願望夢
落水 彩
ミケ
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
正確な数字を覚えているのは、初めて見た日から嬉しがって日記を残していたから。
夢の内容は飼い猫のミケがなぜか人語を操って話しかけてくるというもの。
ミケは僕が中学生の頃に我が家へやってきた。選んだのは保護猫で、初めてでも飼いやすい成猫のメス。仕事の都合上、家を空けがちだった両親が寂しくないように、と迎えたのだ。
ミケという名前は、首輪に書かれていたものをそのまま呼んだ。前の家でも大事にされていたらしく、初めてミケに会った日も、特に怯える様子もなく、黒や茶色のマダラ模様が入った胴体を擦り付けてきた。
兄弟もおらず、一人では広すぎる2LDKのマンションで寂しさを感じても、いつもミケがそばにいてくれた。孤独に苛まれた思春期も、ミケがいたから乗り越えられた。
「へへ、今日はね、3回で済んだんだ。佐々木くんも西野くんも習い事があるかなんかで、長引かなかった。」
「うにゃ」
「ちゃんと耐えられたんだ」
「うにゃ」
「痛かったけど、泣かなかったんだ」
「うにゃ」
「頑張った、んだよ」
「……うにゃ?」
相槌をうつミケに顔を覗き込まれると、膝を抱えて鼻を啜る僕に体重をかけてきた。
それがなんだか温かくて、嬉しくて、柔らかな毛が涙で濡れてしまうことを気にする余裕もなく、ミケを強く抱きしめた。驚いたミケは体をピクっと震わせたが、逃げようとはしなかった。抱擁を受け入れるように、あるいは諦めるように「にゃあ」と鳴いた。
「ミケの言葉がわかればいいのにな」
そうやって顎下を撫でると、うなうなと声を漏らしていた。喉を鳴らすこともあったけれど、ミケは猫特有のとろけるような甘い声で鳴くことの方が多かった。
「ケーイチ、浮かない顔してる」
しかし、夢の中のミケはいつも不服そうだ。9回目の今日は、ちゃぶ台を挟んだ向こう側に敷かれた座布団に座り、机に顎を乗せていた。
わかりやすく語尾に「にゃ」とつけるでもなく、高くもない声で話す。
人間だったら、頬杖をついて口を尖らせていそうな態度に感じた。
「そんなことないと思うけど」と返すと疑るように睨まれた。
「嘘、だって調子いいときはでかい声で歌ってるもん」
自分の行動を振り返ってそんな恥ずかしいことを、していた。
お風呂場はよく声が響く。浴室の外まで歌声が漏れ出ていたことを知ると、顔から湯気が出そうなほど熱くなった。熱をとるように頬を両手で包んでみたが、逆効果だった。
ミケはそんな僕を見て、表情を変えないままゆらゆらと尻尾を揺らしている。
「聞くよ。昔みたいに」
やれやれ、とため息を吐きながら、あぐらをかいて座る僕に寄りかかってきた。太ももに顎を乗せ、相変わらず尻尾を揺らしながら上目遣いで見つめられた。
ミケがそばに寄ってくるのは、決まって僕が一人のときだ。
「実は、」
この瞬間だけ、我慢しなくてもいいんだ、甘えていいんだと、心を覆う固い殻を破ることができる。
仕事でノルマを達成できなかったこと、伝達ミスで上司にこっぴどく叱られたこと、仲のよかった同僚が辞めてしまったこと。それから、他にもたくさん、たくさん身の回りにあったことをミケに話した。
ところどころ言葉を詰まらせても、噛んでも、ミケは「うん、うん」と笑わずに耳を傾けてくれる。
「気は済んだ?」
枯れるまで泣いて目を腫らした情けないアラサー男性の顔を見ても、ミケは笑わなかった。
「いつもごめんね」
「いいよ別に。ケーイチが私の前でだけ泣き虫になるのは、昔から変わらないね」
仕事で頑張っていたり、疲れていたりする両親には本心を打ち明けることはできなかった。余計な心配事を増やしたくなくて、何を聞かれても大丈夫、と返していた。
そうやって気を使って、嘘をついて、強がるたびに心に針が刺さった。
でもミケの前でだけは、その強がりを捨てられた。夢で言葉を交わせるようになってからも、同じだった。
「えらいよ。ケーイチ、他所では絶対泣かないもんね」
その声に抑揚はない。でも、無関心というわけでもない。彼女なりの激励だった。一緒に過ごして10年。さらに同じ夢を見て9回目。ミケを知り尽くすしたとも思っていないけれど、話せるようになってからは彼女が案外ドライなところも、それでいて僕のことを認めてくれる一面があることもわかった。
「私のいないところで泣いたの、9年前のあの日だけだよ」
——もう、9年も経つのか。
「あ、そろそろ夜が明ける。行っておいで」
ミケに小さな頭を押し付けられ、立ち上がるように促された。
もっと話したいけれど、それが叶わないことはなんとなく分かる。夢の中の部屋内がだんだん明るくなっていくから。
「また会える?」
「ケーイチが会いたいと願ってくれるなら」
そう答えたミケはどんな顔をしていたのだろう。
もう一度目を開くと、見えたのは自室の天井。
眠たい目を擦って、ベッドから起き上がる。カーテンの隙間から差し込む朝日がフローリングに歪な長方形を作っている。
裸足を光にかざすとじんわりと温かかった。まるで足の上にミケが乗っているようだった。
「おはよう、ミケ。今年も会いにきてくれてありがとう」
僕は机上に置かれた写真立ての中にいるミケに微笑みかけた。
願望夢 落水 彩 @matsuyoi14
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