あの夢を見たのは、これで9回目だった。

洞貝 渉

あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 はらひらと舞い踊る薄紅色の花が散り散りになるのを漫然と目で追いながら、ほうと相槌とも独り言ともとれる声をカエル氏がもらす。

 カエル氏の手には水筒のコップがあり、甘く香ばしい匂いを漂わせていた。

「それで、その夢というのは一体全体どんなものだったのかね?」

 くいっとコップを傾ける。濃いエスプレッソにキャラメルを溶かした牛乳をふんだんに加えたそれは、脳が痺れるくらいに甘く、しかしすっと潮が引くように後味はほろ苦く、まだ少し肌寒い春の始まりの日に身体を温めるのにはぴったりだった。


 カエル氏の周囲に人影はなく、ただ一本、大きな桜の木が枝にあふれんばかりの柔らかな色をたくわえている。

「最初に見た夢は」

 どこか幼さを残したようなソプラノの声が、頼りなさげに辺りに漂う。

「あれは、とてもきれいな空の夢だった。赤青黄色、紫に白に黒。でも、足りなかった」

 ほう、とカエル氏がまた声をもらす。

「次の夢は、水の夢。空から降り注ぎ、地面に溜まり、地中にしみ込んで流れて大きな水たまりになって。そしてまた空へ昇り地に降り注ぐ。でも、やっぱり足りない」

 はらりと、ひとひらの花弁がコップの中に舞い落ちる。

 カエル氏は花弁ごと珈琲を口に含む。

「その次は人間の夢だった。人間は動きにくい布を身にまとって、行きたくない所へ行き、やりたくないことをして、消耗しきって一日を終える。目に見える景色は澱んでいて、それからこれも、全然足りない夢で」

 声は続けて、夢の説明をした。

 飛べない鳥が嫌々泳ぐ夢。怖がりでついぞ地上に出なかったミミズの夢。悪戯好きな空気の夢。目の見えない魚の夢。暗闇にひそむ光の夢。0と1に芽生えた誰にも理解できない善意の夢。

 そして、そのどれもが同じ、足りない夢なのだと声は言う。


 夢の説明を終えると、あたりはしんと静まり返り、ただ花の舞い散る光景だけが広がった。

 動き続ける不変の視界の中、数秒とも数時間ともとれる時が流れ、ふいにカエル氏が口を開く。

「吾輩にはわかりかねるのだがね」

 ふわりと、そよ風が吹く。

 甘くほろ苦い香りが強くなった。

「それらの夢の、なにが足りないというのかね?」

 カエル氏の言葉を受け、先ほどの頼りなさげな様子とは打って変わって、嘲るような調子で声が応える。


 何が足りないかなんて、明白だよ。

 あの9回の夢には、どれもワタシがいない。

 ワタシがいない夢なんてどれも等しく、くだらなくてつまらなくて愚かしく無意味。

 あなたも、そう思うでしょう?


 はらひらと舞い踊る薄紅色の花が散り散りになるのを漫然と目で追いながら、ほうと相槌とも独り言ともとれる声をカエル氏がもらす。

 カエル氏の手には水筒のコップがあり、相変わらず甘く香ばしい匂いを漂わせていた。


 

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あの夢を見たのは、これで9回目だった。 洞貝 渉 @horagai

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