雷鳴は中天に轟く

眞壁 暁大

第1話

一九四五年。


 まだ戦争は続いていた。

 長期戦を戦い抜く力も、覚悟もなかったはずの日本は、今もギリギリで戦線を維持している。

 その版図は最盛期を大きく割り込んではいるが、マリアナで善戦し、フィリピンでいまもなお悪戦し続けているため、なんとか戦争経済は維持していた。

 とはいえ戦争経済が維持されているだけで、じっさいの国家・社会の経営は破綻寸前にまで追い込まれていた。市井は配給される食料だけで生命をつなげるか否か、その瀬戸際まで追い詰められている。骨身を削って今の命を永らえているようなもので、いつ頓死してもおかしくない病人。それが現在の大日本帝国である。

 

 そんな大日本帝国を象徴する部隊が三三四航空隊。

 最後の雷電航空隊だった。


      *   *   *   *   *


 ダンピール海峡の救世主だった雷電はその後、ラバウル・ニューギニア方面で大活躍した。しかし戦火はどこまでも激しく、一年も経たないうちに、次々に繰り出される連合軍の新型機に押されるようになる。まるきり歯が立たない、というほどではないが優位に戦えた時代はとうに過ぎ去っていた。それでも昨年(一九四四年)中は対抗する戦力として重宝されていたが、昨年半ばからは日本軍でも新型機が続々と登場すると次第に影が薄くなる。


 三三四航空隊が編成されたのは、そんな一九四四年の暮れのことだった。雷電はすでに生産縮小が決定されていたのに新部隊が編成されたのは、高高度戦闘機開発の保険として、雷電を改修するという実験目的である。

 制空戦闘機として二〇〇〇馬力級エンジンを積んだ新型は順調に配備されていたが、一〇〇〇〇メートルの高高度で飛ぶ迎撃戦闘機についてはいまだ開発途上であった。マリアナ失陥後の間欠的な本土空襲に対抗するためにも迎撃戦闘機は不可欠。

 急ピッチで開発は進められているが、空襲が本格化するまでにそれが間に合わない可能性もある。そうした次第で白羽の矢が立ったのが雷電であった。


 とはいえ期待は薄い。

 改修される雷電のために、二〇〇〇馬力を発揮できる一八気筒エンジンは供給されない。既に装備されている火星エンジンの改修に頼ることになる。

 間に合せでしかないから、操縦席の与圧も備える予定はない。


 安上がりに間に合わせる。


 それだけが、雷電に要求された機能である。そこに往時の栄光はもはやない。戦争はそれほど苛烈に進んでいく。


      *   *   *   *   *


「何とかなりませんかね」

 城と通りと堀を挟んで隣りにある廣島陸軍第二病院に、同僚を見舞ったあとの三三四航空隊所属の飛行隊長が、同行していた高高度型雷電の開発主任技師に尋ねた。

 布団に包まったまま、気丈に振る舞っていたが、同僚の顔面は分厚く包帯で覆われ、手指はまだ麻痺したままだった。高高度飛行の実験中に風防が弾け飛ぶというトラブルに見舞われて、高高度の低酸素と寒風に晒された結果だった。もう長いこと入院しているのに凍傷が治りきらない。俗に操縦士たちが高度病と呼んでいた症状だ。


「気密室のない雷電には堪えます」

 飛行隊長の中尉は続けた。これで三三四航空隊の操縦士は彼のみとなっている。

 航空隊を名乗ってはいるが、実験飛行隊にすぎない三三四航空隊は定数でもたった四機の航空隊である。高高度戦闘機の方も、新型機のほうが順調に進んでいるので、これから三三四航空隊が予算も人員も拡大する見通しもない。

 実験の過程で消耗した機材や部品、それに人員の供給も著しい停滞をきたしている。そんな状況で開発主任技師も無い袖は振れない。

「三〇ミリ機関砲を一挺、下ろしましょう。その代わりに酸素瓶を今の倍、積みます」


 それくらいしかできない、とは開発主任も言わない。

 唯ひとり残った雷電の操縦士である航空隊長の中尉は黙って頷く。

 なにもかも足りていない三三四航空隊は、いまや実験を続ける時間すらも奪われている。

 何しろ、三三四航空隊は廣島の空を守る唯一の高高度戦闘隊。

 敵の戦術の変化に慌てふためいた軍上層部の誰かが、何かしらの書類に載っている「高高度戦闘機装備」という文字だけ眺めて配備を決めたのだろう。


(たった一機でなにが出来るのか)


 飛行隊長も、主任技師もそれは言わない。広島の空を守れと命じられた以上、それをまっとうすることに全力を上げるほかなかった。


      *   *   *   *   *


 年明けの東京初空襲を皮切りに、マリアナ諸島からの本土空襲が本格化した。

 しかし、日本軍の防空隊はこれに対して痛撃を与えていた。


 当初アメリカが繰り出してきた昼間爆撃については、最大高度が八〇〇〇メートル程度であったため迎撃が容易だった。現有の制空戦闘機でも活動可能な高度だったためだ。B-29は恐るべき強靭さをもつ機体だったが、本土防空に揃えられた多量の戦闘機の十重二十重の迎撃網には消耗を重ねるほかなかった。

 戦果も相応にあったが、そのたびに爆撃機がひどく消耗するのに耐えかねた米軍が戦術を夜間低高度爆撃に切り替えたのは春過ぎだった。


 最初の大規模編隊による攻撃であり、戦術の変化に対応できなかった日本軍は大損害を負った。しかし、梅雨入り前に二度目の大規模空襲を試みた米軍は、縦深を深く取った日本の早期警戒レーダー網に絡め取られ、適切に誘導されるように進化した大量の夜間戦闘機によって迎撃されてほぼ壊滅した。

 

 この後、一月ほど米軍の空襲は沈静化することになる。

 昼間高高度爆撃、夜間低高度爆撃のいずれにも対応できたことに自信を深めた日本軍は、迎撃戦闘機の配備を首都圏・中京圏から全国の太平洋岸全域に広げつつあったが七月になって状況は急変する。


 米軍は単機での超高高度爆撃を繰り出してくるようになったのだ。

 偵察機かと思って見逃していたものが、一〇〇〇〇メートル超の高高度から巨大な爆弾を投下する。そんな攻撃が二度、三度続き、ついに皇居に爆撃を許してしまった。これに騒然とした日本軍は、直ちに開発中のものも含めて、全ての高高度戦闘機に実戦配備の大号令をかけた。

 これまでは見逃してきた単機の高高度侵入であっても、貴重な燃料の消耗を覚悟の上ですべて迎撃することが命じられる。

 一〇〇〇〇メートルは制空戦闘機では到達するのに時間がかかりすぎるし、その高度ではまともな戦闘機動も取れない。いきおい、高高度戦闘機の独壇場となる。


 いまだ実験途上だった雷電の高高度改修機を擁する三三四航空隊が、「期待の高高度戦闘隊」へと変貌したのはこのような事情からだった。

 広島の三三四航空隊の雷電のほかは、排気タービン過給器を備えた最新最強のキ94−Ⅱ型は東京へ、同じく排気タービン過給器のキ100−Ⅱ型は名古屋、キ83は大阪へと配備された。

 それぞれに配備される機種が異なるのは制式化直後、または開発途上のものを転用するという強引さが影響している。


      *   *   *   *   *


一九四五年八月。


 排気タービンを持たない雷電は、三速過給器の追加によって高高度性能を確保している。主翼も延長して面積を増やし、高空の薄い大気でも揚力を確保できるようにしてある。

 電探の警戒情報を受けて吉島飛行場を離陸した雷電は六〇〇〇メートルまで急上昇する。

 雷電を操る中尉はいったん、水平飛行に移る。高高度改修されたとはいえ、雷電にはここから急上昇を続けていくだけの余裕はない。

 エンジンの運転を安定させて、じわじわと高度を上げていく。

 三速過給器の火星は、最後の三速切り替えが難しい。変速に失敗すればあっという間に高度を失うが、高度を失うのを恐れて機首を下げるか、水平飛行にすれば三速切り替えの恩恵がえられない。

 中尉は機首をわずかに上げた姿勢で虚空を睨みながら、エンジンの調子に神経を集中。ダンスのステップのように、上昇力が限界に達し、揚力のバランスを崩しかけたほんのギリギリのところで素早く変速する。

 ほんの一瞬、失速し頭を下げるかに見えた機体は一転して上昇の角度を上げる。エンジンの轟音が薄い大気を切り裂き操縦席に響く。


 耳を覆うレシーバからは、吉島飛行場からの誘導に代わり、侵入したB-29を捉えたレーダー監視哨の指示が直接届く。

 吉島からの指示と大きな誤差はなかった。B-29の推定高度は一〇〇〇〇メートル。推定される目標は広島市。ギリギリ間に合う。


 中尉は慎重に雷電を加速させ、さらなる高みへと引き上げる。


      *   *   *   *   *


 この蒼穹に、我より上を征く者はなし。


 雷電は限界高度ギリギリまで上り詰める。太平洋と日本海とを一度に見られるほどの高さまで登る。

 そこまで登りながら中尉は空を搜す。

 これまでは見上げるようにしていた銀色の翼を。

 水平に周囲を見渡すが、どこまでも続く薄い青だけが広がっている。

 今この瞬間、雷電は、ほかの何者にも手の届かぬ高みにあり、天下無双の戦闘機として君臨している。いかなる相手であれ、高位から襲撃できる有利を噛み締め、中尉は猛禽の目で獲物を捜索する。


      *   *   *   *   *


 大まかな方位は地上からの誘導によって判明していたため、敵機は思ったよりもすぐに見つけられた。銀の無塗装ゆえ、いっしゅんだけ陽光に照り返したのが幸いした。じんわりと針路を曲げて、中尉の雷電はB-29へと接近する。


 斜め下を悠然と飛ぶB-29だが、速度は早い。

 天下無双の雷電とはいえ、速度の優位は小さい。そう何度も攻撃する機会はあるまい。慎重に軸線をB-29の進路に合わせて、静かにフットバーを踏み込んだ。

 この高度で急機動は高度を失うばかり。それを喪えば、二度と回復できないことを中尉は承知している。


「襲撃する」

 地上に届いているか否かは確認できないものの、中尉は習慣から短く咽頭マイクに告げ、まるでダンスを舞うようにひらりと翼をひらめかし、緩やかな降下に遷移。

 いたずらに高度を失うことなく、ただ加速するエネルギーだけを受け取れる最適な経路を、爪先に全神経を集中して慎重に、それでいて軽やかに踏んでいく。朝日に照らされてまばゆく輝いていた敵機は、見る間に大きくなった。


 驕敵B-29。

 驚愕に大口を開けている操縦士のツラが見えるほどの距離まで迫っているにも拘わらず、反撃の銃火はない。薄いのではなく、どの銃座も沈黙している。

(上からの攻撃がそれほどの予想外だったのか?)

 そのことに強い違和感を覚えながらも、中尉は照準環にはみ出したB-29の胴体にめがけて、目いっぱいに機銃を叩き込んだ。


      *   *   *   *   *


 空に2つ目の太陽が輝いたのは、その日の朝、本州のあちこちで目撃された。

 雷電の飛び立った吉島飛行場では、外に出ていたものはその太陽を見上げ、建物の中にいた者も一拍遅れて地表に届いた凄まじい雷鳴に、いっせいに外に飛び出たり、窓を開けたりして、空を見上げる。

 2つ目の太陽の周囲に、赤く黒く目まぐるしく色を変えながら広がる爆煙の中に、ときおり雷光が疾るのを見た、と多くの者がのちに証言している。

 

 午後には一瞬の驟雨のあとにその爆煙も消え去り、いったいあれは何だったのかと訝しむ声がやまないなか、蝉の声だけが響く飛行場の隅で、主任技師はいつまでも戻らぬ雷電を待ち続けていた。

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