modulation

武井

modulation

 子どもの頃、漠然と「カッコいい大人」に憧れていた。

 それがどのようなものなのか具体性など全くなく、ただただカッコいい大人になりたいと思っていた。


 大きなアンプにジャックを挿し込むその瞬間が好きだった。

 「よし、今日もやるぞ!」という気分にスイッチが切り替わるようで。


 その歌声が好きだった。

 将来は絶対に歌手になると、そう断言する彼女のことを心から信じていた。


 私のギターなんて所詮、彼女にモテたいがために始めた手慰み。

 10年以上経った今はもうマトモに弦を抑えることもできないだろう。

 ただその当時は「上手くなったじゃん」と言われたいがためにそれはもう必死で練習した。そしてそれが楽しかった。


 そんな彼女と高校から続けていたバンドは大学卒業を期に解散した。

 私含め、彼女以外のメンバー全員が就職したためだ。


 彼女だけは違った。

 絶対に自分の声で生きていくと言って聞かなかった。

 彼女は歌手になれると信じていたはずの自分も、いつしか社会の垢にまみれ「就職をした方がいい」と彼女を説得する側に回っていた。


 何故そんなことを思い出したのか。

 ある日息子が言ったのだ。「カッコいい大人になりたい」と。

 血は争えないのか、はたまた男児は皆そう思うのか。

 その時私は息子になんと答えたのか覚えていない。


 これでも一応、大企業に勤め清潔感にも気を付けている。

 年収だって同年代では多い方だ。

 ただそれがカッコいい大人なのだろうか。

 私は息子の模範となれているのだろうか。

 そんな自問自答の末に彼女のことを思い出したのだ。


 それから数ヶ月経った先週の金曜日。

 妻には残業だと嘘を吐き、私は巣鴨の小さなハコの前にいた。

 薄暗い階段を降り、重いドアを開けた瞬間に全身を覆う埃っぽさ。

 時代の流れか、タバコの煙だけは無かったがそれ以外は何も変わらない。


 ワンドリンクには烏龍茶を選びいよいよ時間は19時。

 肚の底に響く音圧を浴びながら盛り上がる観客。

 その隙間から見えるスポットライトに照らされるヴォーカル。

 ひと目見てわかった。何も変わらなかった。


 何故、私はスーツを着て「こちら側」にいるのだろう。

 「あちら側」の熱量に、頬を伝う熱いものを感じていた。

 もう30歳も過ぎて、小さなハコで、おそらく収入も多くないだろうに、ワンマンでも無いたった30分のその出番のために、命を燃やす彼女の姿。

 それはかつて私の憧れた「カッコいい大人」そのものだった。


 何故、どうして私は変わったのだろう。

 何故、どうして彼女の姿はあんなにも美しいのだろう。

 瞬き一つ許されない。

 その輝きを目に焼き付けたかった。

 背から首まで粟立つような、体内から湧き立つ熱い何かを止められなかった。


 あれから仕事も手につかず、興奮冷めやらぬまま一週間を過ごした。

 そして今、大きなアンプにジャックを挿し込む。

 「よし、今日からやるぞ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

modulation 武井 @cate0315

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ