大好きだったあなたへ
藍沙
大好きだったあなたへ
恋の終わりって、こんなに苦しいんだ。
優しくて面白くてまじめで、男女問わず人気。そんなあなたが、これ以上ないくらいに大好きだった。
わたしのことを好きになってくれるんじゃないか、そんな期待をきっと、胸のどこかでずっとしていたのだ。
この恋が叶うわけがない。それはずっとわかっていたはずなのに。
『幸せになってほしい。わたしは追いかけない』って、自分に嘘ついていい子ぶって、でも、急に現実を突きつけられて、どうすればいいかわからなくなって。自分で頑張って築いたはずの、わたしの心の中の認めてはいけない部分を隠していた防壁は、あっけなく崩れた。
これはそんな、あっけないほどまでに何も起きずに儚く幕を閉じた、わたしの初恋の失恋の話。
先輩と知り合ったのは、高校一年生になって入った部活だった。
わたしの部活は人数が三十人と、学校全体で見てもやや多めだった。そして男女比率も、男子のほうが少し多いけど大体同じくらいで、いつも和気あいあいとした楽しい部活だった。
先輩は、そんな部活を取りまとめる副部長だった。
人とかかわるのは得意ではないと言いながら、部活の前、最中、後に後輩たちに話しかけると快い態度で応じ、わたしたち一年生の間でも瞬く間に人気となった。
たぶん、先輩を恋愛対象としてみていた女の子は、何人かいたと思う。
わたしもそうだった。関わり始めてすぐに、今まで感じたことのない気持ちが湧くようになって、これが恋なんだと知った。
先輩は、年齢が二つしか違わないとは到底思えないほど、わたしの目には大人に映った。
いつもどこかしらに余裕がありそうで、女の子の扱いに慣れてそう。そんな印象をいつも持っていた。ちょっとミステリアスだったのだ。だからこその人気というのもあったと思う。
三送会(一年生と二年生が企画して、卒業式の直前の部活で三年生に感謝を伝える会)のとき、ある噂が流れた。それで、少し、わたしの中での風向きが変わった。
――先輩には、ずっと前から付き合っている彼女がいるらしい。
それが衝撃第一弾だった。
そのときは噂の出どころなんてわからなかったし、あんなにモテそうな人に彼女がいる噂が立たないほうがおかしい。
自分にそう言い聞かせた。
『先輩には彼女はいない』
何度も何度も自分に言い聞かせては、胸のざわめきを収めていた。
けれど本当は、そのときに覚悟すべきだったのかもしれない。
先輩が、彼女にプロポーズしたらしい。
その噂は瞬く間に広がった。
わたしたちが送られる側になった三送会が終わり、卒業式で同級生との別れを惜しんでいた時に、その衝撃は訪れた。
周りの音がすべて消えるのを感じた。
ただ茫然として、一瞬、表情も、言おうとした言葉もすべてが吹き飛んだ。
その話の出どころは、二つ上の元部員、つまりは先輩の同級生だった。
実は、彼女がいるらしいという噂も含めて、わたしたちが一年生の時の三送会が終わった後の三年生だけの打ち上げで、先輩がこっそり打ち明けたらしい。それを、誰かが広めてわたしたちにまで伝わって来たのだ。
わたしはその話を聞くほんの数分前に、先輩と話していた。
「引退した後もOBとして来てくださって、本当に心強かったです。ありがとうございました」
ちょこんと頭を下げると、先輩は少し照れたように頭をかいて、
「いやいや。わざわざお礼を言いに来てくれるなんて嬉しいよ」
そう言って、ニコリとわたしに笑いかけた。わたしの大好きな、惚れるきっかけにもなった笑顔だった。
話したのは一分にも満たない短い間だったけど、わたしの心臓の鼓動は速くなりっぱなしだったし、顔が赤くならないようにするので精いっぱいだった。
そのあと、先輩は
「じゃあ、僕はそろそろ帰らないといけないから。これからも頑張ってね」
と再び太陽のように輝くあの笑顔をわたしに向けて、背を向けて歩き去って行った。
先輩の両腕には、後輩から渡されたらしき手紙や色紙でいっぱいだった。
わたしは、なにも用意できなかった。
そんな後悔と、先輩と話せた高揚感を引き立てるように、雨上がりの土の臭いが鼻を掠めた。
三月中旬の、校庭での出来事だった。
失恋すると、胸がギュッとつかまれるような感覚がするという話をよく聞くし、よく小説などでも読む。
でもわたしは、そうではなく、重くて硬い石のようなものを、何個も胸に詰められているような感じがしていた。
心臓が石になったような、肋骨が固い檻に変わってしまったような、そんな気分。
それがずっと続いた。
泣きたいくらい切ないのに、不思議と、涙は一滴も出てこなかった。
そうしていた矢先に、生理が来た。まだ周期が不安定なわたしからしたら、毎度の如く予測できないタイミングだった。
痛み止めを飲んでも楽にならないおなかの底の鈍痛に気力を吸い取られて横になりながら、ふと想像してしまった。
先輩の彼女さんは、こういうつらいときに、先輩に寄り添ってもらえるんだろうな、と。先輩は、どういう言葉をかけるんだろう。膝枕とかしてあげるのかな。彼女さんは幸せなんだろうな。
ずっと胸の痛みが癒えないままでいると、ある一人の友達のことが頭に浮かんだ。
その友達も同様に、部活の人気者の先輩が大好きで、でもその人にはとっくに彼女がいることを知っていたから何もアプローチできずに終わっていた。
あの子と話せば楽になれるかも。
そう思ったけど、あの子はそういえばラインもメールもやってなくて、連絡の手段がなかった、ということを思い出した。
失恋を忘れるには、『とことんその恋について考える』という方法があるらしい。
だから毎日ずっと考えたけれど、多少美化された思い出と未練の情が胸の中にあふれるばかりで、わたしには逆効果でしかなかった。
でも、半年もするとさすがに胸の痛みも薄れてきて、先輩に片思いしていたことも、切なくはあるけどいい思い出のように思えてきた。
結局、わたしはそこまで執着していなかったのかもしれない。
高校一年生の時は『絶対に先輩と同じ大学に行く!』と思っていたけれど、進路の選択を真剣に迫られるようになると、わたしは自分の進路のことを考え、それに合いそうな大学を選んで受験し、合格した。先輩の大学よりも、偏差値は高い。
それからさらに二年して、わたしは大学二年生になった。
大学の図書館もいいけれど、たまにはほかのところにも行ってみたくなって、市内の一番大きなところに調べ物をしに行った。
調べ物をしに行ったのに、読書好きの
文学のコーナーの横には、カウンター席のようになっているところとグループで調べ物できるテーブルが並んでいた。
つまり、本を選んでからここで読んだり調べものしたりできるということだ。
大学の図書館よりもずっときれいで、公共施設と大学の差を痛感する。大学の中でもちゃんと手入れをしているところはあるだろうけど、わたしが通っているところはあまり手入れされているとは言えない。だから、わたしの大学の図書館では、本棚の横のテーブルで作業をする学生は、図書館使用人数の一割いるかいないかだと思う。
この図書館でも今はテーブルを使っている人はまばらだけど、たぶん時間帯の問題だろう。図書館を利用するには少し早い午前の時間帯だから、昼下がりには人が増えるだろうな、と思いながらなんとなくテーブル席に座っている人たちを見まわした。
その中に、先輩がいた。
綺麗な女の人と、一緒だった。
その瞬間、頭をガツンと殴られたみたいに視界が揺らいだ。忘れていたはずなのに、立ち直ったはずなのに、胸に石を何個も詰められるようなあの感覚が、まるでついこの間までおなじみであったかのように蘇ってくる。
気づかないうちに、息を止めていた。無意識で、気配を消そうとしていた。
二人は隣り合った席に座っていて、その二つの椅子の間の間隔は、同じテーブルの周りに並べられた空席の椅子同士の間隔よりも近かった。
一つの本を覗きあって、笑いあっている。先輩の視線が少しずれてわたしを見ることなんて二度とない。そう確信を持ってしまうほどに、二人の視界にはお互いのことしか映っていなくて、フィルターを通してなにかの物語を見ているみたいだった。
女の人が本の中のある一か所を指さす。それが見開きのページの先輩側だったから、二人の距離がさっきよりも近くなる。二人だけの空気が、二人の周りだけに充満するのが見えた。女の人が何かを言って、先輩を見上げる。先輩が笑った。あの、わたしが大好きな笑顔で。その先にわたしがいないという、当たり前の事実に、初めて、『胸がギュッとなる』感覚を知った。なぜか、胸に小石が増えるのではなく、ギュッとつかまれた。
わたしは本棚と本棚の間で立ち尽くしていた。先輩たちのテーブルからは数メートル離れていた。
体勢をもどした女の人の髪の毛から、そのとき、シュシュが外れて床に落ちた。
女の人に似あいそうな、もっと言えば先輩に似合う人がつけそうな、落ち着いた色とデザインのシュシュだ。
あ、と女の人の口が開いて、その手が床に伸びる。華奢な手だな、わたしとは違うきれいな手だな。そんな言葉がふっと頭をよぎって消えた。
女の人の手がシュシュに触れる直前、それとは別の大きな手が、シュシュを拾い上げた。先輩の手だった。
それを見たとき、脳裏に一つの光景がフラッシュバックした。高校一年生の時の、人がいなくなった部室での出来事。
しかしそれを反芻しようとしたそのとき、数メートル先から、先輩の優しくて柔らかい声が第三者のわたしの鼓膜を揺らした。脳裏の映像は消えた。
「髪切った?似合ってるじゃん」
「そう?ありがと」
シュシュを拾った先輩が、当然という仕草で女の人の髪の毛を結んであげていた。
女の人が少し照れたように反応するのが聞こえる。でも、その照れ方も大人びていて、先輩にぴったりだなあ、と第三者ながらに思う。
「はい、結べたよ」
先輩が、わたしが見たことがない種類の微笑みを女の人に向けた。愛しい人に向けるそれだった。
「ありがと」
女の人が言って、二人が笑いあう。
誰がどう見ても、幸せなカップルの日常を切り取ったシーンだった。
いけないとわかっていても、つい、思ってしまった。
先ほどの光景。
(わたしのときには……髪を切ったことなんて、気づいてくれなかった)
当然だよね。
わたしはただ『たくさんいる後輩のうち一人』なだけで、特別な存在ではなかったのだから。愛していない人の変化になんて気づくはずがない。
思い出していたのは、高校一年生の時の先輩とのやり取りだった。
好きになって三か月目、あれは夏休みの部活のとき。
部活が終わってみんなが部室から出ていく中、わたしは後片付けをする先輩の姿を見て、最後までこっそり居残っていた。
部長と副部長は幼馴染らしく、息ぴったりでみんなから『最強ペア』と言われていた。ちなみに部長も、女子からはもちろん男子からもモテるタイプだったのだけれども、不思議とわたしの恋愛フィルターには一切引っかからなかった。
まだ昼間だからそれほど室内を反射しない窓を頼りに髪をいじっていると、ふいに、前髪を止めていたヘアピンが取れてしまった。
その部活の二日前の日に、わたしは後ろ髪を結構バッサリと切っていた。今日の部活で会った友達はみんな「似合ってる!かわいい」とほめてくれて、少し浮かれていた。
先輩が気づいて声をかけてくれないかと期待していたけど、結局何も声はかけてくれなかった。
落ちたヘアピンを拾い上げようとする。
そのとき、視界の外から急にすっと伸びてきた手が、ヘアピンを拾い上げた。
その手だけで、もう誰かわかったわたしは、早くも胸の鼓動が速くなり始める。
「ありがとうございます……!」
興奮しすぎて少しつかえた声でお礼を言いながら顔を上げると、至近距離に先輩の顔があった。あの大好きな笑顔を浮かべていた。
至近距離もつかの間、
「おっと」
と距離を取った先輩は、わたしに気を使ってくれた紳士のように見えた。
「ヘアピン、つけてあげる」
「え?」
この時のわたしは、ヘアピンをあまりつけたことがなくて、なんと一人でつけることができなかった。
ヘアピンを受け取って前髪を止めるのに苦戦するわたしを見かねた先輩は、そんな申し出をしてくれたのだった。
いつの間にか、部長は部室を出て行っていて、部室にはわたしと先輩の二人だけだった。
先輩の手がわたしの髪に触れた。顔がほてるのと、心拍数が上がるのがばれないようにずっとうつむいていた。
ふと、髪を通り越して、先輩の指がわたしの額に触れた。温かかった。
びくっと反応してしまったわたしに、先輩は慌てたように
「あ、ごめん。手が滑った」
と弁解した。本当にたまたまだったんだと思う。
パチン、という音がして、ヘアピンが固定された。
「ありがとうございました」
ペコリと頭を下げたわたしに、先輩は手を離すと
「いやいや」
と苦笑した後、
「じゃ、また今度の部活でな」
と、鞄を背負って部室を出て行った。
その背中を目で追いかけながら、わたしは、先輩に対する『好き』が膨れ上がっていくのを感じていた。
――いい思い出、だった、のだ。
それが今、こうして本当に愛しい人に向ける態度と比較されてしまうと、どうしても、つらい思い出に上書きされていくのを止められない。
わたしはそっと、手に取っていた文庫本を棚のもとの位置に戻して、図書館を出た。
人がまばらで静かな道を歩いているとき、唐突に、涙が初めてやってきた。
一人であの恋のことを考えているときは、一切出てこなかったのに。
初恋に決定的な終止符を打たれてから、もう二年も経つのに。もっと言えば、初恋にあいまいな終止符を打たれてからは、もう四年も経つのに。
一度流れた涙の雫は仲間を誘うようにして、勢いを増していった。
手の甲で目頭を拭って歩いているうちに、とうとう拭いきれなかった水滴が道路に舞い散った。きっと、固いアスファルトに衝突して砕けるのだろう。
感情が溢れすぎて、そんなことを勝手に考えて、勝手に涙の水滴に同情して、また泣けてきた。
わたしったら、ばかみたい。
もとから、叶わないなんてことは、わかりきっていたのに。
高校三年生から見た高校一年生が、ただの中学校上がりの子供にしか見えないことくらい、わかっていたはずなのに。中学校三年生の時に中学一年生に接した経験があったからこそ、それはすぐにわかったはずなのに。なのに、好きだからという理由で、直視したくない現実から目をそむけた。
結局わたしは、先輩から見て『可愛い』後輩たちのうちの一人だったけど、そこから進んで『愛しい』人にはならなかったわけだ。
似た漢字を使っているのに、意味が全然違うのは、漢字を当てた人の皮肉なんだろうか。
わたしはいつ、この失恋から立ち直れるのだろう。
早く忘れたい、つらい。
先輩は、わたしが、生まれてから初めて、心の底から大好きと思えた人だった。
だからこそ、先輩に幸せな人生を歩んでほしい。それは本当だった。
もしもこの先、先輩のことを考えても胸が痛まなくなったら、心のなかで語り掛けたい。
もしかしたら、そのときもまだ本心とはかけ離れているかもしれないけれど。だとしたら、自分で自分の胸が痛むように仕向けているようなものだけれど。
でも、こう言うべきなのだ。たぶん。
――先輩。わたしのことなんか忘れて、好きな人との思い出でいっぱいになってくださいね。
忘れるも何も、そのときはもう、先輩の記憶の中にわたしの存在なんてないかもしれない。けど、まあいっか。
大好きだったあなたへ。
あなたが知らないうちに、あなたに恋に落ちていた一人の後輩より。
(終)
大好きだったあなたへ 藍沙 @Miyashita-Aisa
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