第5話「紡がれる運命」



「ママ、この服、どうやって作ったの?」


七歳の結は、美咲が縫い上げたワンピースを不思議そうに眺めていた。その生地は、光の加減で色が変わるように見え、刺繍は微かに浮き出ているかのようだった。


「秘密よ」美咲は微笑んだ。「特別な方法で作ったの」


結婚から八年。美咲と健太は幸せな家庭を築き、一人娘の結を授かった。美咲は子育ての合間に、独自のファッションデザインの仕事を始めていた。彼女が作る衣装は評判を呼び、小さなアトリエは常に注文で賑わっていた。


特に彼女の刺繍は神秘的な美しさがあると言われ、多くの人々を魅了していた。しかし、その技術がどこから来たのか、美咲は誰にも話さなかった。


夜、結が眠った後、美咲は自分のアトリエにこもった。彼女はドレッサーの引き出しから、小さな木箱を取り出した。開けると、中には白い蛾の乾燥した死骸があった。結婚式の日から共にいた蛾は、数年前に動かなくなったが、美咲はそれを大切に保管していた。


「凛ちゃん...見ていてくれる?」


美咲は蛾に語りかけながら、指先を見つめた。皮膚の下には、細い白い筋が浮かび上がっていた。それは年々濃くなり、今では手首まで広がっていた。しかし、恐怖はなかった。むしろ、この変化が彼女に特別な才能をもたらしたことを、美咲は知っていた。


彼女の指から生み出される糸は、普通の絹糸とは違った。より強く、より美しく、そしてどこか生命力を感じさせるものだった。それを使って作った衣装を着た人々は、不思議な幸運に恵まれると噂されていた。


「美咲、まだ起きてるの?」


ドアが開き、健太が顔を覗かせた。彼は妻の才能を誇りに思っていたが、その源が何かを知らなかった。そして、彼女の指の変化にも気づいていなかった。美咲はいつも手袋をして隠していたからだ。


「もうすぐ終わるわ」美咲は微笑んだ。「新しいデザインを思いついたの」


健太は頷き、ドアを閉めた。美咲は再び作業に戻った。子供のための特別な服を作っていた。結の入学祝いのためのものだ。


「もう少しできれいになるわ」


美咲は自分の指先を噛み、滲み出た血を生地に付けた。その瞬間、血は絹糸に変わり、生地に溶け込んでいった。これは彼女だけの秘密の技術。凛から受け継いだ「祝福」の一部だった。


***


「結ちゃん、学校どうだった?」


美咲は帰宅した娘を迎えた。結は小学校に入学して三カ月。ママが作ってくれた入学祝いの服を着て、毎日楽しく通っていた。


「うん、楽しかった!」結は明るく答えたが、すぐに表情が曇った。「でも...」


「でも?」


「手が、ちょっと痒いの」結は小さな手を見せた。「ここに、白い線みたいなのが見える」


美咲は息を呑んだ。結の指先には、かすかに白い筋が浮かび上がっていた。まさに、かつて自分が、そして凛が経験したのと同じ変化だった。


「いつから?」美咲は震える声で尋ねた。


「今日の午後から」結は不思議そうに答えた。「授業中に、急に痒くなって...」


美咲は娘の手を優しく握った。これは予想していたことだった。いや、どこかで恐れていたことかもしれない。蚕神の血が、結にも受け継がれていたのだ。


「大丈夫よ」美咲は娘に微笑みかけた。「ママも同じだから」


彼女は自分の手袋を脱ぎ、指先の白い筋を見せた。結は驚いた表情で見つめた。


「ママも?これって、病気?」


「病気じゃないの」美咲は優しく言った。「特別な才能よ。ママがきれいな服を作れるのは、これのおかげなの」


結は少し安心したように見えた。「じゃあ、わたしもママみたいに、きれいな服が作れるようになるの?」


「そうね」美咲は微笑んだが、心の中では不安が渦巻いていた。この変化が娘にどこまで影響するのか。そして、蚕神の意志はどこまで彼女を導くのか。


「でも、これはママと結ちゃんだけの秘密よ」美咲は真剣な表情で言った。「他の人には見せちゃダメ。約束できる?」


結は大人びた表情で頷いた。「約束する」


***


その夜、美咲は眠れなかった。娘の未来を案じる気持ちと、凛への思いが交錯していた。蚕神の血が結に流れていることは明らかだった。それは祝福なのか、それとも呪いなのか。


「悩んでるの?」


健太が横で目を覚ました。彼は妻の不安に気づいていたようだった。


「ちょっとね」美咲は偽りの微笑みを浮かべた。「仕事のこと」


「無理しないでね」健太は彼女の肩に手を置いた。「君の健康が一番大事だから」


美咲は夫に感謝しながらも、真実を話せない苦しさを感じていた。彼は理解できないだろう。蚕神の物語を、凛の犠牲を、そして今、彼らの娘に降りかかっている運命を。


朝、美咲は決心した。結を連れて、あの山に行く必要があった。


***


「ママ、どこに行くの?」


結は不思議そうに尋ねた。二人は車で山の麓まで来ていた。美咲が最後に訪れてから八年。山は変わっていないように見えたが、彼女の中で何かが変わっていた。恐怖ではなく、懐かしさを感じた。


「大切な人に会いに行くの」美咲は答えた。「ママの古い友達で、結ちゃんのおばさんみたいな人よ」


二人は山道を登り始めた。前回と同じように、道は見つけにくかったが、美咲は本能的に方向を感じることができた。彼女の体内の糸が、道を示しているかのように。


「ママ、手が熱い」結が呟いた。


見ると、娘の指先の白い筋が濃くなっていた。この山、この場所が、彼女の中の蚕神の血を呼び覚ましているのだろう。


「大丈夫よ」美咲は娘の手を握った。「もうすぐ着くから」


石段が見えてきた。前回よりさらに荒れていたが、確かにそこにあった。二人は石段を登りきり、小さな鳥居をくぐった。


社はさらに崩れていたが、中央には前回と同じ絹糸の塊があった。今回は、その周りに小さな蛾が何匹も舞っていた。


「きれい...」結は驚きの表情で見つめた。


美咲は娘の手を引き、絹糸の塊に近づいた。中の人影は前回よりさらに変容していた。もはや人間の形をほとんど留めておらず、巨大な蚕のような姿になっていた。しかし、その顔の部分には、かすかに人間的な特徴が残っていた。


「凛ちゃん...」美咲は呼びかけた。「来たわ。そして、この子が結。わたしの娘よ」


絹糸の塊が微かに動いた。そして、中から細い糸が伸び、美咲と結の足元まで届いた。


_「美咲...久しぶり...」_


頭の中に直接響く声。結も驚いたように母親を見上げた。


「ママ、誰かの声が聞こえる...」


「そう、彼女が凛おばさんよ」美咲は説明した。「ママの大切な友達で、あなたのためにも見守ってくれてる人」


_「結...蚕神の血...受け継いだのね...」_


「はい」美咲は頷いた。「最近、指に変化が現れ始めました。わたしと同じように」


_「運命...逃れられない...でも...導いてあげて...」_


「どうすればいいの?」美咲は尋ねた。「彼女にも同じことが起こるの?」


_「それは...彼女次第...」_


凛の声は前回よりもさらに弱々しくなっていた。まるで、人間としての最後の記憶も薄れつつあるかのように。


_「大丈夫...怖がらないで...才能は...祝福...」_


結は不思議そうに絹糸の塊を見つめていた。恐怖ではなく、好奇心の方が強いようだった。


「おばさん、わたしも服を作れるようになるの?」結が突然尋ねた。


絹糸の塊から、小さな振動が伝わってきた。まるで笑っているかのように。


_「そう...もっと美しいものを...作れるわ...」_


「やった!」結は喜びの声を上げた。「ママの作る服、すごく素敵だから、わたしも作りたかったの!」


美咲は娘の無邪気な反応に、安堵と不安が入り混じった感情を抱いた。子供にとって、この変化は単なる特別な才能に見えるのだろう。呪いや犠牲の意味は、まだ理解できない。


_「美咲...心配しないで...わたしが...守る...」_


「ありがとう、凛ちゃん」美咲は感謝の気持ちを込めて言った。「あなたの犠牲があったから、わたしたちは今がある」


_「犠牲じゃない...選択...そして...今は幸せ...」_


その言葉に、美咲は涙を流した。凛は本当に幸せなのだろうか。それとも、彼女を安心させるための嘘なのだろうか。真実は誰にも分からない。


_「結...近づいて...」_


結は恐れることなく、絹糸の塊に近づいた。塊の中から、一匹の美しい白い蛾が現れ、結の肩に止まった。


_「お守り...あなたの力...コントロールする...」_


「わあ、きれい!」結は蛾を見て喜んだ。「ありがとう、凛おばさん!」


美咲は微笑みながらも、心の中で祈った。娘が自分よりも上手く、この「祝福」と付き合っていけますように。そして、凛のような犠牲を払わなくて済みますように。


_「さようなら...また...来て...」_


凛の声が弱まり、絹糸の塊が再び静かになった。美咲と結は、名残惜しそうに社を後にした。


下山する道すがら、結は肩の蛾と会話するように、小さく呟いていた。美咲は聞こえないふりをしたが、心の中では凛が娘を見守っていることに感謝していた。


***


三年後。


「ママ、見て!完成したよ!」


結は誇らしげに自分の作品を見せた。十歳になった彼女は、既に驚くべき裁縫の才能を示していた。今回作ったのは、学芸会のための衣装。妖精の羽を表現したケープは、まるで本物の蛾の羽のように繊細で美しかった。


「素晴らしいわ!」美咲は心から感嘆した。「凛おばさんも喜ぶわ」


結の肩には、いつもの白い蛾が止まっていた。それは三年前から彼女を離れず、時には糸を紡いで彼女の作品を手伝うこともあった。


結の指の白い筋は、年々濃くなっていた。しかし、彼女はそれを恐れるどころか、誇りに思っているようだった。その特別な才能で、クラスメイトの衣装も手伝い、皆から感謝されていた。


「ねえママ、今度みんなに見せていい?」結が尋ねた。「この糸のこと」


美咲は息を呑んだ。「でも、約束したでしょ?秘密にするって」


「うん、でも...みんな喜ぶと思うの」結は真剣な表情で言った。「特別な糸で作ったプレゼントをあげたいんだ」


美咲は迷った。社会はこの異変をどう受け止めるだろうか。娘を守るためには、秘密にしておくべきだろうか。それとも、凛のように隠れて生きるのではなく、オープンに生きる道もあるのだろうか。


「少し考えさせて」美咲は答えた。「大切なことだから」


その夜、美咲は夢を見た。夢の中で、凛が彼女に語りかけていた。もはや人間の姿ではなく、美しい光に包まれた存在として。


_「恐れないで...世界は変わる...受け入れる時が来た...」_


朝、美咲は決心した。娘の才能を隠すのではなく、特別なギフトとして世界に示す時が来たのかもしれない。もちろん、すべてを明かすわけではない。蚕神の秘密は守りながらも、その美しい作品を世に送り出す。


「結、あなたの才能を見せてもいいわ」美咲は娘に伝えた。「でも、約束して。決して自分自身を危険にさらさないこと」


「約束する!」結は喜びの表情で答えた。「凛おばさんも喜んでるよ!」


肩の蛾が羽ばたき、その周りに微かな銀色の光が広がった。


***


十年後。


「結川結デザイン展、大盛況のうちに閉幕」


新聞の見出しが、二十歳になった結の成功を伝えていた。彼女は若くして有名なファッションデザイナーとなり、その独特の刺繍技術と、まるで生きているかのような生地の質感で、世界中から注目を集めていた。


「お母さん、次のコレクションのテーマは『蚕神の巫女』にしようと思うの」


結は美咲に新しいスケッチを見せた。そこには、神秘的な雰囲気を持つドレスのデザインが描かれていた。繭から羽化する蛾のように、変容の過程を表現したデザイン。


「素敵ね」美咲は感動して言った。「凛ちゃんも喜ぶわ」


「うん、彼女からインスピレーションをもらったの」結は肩の蛾を優しく撫でた。「私たちの秘密の物語を、アートとして表現したいの」


美咲は娘を誇らしく見つめた。結は蚕神の血を受け継ぎながらも、それを呪いではなく、創造の源として受け入れていた。彼女の作品は人々に幸せをもたらし、着る人に自信と勇気を与えると言われていた。


「今度、あの山に一緒に行かない?」結が提案した。「凛おばさんに、新しいコレクションのことを報告したいの」


「ええ、そうしましょう」美咲は微笑んだ。


二人は蚕神の秘密を守りながらも、その恵みを世界と分かち合う道を見つけていた。それは凛の犠牲の上に成り立つ幸せかもしれないが、彼女の魂は二人の作品の中で生き続けていた。


そして時々、満月の夜には、山の上に美しい白い光が輝くことがあった。村の人々は「蚕神の祝福」と呼び、その年は絹の収穫が豊かになると言われていた。


誰も真実を知らない。あの光の正体が、かつて「糸を吐く女」と呼ばれた存在であることを。そして今もなお、選ばれた者たちの才能を見守り続けていることを。


その夜、美咲は窓辺に立ち、満月に照らされた山を見つめていた。


「凛ちゃん...あなたのおかげで、私たちは幸せよ」彼女は小さく呟いた。「ありがとう」


遠くから、蛾の羽ばたきのような微かな音が聞こえた気がした。それは風の音か、それとも応答だったのか。美咲にはわからなかったが、心の中では確信していた。凛は今も彼女たちを見守っていると。


そして、この物語は終わりではなく、新しい始まり。蚕神の血を引く者たちの、永遠に紡がれる運命の物語。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「糸を吐く女」 ソコニ @mi33x

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ