妹の言伝
森陰五十鈴
減食
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
布団の中で身体だけ起こして、部屋の中を見渡す。毛羽立った六畳間。剥き出しの砂壁。清浄な朝日が照らし出す散らかった室内には、
汗で貼り付いた下着が身体を冷えている。脱がなければ、と思いつつも、布団から抜け出せない。水の中から浮上したときのように酸素を求めて喘ぎ、もう数ヶ月も切っていない髪を触って自身を宥める。夢の名残はなかなか消えない。悲鳴をあげたくなるような絶望感から抜け出せない。
どんな夢かと問われれば、言うだけならなんてことはない、死んだ妹との食事風景だ。ただし、場所は何処か森の中。特に大きな樹の根元に、貴族の邸宅で見られるようなダイニングテーブルが置かれているのが、ひどく非現実的だけれども。
向かい合って座った互いの前には、白い皿が一枚だけ。そこに置かれたものを、20歳で死んだ幸薄そうな顔をした妹が食べている。そして、蘇芳に一言残すのだ。他にも何か話していたのかもしれないが、覚えているのは告げられたそれだけ。
初めて夢見たときは、「明日は雨だ」と、他愛のないことだった。本当に雨が降ったが、気にも留めなかった。
2回目に見たときは、「新しい靴を買うように」と。何故だろうと思っていたら、履き古していたスニーカーの靴紐が切れた。
3回目は、「百足に気をつけて」。天井から降ってきたときはさすがに驚いたが、元々出てくる土地であったし、良く出る時期だったので、ただの偶然だと思っていた。
このときはまだ、夢に何も感じていなかった。妹の予言は、自分の無意識の懸念によるものだろう、としか思っていなかった。
ただ、皿の上に載せられたのが、ぼろぼろと黒ずんだ炭のような物だったのが、不快だった。蘇芳は手を付けなかったが、妹は指先で慎ましく口に運んでいた。
4回目。夢の中でも呆れて来た頃。「出掛けては駄目」と言われた。何かと思えば、ゲリラ豪雨に見舞われた。雷も激しく、一時だが停電まで起こった。
5回目。「南南西に気をつけて」と。翌日、自転車に乗っていると、アスファルトにできた穴に突っ込んだ。その場所が家から南南西の方角だったと気づいたのは、どうしてだったか。
6回目。「いつもの電車に乗れないよ」と。無視していつも通りに通勤しようとしたら、人身事故に遭遇した。
恐怖を感じたのは、この辺りからだった。あまりにも妹の語る未来が的中しているものだから、気味が悪かった。
皿の上のものが、いつの間にか食べ物らしい物になっていたのも気になった。種のようなものから、だんだん瑞々しい果実へと。果汁で濡れた指先を舐めながら、妹は少し喜んでいただろうか。
7回目。「燃えてしまうわね」。隣町の住宅街で、二棟を焼く火事が起こった。死人も出たらしい。
8回目。「山が崩れる」。利用している電車の沿線で土砂崩れがあった。人や家屋は巻き込まれなかったのは、誰にとっても幸運だっただろうが。
規模が大きくなれば、もう畏怖どころの話ではない。夢の中であろうと妹が恐ろしい存在に思えてならず、忌避感を抱いていた。
皿の上には、肉が載せられていた。きちんと調理されていたものだ。ステーキ。ハンバーグ。手の込んだものに変わってきている。
9回目の今回。妹が口にしたのは、「トリの降臨」。
「〝トリ〟って……なんだよ」
「それはもちろん――」
ヴクブ・カキシュ。蘇芳には、なんのことか解らなかった。それよりも、血の滴りそうなほど赤いローストビーフに気を取られ、強い嫌悪感を催したことだけ、印象に残っていた。
「兄さんは、食べないの?」
妹は貴婦人のごとく、フォークとナイフで肉を平らげた。不思議そうに、残念そうに、食事を拒否する蘇芳を眺めて。
同類になれ、と沈黙ながらに訴えてくる妹を忌々しく思ったものだ。
蘇芳は、布団の中から窓の方を向いた。カーテンもない窓の向こうには、至って穏やかな春の青空がそこにあった。霞んでいるのは、きっと花粉の所為だろう。
何かが降臨する予兆など、何もない。
布団を頭から被り、そのまま一日を過ごすことも考えた。だが、すぐに考えを変えて、蘇芳は布団から這い出た。普段通りの日常を送る義務感。そして、それよりもずっと強い、夢を見ることへの恐怖。
もう二度と、妹には会いたくない。
不吉ばかりを言伝する彼女から、とにかく離れたかった。
それに、妹が首を括ったあの樹が、一つの眼で食事の様子を見つめているような、そんなおぞましい場所に行きたくなかった。
夢を振り払うように、蘇芳は仕事のために身支度をする。服は着替えたが、髪に櫛を入れたり髭を剃る気力はなかった。食事など
家を出て、せかせかと道を歩く。昇ったばかりの太陽が不吉を祓ってくれることをひたすら願った。
どうか、10度目はありませんように。
妹の言伝 森陰五十鈴 @morisuzu
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