9回夢見た境地【KAC20254・あの夢を見たのは、これで9回目だった。】第三弾

カイ 壬

9回夢見た境地

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 1イニングを3人で退ける。ヒットもフォアボールも許さない。

 投手であれば誰もが毎回見る夢である。


 そして今日、1イニングごとに見てきた夢がとうとう連続9回目を迎えた。

 9回表2アウト2ストライク。いよいよイニング頭に見ていた三者凡退の夢が完成するときである。


 気のせいかキャッチャーも野手も表情が固くて身動ぎしていない。

 長い競技人生の中で、何度も巡り合えるような状況でもないからだ。


「暑いな」


 頬から滴る汗を袖口で拭い、ロージンバッグを叩いて粉を指に付着させる。グラブの中で硬球を掴むと指先で遊ぶように転がしていく。

 キャッチャーからのサインがピッチコムで届いた。


 アウトローのスライダー。


 まさに邪道をいく俺にふさわしい決め球だ。

 俺はキャッチャーに向かって頷くと、硬球の縫い目に指を添えて握った。

 左足を一足分後ろに引いてから投球モーションに入る。


 右足でプレートを踏ん張って左膝を腰まで上げた。

 左足を大きく一歩前を踏み出すと同時に体をひねり始める。

 マウンドに着地した左足の指を使ってインナーソールをぎゅっと掴む。

 胸を大きく開いてボールを高く振り上げると、左手のグラブを抱え込むように手前に引き付けた。


 最大加速がついたところで、ボールの縫い目に添わせた指先を使ってボールを切るように投げる。指を離れた硬球はまっすぐな軌道を描いてど真ん中へ向かっている。


 打者がバットを振ってきた。あのスイングはど真ん中狙いに違いない。


 ここからボールがアウトローへ曲がってくれれば俺の勝ち。曲がらなければ打者の勝ち。もちろんリリースした感触では間違いなく曲がる。そう思ってはいても、ど真ん中へ向かって直進するボールを見送るのは何年経っても不安がつきまとう。


 打者がバットを強振してきた。もし曲がらなければホームランは確実だろうか。

 打席に立っているのは3巡目の9番バッターではなくその代打だ。代打である以上、一発必中を期待されているはずだ。少なくとも簡単にゲームセットにできるような打者ではない。

 尋常ではないバットスピードで芯はど真ん中にぶつけてきている。


 曲がるか。いや曲がれ。


 そう願っていると、打者の手前から急激にボールが斜め下へとバットから逃げるように曲がっていった。

 パーン。

 キャッチャーミットの乾いた音が鳴り響いた。打撃音ではない。

 バットにかすりもせず見事アウトローへと曲がってくれた。


 キャッチャーがフェイスマスクを派手に投げ捨てて俺に向かって走り寄ってきた。

 野手の七名も俺をめがけて走り込んでいる。

 さらにベンチから選手やコーチも駆け出しており、監督は長く球団マスコットを務めていた畜ペンと称されるトリの降臨に合わせてゆったりと歩み寄ってくる。


 もみくちゃにされた俺は、ひととおり騒ぎ終わって落ち着いてきたチームメイトを離れ、キャッチャーからウイニングボールを受け取った。


 これが二十年来待ち望まれていたパーフェクトゲーム、完全試合だった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

9回夢見た境地【KAC20254・あの夢を見たのは、これで9回目だった。】第三弾 カイ 壬 @sstmix

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ