自然と頬が緩む。

 やっぱり桜井は女の子を嬉しい気持ちにさせる天才かもしれない。


 恋人同士でも何でもない私達が、こんな風に二人で出かけることになったきっかけは、水曜日の飲み会だった。




「えーっ。なに、近藤って、『おひとりさま』平気なの? しかも映画って。すっごい意外。想像できなーい!」


 ガチャガチャとうるさい食器の音、周りのお客さんや店員さんの騒がしい声。

 それにお酒の力も加わるから、こういったチェーン店の居酒屋では、どうしても話し声が大きくなってしまう。


 私の隣には座っているのは、数少ない女の子の同期の相田あいだ。例に漏れず大きな声で話していた相田は、私に対してさらに大きく驚きの声を上げた。


「んー。平気とかそんなんじゃないよ? 彼氏と別れちゃったし、でもどうしても観たいから、じゃあ一人で行こうかなって思ってるだけだってば」


 今までにも何度かひとりで行ったことあるけど、そんなに悪いもんじゃないのになぁ。

 もちろん一緒に行く相手がいるんだったら、ひとりで行ったりしないけど……。でも今は相手がいないんだから仕方ないの!


「あたしは無理だなぁ、ひとりで映画って。うーん……、それにしても意外。あ、でもさ、変なのに声かけられないように気をつけたほうがいいよ。近藤ってちょっとほわわんとしてるから危なっかしいし……、ほら、前だって……」


 相田の話がいつもみたいに長くなりそうだったから、私は軽くうんうんと聞き流した。


 今までに幾度となく企画倒れで終わった同期での飲み会。それがやっと実現したのは、週のど真ん中の水曜日だった。


 新入社員の合同研修が終わってからは、配属先がバラバラだったし、なかなかこんなふうに集まる機会はなかった。


 だからみんなで集まって飲むのは本当に何年ぶりってくらい久しぶりで。平日なのにやたらテンションが高いのは、それだけ話題がたっぷりあるってことだよね。


 話題は自慢話かもしれないし、積もりに積もった愚痴かもしれない。何を話してるかは人それぞれだから分かんないけど。

 でも結局私はこうやって、普段から仲のいい相田と、いつも通りの話をしちゃうんだよね。

 そういえば、いつも飲み会ではこんな感じだな、私って。


 そんなことを考えていたら、ふっと目の前に影ができたので、反射的にそちらに顔が向く。


 すると、空いていた私達の向かいの席に、珍しい人物が腰を下ろした。


「映画の話?」


「わー! 桜井、久しぶり! 遅かったじゃん、残業? お疲れ~」


 相田は彼を見るなり、楽しそうに高い声を出した。


 私と相田の会話に入ってきたのは、営業部の桜井。ビシっとスーツが決まっていて、見るからに一人前の営業さんという雰囲気だ。


 やっぱりネクタイ姿はいいなぁ……。


 基本的に社内にいる私は、ここ最近はクールビズの影響でノージャケット・ノーネクタイの人しか見ていない。

 そのせいもあって、突然目の前に現れた隙のないスーツ姿をまじまじと見つめてしまう。


 あ、カフスボタン! 同期でそういうとこ気にしてる人、初めて見た! すごーい。さすが営業部は違うなぁ。


 見つめるというか、見惚れるというか。どっちか分からなくなりそうだ。


「いや、ちょっと商談が長引いて。でもまだ今日は早いほうだけど。とりあえずよかった、間に合って」


「さっすが営業部期待の星だね~!」


 私が彼を眺めている間も二人の会話は進んでいる。


「いやいや、相田、そんなことないって。俺なんてまだまだですから」


 まだまだと言ってる割には自信たっぷりな様子で返事をする桜井は、急に視線を相田から私へと変えた。


「ねぇ、近藤、さっき何の映画の話してたの?」


「え、上映中の3Dの……」


 見つめていたことが急に恥ずかしくなって、私は同意を求めるように慌てて相田のほうを向いた。


「それって、もしかして近くのシネコンでやってるリバイバル上映のやつ?」


「あ、うん、それだよ」


「桜井、よく知ってるね。それを近藤が『おひとりさま』で観に行く予定なんだってさー」


「もう、やだ。相田ってば、そんなおひとりさまって強調しなくていいよ!」


 そんなふうに言われたら、寂しい女みたいで、さすがにちょっとだけ恥ずかしいから。


「へぇー、偶然。それ、俺も観たいと思ってたんだ。近藤いつ行くの?」


「え? えっと……、週末にでも、行こうかなって」


 もうすぐ終わっちゃうって聞いてたから、早めにしなきゃと思っていたけど。でも本当はきちんと決めていたわけじゃなかった。


「ひとりで行くんだったら、俺と行かない?」


「え?」


「あれー? 桜井、彼女は?」


 私と同時に相田が声を上げる。


「彼女って、相田、いつの話だよ、それ」


 桜井は呆れたように笑う。


「えー、研修の時とか? いたよね、あの頃」


「それ何年前? そのときの彼女とは、もうとっくに別れましたー」


「あら、それは失礼しました。へぇー、桜井彼女いないんだ? 意外」


「なんだよ、意外って。何、嫌味か?」


 桜井は笑っているけど、私にも意外だった。


 確か研修の時、ラブラブな彼女がいるって聞いた気がするけど。誰かが街で見かけたとかなんとか……。


 へぇ、別れちゃったんだ。


「ごめんって! でもそれなら近藤も今は彼氏いないし、フリー同士で問題ないね」


 にっこりと笑う相田の言葉と一緒に、二人は私のほうを見た。


「えっ?」


「どう? あ、近藤が嫌じゃなければ、の話だけど」


「ううん! 全然嫌なんかじゃないよ」


 嫌だなんて、そんなことはないけど……。

 でも、なんで、私と? なんかあるのかな?


 いきなり注目されたのと、なんとなく否定しづらい桜井の言葉に、私はすっかり戸惑っていた。


「じゃあ、いい?」


「うん……」


 頭に浮かんでいる疑問を口にできるわけもなく、私は流されるように頷いた。


「ってことはデート? いいなー、楽しそー。もぅ、週末に彼氏の誕生日さえなければ偵察しにいったのに! 悔しいから飲んでやるー!」


 相田はむぅっと言ってビールを飲み干す。


「いいだろー」


 それを見た桜井は、ふふんと満足げな顔をして店員さんが運んできたグラスに口を付けた。


 その表情を見て、思った。


 私ってば、なに本気にしてんだろう。

 こんなのお酒の席での話だよね。


 その場のノリで取りあえず「みんなで集まりたいね」って言う、毎回企画倒れしていた飲み会と一緒。私達がまったりしてたから盛り上げようとしてくれたんだ、きっと。


 さすが営業さんの気配りは違うなぁと感心しつつ、とにかく私も桜井と同じように相田に笑いかけた。


「じゃあ相田が羨ましがるくらい楽しもうかな」


「ずるーい」


 口を膨らませた相田を見て、二人してまた笑った。


 そうだよ。これはお酒の席での社交辞令。桜井が場を盛り上げようとしただけ。営業さんの得意技で、本気なんかじゃない。


 そんな私の予想通り、そこでその話は終わり、桜井は別の席から呼ばれてそっちへ移動した。


 そして一次会が終わって、二次会のカラオケが終わりそうになっても、桜井に詳しい予定を聞かれることはなかった。


 終電に間に合う時間にお開きになったけど、結局最後までその話にはならなかった。


 やっぱり週末はおひとりさま決定だな。

 そんなことを考えていたのに……。家に帰ると、メッセージが届いているのに気づいた。


 えっと思って確認すると、桜井の名前。


 私は慌てて内容を確認した。


────

今日はお疲れ。無事帰れた?

映画、何時に待ち合わせにしようか。土曜日でいいよな?

────


 え? ホントに本気だったの!?


 おひとりさまモードだった私は、一瞬で驚きと疑問でいっぱいになる。


 だって桜井は、社内でちょっと人気で、相田が言ってたように、営業成績も上々だし、よく女の子達の話題で名前を耳にするほどだから。


 それに、研修のとき、私も桜井のこと、ちょっとかっこいいなって思ってたくらいだし。

 その時期は私にも彼氏がいたし、桜井にも彼女がいたみたいだから、別に何かしようとしたわけじゃないけど。


 あ、でもどちらかと言ったら……、同期の中では、私達は仲が良かったほうだと思うけど……。


 今日久しぶりにまじまじと見つめて、あの頃よりも着慣れたスーツ姿に、ますます素敵になったかもなんて思ったりもした。


そんな桜井と私が、デート!?


 いやいや、桜井はデートだなんて思ってないんだよ、きっと。なんか慣れてる感じだったし、社交辞令の延長というか、もしかしたら桜井にとっては案外普通のことなのかも。


 あ、でも……。

 あのとき相田がデートって言ったの、否定しなかったよね。それにわざわざ彼女もいないって言ってたくらいだし……。


 え、これって、期待、しちゃってもいいのかな? もしかして恋の予感だったりするの……?

 やだー、どうしようっ!


 私は手に持った枕をバシバシと叩く。

 ほどよくお酒の入った頭は、少しずつ自分に都合よく、話をすり変えてしまうのだ。



**


 自惚れてたなぁ。あの時は。忘れちゃえばいいのに、ぜーんぶしっかり覚えてるから厄介。


 そんな興奮気味の状態で返信したから、今考えるとびっくりするくらい大胆になれたんだろうね。


 まさかレイトショーになるなんて。


 私は普段映画を見るときは、人が少なめで静かなレイトショーと決めていたけど……。

 でも、今回は恋人でもないのにさすがにそれはどうだろうなぁって思っていた。


 でもそんなこと悩む間もなく、桜井のほうから「レイトショーはどう?」と来て。しかも理由はすいてそうだからって。さらには「ついでに食事もいいね」なんて言い出しちゃうからもう大変。


 見事なほど自惚れていた私は、どうしようかと思っていたことも忘れてすかさず「OK」の返信をしていた。大好きな可愛いスタンプ付きで。


 はぁ、あの時の私のバカ!

 何も考えずにあんな返信して。これじゃあ、なんだかがっついてるみたいじゃん。


 全然そんなつもりじゃないのに……。

 そう思われてたら、すごく恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!


 小っちゃなことだけど、改めて考えるとやっぱり恥ずかしくて、気になってしまった。


 だから実は今日会うまで、そのことをすごく気にしていたのに……。でも、いざ会ってみたら、桜井は全然この前と変わりない様子で、拍子抜けしちゃったけどね。


 考えすぎだったかな……。

 いやいや、でもやっぱり気を付けなきゃね。



 夕食は、桜井の車で、お勧めのイタリアンレストランに連れて行かれた。

 私は初めて来たお店だったけど、とても感じが良くて素敵なお店だった。


「知り合いの結婚式の二次会でこの店知って、気に入ったんだ」


 桜井がそう言った通り、二次会に向いていそうなきれいめで落ち着いたお店だった。

 夜景も見えて、広すぎず狭すぎずの心地良い空間で、もちろん料理もおいしくて。私もすっかりこの店が気に入ってしまった。


 お客さんも女の子同士やカップルなどいろいろで、なんとなく安心できるような感じがした。


 だから私はまた懲りもせず、他の人から見たら私達もカップルに見えるのかななんてバカみたいなことを考えちゃったりして。

 会話も弾み、緊張しすぎない楽しい食事の時間を過ごすことができた。



 そんな気分もお腹も大満足な状態で到着した映画館。この辺りでは割と大きなシネコンで、映画好きの私には、ちょっとしたお気に入りの場所だったりする。


 レイトショーは予想通りすいていた。しかも上映期間も終わりに近づいているリバイバル上映の映画だし、普通のレイトショーよりも、もっともっと少ない。


 全席指定と言われたけど、入ってみたら、どこに座っても問題ないくらいまばらにしかお客さんがいなかった。


 渡されたチケットの座席番号通り、私は桜井の右に座った。



 そして、今。


 ドキドキして、映画が始まるのを待っていた。

 変な3Dメガネとポップコーンの容器を膝の上に乗せて。


 とても静かで、全然お客さんが増えるような気配はこれっぽっちもない。私達の席は、割と中心に近いのに、同じ列には、他に誰も座っていなかった。


 周りに人も少ないせいか、なんとなく私達の言葉数もそれまでより少なくなる。


 どうしよう……。なんだか緊張してきた。


 気持ちを紛らわせようと、さっき桜井が買ってくれたキャラメルポップコーンについつい手がのびてしまう。本当はもうお腹いっぱいなのに。


 上映開始まであと数分。

 お腹が苦しくなっちゃう前に、映画が始まればいいけど。



「そんなに好きなの、それ?」


 私が膝に乗せたポップコーンの容器を不思議そうに見ている。


「あ、ごめん。桜井が買ってくれたのに、私ばっかり食べちゃって」


「いや、それは近藤のために買ったんだし、全然いいけど。いや、ずっと食べてたからさ、あっ、晩メシ足りなかった?」


「ううん、足りてる足りてる。お腹いっぱいで大満足だったよ」


 私は慌てて首を振った。


 今の桜井の言葉! 近藤の「ために」って。「ために」って、もぅ! 


 そんな細かい言葉にいちいち反応しちゃうのが恥ずかしい。


 さすが売れてる営業さん。人を喜ばせる言葉がよく分かってるよね。桜井から買うお客様の気持ち、分かるかも。


「じゃあ、よほど好きなんだ?」


「う、うん」


 まさか緊張してるからなんて言えない私は、ただ小さく頷いた。


 返事を聞いた桜井が口元を緩める。

 私はその表情に見惚れそうになった。


「ちょっとちょうだい?」


「うん」


 私が両手で容器を差し出すと、桜井は少しだけ手にとって、それを口に放り込んだ。


「あまっ」


 ほんの一口食べただけなのに、眉間にしわを寄せてぺろっと舌を出した。


「もしかして桜井、甘いの苦手だった? ごめん、キャラメル味にしちゃって。普通の塩味にしたらよかったね、ごめんね」


「だからいいって。近藤はこれ好きなんだろ? 近藤が満足ならそれでいいの、俺は」


「え?」


「今日は近藤に楽しんでもらいたいから」


 なんなの、これ。さっきから私の頭、桜井のきゅんワードでパンクしちゃいそうなんですけどっ!


「えっと、ありがとね?」


 ショート寸前の今の私にはこれを言うので精一杯だった。


 それを聞いた桜井はこちらに体を向けて、私をじっと見つめた。


「ねぇ、近藤、楽しい?」


「うん。もちろん……。いろいろありがとうね。あの、桜井は……?」


「俺? すっごい楽しいよ、こうやって近藤と過ごせて」


 もうダメだ。ショートしちゃう。

 ほっぺたが熱い。湯気がでちゃいそう。


 なんで桜井はこんなこと普通のすました顔で言えちゃうんだろう。


「俺さ、近藤のこといいなって思ってたんだ、研修のときから」


「もぅ、やだなぁ、桜井ってば。からかわないでよ」


 さすがの私でも、いくら何でも、これは話ができすぎだって疑ってしまう。


「からかってないって。本気」


 でも、桜井の顔は真剣で、それを見ると笑いがすっと引いていった。


 どうしよう、桜井の顔、まともに見れない……。


 そのとき、上映時間になったのか辺りが暗くなっていった。


「映画、始まっちゃう、これつけなきゃ」


 ひそひそ声でそう言いながら、メガネを取って顔に近づけようとすると「待って」とその手を止められた。


「桜井……?」


 握られた右手が熱い。


 真っ暗になったのはほんの一瞬。

 すぐに何かの予告が始まるのかスクリーンが明るくなったから。でもその明るい方には目を向けられなかった。


 なぜなら、身体が固まっていたから。


 あの一瞬の間に、私は桜井にキスされた。


 本当に不意打ちの、短いキス。唇が触れていたのは、ほんの一瞬。


 近くの席には誰もいないし、真っ暗だったし、おそらく、誰にも気づかれてはいないと思う。

 これを知っているのは、映画館の中で私と桜井だけ。


 唇が離れるとき、桜井は私の耳元で小さくひとこと囁いた。


 そして、動けないでいる私を見て、少し笑ってから、私の右手にあるメガネを取って、そっと顔にかけてくれた。


 こんな不格好なメガネ姿を見せるのは嫌だったのに。動けなかった。


 でも、桜井がかけてくれたら、それだけで素敵アイテムみたいに思えちゃう気がするから驚きだ。こんな変なメガネなのに、私、どうかしちゃってる。


 心臓の音が大きく響くのが何のせいなのか、もうよく分かんない。


 自分もメガネをかけた桜井は、今度はこちらを向かずに私の左手を握り、指を絡ませた。


 ひんやりと冷たい、桜井の指。


 予告編が終わって、映画の本編が始まっても、しっかり絡み合って離れることのない桜井の右手と私の左手。


 私の体温が移り、彼の冷たかった手がだんだんと熱を帯びてくる。


 振り払うことなんて、できない。

 耳元であんなことを囁かれたら、もう、どうしていいのか分からない。


「俺と付き合ってよ」


 ずっと観たかった映画なのにストーリーなんて頭に入ってこなかった。


 浮かび上がる3Dの映像も、桜井にかなわない。そんな視覚だけの刺激、かなうわけがない。


 キャラメルポップコーン味の香ばしくて甘いキス。耳元で聞こえた優しい囁き声。楽しそうに目を細めて離れていくその表情。香水の残り香。唇に残った感触。


 そして、今握られている手の熱。


 桜井は、もう十分すぎるほどの刺激を私にくれた。


 映画はまだまだ序盤だけど、私の心臓はずっとクライマックスみたいにドキドキしている。


 やっと分かった。

 桜井には隙がないんだ。どこにも気を抜いてる様子がなくて、いつも完璧な状態。

 そして、そんな桜井といると、私は苦しいほどに敏感になるの。


 桜井はやっぱり見事すぎる営業マンだ。だって、すっかり虜になっちゃったから。


 苦しいのに、苦しければ苦しいほど、嬉しい気持ちがこみ上げてきた。


 だから私も左手にぎゅっと力を込めた。



【完】


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