第4話「花嫁の記憶」
結婚式まであと三日。美咲は鏡の前に立ち、調整された新しいウェディングドレスを見つめていた。白い生地に施された繊細なレースと刺繍は美しかったが、凛が作ったドレスとは比べものにならなかった。
「お似合いですよ」ドレスショップの女性店員が微笑んだ。「とても素敵です」
美咲は微笑み返したが、その笑顔は目に届いていなかった。凛がいなくなってから一カ月。警察は行方不明者として捜索を続けていたが、手がかりはなかった。美咲は真実を知っていたが、誰にも話せなかった。誰が信じるだろうか。蚕神の呪い、体から出る絹糸、山の神社での出来事を。
「ありがとう」美咲は小さく答えた。「これにします」
ドレスが決まり、美咲はアパートに戻った。彼女は婚約者の健太と住む新居に移る前の最後の数日を過ごしていた。リビングのクローゼットの奥には、段ボール箱がしまわれていた。凛が作ったドレスが入っている。
美咲は箱を見つめたが、開ける勇気はなかった。あの夜以来、何度も夢に見た。白い糸が喉から溢れ出し、その中から小さな生き物が這い出てくる悪夢。目覚めると、喉には微かな痒みが残っていた。
「凛ちゃん...今どこにいるの?」
美咲は窓から夜空を見上げた。満月が山の方向を照らしている。あの神社は今も存在するのだろうか。そして凛は...
電話が鳴り、美咲は我に返った。健太からだった。
「もしもし、美咲?明日の打ち合わせの時間、ちょっと早められないかな?」
「ああ、うん、大丈夫よ」美咲は通常通りに応対しようと努めた。「何時がいい?」
健太との会話を終え、美咲は再び窓の外を見た。月明かりに照らされた山が、何か秘密を語りかけてくるようだった。
***
「お風呂に入れて、洗濯物をして...あとは...」
美咲は独り言を言いながら、日常の作業をこなしていた。明日は結婚式場での最終打ち合わせ。明後日はリハーサル。そして三日後に結婚式。全てが予定通りに進んでいた。しかし、彼女の心は重かった。
風呂から上がり、髪を乾かしていると、突然喉に違和感を覚えた。咳をしても取れない何かが引っかかっている感覚。美咲は恐る恐る鏡を見た。もしかして、あの呪いがまだ...
指で喉を探ると、何か硬いものが感じられた。パニックになりそうな気持ちを抑え、美咲はピンセットを取り出した。口を大きく開け、喉の奥を探ると、確かに何かがあった。細い銀色の糸のようなものが、粘膜に埋まっていた。
「まさか...」
震える手でピンセットを使い、美咲はそれを引き抜いた。痛みはなかったが、違和感があった。引き抜いたのは、約5センチほどの細い絹糸だった。一端は乾いていたが、もう一方の端は少し湿っていて、赤みを帯びていた。
「呪いは消えてない...」
美咲の頭に、あの老婆の言葉が蘇った。「ここから出なさい。そして、二度とこの山には近づかないように」
彼女は呪いから解放されたはずだった。凛が代わりになったはずだった。しかし、体内に残った糸は、呪いの種がまだ残っていることを示していた。
美咲は決意した。結婚式の前に、もう一度あの神社を訪れる必要があった。
***
翌日の午後、美咲は再び山道を登っていた。前回と同じ道を辿ろうとしたが、道は変わっていた。藪はより深く、倒木も増えていた。まるで山自体が、人間を拒絶するかのように。
「あの石段はどこ?」
美咲は混乱していた。確かにこの辺りだったはずなのに、石段の入り口が見つからない。一時間以上探し回ったが、無駄だった。疲れ果てた美咲は、大きな木の根元に座り込んだ。
「凛ちゃん...どこにいるの?」
彼女は叫びたい気持ちを抑え、小さく呼びかけた。静寂だけが返ってきた。
突然、風が強く吹き、木々がざわめいた。美咲が見上げると、一羽の白い蛾が目の前を舞っていた。普通の蛾よりも大きく、その翅には奇妙な模様があった。まるで蚕の頭部のような。
蛾は美咲の周りを一周し、それから山の奥へと飛んでいった。なぜか、美咲はその蛾について行くべきだと感じた。
蛾は迷いなく飛び、美咲はそれを追った。藪を掻き分け、倒木を乗り越え、小さな渓流を渡る。やがて、見覚えのある石段が見えてきた。
「ここだ...」
石段は前回よりも荒れていた。苔はより濃く、灯籠は完全に倒れていた。しかし、確かにこれが蚕神社への道だった。
美咲は緊張しながら石段を登った。上りきると、小さな鳥居が見える。その先には、社があるはずだった。しかし、そこにあったのは廃墟だった。
「嘘...」
社は崩れ落ち、屋根は抜け、壁の一部は焼けたような跡があった。祭壇のあったはずの場所には、大きな蜘蛛の巣のような白い絹糸の塊があった。
恐る恐る近づくと、その糸の塊の中に人影のようなものが見えた。美咲は息を呑んだ。凛なのだろうか。
「凛ちゃん...?」
反応はなかった。美咲はさらに近づき、絹糸の塊を見つめた。中には確かに人型のものがあったが、それは完全な人間の姿ではなかった。頭部は人間のようだが、体は変形し、背中からは何かが突き出ていた。さなぎのような、蚕のような何か。
「凛ちゃん...これが、あなた?」
美咲は恐怖と悲しみで震えていた。しかし、同時に、奇妙な親しみを感じた。この存在が、かつての友人であることを、心のどこかで認識していた。
突然、絹糸の塊が動いた。中の人影が微かに震え、そして口を開いた。しかし、言葉ではなく、大量の白い糸が溢れ出した。糸は床に落ち、美咲の足元まで伸びてきた。
美咲は後ずさりした。しかし、糸は彼女を追うように伸び続けた。やがて、糸の先端が美咲の足首に触れた。
その瞬間、美咲の頭に強烈なイメージが流れ込んできた。
_「美咲...」_
凛の声が聞こえた。しかし、それは耳で聞く声ではなく、頭の中に直接響く声だった。
_「もう、人間じゃない...でも、意識はある...」_
美咲は恐怖を感じながらも、足を動かさなかった。「凛ちゃん、あなたにまだ会えるなんて...」
_「長くはない...もうすぐ、完全に変わる...」_
「変わるって...どうなるの?」
_「蚕神の巫女...糸を紡ぐ者...」_
美咲は混乱していた。「わたし、助けられることある?何かしてあげられる?」
沈黙があった。やがて、再び凛の声が聞こえた。
_「ドレス...完成させて...」_
「ドレス?あなたが作っていたウェディングドレス?」
_「そう...完成させないと...わたしの魂が...落ち着かない...」_
美咲は戸惑った。「でも、あのドレスには呪いが...」
_「呪いじゃない...祝福...だから...」_
糸が美咲の足首をさらに強く巻き付けた。
_「あなたが着て...結婚式...」_
「わたしが?でも、危険じゃない?」
_「もう大丈夫...わたしが...守る...」_
美咲は迷っていた。凛の作ったドレスを着ることは、あの恐怖をもう一度経験する可能性があった。しかし、それが凛の望みであれば...
「分かった...約束する。あなたのドレスを着るわ」
糸が美咲の足首から離れた。そして、絹糸の塊の中の人影が再び動いた。口から出ていた糸が引き戻され、代わりに何かが現れた。小さな白い蛾だった。
蛾は美咲の方へ飛んできて、彼女の肩に止まった。
_「これを...持って行って...わたしの一部...守る...」_
美咲は頷き、蛾を優しく手に取った。「分かった...大事にするわ」
_「さようなら...美咲...幸せに...」_
絹糸の塊が再び静かになった。美咲は名残惜しそうに振り返りながら、社を後にした。肩には小さな白い蛾が止まったまま。
***
アパートに戻った美咲は、クローゼットから段ボール箱を取り出した。中には凛が作ったウェディングドレスが、大切に畳まれていた。
「約束したわ、凛ちゃん」美咲は小さく呟いた。「あなたのドレスを着るって」
彼女は恐る恐るドレスを取り出した。前回、試着した時の恐怖が蘇る。しかし、今回は違った。ドレスからは、かすかな温かみを感じた。まるで生きているかのような。
美咲は決意を固め、ドレスを着てみた。その感触は前回とは全く違っていた。冷たさはなく、むしろ心地よい温かさがあった。そして、不思議なことに、前回よりも体にぴったりとフィットした。まるで、彼女のために調整されたかのように。
鏡の前に立つと、そこには美しい花嫁姿の自分が映っていた。ドレスは月明かりのように柔らかく輝いていて、刺繍の一つ一つが生き生きとしていた。
「凛ちゃん...これが、あなたの作品...」
美咲は感動で涙を流した。肩の上の蛾が羽ばたき、彼女の首元に移動した。そして、蛾の体から細い糸が出て、ドレスの胸元の未完成だった部分に絡み始めた。
美咲は驚いて見守った。蛾が紡ぐ糸は、ドレスの生地と一体化し、美しい模様を形作っていく。それは蚕と蛾と花のモチーフが絡み合った、独特の刺繍だった。
やがて、蛾の作業が終わると、ドレスは完全に完成した。胸元の刺繍は、全体のデザインを引き締め、さらに美しさを際立たせていた。
「ありがとう...凛ちゃん」
美咲は胸元の刺繍に手を当て、感謝の気持ちを伝えた。蛾は再び肩に戻り、翅を静かに開いたり閉じたりした。まるで、凛が微笑んでいるかのように。
***
「美咲、そのドレス...」
結婚式当日、母親が驚いた表情で美咲を見つめていた。
「とても美しいわ。でも、これはあなたが注文したものと違うわね?」
美咲は微笑んだ。「ええ、特別なドレスなの」
説明はしなかった。誰も信じないだろうし、理解もできないだろう。このドレスに込められた物語を。
式場に到着すると、参列者から感嘆の声が上がった。凛のドレスは、どこか現世離れした美しさを持っていた。光の加減によって色合いが変わり、時に銀色に、時に薄い紫色に輝いた。
健太は祭壇で待っていた。美咲が近づくと、彼の目に涙が浮かんだ。
「君は...本当に美しい」彼は囁いた。「天使みたいだ」
式が始まり、牧師の言葉が響く中、美咲は不思議な感覚に包まれた。ドレスが彼女の体を優しく包み込み、温かさを与えてくれる感覚。そして、肩の上の小さな蛾の存在。それは隠れていて、誰にも見えなかったが、美咲には感じられた。
誓いの言葉を交わし、指輪を交換する。そして、キスの瞬間。
その時、美咲は感じた。微かな風が吹き抜け、ドレスの裾が優雅に揺れた。そして、肩の蛾が羽ばたき、祭壇の上空を舞った。誰も気づかなかったようだが、美咲には見えた。蛾の後ろに、かすかな人影が。凛の姿が。
「ありがとう...」美咲は心の中で呟いた。「あなたのおかげで、わたし、幸せになれる」
式が終わり、レセプションが始まった。美咲と健太は参列者と談笑し、祝福を受けた。誰もが美咲のドレスを称賛し、どこで作ったのかと尋ねた。
「友人が作ってくれたの」美咲はシンプルに答えた。「特別なドレスよ」
夜が更けるにつれ、美咲は奇妙な変化に気づいた。ドレスの胸元の刺繍が、微かに動いているように見えた。蚕と蛾と花のモチーフが、まるで息をしているかのように。
そして、もう一つの変化。彼女の指先に、微かな痒みが。見ると、皮膚の下に白い筋が浮かび上がっていた。
恐怖ではなく、不思議な親しみを感じた美咲。あの夜、山で経験した恐怖とは違う感覚。これは「呪い」ではなく、凛が言ったように「祝福」なのかもしれない。
レセプションの終わり、美咲と健太は車に乗り込んだ。新婚旅行に向かう途中、美咲は窓から山の方向を見た。満月が山を照らし、山頂付近には白い霧がかかっていた。
「美しいね」健太が言った。「まるで、祝福されているようだ」
美咲は微笑んだ。「ええ、そうね」
彼女は指先の白い筋を見つめた。それはもはや恐怖の対象ではなく、凛との繋がりの証だった。彼女は心の中で誓った。凛の物語を忘れないこと、そして彼女の作品を大切にすること。
車は夜道を進み、美咲の新しい人生が始まろうとしていた。しかし、彼女の心の一部は、いつも山の神社とそこに住む蚕神の巫女と共にあるだろう。
そして、誰も知らないことだが、美咲の体内では既に小さな変化が始まっていた。それは恐怖ではなく、創造の源。彼女はやがて、凛のように美しい衣装を作る才能を開花させることになるだろう。その指から紡がれる糸は、この世のものとは思えぬ美しさを持つことになる。
それが呪いなのか祝福なのか、誰にも分からない。ただ、蚕神の意志は、静かに次の世代へと受け継がれていく。絹糸と共に、永遠に。
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