夢の結末〜Spring in the Ethnographic Museum〜

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

ゆめのけつまつ〜Spring in the Ethnographic Museum〜

「あの夢を見たのは、これで9回目だった。」

 その夢を見る度に胸が締めつけられる。

 隣の布団で母と共に寝ている可愛らしい寝顔のひなこ、その頬にそっと手を伸ばして触れると、温かで柔らかい感触が指先に触れる。くすぐったかったのだろうか、顔が少し歪み、誰の手なのかわったのか、柔らかな微笑みを湛えて寝息を溢した。


 2月の初頭、ひなまつりには少し早いがお雛様を出した。


 もうすぐ、私は死ぬ、愛しい妻と愛しい我が子を残して、死ぬのだ。と幾度となく思う度に、涙が頬を伝って流れ落ちてゆく。体内のあちこちに異物ができて、ソレが侵したところより悲鳴が上がり痛みとなって意識を苛む。


「癌です。もう、手の施しようがない」


 医科大学病院でそう告げられた時は、目の前が真っ暗になった。帰りの車中では、妻と2人で泣きながら帰ってきたのが、昨日のことのように思い出される。先生は1年と持たないと言ったが、2年近く生きることが叶ったのは奇跡なのか、体の頑張りなのか、だとしたらこの身を労ってやりたい。

 布団より抜け出して自宅の工房へと細長い廊下を壁に手をつきながら歩いてゆく。途中、おひなさまが飾られた部屋の前で立ち止まり、そして、月明かりの下で輝く美しさに目を奪われる。


「お月様にも見せてあげたい!」


 ひなこが寝る前にそう言って聞かなかったので、仕方なく障子を開けたのだ。強情な性格で何にでものめり込む性格は、私も妻にもない、何処から遺伝したのかと妻と2人で笑い合いもしたし、時折には悩んだりもしたが、愛しく素晴らしい娘に変わりはない。


「こんばんは」


 そうおひなさまに声をかけ、再び歩みを進めてゆく。やがてたどり着いた底冷えのする工房と書かれたの扉を開けると、壁にある電気スイッチを入れて、工房内で一際輝くお神輿を見つめた。

 ダム建設の為に水底に沈んだ集落のお神輿、散り散りになった集落の人々は、忘れまいと移転した神社で祭りを開き、神輿を担ぐ。その神輿の修繕を木工職人をしている私は頼まれていた。土間に置かれたつっかけに足を入れ、そのひんやりとした感触に微熱を帯びた体が寒気を覚える、我慢をしながらゆっくりと作業台の間を伝え歩いて、お神輿の前に立った。

 飛騨の匠が腕によりをかけて造り出したお神輿は修繕するにも大変だった。ときより、ひなこが工房に顔を出しては、時解されゆくお神輿を眺めて、欄間飾りのように精巧に掘り込まれた龍や鳳凰に惹かれていた。


「新しいのと交換するの?」

「いいや、悪いところだけを削いで継ぎ足すんだよ」

「どうして?」

「そうだなぁ、みんなが大切に大切にしてずっと守ってきたものなんだ。だから、思いが染み込んでる。そんな思いを消してしまって、すべて新しいものにしてしまったら、可哀想だろう」

「うん」


 言葉足らずな私の説明にひなこは何かを悟ってくれたらしく、深く頷いてはつぶらな瞳でお飾りを眺めてくれた。これから先、歴史をいや、文化や伝統に触れることが多くなる、その姿を目にする事は叶わないが、敬う気持ちを忘れずにいてくれたらと心に願ったものだ。

 お神輿近くの椅子に腰を下ろして深いため息を吐き出した。


 ここのところ悪い夢を見ている。


 大人になったひなこのが出てくる夢だ。目元や口元が妻によく似ていて、耳の後ろにあるほくろも変わらない。歳は妻よりもかなり上であったが綺麗な大人の女性に成長していて、それを見届けることができない父親としては感慨深いものがある。


 そのひなこが泣いていた。


 どうして飾られているかわからないが、家族でも良く訪れた和良民族資料館にたくさんのお雛様が並んでおり、そこに先ほど眺めたひなこのお雛様もあった。初めて我が家で飾った時などはその横で寝ると言い張り言うことを聞かずに妻を怒らせて、結局、妻が折れてその前に布団を敷いて眠ったが、それが功を奏したのか、お雛様を出すたびに率先して手伝っている、ひなこがとても大切にしているおひなさまが資料館に飾られており、その女雛の髪が乱れていた。

 それはひなこがやってしまったことだ。手を滑らせたことで起こってしまった不幸な事故、それに心を痛めて泣いている姿が夢に出てくる。娘は幾つになっても娘だ。

 遠巻きにしか見つめることのできないその姿に、駆け寄って慰めてやりたいのに、近寄ることすらできず、私は夢を見るたびに歯痒い思いをする。体の痛み以上に心が軋んで痛み、それが辛くて、辛くて、堪らなく苦しい。


「夢のようにならなければいいが……」


 工房の神棚に祀られている神さんに手を合わせて、そんなことは起きませんようにと祈りを捧げる。大切な娘なのだ、見届けられない分も幸せに過ごしてほしい。


「お神輿さんもお力添えをお願いします」


 身勝手ではあったが神輿にも振り向いて祈りを捧げていると廊下側から声が聞こえてきた。


「あなた、大丈夫?」


 うららかな春を纏うような妻の声だ。私を最後まで支えてくれている愛しい声だ。


「ああ、起こしてしまったか?」

「ひなこがおトイレっていうものですから……」

「そうか、一緒に戻るよ」


 妻の足元には眠たそうに目を擦る可愛らしいひなこがいる。妻の表情は不安を隠そうとしていることが手に取るように分かる。愛したの女の表情くらいは掴めることに安堵して、心配をかけてしまったことに申し訳ないと詫びた。

 工房の電気を消して3人揃って廊下を歩いてやがて布団へと戻ると何かが嬉しかったのか、ひなこが溶けそうなほどに可愛い笑み浮かべて、私と妻を見やってからやがて眠りへと落ちていった。


「おやすみなさい、あなた」

「ああ、おやすみ」


 私は再び眠りへと落ちた。あの夢だけは見せないでほしいと願いながら。


 再び夢を見た。


 お茶を飲みながらぼんやりとしている成長したひなこ姿が見える。私や妻よりも年上の立派な大人の女性の姿に父親としては嬉しくなる。だが、その顔は冴えない、あの夢の女雛が原因であろうことは容易に想像ができた。あいも変わらず和良民族資料館にひなこはいて、もしかすると勤めにでも出ているのかもしれない、事務室の窓がノックされる音でぼんやりとしていたひなこが目を覚まして立ち上がった。


「時間ギリギリにすみません、まだ、見学できますか?」

「ええ、大丈夫ですよ。見学料で四百円を頂きますけど……、それに閉館の時刻も……」

「いいんです。どうしても見たい人形があって、すみませんがお願いできませんか?」

「それなら……、どうぞ」


 ブラウンの髪に右耳に妙に長いイヤリングをつけた若い男だ。顔立ちは清潭で透き通るような美しさは、男の私から見ても羨ましいほどだ。優男だが芯は強そうな瞳をしている。成長したひなことは一巡りほど歳が離れているように見えた。


「この人形を探しているんです。どこに飾られているか、教えてください」


 何か写真のようなものをひなこに見せていて、それを見たひなこの顔が曇る。きっとあのお髪が乱れてしまった雛人形が写っているのだろう。


「えっと……、この雛人形になにか?」

「たぶん、祖父の若い頃のだと思うのです」

「え?おじいさんの若い頃?」

「はい、不躾にすみません。僕、こういった者です」


 興奮冷めやらぬ口調の彼が名刺を差し出していた。遠巻きからでも分かる字面に息を飲んだ。


 人形師 春日峰 好古とあった。


 お雛様を買った工房の名前だとすぐ気がついた。遠くでの仕事帰りに、偶然立ち寄った人形工房で私は生まれたばかりのひなこのために人形を買い求め、若いながらに鋭い目をした職人気質の店主は私が迷う様を見て、あれこれと要望を聞いてくれたのだ。


「あの、大変失礼なことなんですが、お願いを一つ聞いていただけますか?」

「できることなら、なんでもしますよ。でも、まだまだ未熟者ですから、限られてしまいますが……」

「お髪を直して頂きたいんです。あの雛人形は私の家にあって私のお雛さまだったんです。毎年、毎年、大切にしてきました。でも、今年、私が展示室に移してしまったばっかりに……」


 この歳になってもひなこは変わらずにひなこだ。雛人形を大切にしてくれていることがとても嬉しかった。思い出を大切にできる我が子の成長に胸が熱くなる。だからこそ、きっと自らを責めているに違いない、女雛に恨まれてしまっているとまでは言わないが、きっとそんな気持ちを抱いているであろう気持ちが伝わってくる。


「大切になされていたんですね、人形もそんなに思ってくれているのなら幸せなのだと思います。見てからですが、是非ともさせてください」


 彼の言葉にひなこの表情が緩んだことに、父親としてはほっと胸を撫で下ろす。


 人形師の指先と手つきはまるで魔法のように優しくて繊細だ。

 雛人形を手にする姿から所作とも言い表せるほどの仕草は人形工房の店主と良く似ていた。きっと子供か孫なのだろう。見惚れてしまうほどに洗礼された手つきで女雛のお髪を、ゆっくりと解して髪をすき、柔らかな御垂髪を整えて固めてゆく。乱れた女雛は男雛と同じような凛々しさとどことなく可愛らしさを取り戻して、ひなこの前に姿を現した。


「これでは未完成です」

「え?」


 彼はそう口にして女雛を男雛の隣へと座らせるとやさしく声をかけてゆく。


「おつかれさま、さ、ゆっくりと語らいでね」


 男雛と女雛の口元がほころぶ。ひなこの笑顔のように確かにほころんでいた。


「これをすべて、えっと、ひなこさんが飾り付けられたんですね」


 彼がポケットからハンカチを取り出してひなこへと差し出し、それを遠慮せずに素直に受け取ると目元へと当てる。それを聞いて再び胸が熱くなった。ひなこはここに勤めていて、歴史ある物を守る仕事についてくれているのだと夢ながらだが思うと父としては嬉しくてたまらない。


「私、名前を名乗って……」

「みんなが教えてくれますよ?大切に大切に出してくれる人だって、会わせてくれる人だって言ってますよ」

「会わせてくれる……」

「ええ、本人やその息子や娘に、孫に、子孫に。誰かに会えることを楽しみにして、ひなこさんが毎年きちんと出して、世話して会わせてくれるって、綺麗に見えるように飾りつけも、遅くまで頑張って、細々な修繕もしてくれて幸せだって言ってます」

「そんなこと、私はただ仕事で……」

「人形はよく見ているものなんですよ、良いことも悪いことも、そして、休んでいる時も耳を欹てて聞いているんです。この方々にこんなにも愛されているひなこさんはとっても素敵な方なんでしょうね」


 ひなこの頑張りをここまで感じ取ることができるのが人形師なのだろうか。いや、まさかそんなことはないとは思うが、人形の声を聞くことができるのだろうか。そうであったとしても、そうでなかったとしても、ひなこを褒める口調は素直で聞いている私でさえも心からの言葉であった。

 あたりを見渡せば、どの雛人形たちも口元が、やさしく、やさしく、ほころんでいる。


「よかったらですけど、僕も手伝っていいですか?こんなに素敵なところですから、ちょっとお手伝いくらいはできると思うのです」


 彼の言葉にどのような返事を返してよいのか戸惑っている姿に母親の面影が重なった。戸惑うことがあると母親も同じようにおろおろしたものだ。

 そしてカタンと音がした。

 落ちるはずのない女雛の扇がポトリと落ちていて、音はまるで背中を押すように響き、何故だか彼は恥ずかしそうに笑いていて、けれどその笑みは好感を抱けることに私は安堵した。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いしますね」


 心地よくほころぶ風がどこからともなく吹くと2人を包んで夢は途切れて、悪夢の続きは終わりを告げるように消え去ってゆく。

 やがて暗転した世界で誰かが私を呼ぶ声が聞こえてくる。それは大人びていない愛娘の声だ。


「おとうさん!朝だよ!おひなさまのお水を変えよ!」

「ひなこ、おはよう」


 まんまるの可愛らしい目が私を覗こんでいた。パジャマ姿で嬉しそうに微笑む頬に手をあてると更にほころぶ。


「そうだな、歯を磨いて顔を洗ってからしような」

「うん」


 飛び上がる猫のように廊下へと駆け出してゆくひなこの後ろ姿を見つめた。

 もうすぐその姿も見ることが叶わなくなってしまう、そして辛い目に辛い思いをさせてしまう事が悔しくて堪らない。悔しさで拳を握り締めるがそれはもうどうすることもできない未来だ。


 どうか、ひなこが幸せになれますように。


 深く祈ってから私は布団から抜け出して、元気よく走ってゆく後ろ姿を追った。






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