反魂の夢

ぴのこ

反魂の夢

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 眠りから覚め、口を強く抑えた。涙がぽろぽろと零れ落ちた。もう何度も夢で嗅いだあの腐臭が、現実に漂っている気がした。

 もう嫌だ。なんで出産を間近に控えているのに、あんな夢ばかり見るのか。

 思い起こしたくもないのに、夢の光景が鮮明に蘇ってしまう。ああ、もう肉さえ残っていなかった。

 夢の中の赤ちゃんは、ついに白骨化していた。



 月に一度のペースで見るあの夢は、いつも赤ちゃんの死体を映している。

 初めてあの夢を見たのは私が妊娠してから1ヶ月後のことだった。夢の中での私は薄暗い部屋にいて、ベビーベッドで眠る見知らぬ赤ちゃんをじっと見つめていた。

 いや、眠っていたのではない。死んでいたのだ。あの赤ちゃんは、初めから。

 初めて見た時から、あの子は息をしていなかった。ぴくりとも動かなくて、全身が不自然に少しだけ膨れ上がっていた。死んでいると気が付いた時、私は夢の中でひっと悲鳴を漏らしてしまった。もしかすると、寝言にも出ていたかもしれない。

 何より恐ろしかったのは、魂を失って横たわる赤ちゃんが誰なのか、ぼんやりと勘付いてしまったからだ。

 これはまさか、私の子なんじゃないか。

 もちろん、私はまだ子を産んではいない。娘はまだお腹の中にいる。我が子の姿なんて、私は目にしていない。

 だけど、思ってしまうのだ。夢で見るあの赤ちゃんの正体は、私の娘なんじゃないかと。私の娘は死んでしまうのではないかと。

 馬鹿な考えだとはわかっている。不吉な想像だとは理解している。それでも、そう思わずにはいられない。

 だって、夢で見る景色は…あの赤ちゃんが死んでいる場所は、うちの寝室なのだ。



「なんだか、九相詩絵巻くそうしえまきみたいな話だね」


 あれは3回目にあの夢を見た時のことだ。私は夫に、ここ最近何度も不気味な夢を見るのだと相談した。

 最初は赤ちゃんの死体を映していた夢が、その翌月には腐乱が進んだ姿に変わり、翌々月の夢では腐乱がさらに酷くなった。妊娠中にそんな夢を立て続けに見たものだから、私はさすがに気味が悪くなったのだ。一人で抱え込むのは限界になり、夫に夢の話を打ち明けた。

 そこで返ってきたのが“九相詩絵巻”という言葉だ。聞き慣れない単語に、私は首を傾げた。


「仏教画だよ。死体が風化していく様子を9段階に分けて描いた絵でね。仏教が説く人生の無常さを伝えるための絵巻物なんだ。もっとも、そこで描かれるのはほとんど女性で、赤ちゃんじゃないけどね」


 夫は簡単に説明をしてくれた。

 特に博識というわけではない夫だが、こうして雑学を披露することが時々ある。きっとこれも彼女の受け売りなのだろう。


「う、うん…実は明廻あかねに聞いた話なんだ」


 どうせ自分で調べた知識じゃないだろうと私が指摘すると、夫は恥ずかしそうに頭を搔いた。

 明廻さんは夫の前妻だった人だが、病気のために去年亡くなっている。自身の余命が近いことを悟って夫から身を引いたのだ。

 離別したとはいえ、夫は今でも明廻さんのことを想っている節がある。いや、それどころか痛烈に明廻さんに想い焦がれている。ふとした時に、夫は寂しげな目を空中に向けているのだから。

 妬みが無いと言ったら嘘になる。夫の瞳が遠くを見つめるたび、心の奥底で小さな棘が刺さる感覚を抱くことは確かにある。それでも、私は明廻さんのことを悪く思えないのだ。

 だって、明廻さんは本当に素敵な人だった。

 私も明廻さんとは面識があるが、とても穏やかで聡明な人だった。いつも怜悧な光を瞳にたたえていて、この世の物事を全て見通しているかのようだった。



「人は、死んだらそこで終わりではないんですよ」


 あれは明廻さんが亡くなる前。最後にお見舞いに行った時のことだ。

 病室のベッドに横たわる明廻さんは、脈絡なくぽつりと呟いた。


「天国や地獄がどうこうの話ではありません。死んだ後でも、周囲の人々が自分のことを覚えていてくれる。ふとした時に思い返してくれる。それだけで、自分という存在がこの世に留まっていられる気がしませんか」


 病に蝕まれた明廻さんは、瘦せ衰えた体から声を絞り出すように話した。

 明廻さんは元から超然とした雰囲気を放つ人だったが、枯れ枝のようにやつれた姿はまるで仙人か魔女のようだった。


「…それは幽霊になるって話じゃないんだろう。でも、明廻の幽霊なら大歓迎なんだけどな」


 涙をぽろぽろと零して押し黙っていた夫は、そこでようやく口を開いた。だが明廻さんは眉根を寄せ、首をかすかに横に振った。


「冗談じゃありません。幽霊として生きていても何が楽しいんですか」


 明廻さんは私に視線を向けると微笑を零し、緩慢な動作で手を伸ばした。私は慌ててその手を握った。


「…以前、言っていましたね。いつか赤ちゃんが欲しいと。あなたは健やかな人ですから…きっと…大丈夫…」


 咳き込みながら明廻さんは言葉を紡いだ。隣で泣き腫らす夫に釣られたわけではないが、私もそんな明廻さんの姿に涙ぐんでしまった。

 明廻さんは私の目をじっと見つめ、唇を引いて微笑んだ。


「あなたなら、健康な子を産めますよ」



 ついに出産の日だ。

 私は意識が飛びそうな激痛の中、生命の胎動が確かにお腹から外へと移ろっていくのを感じていた。夫は出産に立ち会ってくれているが、不安と期待が入り混じった目を私に向けているだけだ。こういう時に、男はなんの役にも立たない。

 9回目にあの夢を見た日からこの1ヶ月の間、あの不吉な夢を見ることは無かった。夫が“九相詩絵巻”という言葉を出してくれたから9回で完結というイメージがついていたのだろうか。

 誕生しようとする娘の動きは力強かった。娘がお腹から這い出ようとするたび、あの忌まわしい夢の記憶がかき消されていくようだった。


 あなたなら、健康な子を産めますよ。


 不意に、明廻さんの言葉が脳裏に蘇った。そうだ、私はこの子を元気に産んであげるのだ。

 私は大きく息を吐き出し、お腹に精一杯の力を込めた。

 瞬間、ふっと産道の圧力が緩んだ。涙でぼやけた視界の中で、夫が喜色を浮かべているのが見えた。

 夫は泣き笑いの顔で、感激を孕んだ声を零した。


「…ありがとう」


 生気溢れる産声が、分娩室に響き渡った。




 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 最初の夢では白骨死体の状態で横たわっていた明廻は、9回目の夢では死んだ直後のような姿にまで肉をつけていた。もうすぐ、明廻は新たな体を我がものにするのだろう。

 骨に少しずつ肉を取り戻し、9段階を経て元の姿へと。死から生への流転。明廻が言っていた通りの夢だ。とはいえ、鼻を衝く腐臭を夢の中で何度も嗅ぐ羽目になったことにはひどく参った。

 だが復活していく明廻の姿を見ることは、僕の心を強く湧き立たせた。

 さあ、早く帰って来てくれ。早く肉をつけてくれ。十月十日が経って子どもが無事に産まれれば、そうすれば。

 もう一度、明廻に会えるのだ。



反魂はんごんの法は、奥さんが妊娠すると発動します」


 明廻が死ぬ前、一人で病室を訪れた僕に明廻は告げた。


「あなたのお子さんの魂を少しずつ薄め、私の魂で侵食していく。お子さんの魂が完全に消え去った頃、私の魂は新しい肉体に定着します」


「術の行使にかかる期間は9ヶ月ほど。私が受肉するのは奥さんが妊娠9ヶ月の頃でしょう。その間、あなたと奥さんは奇妙な夢を見るかもしれませんね。九相詩絵巻のような」


 知らない言葉だった。意味を聞くと、明廻は丁寧に説明してくれた。

 明廻はなんでも知っている。普通に生きていたら決して知れないことをなんでも。死後に復活する方法さえも。

 彼女は幼い頃から病弱で、外の世界を自由に歩き回ることはほとんどできなかった。その代わり、知識の探求に没頭した。魔女の家系だという明廻の家には山ほどの書物があった。中には、異界の扉のような魔術の書さえも。明廻はそれらを読み漁り、あらゆる知識を蓄えていった。

 そんな明廻に僕は惹かれたのだ。明廻といると、知らない世界をいくらでも見ることができる。そのたびに心が躍る。世界に色がつくような気分になる。


「ですが、代償としてあなたのお子さんは死ぬことになります。それでもいいのですね?」


 頭の片隅に、妻の笑顔がちらついた。子どもが欲しいとしきりに言っている妻の顔が。我が子を犠牲にするなんて、許されない罪だ。父親失格だ。

 だが、それでも。僕は明廻のいない世界で退屈に生きていくなんて耐えられない。妻は優しく、とてもいい人だ。だが、彼女との日々は平穏すぎる。僕の心を震わせることはない。明廻といる時のように、世界が輝くことはない。

 僕は首を縦に振った。


「…かわいい人」


 明廻はベッドから手を伸ばし、僕の頭を撫でた。しとやかな笑みは出会った時から何も変わらない。きっと明廻が子どもの姿になっても同じように笑うのだろう。

 誰より聡明で、何より素敵な明廻。不幸にも病弱な体に生まれてしまった明廻。そうだ今度こそは、思いのままに外を走り回らせてあげるのだ。


「生まれ直した時は…赤ん坊のように大声で泣かないと怪しまれますね。恥ずかしいですが、楽しみです」


 明廻はベッドに身を沈め、静かに目を閉じた。

 唇に皺が寄り、微笑が形作られる。


「また会いましょうね」

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